休日のお買い物(「ツーリングを少々」の続々編)
休日のお買い物(「ツーリングを少々」の続々編)
【 1 】
角を曲がったとたん、見知った顔をみつけてぎょっとした。
休日にこんな場所で知り合いに会うとは思わなかったし、状況的に知らぬふりをした方がいいだろう。珠緒はくるっと踵をかえしたが遅かった。
「たまちゃん?」
どうしてばれたんだろうと思いながら、珠緒は気まずい顔でゆっくりと振り返った。
「はい?」
「よかった。ちょっと来て」
片手にスマートフォンをもち、もう一方の手でおいでおいでをしているのは職場の先輩、大里だった。そのすぐ横には派手目な若い女性がいて、とてもとても気まずい。
しかし大里は屈託なく珠緒に言った。
「たまちゃん、この店分かる?」
女性が手に持ったメモを見て珠緒は眉を開き、更にそこに書かれた店名を読んで笑顔になった。
「ちょうど今から私も行くところなので、ご一緒しましょうか」
珠緒が女性に微笑むと、何故か大里が言った。
「俺も一緒に行っていい?」
「はいっ? ええ、いいですけど」
意外な申し出に首をかしげながら、珠緒は了承し、先に立った。
その一角には住宅街とも違う独特の雰囲気があった。繁華街や駅からは少し離れた位置にあり、かつて花街だった名残があちこちに感じられる。ビジネスホテルと謳いながら入口が小さく奥まったホテルや、普通の民家に混じった昔ながらの料亭や待合は周囲に壁がめぐらされ、飛び石が誘う先は異空間だった。
その並びにあるしもた屋風の、表に看板を出していない店のひとつが目的の龍珠堂だった。
表の引き戸はすりガラスがはめてあり、中の様子は窺えなかった。大里が珠緒に訊いた。
「何屋?」
「筆屋さんです」
ここは江戸時代から続くという老舗だ。文房四宝を扱うが、特に筆に関しては知る人ぞ知る店だ。弘法筆を選ばずというが、選ばずに書けるのはそれが弘法大師だからで、一度ここの筆を知ってしまうと他の筆では物足りなくなる。
筆だけではなく全てにおいてだが、趣味の道具は値段が天井知らずだ。珠緒はいつもここにくると飾られた逸品を眺めて溜息をもらしつつ、値ごろな筆を買って帰ることになる。もっとも珠緒の書道の師匠によると、本当の逸品は客の顔を見て奥から出てくるそうだ。
珠緒は引き戸を開けて案内してきた女性を先に通し、閉め出すのも可哀想かなと大里を見た。
「入ります?」
「入るよ」
珠緒はいつものように憧れの硯を拝んでから、新しい筆が出ていないかざっとチェックして、結局いつもと同じ値ごろな筆を買った。
一緒に来た女性に一人で帰れるか確認をしてから、珠緒は彼女を置いて店を出た。大里も一緒だった。大里も何か買ったらしく、かさかさいう店名の入った細長い紙袋を手にしていた。
「何を買われたんですか?」
「携帯用の筆?」
半疑問形の大里が言いたいことを汲み取って、珠緒が答えた。
「矢立ですね」
「うん、このコンパクトさがそそる」
そう言って大里は袋の封を開けてみせた。箸箱と同じくらいの大きさの入れ物に、筆と墨壷が納まるようになっている。形ばかりのちゃちな筆が入った物もあるが、龍珠堂で扱うものならきっと間違いないだろう。
「美術館にあるような昔の矢立は細工も素晴らしいですよ!」
笑顔でそう言ってから、珠緒ははっと我にかえった。
「大里さんは、龍珠堂さんに来たかったわけじゃないんですよね?」
「上野のバイク街から神田に行こうと思って変なとこ迷い込んでさ。そしたら女の人に呼び止められて」
さっきスマートフォンとメモを覗き込む二人はまるで寄り添っているように見えた。珠緒は声を立てて笑った。
「見ちゃいけないものを見たんじゃないかと思って、びっくりしました」
訊きなおした珠緒に、大里は顔をしかめてみせた。
