いちばん大切なもの(「仕事が恋人」の社長がオフィス街の小さな花屋で見つけた大切なもののお話)
※注意;文中に登場する企業は架空のものです。創作上テキトウな名前をつけていますが、実在する同名の企業がもしあるとしても一切関連はありません。
いちばん大切なもの
1.
「坂田さん、今日は何日だ?」
社長秘書の坂田は、突然社長室から出てきた植田にそう言われ、あわてて目の前のPCを確認した。
「23日です…1月の」
念のため月まで言い添えたのは、仕事に没頭している時の社長が何もかも忘れるのを気遣ってのことだった。
「この辺で花屋を知らないか?」
「そこに」
坂田が指した窓の外、向かいのビルの一階に小さな花屋があった。
「ちょっと出てくる」
そう言った植田がオフィスを駆け抜けていった。
植田が店に着いた時には、もう店は閉店準備を始めていた。エプロンをした若い女性が店の外に並んだ花を店の中に仕舞っているところだった。
「もうお終い?」
「いえ、大丈夫ですよ」
そう言った店員が植田の前で腰を伸ばした。
「白い薔薇下さい。29……いや30本」
「30本ですか。ちょっとお待ち下さいね」
そう言いながら店員は店の中のガラスケースを開けた。
「申し訳ないですが、今日はもう10本で売り切れです」
2.
植田はあからさまにがっかりした顔はしなかった。その代わりに何かを思い出すように少し微笑んだ。
「そうか。またやっちゃったなぁ。妻の誕生日をついさっき思い出して」
そう言った植田に向かって、店員が距離を縮めた。大柄な植田を見上げるようにして、熱心に言った。
「大丈夫です。薔薇、見つかります。ついてきて下さい」
そう言って彼女は先に立って店を出た。小走りに駆け出した背中に向かって植田が声をかけた。
「いいよ、10本で! 店どうするの?」
彼女は一旦戻ってパイプを繋いだシャッターをいいかげんに閉め、また走り出した。植田はついていくしかなかった。
彼女が植田を導いたのは、少し先の繁華街、その一つ裏に入った通りだった。シャッターを閉めた銀行の前にワンボックスカーが停まっていた。リアゲートを開けた荷室に、さっき花屋の外にあったのと同じ、花を入れた容器が並んでいた。
「白い薔薇ある?」
「あるよ。何本くらい?」
「20本」
「そんなにはないな。12本だ」
「じゃあそれ全部頂戴」
彼女は植田に支払いをさせ、12本の花を新聞紙に包ませて自分で抱え、また駆け出した。
3.
「揃いましたね、30本」
にこにこした店員が手早く30本の薔薇を改めて大きな花束に包み直した。結局あの後もう一箇所、道端に花を並べた花の夜店(正式に何と呼ぶのか植田には分からなかった)を回り、植田と一緒に店に戻ってきたところだった。
「奥様に今日中に渡せそうですか?」
そう言って花束を差し出した店員に、言おうか言うまいか悩んだ挙句、これだけ色々してくれた相手には正直に言うべきだろうと、植田が口を開いた。
「ごめん。実は妻はもう亡くなってるんだ」
店員は目をまん丸にして植田を見上げた。
「よく色んな記念日を忘れては怒られたんで、さっき思い出したから花でも買おうかとふと思いついただけで。さすがに命日だけは忘れないんだけどね」
店員の目にみるみるうちに涙が浮かび、粒になって頬に零れた。植田があわてて言い添えた。
「でも君のお陰で今年は怒られずに済みそうだ」
「私が奥様だったらきっとすごく嬉しいと思います。喜んでますよ、絶対」
「……ありがとう」
植田は店員に微笑んだ。店員が涙に濡れた目で微笑み返した。可愛い子だな、それに心が温かい。なんだか本当に妻もどこかで一緒に微笑んでいるような気がした。
4.
