第4話|役に立たないと言われた女の段取り
朝は、ちゃんと来る。
それは婚約を破棄されても、追いやられても変わらない。
薄いカーテン越しに差し込む光はやわらかく、部屋の輪郭を静かになぞっていた。
夜の間に泣いた形跡は、どこにもない。
その事実が、少しだけ心地よかった。
私は身を起こし、厨房へと向かった。
昨日見つけたカップとは別の棚に手を伸ばす。
古い食器棚の奥には、使われずに眠っていたカップがいくつも並んでいた。
白地に、淡い金の縁取り。
昨日のものとどこか似ていて、それでいて少しだけ素朴な佇まい。
――これにしましょう。
小さな鍋を火にかけ、湯が静かに温まるのを待つ。
茶葉は、持たせてもらった中から軽めのものを選ぶ。
香りは控えめだが、雑味が少ない。
こういう茶葉は、日常に向いている。
湯気が立ちのぼり、カップの縁を曇らせる。
両手で包むと、じんわりとした温もりが伝わってきた。
カップの内側にだけ、淡い蔦の意匠があった。
口をつけるときに、ふと視界に入る程度のものだ。
——こういう控えめさは、嫌いじゃない。
一口含むと、喉の奥がゆっくりほどけていく。
「……悪くないわね」
自然と、そう呟いていた。
それから部屋に戻り、身支度を整える。
選んだのは、深みのある灰青色のドレス。
上質だが主張しすぎない生地で、動きやすさを重視した仕立てだ。
髪は軽くまとめ、飾りは小さな留め具ひとつだけ。
月と星を象った、ごく控えめな意匠だった。
特に華やかな予定はないけれど、
――やる事は沢山ある。
まずは、屋敷の今を知るところから始めましょう。
部屋を出ると、廊下には既に数名の使用人が集まっていた。
年配の侍女が一人、庭仕事を兼ねる男性が二人、
炊事を担っている女性が一人。
どの表情にも、拭いきれない緊張が浮かんでいる。
突然、公爵令嬢がここに来たのだから、無理もない。
「急に私が来て、戸惑わせてしまったわよね……」
そう口にすると、数人がはっとしたように姿勢を正した。
年配の侍女――エルーゼは、姉のグレーテによく似た穏やかな目で、静かに頷く。
庭仕事をしているらしい男たちは、土の匂いをまとったまま控えめに立ち、
炊事を担っている女性は、少し緊張した面持ちでこちらを見ていた。
けれど、それは怯えというよりも、どう接すればいいのかわからない、という戸惑いに近い。
私は小さく息を整え、一人一人に視線を向ける。
「今日は、少しだけ話をきかせてほしいの。
この屋敷のことや、皆が普段どんなふうに過ごしているのかを。
いつも通りで構わないわ」
すると、エルーゼが一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。
「かしこまりました。アンネリース様」
その視線が、ふと私の手元に向かう。
先ほどのカップだ。
「……それは、こちらの棚に残っていたものですね。
昔の当主が好んで使われていたとか…」
「そうなの?」
思わず微笑むと、エルーゼは少し驚いたように、
それから安心したように表情を和らげた。
「はい。ずっと使われていなかったのですが……
お気に召しましたか」
「ええ。とても」
それだけで、場の空気がほんの少し緩む。
――大丈夫そうね。
誰かを急かす必要はない。
責める理由もない。
ただ、整えていけばいい。
そう思いながら、私はもう一度カップを手に取った。
紅茶は、まだほんのりと温かく、
穏やかな香りが、ゆっくりと広がっていた。
登場人物
アンネリース・フォン・ローゼンヴァルト
18歳/ローゼンヴァルト公爵家令嬢
物静かで礼儀正しい佇まいだが、内面は年齢以上に落ち着いている。
一人の時間と紅茶をこよなく愛し、日常の段取りを整えることが得意。
婚約破棄という出来事にも過度に動じない、安定した自己肯定感の持ち主。
エルーゼ
年齢不詳・30代後半〜40代想定/ローゼンヴァルト家侍女
地方屋敷に仕える侍女。
アンネリースの実家で仕えていた侍女グレーテの妹。
落ち着いた物腰で、場の空気を和らげるタイプ。
主をよく観察し、必要以上に踏み込まない距離感を保てる有能な侍女。
マルガレーテ(愛称:グレーテ)
年齢非公開/ローゼンヴァルト家侍女
長年アンネリースに仕えてきた年配の女性。
穏やかで口数は少ないが、主の変化を誰よりもよく見ている。
言葉にせずとも通じ合う、深い信頼関係で結ばれている。本話は登場せず、エルーゼの姉として名前のみ。