「実は美人局で今にも男が出てくるんじゃないかってびくびくしてたら、出てきたのがたまちゃんで、助かったと思ったのにいきなり逃げるんだもんな。女の子だけじゃ危ないかとこっちは心配してるのに、たまちゃんはすたすた行っちゃうし」
「何言ってるんですか。そんな怖いとこじゃないですよ」
日が落ちてからは一人で通るのをためらう筋もあるにはあるが、どこもたいてい昼間は普通の道だ。どんな繁華街でもすぐそばには民家もあるし住んでいる人もいる。しかし大里は言い張った。
「田舎から東京に来るときは色々脅されるんだよ」
こういう感覚は東京育ちの珠緒にはよく分からない。ちょうど分かれ道が見えてきたので珠緒は話題を変えた。
「神田は電車で行かれるんですか? 何線使います?」
「歩いて行こうと思ったんだけど……行けるよね?」
「古書街ですか?」
「いや、登山用品の店に行きたくて」
山登りもするのかな、と珠緒が思ったところで大里が言った。
「たまちゃん、一緒に行かない? バイク用に使えるもの結構あるんだよ」
「じゃあ、はい。ご一緒させて頂きます、師匠」
珠緒の返事に、大里が顔をしかめた。
「やめよう、そういうの。バイク乗りに師匠とか弟子とかないから。仲間みたいなもんだろ?」
珠緒は赤くなった。自分がマドンナ呼ばわりされた時に疎外されたように感じたのに、無意識に同じことをしたのが恥ずかしかった。
「――ごめんなさい」
「いや。怒ったわけじゃないから」
大里が慌てたように言ってから、道の先を指した。
「どっち?」
「左です」
なんとなくぎくしゃくとして、そこからは会話がなくなってしまった。
半歩前を歩く大里の横顔を、珠緒はそっと見上げた。
バイクのことで話すようになるまで大里は『時々見かける女子社員に人気のあるひと』で、同じ職場に勤めている以外は自分に関係のない人だった。話すようになると人気がある理由がよく分かった。気さくで明るくて、距離のとり方がうまくてさりげなく優しくもある。
でも。と珠緒は思った。
私はそういう大里さんが好きなわけじゃない。バイクの話ができるのはもちろん楽しいけど、大里さんと一緒にいて楽しいのは大里さんが私を女の子扱いしないでいてくれるからだ。
――そう思うと尚更、さっきの大里の言葉が重く響いた。
【 2 】
「大里さん。ごめんなさい」
振り向いた大里に、珠緒は続けた。
「私、大里さんに仲間って言ってもらえて嬉しいです。だから大里さんのことも仲間だってちゃんと思います。これからも知らないこととかは教えて下さいって言っちゃうと思うけど、よろしくお願いします」
「たまちゃん、気つかいすぎ」
大里に苦笑されて、珠緒はまた赤くなった。
「知らない奴でもバイク乗り同士は助け合おうぜ、ってそれだけの話だから。あんまり深刻にとらないで」
「はい」
「できれば敬語もなしで」
「それは駄目ですっ! そのっ、職場の先輩ですからっ!」
激しく手を振って拒む珠緒に、大里が笑いながら言った。
「ガード堅い」
えっ、と思ったところで近付いてくるバイクの音がした。大里と二人で同時にそちらを振り向き、その揃った動作に少し遅れて珠緒の心にじわじわとおかしみが沁みてきた。
なるほど、こういう仲間か。
「何笑ってるの?」
「何でもないです。あ、ここの信号渡ります」
そうして目的地に着いた二人は、キャンプ用品や防寒グッズなどをバイク乗りの視点からじっくりと眺めた。大里曰く、こういうものは普段から見てどんな商品がいくら位で出ているか見ておかないと、新製品が出ても気付かないのだという。
「ネット通販もあるけど、こういうのは手に持ってみないと感じ分かんないし。そのへんのアウトドア用品店にあるのはほとんどオートキャンプ用だから」
大里は折りたたみ式の椅子やテーブル、重たいダッチオーブンや光量の多い大型ランタンなどをあっさりと切り捨てた。確かにキャンプ場でくつろぐ家族を見ると珠緒も快適そうだなとは思うが、一日走った後で設営にあれだけ手間をかける気にはなれない。次の朝にはテントを畳んで別の場所へ移動するバイクツーリングには向かない。