それから、植田は時々花屋に寄るようになった。白い薔薇を一輪買って帰ったり、季節の花を勧められて買ったり。植田のために走り回ってくれた店員が実は店のオーナーだというのは、いつか雑談の時に聞いた。その時に驚いて歳を聞いたら26だと言った。思ったよりも若くて驚くと同時に少しがっかりしたのは、35の植田とはつりあわないほど若いと感じたせいだった。
(つりあうって、いったい何がつりあうんだか。まあつりあわない位が丁度いい。見てる分には。)
そう思っていたのだが。ある日帰りがけにまた閉店間際の花屋に寄った。珍しく彼女は店の奥の椅子に座っていた。
「いらっしゃいませ」
そう言って立ち上がり、よろめいて机に手をついた。
「どうしたの?」
「ちょっと風邪引いたみたいで、店を閉めようかどうしようか考えてたとこです。ごめんなさい。今日はどの花にしましょうか?」
そう言った彼女に植田が言った。
「今日は花はいいよ。でも寄って良かった。片付け手伝うよ」
「そんなわけには」
「座ってて」
5.
彼女が机にくずれるように突っ伏した。相当無理をして立っていたらしい。植田は外に出た花桶(この名前は彼女が言うので覚えた)を店の中に片付けた。あとはいつも掃除をしていた気がするが、とほうきに手を伸ばすと、彼女が腕の間から顔を半分だけ覗かせて言った。
「掃除はいいです、今日はもうシャッターだけ閉めれば」
「レジは?」
「レジ閉めしてないんでそのままでいいです」
「空き巣が入ったらどうするの?」
「いいです。もう無理」
植田は見かねて声をかけた。
「家まで送ろうか」
「大丈夫です。この上ですから」
「なら、なおさら送っていく」
彼女がレジの下からバッグを出したので、植田が支えて店を出た。明かりを消してシャッターを閉める間、彼女は壁にもたれたままだった。ビルのエントランスを入って、エレベーターに乗るのにもおっくうそうな様子を見かねて、エレベーターを出たところで植田は彼女を抱き上げた。
6.
小さくかすれた悲鳴が上がった。
「人じゃなく担架だと思って。部屋はどこ?」
「501」
表札の出ていない部屋の扉を、彼女のバッグにあった鍵で開けて入った。こじんまりとした部屋が玄関から窓まで続いていた。
「一人暮らし?」
「はい」
「どこで寝てるの」
「布団」
訊かれたことにぼんやりと答える彼女は、床に横になって小さく丸まっていた。植田が躊躇なく押入れを開けて、布団を敷いた。おそらく彼女は後になったら恥じ入るだろうが、今はプライバシーよりも優先するものがある。幸い押入れの中は開けた植田が感心するほど片付いていた。
横になったままの彼女を布団に移した。健康な重みだ、植田はそう思った。ふと、妻がどんどん軽くなっていった時の悲しみを思い出した。
「誰か、看病を頼める人は?」
「友達に……携帯の三島……」
合間に苦しそうに息をする彼女が携帯を探り出し、植田が受け取った。携帯に三島という友達を見つけ、電話をしようとした植田が彼女を振り返った。
「君の名前は?」
「佐々木みどり」
7.
電話に出た三島という友達が15分後にコンビニの袋を抱えて到着したので、植田は事情を説明して入れ替わりでみどりの家を出た。
マンションの玄関を出て、道を歩きながら溜まっていた会社からの着信に返信ボタンを押した。
「社長、今どこにいらっしゃるんですか!?」
「会社の前だ」
「早く戻って下さい! 会議もう始まってます!」
秘書の坂田の割れかけた声がスピーカーから響いた。大事な契約の条件を詰める会議だった。坂田が焦るのも無理はない。
「すぐ戻る」
憤った坂田に軽く詫びて他の役員が待ちかねていた会議室に入った。明日の最終交渉前に契約条件を詰めるための会議中だった。
「悪い。どこまで進んだ?」
「前回の向こうの提示額を、5%づつ変えた結果がこれです。原価の方も今日付けの価格で再計算してあります」
「納期は?」
「原料の到着が遅れなければ何とかなりそうだということになりました。まあ今はこの景気ですから物流も空いてるし、季節的にも船が遅れる心配はあまりないと思いますね」
「あとは資金繰りか。そっちはどうだ?」
「何も突発事故が起きなければ大丈夫ですが、かなりギリギリです」
8.
