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はじめの一歩

「毎日僕より早く来て遅くに帰ってるのは、部長だけですね。」

 朝の6時50分だった。時実一(ときざねはじめ)はその日、初めて部長席に腰掛ける人物に話しかけた。男の名前は二宮(にのみや)という。40代半ばのまだ若々しい部長は、勤勉で有名なその若手社員の顔を見て仕事の手を止めた。

「仕事があるというのは、」

 椅子ごと体を一の方に向けて二宮が呟く。

「とても幸せな事なんだよ。」

 一は眩しいものでも見るように目を細めて二宮の痩身(そうしん)を見つめた。

 デスクが5つばかりある手狭(てぜま)なオフィスに、ブラインドから朝日が柔らかな明かりを注いでいる。一が手に持った紙コップから香ばしいコーヒーの香りがしていた。

 施設課の事務社員3名、派遣が1名の計4名を含めた総務部の18名を束ねる人物が二宮だった。二宮の目の前に立つ一は6年前に入社してから2度目の異動で施設課のオフィスに流れ着いた。ずば抜けて成績が良かったわけではないが、勤勉であることと柔和(にゅうわ)な性格が喜ばれ“激戦区”と呼ばれる部署に引き抜かれたのが2年前。飛び交う怒号(どごう)のような指示と鳴り続ける電話を朝から晩まで(さば)く内に、自然と早朝に出勤する癖がついた。戦場での2年という時間が沢山の人を飲み込むサマを目の当たりにしてきた一は心を病み、次いで1か月前にはとうとう体を壊し入院の憂き目にあった。運良く大事には至らず退院できたものの、そのまま元の激戦区に戻すにはあまりに不憫(ふびん)と思ったものか、社会復帰した一のデスクは現在のオフィスの末席に移動していた。もしかしたら単純に、体を壊すような奴は戦力外だと思われたのかもしれない。人を駒のように扱う部署のことだけに、笑えない冗談だった。

 戻ってきた一を迎え入れてくれたこの手狭な部署は激戦区とは打って変わって人も業務も穏やかな場所で、口の悪い人に言わせれば昼行燈(ひるあんどん)の集まりのようなところだった。その元“戦友”からは島流しだのサナトリウム送りだのと適当な揶揄(やゆ)を飛ばされたが、なるほどここに漂う空気感は療養の地のそれと言えなくもない。ただし仕事ができない人がたまっているのかといえばそうではなく、単にやることが地味で内向きなためにまったりと落ち着かざるを得ない環境なのである。施設課の主な業務は社内の環境整備であり、具体的には清掃業者とのやりとりや蛍光灯の交換、ペンキの塗り直し、植込みの整美、空調の管理など。一が来るまでは定年退職後に嘱託(しょくたく)社員として返り咲いたベテランの二人と、派遣の女性だけだったので、なるほど若い男手が欲しかったということだけは納得ができた。

「失礼なことをお伺いしてもよろしいでしょうか。」

 コーヒーから顔を上げた一がぽつりと言った台詞(せりふ)に、二宮はちょっと意外そうな顔を見せた。

「何かな。」

「部長の席はなぜ総務課ではなく施設課に?」

 質問の意図が理解できたようで、二宮は苦笑してみせた。総務課は激戦区ほどでは無いにしろ多忙な部署で、本来であれば細かいやり取りが必要な部長の席は、総務課にあって(しか)りである。それがこんな辺境の地にあるのだから、復帰初日から一には不思議でならなかった。詰まるところ、何か総務課内に居れなくなるような事情があったのではないかと訊いているのである。

時実(ときざね)君は中々肝が据わっている。」

 ()くまで穏やかな調子で二宮が続ける。

「でも残念ながら面白い話はなくてね、単純に施設課には課長が居ないから、こちらに私が座らなきゃ時実君達の仕事が滞る。総務課に印鑑を貰いに来るのは中々勇気が要るだろう?」

 言ってから、ああでも君は前にシジョウ(・・・・)にいたからね、と付け足した。

 実際この施設課の書類に承認印を押せるのは二宮だけであり、オフィス内に居てもらえるのは非常にありがたいことだったが、一にはそれだけが理由とは思えなかった。施設課は暇な部署なのである。印鑑を貰いに行く時間ならたっぷりあるのだ。

 一がなおも不思議そうな顔をして押し黙っていると、ふいに二宮が表情を崩した。

「と、いうのは半分は建前(たてまえ)でね。コチラの方が静かだから落ち着いて仕事ができるんだよ。当然メールはジャンジャン飛んでくるけど。重要で緊急な用件のある時はキチッと資料持って見せに来るんだから皆。それに部署内に部長が居ない方が課長列は仕事がしやすい。」

 最後のひとことは冗談だろうか。激戦区に居る頃から二宮の噂はちらほらときいたことがあったから、一はイメージとのギャップに少なからず戸惑っていた。

 --仕事の鬼のような人。

 誰よりも多くの仕事を抱え、それでも活き活きとこなしていく辣腕(らつわん)の最年少部長。

 中途採用から駆け上ったが故に、周囲にベタベタとした人間関係は無く、なんでも一人で進めていく専制君主タイプ。

 仕事に厳しく、効率の為なら笑って人を切れる。

 等々。そんな噂をきいていた一にとって、今目の前で仕事の手を止めて病み上がりの若手社員と気さくに会話する二宮は、いっそ奇異(きい)に映った。静かだから?落ち着いて仕事ができる?効率重視の鬼のような部長が?

「今の職場には慣れたかい。」

「はい。あ、いえ、仕事には大分慣れてきましたが、この部署の空気というか。雰囲気にはまだ少し戸惑っています。」

 一は感じたことをそのまま口に出した。

「そうか。真面目なんだな随分と。」

 二宮は可笑(おか)しそうに眼尻に(しわ)をよせた。


 さして急ぎの仕事の無い施設課とはいえ、なあなあ(・・・・)になったままの業務を見直していくと、やりたいことは沢山あった。復帰した最初の一週間ほどはとりあえず定時上がりだったが、多忙な戦場での日々を越えた一は定時に帰宅しても正直何をしていいかも分からず、結局サービス残業という形で早朝から比較的遅い時間まで会社にいることを選択した。備品の管理業務一つとっても記録が無かったり、いつのものかも分からない謎の物体が倉庫を埋めていたりと、手を入れる箇所は大いにありそうだった。

 この日も遅くまで過去資料の整理をし、日誌をつけてオフィスを後にした。帰り際に部長席を横目で見やる。二宮は夕方から離席中ではあったが、行先表示板にWEB会議室とあったのでおそらく本社会議が長引いているのだろう。

 一はシャッターの閉まったアーケード街を抜け、駅前でいつもの缶コーヒーを買った。ガコンという缶の落ちる音とともに、小さな電子表示のスロットカウンタが回転を始める。プルタブを引いて、小さな缶の液体をその場で一気に飲み干した。持って帰ると缶ゴミが溜まる。一のアパートの近くには適当なコンビニが無かった。空き缶が溢れて入りきらないゴミ箱の上に空いたばかりの缶をのせると、「はずれ」表示に変わった小さなカウンタを背にして、帰途(きと)についた。

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