願ったものは
「時実!おい、こっちこっち。」
セレモニー会場は珍しく立食形式で、豪華なシャンデリアとそこかしこに並んだ花で彩られていた。声に気付いて時実一があたりを見渡すと、つい先ほどスピーチを終えたばかりの社長の隣に、懐かしい顔があった。驚いた一が声をかける。
「いや、まさかお見えになるとは。アユタヤに駐在と伺っていましたから、てっきり欠席なさるかと。」
「久々に日本食が恋しくてね。セレモニーなら豪華なもの食えると思ってな。」
「ほとんどイタリアンか中華ですけどね。」
「ちゃんと寿司と日本酒はおさえたぞ。」
周囲に明るい笑い声が響いた。この闊達に構える人物こそ、今では相談役になった二宮だった。銀髪の混じる年齢だが背筋も伸び、顔には艶やかな脂が見て取れ、実年齢よりはるかに若々しく見える。その二宮が、久しぶりに会う一を見て、深い目じりの皺を一層濃くした。
「お前が今じゃあ常務か。随分と偉くなったもんだな。ええ。」
「相談役ほどじゃないです。」
再び笑い声が上がった。
二宮は総務部での目覚ましい仕事振りが評判となり、やがて本社から引き抜きされて一の前から姿を消した。その後の活躍は噂で聞くばかりであったが、2、3の拠点を行き来した後に海外事業の立ち上げにあたり本部長に昇進したと聞く。次に二宮の顔を見たのは本社会議のWEB画面を通してで、その時も部長になった一を目ざとく見つけた二宮は大仰に驚いてみせた。
--時実お前、こんなところで何やってんだ、おい。
--会議ですよ、本部長。
一方の一は二宮の抜けた後にてんやわんやとなった総務課から泣きつかれて、施設課から総務課への異動となった。二宮の間近で仕事を事細かに補佐していた一は瞬く間に周囲に祭り上げられ、総務課長、そして総務部長まで駆け上がった。一にそこまでの手腕があったわけではなかったが、後釜の総務部長達は嫌でも二宮と比較されることになり、やがて誰もやりたがらなくなった頃合いに昇進試験に合格した一にお鉢が回ってきたのだった。言うなれば棚から牡丹餅である。その後一が営業と品質を踏んで常務となった頃には、二宮は専務を飛び越えて相談役に収まっていた。中途採用からここまで昇進するのはこの会社では異例のことだったが、有能すぎる二宮が取締役に従事すれば椅子取りゲームから揺り落とされると危惧した取締役会の誰かが、それならばと一足飛びに据えてしまったという噂がまことしやかに囁かれている。無論、事実か否かは分からないが、言うなればそんな噂が流布する時点で内実が透けて見えているというものだ。
そんな化け物のような二宮と違って、一の出世は実力に因るところはいっそ皆無にみえた。総務部長にまで上った一は言うなれば勤勉さと柔和な性格なだけが取り柄で、それ故に敵を作らず、しかし目覚ましく功績を上げるわけでもない可もなく不可もなしといった状態だった。やがて当時総務課長だった田辺という女が部長昇進するのをきっかけに押し出される形で営業部へ異動し、同時期にたまたま入った大口案件の担当となった。金払いはいいが大層気難しいと有名なクライアントに尻込みした人々が、降って湧いた一を半ば無理やり押し込んだのである。しかしここでも運よく相手先に気に入られ、前任者が掴んだ案件に判を押してもらうだけという、結果として労せずして功を得る形となった。その後異動したのは古巣である“激戦区”を含めた品質部で、当時の“戦友”だった半沢と肩を並べて仕事をすることになった。
半沢は非常に口が悪くて神経質で、一が淡々と業務をこなす様を見るなりトロ臭いと一蹴すると、どんどん仕事を取り上げて行ってしまった。
--サナトリウムから弾丸出世って聞いたときには目ん玉飛び出るかと思ったけど、存外相変わらずだなザネちゃん。
役員候補として諸事情あって本部長より格下の部長列が抜擢されるとなった折に、一と半沢の二人の名前があがった。しかしその時、半沢は自ら身を引いたという。一には出世に人一倍野心を持っていた半沢が身を引く理由が皆目見当もつかなかった。後で人づてに聞いた噂によると、どうやら取締役会の中も含め、上下にアンチ半沢派ともいえる勢力が多数見受けられたためではないかという。
セレモニーは粛々(しゅくしゅく)と滞りなく進み、やがてお開きとなった。帰りしなに、一は社長に呼び止められた。
「あー、時実君、ちょっと。」
「は、何でしょうか。」
「きみ、相談役を部屋までお送りしてもらえないか。」
空港から直接会場に来た二宮はそのままこのホテルに部屋をとっているらしい。
「随分とほら、気に入られてるようだしな。」