「そうか」
植田はしばし沈黙した。皆は次に来る言葉を待ち構えた。
「じゃ、15%ディスカウントまでだったら決めよう。そろそろ本契約しないと、こっちも原料の発注が出せない」
役員達がほうっと小さく息を吐いた。
植田の会社は特殊な原料を加工して、国内外の化学や薬品の大手メーカーに卸していた。会社の規模としては小さいが、加工技術で特許をとっているのでほぼシェアを独占している。元々の市場規模が小さいといってしまえばその通りだが、一つ契約が決まれば大きく利益が上がる。
問題は、取引先が大手だということだ。大手であるということは安定という意味では比較的リスクが少ないが、支払い条件で向こうの言いなりにならざるを得ない。あまりに大きな金額の場合は契約自体を分けてもらうが、いつも買掛金の支払と売掛金の回収までの期間の資金繰りで経理担当は頭を悩ませている。今回もそれが一番ネックだったのだが、社長がGOと言えばGOだ。
「まだ手形で払ってくれたら割引で現金化できるんですけどね。7ヵ月後現金は厳しいですよ」
「この契約が決まって最初の契約金が入ったら、ちょっとは楽になるから」
植田は経理担当の浅井をそう言って慰めた。
翌日、先方のメーカーと前回提示額の10%ディスカウントで交渉が成立した。
9.
四日ぶりにシャッターを開けるみどりの姿を窓から見て、植田は様子伺いに花屋を訪れた。植田の姿を見たみどりが叫んだ。
「この前はありがとうございましたっ! 気付いたらお名前もお勤め先も全然知らなくて、お礼が遅くなりましたっ!」
そう言って深々と頭を下げた。少し頬が細くなったような気がした。
「後で友達にも怒られました。店の常連さんにあそこまでやってもらっていいのかって。本当に、本当にご迷惑をおかけしました」
「いや、大したことはしてないよ。善意の通りすがりだ。もうすっかりいいの?」
「はい、体はもう全然……店の方は……」
そう言って彼女は店内をぐるっと見回すようにした。そこここに萎れた草花があった。植田が片付けた時にはつぼみだった花も満開になっていた。
「今日は片付けだけして、明日は市場の日なので新しい花を仕入れます。これはもう売り物になりませんから。可哀想なことしちゃいました」
「大丈夫なの、お店は」
「ええ、まあ小さい店なんで損害もそれほどは」
そう言ってみどりが苦笑した。一人でやっているからにはその分も織り込み済みなのだろうが、植田はみどりをどうにかして励ましたかった。
「もう食事は何でも食べられるの? メシ食いに行こうよ、ご馳走するよ」
「いえいえっ、私こそご馳走させて下さい。今日はお花を……?」
みどりが言いかけて不思議そうな顔で植田を見上げた。植田が午前中に店に来るのは初めてだった。
「いや。店を開けてるのが見えたから」
「見えた?」
植田が向かいのビルの上の方を指した。
「あそこにいるんだ、普段は」
10.
植田とみどりは近くの店で早いランチをとっていた。病み上がりのみどりに気を使って和食の店に入ったら、案の定みどりは月見うどんという回復食のようなメニューを頼んだ。ようやく植田は自分の名前を名乗ることができた。うえださん、と噛みしめるように呟くみどりを見たら何だか動悸が早くなった。
「植田さん、目の前にいらしたんですね。全然知らなかった」
「正面玄関は向こう側だしね。普段はこっちから出入りしないから」
ついでに普段はハイヤーだから、というのはみどりには言わなかった。
「でもお昼時にもお見かけしたことないですよね? お弁当とか?」
「うーん、お客さんと外で食べることもあるし車の中でコンビニ弁当を食べることもあるよ」
「営業さんなんですか?」
みどりがにこにこして訊いた。
「いや、一応偉い人」
「そうなんですか」
みどりはあっさりと話題を終わらせた。植田は肩すかしを食らった気分だった。自分から社長だと名乗ったり名刺を出したりするのは何だか照れくさかったが、ちょっとは感心して欲しかったような気もした。
11.
