定点観測(五年ぶりにポートタワーの上、展望カフェに帰ってきた私と少年のお話)
定点観測(五年ぶりにポートタワーの上、展望カフェに帰ってきた私と少年のお話)
五年ぶりにこの場所に帰ってきた。
今日からまた、ポートタワーの上、展望カフェが私の職場だ。ドーナツ型をした展望フロアの、ドーナツの穴の位置にあるエレベーターのドアが開くと最初に目に入る場所にある。展望カフェと言っても陸側にあるので景色はあまりよくない。たいていの人はカフェの前を素通りして見晴らしのいい海側へ向かうけど、小さい子をつれたお母さんやおじいちゃん、おばあちゃんは子どもに「見てらっしゃい」と声をかけてから、どっかりとカフェの椅子に座る。――出入口は目の前のエレベーターひとつだけだから、子どもから目を離しても安心というわけ。
久しぶりに制服のリボンタイをきりりと結んで張り切ったものの、平日の午前中にタワーに昇る人は少ない。一大観光名所となっているあのタワーやあのタワーとは違って、ここは公営だから入場料は驚くほど安い。でも、このタワーの展望台が賑わうのは夕方、日没前だ。
ここで好きな人と一緒に、夕日が溶け込んだように光る海を一緒に見たら幸せになれる……そんな、由来もいわくも何もない都市伝説のおかげで、休日の日没前になると恋人達が集まってくる。たいてい太陽は海よりも少し上にある雲の中に沈み、空がなんとなくオレンジ色になって盛り上がらないまま夜を迎えるんだけど、運が良ければ本当に綺麗な夕焼けや光る海が見られる。このタワーは街から遠すぎもせず近すぎもせず、そろそろ帰ろうかという恋人を引き止めるにはちょうどいい位置にあるから、光る海が見られても見られなくても『また来ようね』と言い合う恋人達はみんな幸せそうだ。
午前中にここへ来るのは、さっき言ったみたいな小さい子を連れたお母さんやお年寄りが多い。ただし天気が良ければ、だ。
視界不良の時や、晴れていても強風の時はかなり揺れるので、それでもいいか確認をしてから入場券を売ることになっている。視界不良は雲の中にいるみたいだし、揺れるのも面白くて私は結構好きだけど、わざわざ入場料を払って何も見えない展望台や酔うほど揺れる展望台に昇ろうというのは相当の物好きだ。
今日の天気は曇りで視界不良。エレベーターの到着を予告するランプは今朝まだ数回しか点灯していなかった。
ランプがぴかんと光った。物好きなお客様、それとも警備のおじさんの見回りか。
チャイムと共にドアが開いた。
乗っていた物好き――大学生くらいの男の子と目が合った。
「あ、おねーさんだ」
「少年!」
「久しぶり」
相変わらずの仏頂面でそう言った少年の声は、覚えていたよりもずっと低くなっていた。
このタワーで、私と少年は七年前に友達になった。
「ジンジャーエールでいい?」
「コーヒー、ブラックで」
「へぇ。大人になったねぇ、少年」
「おねーさんはババァになったね」
生意気をいう頭に一発くらわせてやろうと思ったら、頭の位置がずいぶん上になっていた。どうにも調子が狂っていけない。
「今日も定点観測?」
「うん」
「続けてたんだ」
「うん」
七年前の少年は、ほっぺがぷっくりした小学生だった。平日の午後に一人で時々現れる、女の子みたいに可愛い顔をした少年を見て、当時高校生だった私は密かに『この子、いじめられてるんじゃないかな』と心配していた。だけど休みの日に偶然見かけた少年が、友達と楽しそうにふざけながら歩いていたのでほっとして、次に来た時に彼に初めて声をかけた。
「この前、夜、駅の近くで友達といるの見たよ」
「え、いつ?」
「月曜日」
「ああ、フットサルの日」
そう言いながら海側へと向かう少年の背中に、その時初めて訊いた。
「ねえ、少年。いつもここに来て、何してるの?」
「テイテンカンソク」
呪文のようにそう言い残し、少年はエレベーターを回りこんで見えなくなった。
それから何度か見かけた時はこちらが忙しくて声がかけられず、ようやくある午後、少年をつかまえてテイテンカンソク――『定点観測』のことを詳しく教えてもらった。
「友達と前の浜に来て、昔よりちっちゃくなってねぇ?って言ったら、そんなわけねーよって言われたんだ」
ああ、久しぶりに行ってみたら幼稚園の園庭や小学校の校庭を小さく感じるとかよくあるよねぇ。
「納得いかなくて家に帰って捜したら、ここの上から撮った写真があって。それ持ってきて比べたら、ほんとに前の浜小さくなってんの」
「ええっ?」
驚いて声を上げた。
「うそっ!」
「ほんとだよ」
「その写真見たい!」
「家」
「えーっ!」
がっかりした私のために、少年は次に来る時は写真を持ってくると約束してくれた。というか、今思うとけっこう強引に頼んだような気もする。
次に会った時、少年は約束どおりに、ディバッグから写真屋さんでよく貰う薄い紙製のアルバムを取り出して渡してくれた。
アルバムのビニールの上に、子どもっぽい黒々とした字で撮影日が記入してあった。
少年の言うとおり、港の堤防の向こうに広がる砂浜は一番最初の写真に比べて段々に狭くなっていき、三分の二ほどになっていた。
「すっごーい」
ページをめくり、あれっと思って前のページに戻ってみた。ページの表裏になった二枚の写真をぱたぱたさせながら少年に訊いた。
「これ、順番合ってる?」
「続き見て」
促されてページをめくると、今度は砂浜が段々に広くなっていった。そしてまた砂浜はピークを過ぎて狭くなりはじめた。
「なんで? どうして?」
「最初は、砂浜が小さくなると誰かが砂を持ってきて足してるのかと思ったんだよ。でもそれならもっと一気に砂浜が大きくなるはずだろ? それでいろいろ調べたんだけど、多分砂浜が狭くなると潮の流れが変わって、海底から砂を運んで来るから砂浜が広くなって、広くなりすぎるとまた潮の流れが変わって……っていうのを繰り返してるんだと思うんだよ」
高い声でそう語る少年のぷっくりほっぺを、改めて見直した。
「それ、全部自分で考えたの?」
「考えたっていうか、そういう場所があるって本に書いてあったから」
少年は仏頂面のまま目をそらした。
きっとこの子は私と違って夏休みの自由研究も本の丸写しとかじゃなくてちゃんと研究してるんだ。これ出したら科学大臣賞とか取っちゃうんじゃない? あれ、文部大臣賞だっけ?
