第9話|過去と、きちんと区切る
その後――
ローゼンヴァルト公爵家には、王太子側からの圧力が続いていた。
「登城せよ」と、王命に従った通達である。
しかし、公爵家は慌てることなく毅然と突っぱねた。
家族を守るため、そして令嬢自身の意思を尊重して。
アンネリースも、実家に申し訳なく思いながら、手紙を綴る。
その内容は簡潔で明確だった。
一、復縁はしません
二、王命で実家に圧力をかけても、家族も私も屈しません
三、私の意思に従います
公爵家の支えを胸に、アンネリースは冷静に、しかし揺るぎなく王命を突っぱね続けた。
圧力に屈せず、自分の意思を守るその姿勢は、静かに、しかし確かに周囲に伝わっていた。
一方で、王太子はその報告を受け、焦りを募らせていた。
見た目や虚勢で固めた王妃候補たちは、いずれもアンネリースの代わりにはならず、その卓越した存在感と品格を改めて思い知らされることとなった。
遠く離れたヴァルディエール王国の王アレクシスは――
アンネリースの動向を報告書で確認するたび、自分のアンネリースへの想いが確信へと変わっていった。
あの庭園での彼女の美しく凛とした姿が脳裏に蘇るたび、自然と彼女に会いたいという思いが、静かに胸を満たしていた。
こうして――
王命による圧力、王太子の焦り、そしてアレクシスの静かな想い。
三つの力が、それぞれのタイミングで、少しずつ動き始めた。
アンネリースは、冷静に、淡々と、自分の道を歩み続けるのだった。
それから、アンネリースのもとには、アデル・ヴァルノアと名乗る差出人から、しばしば手紙が届くようになった。
白い厚手の便箋は僅かに光沢を帯び、文字は丁寧でゆったりとした筆致ながらも、品格が感じられた。
茶葉とともに添えられた手紙は、軽やかな気遣いに溢れ、押しつけがましさは微塵もない。
読み返すたび、彼女は相手の誠実さと心遣いを、少しずつ意識するようになった。
それでも、アレクシスは実の名を明かすことなく、直接会う日まで、そのやり取りは静かに続けられた。
そして、ある日――国主催の華やかな宴への招待状が、アンネリースのもとに届いた。
静養という名目で領地に籠っていた彼女は、普段ならあえて足を運ぶことのない催し。
招待状に添えられた箱を開けた瞬間、まず目に飛び込んできたのは、王太子クラウスからの鮮やかな青と金のドレスだった。
王太子の色――王族らしい華やかさとわかりやすい華、若さと自信に溢れる色彩だ。
その隣には、同じくドレスの収められた箱が一つ。
一緒に添えられていた手紙には、丁寧な言葉で「当日、私がエスコートさせていただきたい」と記されていた。
差出人の名に思わず心が弾む。アデル・ヴァルノア――
長い手紙のやり取りを通して、彼を好ましく思い、また会いたいと思っていたのだ。
箱を開けると、中にはアデル・ヴァルノア(アレクシス)の色である淡いプラチナブロンドとブルーグレーを基調にした、落ち着いたデザインのアンネリース好みのドレスが収められていた。
軽やかなシルクは朝の光を含んだような淡い黄の色合いで、繊細なブルームーンストーンのアクセサリーが添えられている。
アンネリースは息をつき、自然と微笑む。
王太子のドレスは華やかすぎて、自分の気持ちを揺さぶることはない。
だが、アデル・ヴァルノアからのドレスと手紙には、胸の奥で小さなときめきが芽生えていた。
「……これを着て、彼に会いに行こう」
宴、当日――
馬車を降りると、彼女の前にはすでにアレクシスの姿があった。
穏やかに微笑み、手には小さく整えられた手袋を持っている。
「アンネリース嬢、ご無沙汰しております。まずは、貴方に謝罪しなくてはなりません。私の本当の名は、アデル・ヴァルノアではなく、アレクシス・フォン・ヴァルディエールです」
目の前の彼は、胸に手を当て、静かに自分の名を告げた。アンネリースの胸の奥で、緊張と期待が入り混じる。
「ヴァルディエール…。それは、彼国の? 王族の方なのですか?」
「私はヴァルディエール国を統べる者です」
その言葉に、自然と背筋が伸びるアンネリース。
手を差し伸べられ、迷うことなくその手を取った。
握った手の温もりが、彼女の心を静かに満たす。
「本日は、貴女をエスコートさせていただきたく…」
微かに微笑むその瞳に、真剣さと優しさが混ざり合っている。
アンネリースは軽く頷き、深く息をついた。
胸の奥で、静かに高鳴る鼓動を感じながら、彼の腕に手を添える。
馬車が王宮前に到着する。豪華に飾られた宮廷の扉の向こうには、煌びやかな宴の光が溢れていた。
視線が場内を滑ると、自然と背筋が伸びる。
王太子クラウスは、思い描いていたはずの華やかな入場とは程遠く、どこか焦りと戸惑いが混ざった表情をしていた。
アンネリースは、アレクシスが贈った淡いプラチナブロンドとブルーグレーを基調にしたドレスを身に纏い歩くたびに、その裾がふわりと揺れる。
胸元には繊細なブルームーンストーンのアクセサリー。
視線を交わすたび、言葉にはできない安堵と信頼が心に広がる。
「お似合いです」
