ツーリングの二本目(「ツーリングを少々」続編)
プロローグ
「大野課長。今度のツーリングに岡本さんが参加してくれるそうですよ。」
「マジかっ! 俺のマドンナが!?」
「……大野課長、そういうこと言うと岡本さんに引かれますよ。『坊ちゃん』じゃないんだから。」
大野が主任の磯田にたしなめられているちょうどその時、文房具キャビネットのドアの裏にいた『俺のマドンナ』こと岡本珠緒も、心の中で似たようなツッコミを入れていた。天井近くまであるドアの裏にいる珠緒はきっと向こうからは見えていない筈だ。このまま聞かなかったことにしておこうと、珠緒は片手をうーんと伸ばしてドアを静かに閉め、こっそりとその場を離れた。
1.
珠緒は自分のことをあまりもてないと思っている。数年に一度、誰かに告白されたり人づてに好かれているという噂を聞く程度だから、もてるとまで言うと言いすぎだろう。ただしどうも年上には好かれるタイプらしく、電車の中で席を譲れば『いまどき珍しい良いお嬢さんね、息子の嫁に欲しいわ』と言われるし、会社でも課長以上にはやたらと可愛がられている。この「可愛がり」に関しては今のところ、何の実害もないかわりに何の実益もない。この『俺のマドンナ』とはしゃいでいる大野課長も妻子を愛する既婚者で、珠緒に下心がないことは断言できた。
(でもあんなこと言われるとちょっとね。)
珠緒は通路を歩きながら思っていた。仕事でもバイクでも大先輩たちだとはいえ、やっとバイクに乗る仲間が増えると思ったのに、マドンナ呼ばわりは最初から仲間として見てもらえなさそうでゆううつだった。
珠緒はちらりと大里さんも一緒だったら良かった、と思った。
大里からはあれから一回だけ電話があった。大里の実家に送った礼状と菓子についてお礼のお礼を言われた。会社でも顔を合わせれば二言三言は話すが、大里は総務に居座って長々と雑談をしていくタイプではないので、じっくりと話す機会はない。この前エレベーターが来るまでに交わした短い会話ではまだちょうどいいバイクが見つからないと言っていた。安い買い物ではないから珠緒も早く買って下さいともいえなくて、一緒にどこかへ行こうという話はそのままになっている。
しかし会社でこうして他のバイク乗りにツーリングに誘われたことで、珠緒は大里の誘いについて以前よりも気楽に考えられるようになっていた。今まで書道とクジラグッズ集めという一人でするインドアな趣味しかなかったので気付かなかったのだが、ゴルフや釣りのようなアウトドアスポーツでは『こんど一緒に』という話は珍しくないらしい。これが車なら一緒にどこかへ出かけようという誘いを受けるにはそれなりの心構えがいるが、バイクで一緒にどこかへ出かけても二人だけの空間ができるわけでもなし、趣味を同じくする者同士の交流と考えてあまり深い意味を持たせずに出かけられそうだった。
大里を狙う職場の同僚たちもバイクに乗ればいいのに――と珠緒は他人事ならではののんきさで考えた。
2.
土曜日の朝7時。珠緒は前回のツーリングでは寄りそこねた港北パーキングエリアに入った。待ち合わせなのかこれから遠方に出かけるのか、早い時間のわりに車もバイクもずいぶん多くて驚いた。駐車場内をだらだらと走ってバイクの駐輪場に近づくと、並んだバイクの傍にいくつも見覚えのある顔が見えた。しかし見慣れた顔の下に普段のネクタイを締めたスーツ姿ではなくライダージャケットや革ジャンがあるのがなんとなく不思議な感じだ。話したことはないが顔を知っている他のフロアの先輩女性――確か渡辺さんといった筈だ――もいたことで、珠緒は少し安心した。今日はこの渡辺さんについていこうと勝手に心の中で決めた。
「おはようございます。」
空いた場所に自分のバイクを停めた珠緒は、シールドを上げて挨拶をした。
「おお、本当に岡本さんがバイク乗ってるよ。」
「岡本さんが乗ってるとこのバイク、やたらデカくみえない?」
「しかしこのミラーは替えるべきだろ。」
挨拶もそこそこに皆が口々に言うので珠緒は誰に返事をしていいものか分からずきょろきょろとしていたが、最後の言葉にはひっかかった。
「どうしてですか?」
「ダサい。」
「えーっ!?」
一刀両断で切り捨てられた珠緒が叫んだ。周囲は笑っていたが、そんなことないよとも言ってくれなかった。
珠緒にはバイクに乗る友達がいない。ダサいとダサくないの違いが分からない。というより、そんなラインがどこかに引かれていることも初めて知った。前回のツーリングで大里にはレバーを替えた方がいいと言われていたが、調整してもらって使いやすくなったのでそれもそのままになっていた。
(……バイクってただ乗ってるだけじゃ駄目なのかな。)
3.