嫌味半分かと思っていると、最後にもごもごと一言付け足して社長はその場を立ち去った。今度の取締役会の件、頼むよ、と。二宮に口出ししてもらいたくない案件があるのだろう。直接は言いにくいということで一に婉曲に黙らせておけと言っているように聞こえた。こういう時のために自分はここに座っているのかと、一は何だか妙な心持になった。しばらく呆然と立っていると、申し入れるまでもなく二宮の方から声がかかった。
「いた、いた。この後どうだ、ちょっと付き合え。」
セレモニー会場にもなったホテルの最上階のラウンジからは、ぼんやりとした夜景が湾岸線を浮かび上がらせている様子がパノラマで見渡せた。他の席からやや離れた場所にある隅のソファにゆったりと腰掛ける。二宮は、何か言いたげな様子だ。
「まったく違う街で昔の知り合いに会うと、いつも言いようのない不思議な気分になるよ。」
オンザロックのカルヴァドスをステアしながら二宮は遠い過去をたどっている。
「今になって、」一は探るように言葉を紡いだ。「ようやく分かったんですよ。」
どこかで氷の転がる音がした。スノースタイルボウモアを一口含んで、ゆっくりと噛み締めるように磯の香りを吸い込む。
「ずっと不思議だったんです。なんで私は会社に今なお残っているのか。」
歳月が一を「僕」から「私」に変えた。二宮は、部下ではなくなった日から一の事を「トキザネ」と呼ぶ。
「そんなに不思議なことかい。会社に勤めることが全てとは言わないが、多くの人にとって当たり前のことだろう。」
「そうですね。きっと、その当たり前のことが、幸せだということなんでしょう。」
この段になってようやく、二宮も一が何かを言いたそうであることに気が付いた。探るように言葉を投げかける。
「覚えているかい、自販機の事。」
その単語を聞いた瞬間、一の瞳の奥で何かが弾けた。
「時実、」
その小さな変化を、二宮は見逃さなかった。
ボウモアのグラスの縁から塩の塊が崩れて落ちた。その様子を眺めていた一がゆっくりと視線を上げると、強い瞳とぶつかった。
「私は、」
僕は、
「今まで何の働きもせずに、ここまで来てしまった。」
「時実。」
「そしてこのまま居続けるんです。この幸せな人生から、私は降りることができない。」
「時実、実はお前に、」
謝らなくてはいけないんだ、と二宮は静かに言った。
「謝る?何を謝る必要があるんですか。」
何回か瞬きをして、二宮が視線を落とす。
「ずっと嘘をついてきた。そのことを謝らなくてはいけない。」
「嘘、ですか。」
一には、思い当たることは一つしかなかった。そしてそれは少なからず一の動揺を誘った。
「嘘では、無いはずです。」
「覚えているか、あの幕の内のうまいウナギ屋での話を。」
「忘れることができません。」
「あの時の話だ。」
一は、二宮がカルヴァドスを口に含むのを眺めながら次の言葉を発するタイミングをじっと待っていた。音もなくグラスがコルクコースターに置かれる。
「あの話の、どこが嘘でしたか。どこから、どこまでが。」
最後の方はかすれ声に変わっていた。一呼吸おいて、二宮が意を決したように口を開いた。
「ほぼ全てだ。」
ヒュッと息を飲む音が聞こえた。
「ならば、何だというんですか。」
独り言のように一が呟く。
「私が見たものは、何だったというんですか。」
二宮が顔を上げた。
「お前、」
後の言葉は続かなかった。二人は、黙って酒を飲んだ。やがてグラスがまだ溶けきらない氷だけになると、二宮はニコラシカを注文した。
「カルヴァドスでニコラシカですか。」
「中々フルーティでいけるぞ。時実もどうだ。」
「いえ、私はこれ以上は。」
やがてニコラシカが運ばれてきた。リキュールグラスの上に、砂糖が盛られたレモンスライスがのった奇妙な格好をしている。ボーイが遠ざかるのを見届けて二宮が言った。
「今ここにいるということは、他でもない自分自身がここまで歩いてきたということなんだ。自分の意思でな。」
一は何も言わなかった。
「私はあの時、自分で決めたんだ。こういう人生にしようと。」
そこまで言って、二宮は二つ折りにしたレモンをしっかりと咀嚼すると、一気にリキュールグラスを傾けて中の液体を飲み干した。
「願いは、叶いましたか。」
「ああ。今も叶え続けている。」
聞くまでもないことだった。二宮の表情が、姿が、眩しく映った。
「私は弱い人間です。あなたのようにはなれなかった。」
「時実。一つだけいいことを教えてやろう。」
一の瞳が揺れた。
「世の中は必要な人間が、必要な時に、必要な場所に納まるようにできているんだよ。」
それだけ聞けば、十分だった。
一はその時ようやく、長い間の呪縛から解放された気がした。
この人は、今さっき、嘘をついたのだ。
「ありがとうございます。」
涙は出てこなかった。代わりに二宮が鷹揚に笑った。