支払いの段になってすこし揉めた。どちらも伝票から手を離さなかった。
「ご馳走させて下さい」
「誘ったのは僕だし、女の子に支払いなんかさせられない」
「女とか男は関係ないと思います。この場合」
「デートの場合だったらご馳走させてもらえるのかな?」
みどりが赤くなってぱっと手を離した。その隙に植田が伝票を持って立ち上がった。支払いが済んで店を出ると、みどりがまだ赤い顔をして立っていた。
「じゃあこれはデートってことで」
「……からかわないで下さい」
「本気なんだけどな」
植田はそう言った自分に驚いた。亡くなった陽子には「人をだしにして花を買いに行ってたくせに、ほんとは下心があったのね」と怒られるだろうか。いや、あいつの導きかもしれないな、植田はみどりが答えるまでの一瞬にそんなことを考えた。
「本気にしますよ」
みどりが俯いてそう言った。
「いいよ」
植田がにこやかに答えた。やっぱり陽子の導きだ。ということにしておこう。
12.
その夜、改めて植田はみどりの店を訪れて夜のデートに誘った。みどりは泣きそうな顔で訊き直した。
「ほんとに本気にしますよ?」
「まだ疑ってるの? ひどいな」
「だって奥さんが」
「うん、僕も考えたんだけど、多分あいつの導きだと思うんだ。白い薔薇を誕生日に30本揃えてくれたあの子だったらいいよって、きっと言ってくれるんじゃないかな。
今年35歳、やもめだけど独身です。仕事は向かいのビルに入ってる会社の社長で、趣味はドライブと映画鑑賞。長所は仕事熱心なところ、短所は忘れっぽいところ。自己紹介終わり。全然対象外っていうんじゃなければ試しに付き合わない?」
「……はい」
みどりが目を伏せて微笑んだ。植田は軽い調子で喋った後で、自分の手のひらがじっとりと濡れていることに気付いた。ものすごく緊張していたらしいと、遅ればせながら気付いた。
植田はみどりを近くのイタリアンレストランに連れて行った。みどりはきのこリゾットというまたあっさりしたメニューを頼んだが、来た皿は全部美味しそうに食べた。
13.
「植田さんはどうして社長さんなの?」
「新卒で入った企業でままごとみたいな子会社を立ち上げて、最初はそこの社長をやった。出向期間が過ぎたらまた課長に逆戻りしてつまらなくなってさ。知り合いが特許をとった技術で会社を作りたいって言ってたから、社長を買って出た」
「社長さんって普段何してるの?」
「社長室でふんぞりかえってるよ」
「へえ」
みどりがあたりさわりのない相槌をうって、そのまま話が終わりそうだった。あわてて植田は言った。
「嘘だよ、信じないでくれよ」
「そうなの?」
「普段は取引先を回って先の商売の話をしたり、銀行で頭を下げたり、うちの会社で何か新しいことができないか調べたり、支店や工場を回ったりしてる。そういえば来週火曜日から出張だ」
「そうなの。いってらっしゃい」
何というか。手ごたえがない。
植田に気がないわけじゃなさそうだが、植田の仕事に関心がないのがありありと伝わってくる。
社長なの、すっごーい! と言って欲しかったわけではないが、もうちょっと賞賛とか尊敬とか、そういうものを表して欲しかった。
ああ、俺は社長の肩書きを鼻にかけてたんだ。と、植田は今更それに気付いた。否、気付かされた。九つも下の女の子のおかげで。
14.