10台近い集団の中で珠緒のバイクが一番排気量が小さかったが、大型バイクもオフロード寄り、アメリカン、スーパースポーツなどタイプはばらばらだった。海老名サービスエリアでいったん集合し、そこからは一車線の左右を交互に走る千鳥という隊列で厚木インターチェンジを経由し小田原厚木で箱根に向かった。珠緒は心情的には一番後ろが良かったのだが、「速いバイクが先に行っちゃったら追いつけないでしょ」と言われて先頭から二番目のポジションを走った。
伊豆箱根は、珠緒にとっては車の免許を取ってすぐの頃から友達とドライブや合宿、デート(これは一回だけ)で来慣れた場所だ。来慣れているだけに、一人でバイクに乗ってわざわざ来ようと思う場所ではなかった。
しかしドライブに来るのとツーリングとでは一つ決定的な違いがあった。同じルートでも音楽を聴きながら友達と喋っていくのと違い、オートバイは何台集まっても基本的に一人だ。皆で一緒に走っていても、信号のない自動車道では途中で会話もない。海が見えて何となく嬉しくなっても、「箱根八里」の歌詞が一節だけ思い出せなくてものすごく気持ちが悪くても、黙ってアクセルをキープして走り続けるしかない。
(車は交代で運転できるけど、バイクは二人乗りで交代しながら乗るって聞いたことないしなぁ。それにしても今考えると、免許取ったばっかりの女の子が小さい車に5人乗って山道走るのって無謀だったよねぇ。)
ついこの間、一人で無謀なロングツーリングに出かけたことを棚に上げ、珠緒は近づいてくる山並みを眺めながらノスタルジーに浸っていた。
4.
小田原厚木の終点からほんの少し一般道を走り、ターンパイクの入口を抜けたところで皆がバイクを止めて集まった。
「じゃあここからフリー区間ね。上の展望台で、1時間後に集合。」
「岡本さん、ゆっくり来ていいからね。」
珠緒が事態を飲み込めずにぽかんとしている間に、珠緒が勝手についていこうと決めていた渡辺さんがウィリーで出て行ったのを皮切りに、次々とバイクがスタートダッシュで目の前の坂を上りみるみる小さくなっていった。
気付くと、残っているのは珠緒と磯田主任の二人になっていた。珠緒は磯田を振り向いた。
「磯田主任は行かれないんですか?」
「僕は念のためしばらく岡本さんの後からついていくんで、先に出発して下さい。」
後ろから見られると思うと教習所に戻ったみたいで緊張したが、珠緒もシールドを下ろし、バイクにまたがるとサイドスタンドを外した。周囲を確認してからウィンカーを出して出発した。
珠緒にとっての山道の認識は、どこかへ行くために、事故に気をつけてゆっくりと慎重に走る道だった。
でもここを走る人々の認識は、珠緒とは違うようだった。
何台もの車が後ろから珠緒を追い越し、コーナーを曲がって見えなくなる。スキール音を立てる車も一台や二台ではなかった。あまり車の種類に詳しくない珠緒でもポルシェがポルシェであることだけは独特の後姿で分かった。他に車種は分からないが見た目は普通で走り方が普通ではない車や、後ろにレーシングカーのような羽根をつけた車もいた。
何気なく「ダサい」バックミラーを覗くと、自分の後ろに車が数台続いていた。左にウィンカーを出してバイクを路肩に寄せると、待ちかねたというように皆が珠緒の横を通過して行った。
5.
珠緒のすぐ後ろにバイクを停めた磯田が、通過していく車が切れてから声をかけてきた。
「岡本さん、大丈夫?」
「はい。あの……磯田主任も先に行って下さい。展望台なら道は分かるし、ゆっくり走って行きますから。」
「うーん……一応大丈夫そうだし、行かせてもらおうかな。ちょっとかぶり気味だからひとっ走りしてくる。後ろにつかれたら今みたいに譲って下さい。」
かぶり? と珠緒が首をかしげている間に、磯田はさあっといなくなった。
珠緒は磯田が見えなくなってから更に何台かの車を見送り、後ろから何も来ていないのを確認して、再び出発した。後ろから見られている緊張はなくなったが、どうにももやもやしていた。
(私、ダサい? もしかして足手まとい?)