ささやくようにアレクシスが告げると、アンネリースは軽く微笑む。
普段なら控える自分の小さなときめきも、この瞬間だけは静かに受け止められた。
場内のざわめきも、王太子の焦りも、すべてが遠く感じられる。
彼女を待ち受けていたのは、ただ、落ち着いた安心感と、信頼に満ちた視線。
アレクシスの腕に導かれながら、アンネリースは静かに宴へと歩みを進めた。
王太子クラウスは、彼女のドレスの存在感に気付き、動揺を隠せずにいた。
慌てて声を上げようとした瞬間、アレクシスが落ち着いた表情で一歩前に出る。
その圧倒的な静謐さに、場内の王族や廷臣たちは息を飲む。
クラウスは、焦りから思わず青くなった自国の王に押さえ込まれるように幽閉された。
アンネリースはその間、アレクシスの腕にそっと手を添え、宴で踊り続けた。
王家や王宮のざわめきがあっても、二人の間には静かな調和が漂っていた。
宴の終盤、アンネリースは手紙やドレスの気遣い、今までの手紙のやり取りを思い返していた。
その眼差しは穏やかで、心の奥に芽生えた想いを、静かに噛みしめるようだった。
宴は滞りなく終わり、アレクシスの馬車に同乗し、アンネリースを実家まで送り届けてくれた。
降り際、ふと彼が差し出す手は、自然なプロポーズのようにも感じられる。
アンネリースはその手を受けつつも、答えはまだ保留のまま――静かに、しかし確かな心の準備を整えたまま、その日は別れを告げた。
馬車が去った後、静まり返った屋敷の入り口付近で、アンネリースを迎えた家族の姿があった。
兄と妹は少し緊張した面持ちで、しかし安堵の笑みを浮かべながら、彼女の帰りを待っていた。
母は穏やかに微笑み、父は背筋を伸ばしながらも胸の内で安堵の吐息を漏らす。
傍らには侍女や使用人たちも控え、静かにその場を見守っていた。
皆の心配と期待が、静かに空気の中に溶け込んでいる。
アンネリースは胸元にかけられたブルームーンストーンのペンダントに手を添え、静かに息をついた。
淡い月光を映して揺れるその輝きは、アレクシスの誠実さと優しさを静かに語りかけてくれる。
「……家族も、私の選択を理解してくれているのね」
胸の奥にふわりと広がる感謝と安心。
家族やグレーテ、侍女たちの存在が、今日の出来事を静かに支えてくれていることを、アンネリースは深く噛みしめた。
屋敷の入り口付近で、帰宅を見守り心配してくれた両親や兄妹、使用人たちの顔が思い浮かぶ。
皆の視線と温かさが、無言のまま自分を支えてくれていた。
部屋に入り、手元に置かれたブルームーンストーンを静かに見つめる。淡く揺れるその輝きは、今日の出来事の余韻を静かに語りかけてくる。
紅茶を淹れ、温かさと香りに心を委ねながら、胸の奥で今日の一つひとつの出来事を整理していく。
王太子クラウスの焦り、アレクシスの誠実な瞳、そして自分の心の揺れ――すべてが穏やかに混ざり合い、静かな確信となってゆく。
アンネリースは、紅茶の香りと温もりに身を任せながら、未来の自分をそっと思い描く。
「私は、これからも自分の道を、揺るがずに歩む――」
その決意が胸の奥で静かに燃え上がる。
手元のブルームーンストーンは、まるでその決意をそっと支えるかのように、穏やかに光を放っていた。
後日――
アレクシスから、手紙とともに茶葉、そして丁寧に意匠の施された茶器が届く。
カップには、彼の束縛を押し付けない、尊重と大切さを示す意図が込められている。
その心遣いを目にしたアンネリースは、再び彼の誠実さを実感し、静かに微笑む。
彼女が出した決断は――
次なる一歩を踏み出す準備が、確かに整いつつあることを示していた。
登場人物
アンネリース・フォン・ローゼンヴァルト
18歳/ローゼンヴァルト公爵家令嬢
王太子との婚約を一方的に解消された後、実家の領地で静かに暮らしている。
派手に目立つことはないが、物事を整え、人と人の間に無理のない距離を作ることに長けている。
自覚はないものの、周囲に安心と安定をもたらす存在。
紅茶を好み、香りや余韻を大切にする。
穏やかで控えめだが、芯は強く、必要な線引きを決して曖昧にはしない。
アレクシス・フォン・ヴァルディエール
ヴァルディエール王国の若き国王。
28歳。
即位して数年、年若いながらも政務は安定しており、「落ち着いた王」と評されている。
身長は高く、姿勢が良い。
細身ながら鍛えられた体つきで、かつて騎士としての訓練を受けていたことが窺える。
淡いプラチナブロンドの髪と、澄んだ青灰色の瞳を持つ。
微笑みは控えめだが、ふとした瞬間に年相応の優しさが滲む表情を見せる。
理性と感情の均衡を大切にする王であり、
静かに物事の本質を見極めようとする観察者でもある。
クラウス・フォン・ベルンシュタイン(元婚約者)
18歳/ベルンシュタイン王国第一王子
王族らしい自信家。母と父の庇護で自由に育つ。
喝采や舞台に慣れ、伴侶には自分を引き立てる存在を求める。
王宮内の混乱には無自覚だった。
アンネリースの不在を知り、うまくいかないのは、彼女がいないからで、自分が差し伸べた手をきっと拒まないと信じている。