珠緒は折りたたみ式のネイチャーストーブに心惹かれて手にとって眺めた。燃料は拾い集めた木。やってみたい。矢立を買った大里の言葉ではないが、『コンパクトさがそそる』。
「たまちゃん、目が真剣」
「使ったことあります?」
「ない。俺は固形燃料一択」
棚には固形燃料の缶も積みあがっていた。珠緒は固形燃料も使ったことがない。初めてツーリングに行く時にガスボンベを使うバーナーを買ったが、まだお湯を沸かして紅茶を飲んだくらいで本格的には使っていない。
「液体とどっちがいいんですか?」
「液体はバーナーが高いんだよな。学生の頃は金があったらガソリン代に回してたから、固形燃料しか買えなかった」
二人に炭という選択はない。荷物が増えるからだ。
「あ、これ可愛い」
珠緒が見つけたのは穴の開いたプラスチックのフタだった。フィルムケースを調味料入れにするためのフタと書いてあった。
「買おうかな」
「たまちゃん、家にフィルムケースある?」
「……ありませんね」
わくわくしていた珠緒が一転がっかりしたのを見て大里が笑った。
「こっちにすれば?」
大里がフタの隣にかけてあったタブレット型の固形蜂蜜を指した。横には経口補水塩のパックもある。非常用に持ち歩くものらしい。本格登山をする人にはもちろん、バイクだって転んで動かなくなる可能性があるから、こういうものを用意しておいた方がいいかもしれない。そう思った珠緒は経口補水塩のパッケージを裏返して説明を真剣に読みはじめた。
「またがっかりさせて悪いんだけど、それすごく不味いからあんまり薦めない」
珠緒が顔を上げると、大里のにやにや笑いにぶつかった。欲しいと思うものに次々とけちをつけられて、珠緒は不満だった。
「大里さんは自分のもの見てて下さい」
「はいはい」
まだにやつきながら、大里は別のコーナーへいなくなった。珠緒もウェアのコーナーへ移動した。登山用なのでバイクツーリングには合わないものもあるが、寒さや汗対策がしてあるウェアはその機能性が魅力だった。
珠緒が帽子を手に悩んでいると、大里が戻ってきた。
「買うの?」
「ヘルメット脱いだ後でちょっとかぶる帽子が欲しいんですよね」
そう言いながら珠緒は帽子をかぶって鏡を覗き込んだ。
「こっち向いて」
言われてそちらを向くと、大里が吹きだした。
「ひどいっ、笑った! 大里さん、笑った!」
珠緒が叫ぶと大里が笑いながら誠意の感じられない謝罪をした。
「ごめん、今着てる服と全然合ってない」
「でもそんなに笑いますか!?」
「だからごめんて。晩メシおごるから許してよ」
夕飯? 大里さんと?
一瞬固まった珠緒だが、さっきの大里の『あんまり深刻にとらないで』という言葉を思い出し、めいっぱい真面目な顔を作って言った。
「とっても美味しいお店なら許します」
ネイチャーストーブと固形蜂蜜、それにこまごまとした要るような要らないような品と、帽子をやめて機能性インナーを買った珠緒は、大里と一緒に夜の街を歩いていた。
買ったグッズを早く使ってみたくて、珠緒は頭の中でツーリングのスケジュールを組みはじめた。次の三連休あたり、近場でキャンプできそうなところ……。
珠緒は何気なく言った。
「大里さんも、早くいいバイク見つかるといいですね」
「買ったよ」
「ええっ!」
驚いた珠緒は、いたずらっぽい顔をした大里を見上げた。
「俺が何で今日上野に行ったと思ってるの」
「いつっ! どんなバイクですか!」
「うーん、そのあたりはメシ食いながらゆっくり話そうか」
目の前で振られた餌にまんまと釣られた珠緒は、思わせぶりに笑って歩きだした大里に追いつこうとあわてて駆けだした。
end.(2012/01/24サイト初出)
「すれちがい」に続きます