珠緒はこの前、初めてのツーリングで紀伊半島の先まで一人で行った。道さえあればどこまでだって行けるんだというあの時の興奮は思い出すだけで今でも胸が高鳴る。バイクにまたがってグラブとジャケットの手首を絞り、ヘルメットをかぶれば、珠緒は25歳OLじゃなくてマシンの一部になれる――そう思っていた。
それが他人と一緒に走ってみれば山道では普通の車にもついていけず、ミラーはダサいと言われ、実のところ今珠緒はかなり気持ちが沈んでいた。いちいち人と比べる必要はないのだが、いざ比べてみれば全然大したことなかったバイクと自分自身を思い知らされていた。
それに、珠緒はこのツーリングで気付いたことがある。自分は、あまり山道が好きじゃないらしい。高速道路を走ってうんと遠くまで行く方が、近くの箱根を走るより好きだ。
6.
反対車線を走ってきたライダーがこちらに手を振っていると思ったら、真っ先に飛び出していった渡辺だった。珠緒が手を振り返すといったんすれ違い、Uターンして戻ってきて珠緒を追い抜いた。渡辺が少し先にある休憩所を腕で指して入ったので、珠緒も後に続いた。
ヘルメットを脱ぐと、珠緒はほっと溜息をついた。
「岡本さん、一人で大丈夫?」
「大丈夫です。遅いけど。皆さんずいぶん飛ばすんですね。」
「そんなに出してないわよ。うちは一応会社のツーリングだし何かあったらすぐ首が飛ぶ非組合員も混じってるから、おとなしいもんよ。」
ウィリーで先頭を切って出て行った渡辺がぬけぬけとそう言った。珠緒はくすっと笑い、ためらいながら告白した。
「私、今日気付いたんですけど、実は山道があんまり好きじゃないみたいです。」
渡辺が大笑いをした。
「なんとなく分かる。岡本さんってこういう感じだもんね。」
そう言って両手を顔の横にかざして見せたので珠緒は少しむっとした。
「そんなことないです。」
「でも一本橋得意だったでしょ。」
「……はい。」
珠緒は渋々答えた。渡辺がまた笑った。
「山道嫌いなら嫌いでもいいのよ。どこでも好きなところ走れば。どうせ無駄なことしてるんだから。」
珠緒の胸がずきんと痛んだ。――それは珠緒のミラーがダサいとか、足手まといだとか、全然たいしたことないってことだろうか。
あなたなんか来ない方が良かったと、遠回しに嫌味を言われているのかと思ったら、急に心臓が激しい音を立て始めた。
7.
「それってどういう意味ですか?」
そう聞き返す自分の硬い声を聞きながら、珠緒の頭の中のどこかでは普段の自分がパニックを起こしていた。人とぶつかりそうな場面はいつも避けて通っているのに。こんなこと言っちゃってこの後どうしよう。心臓の音はますます激しくなった。
珠緒の問いかけに答える前に渡辺は、グラブをした手で自分のバイクをぽんぽんと叩くようにした。それは動物を可愛がる時のしぐさに似ていた。
「ピザ屋に勤めるんでもなきゃバイクに乗れなくても全く困らないし、バイクでなきゃいけない場所なんてほぼないしね。生きていくには全く必要ないことでしょ。」
そういう……意味だったのか。
さっきまでの気負った自分が急に恥ずかしくなって珠緒は変な汗をかいた。渡辺の言葉を誤解したのが、自分のバイクや技術に対する自信のなさからだと気付いたら更に汗が出た。
そんな珠緒の様子には頓着せず渡辺が続けた。
「うちの旦那なんかバイクのこと『無理無茶無駄』って言うわよ。『若くもないのに無理して、無茶して走って、人生無駄づかいする乗り物』って。」
「渡辺さんて、結婚してるんですか!?」
何故か珠緒は、渡辺は独身だと思い込んでいた。
「うん。企画部に渡辺っているでしょ? あれが旦那。」
渡辺はにこにこしながら答えた。
8.