「すごいねー、あったまいいんだー。科学者とか宇宙飛行士とかなればいいのに」
「そんなのまだわかんねーよ」
これが私達の友情のはじまりだった。
最初に名前を聞けばよかったんだけど、言葉を交わす機会が増えてから改めて名前で呼びあうのは何だか照れくさくて、親しくなってからも私は彼を少年と、彼は私をおねーさんと呼び続けた。姉と慕ってくれているわけではなく渾名のようなものだということは分かっていたけど、一人っ子でいとこの中でもいちばんチビだった私にはお姉さんと呼んでくれる少年の存在がちょっとだけ嬉しかった。
少年はその後も時々展望台にやってきて写真を撮り、私に見せてくれた。中学に入ると忙しくなって来る回数は減ったけど、私が高三でここを辞めるまでの二年と少しの間、お互いについてや全く関係のないことや……色々な話をした。
彼の仏頂面が、子どもの頃に(その時だってまだ子どもだったくせに)可愛いとからかわれすぎて笑顔が苦手になったせいだというのはずいぶん経ってから聞いた。私が言った『一生懸命勉強するなんて格好悪い』という言葉に『自分ができないからって、できる人を馬鹿にする方がもっと格好悪い』ときっぱり言い返された時は、私のほうが年下みたいだった。
季節ごとにここから見える星座の名前も、少年から聞いて覚えた。
五年ぶりに会った少年の前にコーヒーを置き、自分は水のコップを手にして向かい側に座った。雲の中みたいな展望台には他に誰もいない。
「少年、今なにやってるの?」
「大学生」
「どこの大学?」
少年が口にした名前は、地元の国立大だった。やっぱりね。小さいときから賢かったもん。
「そっかぁ、少年も大学生か。彼女とかいるの? そうそう、ここで好きな人と一緒に夕日に光る海を見たら幸せになるんだよ」
そう言った私に、少年がとっても冷たい目を向けた。
「それって、おねーさんが考えた奴だろ」
「あれ? 知ってたっけ?」
「俺に自慢してただろ」
そうなのだ。大きな声じゃ言えないけど、実はここの夕日にまつわる伝説を考えたのは私だったのだ。
取材に来た記者さんにぺらっと言った出まかせがそのままガイドブックに載った。由来もいわくも何もない話だから、そんなの聞いたことないって人はいても、そんなの嘘だって言える人はいない。ガイドブックが発売されてから来場者は増えたけど、最初から幸せになりたいって思ってる人達が集まるんだからこの先不幸になるより幸せになる確率の方がずっと高い。ここに来た恋人達が幸せになれば、また評判が口コミでひろがった。
私のカムバックが歓迎されたのは、ここの意外と人を選ぶ職場環境のせいだけじゃなく、この営業センスが認められたのだと密かに思っている。うーん、私って才能ある。
心の中で百万回目くらいの自画自賛をしていたら、少年が急に言った。
「おねーさんは?」
「何?」
「男いるの?」
少年の口からこんな質問が出たことにちょっと驚いた。その前に私が訊いたのと同じことを訊きかえされただけなので会話の流れとしては正しいんだけど。私の中の少年は男とか女とか関係なく、海や空の方を向いて話をする男の子だったから。
「いない。誰かいい人いたら紹介して」
「――俺がさあ」
首をかしげてそう言った少年の視線は、海や空ではなく私に向いていた。
「定点観測してたの、砂浜だけじゃなかったって分かってたよね?」
少年は、ううん、目の前のちょっとイケてる大学生は、怒ったように続けた。
「俺と付き合ってよ」
すぐには返事ができなかった。――でも、だって。
「……年上だよ?」
「四つだけだろ」
「憧れのお姉さんってタイプじゃないよ?」
少年がぷっと笑った。笑うな。
「知ってる。でもおねーさんは、俺の話をちゃんと聞いてくれたから。だから俺――」
言葉を途切れさせた少年の、のどぼとけが上下した。初めて会った時はぷっくりしていた少年の頬は、シャープなラインを描いていた。もう女の子っぽくは見えない。
雲に乗ってるみたいなふわふわした気分で私は、少年の言葉の続きをじっくり待つことにした。
end.(2011/08/26サイト初出)
優秀な小学生が夏休みの自由研究で貰えるのは「文部科学大臣奨励賞」だそうです。このお話はフィクションなので、少年が観測したような自然現象が確認されたという事実は(私が知る限り)ありません。色々信じないで下さい。でもタワー展望台が揺れて酔う人がいるというのは本当だそうです。(某展望台のお姉さん談)