食事の後でみどりが植田を部屋に呼んだ。
「お料理はあんまり上手じゃないけど、おいしいコーヒーだったらちょっと自信あるんです」
最初にそう言っていたとおり、みどりの淹れたコーヒーは美味しかった。飲み終わったカップを植田がキッチンに運んで、カフスを外し、ワイシャツをまくりあげた。
「美味しいコーヒーをご馳走様。後片付けは僕がやるよ」
「いいですよ」
「いつも赤い手をしてるから、こんな時くらいは手伝わせて」
「すみません。綺麗な手じゃなくて。花屋の職業病みたいなものなんです」
みどりがそう言って赤くなった。すぐ赤くなったり泣いたり笑ったりするみどりを見ながら、そういえば幸せってこういうのだったかな、と植田は考えた。いつの間にか忘れていたことを、みどりが思い出させてくれた。
「赤い手をして一生懸命仕事をしてるみどりさんが好きなんだ」
そう言って、顔を傾けてみどりの赤い顔に近づいていった。みどりが一層赤くなりながら、目を閉じた。泡だらけの手はまだキッチンのシンクの中に入れたまま、植田はみどりに初めてのキスをした。
15.
その後も植田とみどりはデートを重ねた。たいてい花屋を閉めた後で食事をして、みどりの部屋を訪れていた。みどりが美味しいコーヒーを淹れ、後片付けはいつも植田が引き受けた。
「みどりはどこの出身?」
親しくなるにつれ、上田は自分を俺、彼女をみどりと呼ぶようになっていた。みどりが一人暮らしなのは最初に部屋に送った時に知っていたが、まだ家族についての話はしたことがなかった。
「ここです。ずーっとここです。うちは代々花屋だったんです。昔この辺が商店街だった頃からずっと。でもこの辺みんな地上げで駄目になっちゃって一度廃業したんですけど、私の代からまた花屋をやろうと思ってあの店を始めたんです」
「ご両親は?」
「母は近くにいますけど、父は千葉の方で暮らしてます。……離婚したんです」
「そうなんだ」
みどりは家族についての話題をそれで打ち切った。そしてにこっと笑って植田を見上げた。
「家族とか、人の気持ちとか、お金より大事なものって世の中にいっぱいありますよね。花屋をやってて一番嬉しいのは、お花がそういう気持ちを伝えるために使ってもらえる時なんです。だから、植田さんが最初に店に来てくれた時にはどうしてもお花を用意したくて、走り回らせちゃいました」
「みどり」
植田が上から覆うようにして、小柄なみどりを抱きしめた。みどりが小さな声で言った。
「私、亡くなった奥様の誕生日に薔薇を買ったって聞いてからずっと植田さんが好きでした」
みどりからの初めての告白だった。
16.
みどりはいつも同じ服を着ているように見えた。Tシャツにジーンズ、デートの時だけはカットソーにスカート。似合わないわけではないがポリシーがあってやっている格好というほどには服自体に拘っている様子もない。植田は密かにみどりの生活にゆとりがないのかと思っていた。店の花の売れ行きはそこそこあるようだが、あまり商売について突っ込んだことを聞くにはまだ遠慮があった。
みどりの誕生日が来月だと聞いて植田はちょうどいいから洋服をプレゼントしようと思ってそう言った。みどりはあっさりと断った。
「ダイエット中だから痩せるまで服欲しくないんです」
「痩せなくていいよ。今のままで」
「駄目なんですっ。植田さんに抱き上げてもらったとき、もうすごく恥ずかしかったんだから」
そう言ってちょっと頬を膨らませたみどりを植田は可愛いと思った。抱き心地は今ぐらいがいいんだけどと思ったが、怒られそうなので言わなかった。
「じゃあ他に何が欲しい?何でも好きなものリクエストしてくれよ」
「別に欲しいものは……ただ……その日は一緒にいられたら嬉しいな」
「分かった」
植田はみどりを抱きしめて、プレゼントが左手の薬指にする指輪だったら、みどりは受け取ってくれるだろうかと心の中で考えた。
17.
