第6話|助けを求められても、手は差し伸べない
静かな屋敷に、控えめな訪れがあった。
石畳を踏む音は慎重で、門前で名乗る声も抑えられている。
屋敷の空気を乱さぬよう、十分に心得た者の振る舞いだった。
王宮の印章が押された書簡と、それを運んできた使者だ。
年若くはないが、経験を感じさせる身なりで、背筋は伸びている。
ただ、その表情には、わずかな焦りが滲んでいた。
アンネリースは応接間で紅茶を淹れ、
使者を通さずに書簡だけを受け取った。
急ぎではない、と伝えられたが――
紙の質と、封に使われた蝋の重みが、そうではないことを物語っている。
彼女は、萌黄色の小花柄のドレスを身にまとっていた。
柔らかな色合いに、控えめなレース。
髪は簡素にまとめられ、飾りはつけていない。
あくまで、日常の延長にある姿だった。
ペーパーナイフは、古い銀製のもの。
先端にわずかな装飾があり、手に取ると静かな重さが伝わる。
カップから立ちのぼる紅茶の香りは穏やかで、
書簡の張りつめた気配に寄り添うことも、煽ることもしない。
封を切り、目を通す。
茶会の準備が滞り、予定が何度も組み直されていること。
会食の席で、供されるはずの料理と器が噛み合わず、
王妃が静かに不満を示したこと。
書類の確認が追いつかず、
同じ内容の報告が別々の部署から重なって上がってきたこと。
判断が遅れ、その場で結論を出せずに散会した会議があったこと。
外交の席では、言葉足らずな応対が誤解を招き、
後日、補足の書簡を慌てて送る羽目になったこと。
――それらを、どうにかしてほしい。
直接そう書かれてはいない。
だが、行間に滲む期待と焦りは、あまりにも分かりやすかった。
アンネリースは、書簡を静かに畳む。
表情は変わらない。
窓の外に目を向けると、庭先では屋敷の使用人たちが、
それぞれの持ち場で静かに動いている。
無駄のない動きで、互いの邪魔をしない距離を保ちながら。
その様子に、アンネリースは小さく息を緩めた。
再びカップを手に取る。
紅茶は、今日も穏やかにそこにあり、
考えを遮ることなく、ただ寄り添ってくれる。
カップの内側に描かれた小さな花に、ふと目が留まる。
控えめな線で描かれた、可憐な花。
早春に咲く、アネモネ。
その名を心の中でなぞり、アンネリースは何も言わずに視線を戻した。
――もう、私の役目ではありません。
そう結論づけるのに、迷いはなかった。
彼女は書簡を脇に置き、紅茶をもう一口含む。
日常は、きちんとここにある。
それだけで、十分だった。
登場人物
アンネリース・フォン・ローゼンヴァルト
18歳/ローゼンヴァルト公爵家令嬢
物静かで礼儀正しいが、内面は非常に落ち着いている。
一人の時間と紅茶を愛する。婚約破棄にも動じない安定した自己肯定感の持ち主。
クラウス・フォン・ベルンシュタイン(元婚約者)
18歳/ベルンシュタイン王国第一王子
王族らしい自信家。母と父の庇護で自由に育つ。
喝采や舞台に慣れ、伴侶には自分を引き立てる存在を求める。
王宮内の混乱には無自覚。アンネリースの不在を知らない。