「旦那さんはバイクは?」
「全然。一度後ろに乗せたら二度と乗りたくないって言われた。車の方が百倍いいって。」
先程の話といいずいぶんな言いようだったが、渡辺はさっきも今も笑っていた。珠緒は企画の渡辺さんの、穏やかそうな顔を思い出していた。あの渡辺さんとこの渡辺さんがどうして結婚したんだろうと一瞬考えてみたが、頭の中で二人を並べてみたらそれはそれでお似合いのような気がしてきた。
「でもバイクに乗るのって車に乗るのとは全然違うのよね。同じ道走ってても、自由度が全然違うし。車同士が割り込みで意地悪してるのとかを斜め上から見下ろして『くっだらねぇ』って思うでしょ。」
「思います、思います!」
珠緒はぶんぶんと首を縦に振りながら答えた。
「大きめの車をこっちが抜いた時に、ムキになって抜き返してくるのとか『ちっせぇ』とか思うでしょ。」
「思います、思います!」
珠緒はもう大喜びだった。少しシニカルで意地悪な渡辺の口調に慣れてきて、渡辺と話すのが面白くなってきた。
「ね、無駄って楽しいよねぇ。」
そう言った渡辺があんまりいい顔で笑ったので、珠緒はなんだか嬉しくて声を立てて笑った。きっと渡辺さんの旦那さんもこの笑顔が好きで、文句を言いながらもバイクのことに反対しないのだろうと思った。
9.
マドンナ呼ばわりされてゆううつだったのが嘘みたいだった。バイクは楽しい。ただ乗ってるのも、無茶するのも、誰かとバイクの話をするのも全部楽しい。
「本当に楽しいです、バイク。」
「うん。楽しい。だから、走ろう!」
唐突にそう言って渡辺が、ミラーにかけていたヘルメットをすくい上げた。
「行くわよ、岡本ちゃん!」
「まっ、待って下さいっ」
珠緒もあわててヘルメットをかぶってバイクのエンジンをかけた。
待ち合わせの展望台前では、先に着いた皆が雑談に興じていた。
「お疲れさまー。」
「岡本さん、黒たまご食べる?」
「さっき古いモトグッツィが2台で走ってたな。」
「マイクロロン入れてきたらなんか調子いいんだけど。」
「マジ?」
「岡本さん、鬼軍曹にいじめられてたでしょ。」
大野課長に声をかけられて、珠緒が笑顔で答えた。
「全然そんなことなかったですよ。私もう、渡辺さんに一生ついていきますから。」
ええええっ、という叫びが一斉に沸きあがった。
「それだけはやめとけ。」
「こいつはシグナルGPで横からキルスイッチ切るような女だぞ。」
「新婚旅行で旦那振り落として森の中に置き去りにしたって話だぞ。」
「ちょっとやめてよう。旦那は振り落としたんじゃなくて勝手に降りてたのよお。」
渡辺がわざとらしく色っぽい口調でいいわけするのを聞いて、珠緒は息ができなくなるまで笑った。二度と乗りたくないと言った裏にはいろいろ事情があるみたいだ。
エピローグ
一行はそこから伊豆スカイラインを経由して伊東まで出た。穴場の店で漁師料理を次々に平らげながら皆が語るバイクの話を、珠緒はにこにこしながら聞いた。温和で人当たりのいい磯田主任に意外な武勇伝があったり、無口だと思っていた柴崎主任がコーナリングのライン取りについて熱く語ったりするので驚かされた。その柴崎に訊かれた。
「岡本さんはツーリング初めて?」
「誰かと一緒に走るのは初めてですけどツーリングは二回目です。」
「一回目はどこ行ったの?」
「和歌山の方へちょっと。」
「はっ?」
柴崎が大きな声を出したので周囲の注目が集まった。
「和歌山? ツーリングで?」
「はい。」
皆の視線を感じて珠緒が赤くなった。行った先で大里の実家に泊めてもらった話は会社では誰にもしていない。隣に座った大野が、子どもを諭すように言った。
「岡本さん、和歌山は『ちょっと』行くとこじゃないから。」
「はい、すみません。」
珠緒はいっそう赤くなってうつむいた。柴崎が笑い出した。
「渡辺さんについていくって言うだけあるわ。やるなぁ、岡本さん。」
「実は『箱根なんてへのかっぱよ』って思ってたでしょ。『みんな案外たいしたことないわね』って。」
「そんなこと思ってないですよっ!!」
大野にからかわれて慌てる珠緒を見て、皆がまた笑った。
へのかっぱなんて言われてマドンナもあったもんじゃない、と思ったら不意におかしみがこみあげ、珠緒も皆に少し遅れて笑い出した。バイクに乗らなければ、大野にこんな風にいじられることも、実はちょっと苦手だった柴崎をいい人だと思うこともなかったかもしれない。
山道はあんまり好きじゃないけど。本当は一人でマイペースで走る方が気楽だけど。
「絶対絶対また誘って下さいねっ!」
そう言った珠緒に、皆が頼もしく頷いた。
end.(2010/06/26サイト初出)
「羨望」に続きます