植田はみどりとの約束だけは忘れないようにしようと思って、秘書の坂田にもその日だけは絶対に予定を入れるなとあらかじめ言っておいた。仕事が恋人だった筈の植田がプライベートで平日に休みをとるのは、亡妻の命日以外では初めてだった。
坂田は何となく社長に最近訪れた春の気配に気付いていたので、心の中では思い切り応援しながら、顔には出さずにスケジュールのその日に社長OFF、と大書きした。
しかし、その三日前にことは起こった。
「社長」
経理担当の浅井が、突然社長室を訪れた。
「ツキノの手形が不渡りになりました」
植田が思わず立ち上がった。
「いくらだ」
「八千万です」
植田が拳を握った。本当はツキノの手形決済が今日だということも金額も把握していたが、何かの間違いであればと思って改めて聞いたのだ。残念ながら記憶に間違いはなかった。
18.
植田がコートかけから上着を取った。
「銀行に行く。お前も来い。ここ数日で大きな支払いはなかったな」
「はい。少額のものばかりです。ただ、月末にデカい奴が」
「分かってる。……まあ、やるだけやってみよう」
浅井に資料を用意するように言って、植田は上着を着たままいったん社長席に座り直した。机の上で意味もなく手を何度か滑らせてから、ワイシャツの胸ポケットから携帯電話を取り出した。
「みどり。約束を破ってごめん。誕生日は一緒に過ごせなくなりそうだ」
平静を装って電話をしたつもりだったが、植田の声がいつもと違ったらしかった。
「どうしたの?風邪でもひいたの?」
「取引先が不渡りを出した。このままだとうちで振り出した手形も月末に不渡りになる。これから資金繰りに駆けずり回らなくちゃいけない」
「だって、不渡りって二回目まではいいんじゃないの?」
そんなおめでたい話は聞いたことがない。面白くない筈なのに、植田は少し笑った。
「無理だよ。一回でも不渡りを出したとか、なりそうだって噂が立ったら銀行も融資先もあわてて資金を引き上げる。不渡りを出した先がうちの大口の取引先だってことは皆知ってるから、うちも今から債権を回収しようと客が押し寄せてくる。最初の赤は数千万でも、億単位の資金が足りなくなる。うちなんかは自転車操業だからね、ペダルを踏んでないとすぐ倒れるんだよ」
19.
植田は最後に付け加えた。
「みどりは金より大事なものは世の中に沢山あるって言ってたけど、やっぱり金がないと何も守れないみたいだ。あがけるだけあがいてみるけど、しばらく電話もできないと思う」
みどりの返事を待たずに電話を切った。みどりに弱音を吐く前にわざと退路を断っておいた。
明日世界が終わるんだったらいいのに。それなら何も考えずにみどりの傍を離れないのに。
こういう事態がいつ起こってもおかしくないことは前々から分かっていた。あの時大口契約を受けると決めた自分の判断ミスだ。
今まで仕事第一できた自分が、年甲斐もなく年下の女の子にうつつを抜かして、社長業をおろそかにした罰なのじゃないかと、半ば本気で考えた。でも社員や他の取引先までそんな罰に巻き込むなんて間違ってる。ともかく乗り越えられるかどうか、ここ三日が正念場だ。
そこまで考えたところで浅井が資料を詰めた書類鞄を手に社長室へ戻ってきた。秘書の坂田を呼び、いくつか指示を出してから、硬い表情の二人はオフィスを出た。
「すみません。私がもっと前に」
経理担当としても、やりきれないものがあるのだろう。浅井がそう詫びかけた言葉を植田が止めた。
「いや、自分一人の責任だと思うな。ケツ持ちは俺だ」
20.
その日から三日間、植田と浅井は銀行や金融業者を走り回った。都内の銀行から、地方のマンガみたいな腕をしたボディーガードがついている金融ブローカーのところまで、頭を下げて回ったが、思ったようには金は借りられなかった。
ブローカーの所から帰る車の中で、浅井が悔し泣きをした。
「あと三週間持ちこたえられれば、何とかなるのに。黒字経営なのに、どうして駄目なんですか?」
「今日の黒字企業は明日の赤字企業だよ。そろそろお手上げだな。その三週間持ちこたえるだけの体力がないんだ。しょうがない」
みどりに会いたいな、そう思ってしまうのは自分の弱さかもしれない。一緒にいたいという願いひとつ叶えられない男に頼られても、みどりも迷惑だろう。そう思った植田は、目を閉じて目頭を押さえた。疲れが眉間に溜まっていた。
あまり眠れないままに朝を迎え、植田は迎えに来たハイヤーに乗り込んだ。そろそろ融資をあきらめて身売りのオファーを真面目に検討するべきだろうか、そう思いながら会社に着いた。
いつも朝一番に来る秘書の坂田が、植田の姿を見て机から立ち上がった。
「社長」
「おはよう」
「おはようございます。お客さまがお見えになっています。社長室でお待ち頂いています」
何故応接ではなく社長室なのだろうと考えていたら、坂田が続けた。
「佐々木様とおっしゃる女性です」
自分の顔色が変わったのが分かった。坂田に返事をするのも忘れて、あわてて社長室のドアを開けた。
21.
ソファに背筋を伸ばして座ったみどりが立ち上がった。いつもの仕事着、Tシャツとジーンズ姿だった。
「植田さん」
「おはよう」
「これでは足りませんか?」
前置きなしでみどりが、銀行が振り出した小切手を差し出した。植田は目を剥いた。
「この金……」
そこに並んだ9桁の数字は、この三日間駆けずり回ってどんなに土下座をしても手に入らなかった、当座必要な額を軽く上回っていた。
「なんで君がこんな金を持ってるんだ。いや、誰から借りた?」
「私のです」
植田はソファの手すりを探した。何かに掴まらないと倒れそうだった。
「貸してくれるのか。条件は」
「別に条件なんて」
「三週間だけ貸してくれ。三週間経てば契約金が入ってくるから返せる」
矜持など、この三日でとうに捨てていた。どんなにみっともなくても植田はこの金が喉から手が出るほど欲しかった。会社や社員や取引先、そういう自分が守りたいものを、この金さえあれば守ることが出来る。
「……そうか、金より大事なものがあるって言ってた意味が分かったよ。必要なかったんだな、みどりには」
そう言いながら植田は乾いた笑い声を上げた。みどりがこの金を出さなければ、一生気付かなかったであろう自分の鈍感さを笑った。無意識に自分を『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ教授や『プリティ・ウーマン』のエドワード・ルイスに見立てていた。相手が億万長者だったとも知らずに。
22.
みどりは目に涙を浮かべて植田を見つめていた。やがて潤んだ目のまま微笑を浮かべて植田に言った。
「このお金は地上げにあった時に貰ったお金です。両親が離婚する時に、私にくれました。こんなお金じゃ店や家族の代わりにはなりません。だからずっと銀行に置いたままでした。でも、植田さんの役に立つなら使ってください」
植田は笑いを止めた。
植田にとって、今何よりも大切なものは金だった。どんな金でもよかった。でも……やっぱりこれは、金以上のものだった。この借りは三週間で返せる類のものではなかった。
「本当に……何て言えばいいのか分からない」
「植田さん、ほんとに忘れっぽいんですね。何か私に言うことありませんか?」
みどりが、さっきまでの切ない微笑みを不意にいたずらっぽい笑顔に変えてそう言った。植田は呆けた顔でしばらく考えて、ようやく言うことを思い出した。
「……みどり、誕生日おめでとう。プレゼントを買いにいく暇がなかったんだ。今から一緒に買いに行こう」
エピローグ
胸が幸せで膨らんで破裂しそうになった植田は、社長室を出て坂田に小切手を渡しながら言った。
「これを浅井に渡して、銀行が開いたら入金するように言っておいてくれ。俺は今から休暇を取る。携帯も切るからあとは任せた」
「社長!?」
そして、初めて花を買いに行った時と同じように、オフィスを駆け抜けていった。今度はみどりの手を引いて。
end. (2009/01/31サイト初出)
その後のお話「いちばんの贈り物」に続きます