第11話|選ばなかった未来に、別れを告げて
本邸に戻ってから、数日が過ぎていた。
屋敷の生活は静かで、驚くほど整っている。
アンネリースは自室の窓辺に立ち、庭の木々が風に揺れるのを眺めていた。
心は穏やかで、波立つものは何もない。
――もう、振り返る理由がない。
それは決意ではなく、事実だった。
昼前、アンネリースが自室で窓辺に立っていると、グレーテが控えめに自室の扉をノックした。
「アンネリース様。少しよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
扉の外から差し出されたのは、一通の書状と、簡潔な口頭報告だった。
内容は、王宮内で静かに広まりつつある“噂”について。
幽閉された王太子クラウスは、正式に公の場から姿を消したこと。
婚約破棄に関する責任は彼自身に帰され、
今後、政治の表舞台に戻る可能性は極めて低いということ。
誰かが断罪したわけではない。
大きな裁きも、劇的な処遇もない。
ただ――彼の居場所が、自然と失われただけだった。
アンネリースは、話を遮ることなく最後まで聞き、静かに頷いた。
「そう……」
それ以上の言葉は出てこない。
怒りも、悲しみも、安堵すらもなかった。
胸の中にあるのは、淡い理解だけ。
――彼は、もう私の人生に関わらない。
それが、すべてだった。
グレーテは一歩下がり、様子を窺うように視線を向けたが、アンネリースの表情が変わらないのを見て、何も言わずに頭を下げた。
「知らせてくれて、ありがとう」
それは形式的な礼ではなく、心からの言葉だった。
グレーテが部屋を出たあと、アンネリースは机に向かい、しばらく何も書かれていない便箋を見つめる。
かつては、
「どう伝えるべきか」
「どう受け取られるか」
そんなことばかりを考えていた。
今は違う。
――書かない、という選択もある。
彼女は便箋をそっと引き出しにしまい、代わりに紅茶を淹れた。
香りが立ちのぼり、部屋の空気がゆるやかに満ちていく。
過去を清算した感覚はない。
ただ、もう“続き”が存在しないだけ。
それは拍子抜けするほど静かで、同時に、これ以上ないほど確かな終わりだった。
午後になり、庭を歩く。
兄が遠くから軽く手を挙げ、妹が笑顔で駆け寄ってくる。
誰も、噂の話をしない。
アンネリースも、話題にしない。
必要がないからだ。
夕刻、自室に戻ると、今度は一通の正式な書簡が届いていた。
差出人は、ヴァルディエール王国王宮。
封蝋は控えめで、威圧感はない。
内容は短い。
近く、本邸へ立ち寄る予定があること。
長居はしないこと。
都合が合えば、挨拶ができれば嬉しい――それだけ。
招請でも、要請でもない。
断る余地をきちんと残した文面。
アンネリースは読み終え、手紙を机に置いた。
心は静かだった。
高鳴りも、不安もない。
けれど、拒む理由も浮かばない。
「……不思議ね」
以前の自分なら、
期待に応えられるか、相手を失望させないか――
そんなことを先に考えていたはずなのに。
今、胸にあるのは、ただ一つ。
――会っても、会わなくても。
――私は、私のままでいられる。
その確信が、揺るがない。
夜、窓辺で紅茶を飲みながら、アンネリースは空を見上げた。
過去に別れを告げた実感はない。
けれど、もう振り返らないことだけは、はっきりしている。
選ばなかった未来は、静かに遠ざかっていく。
そして彼女の前には、
まだ名前を持たない、穏やかな時間が残されていた。
登場人物
アンネリース・フォン・ローゼンヴァルト
18歳/ローゼンヴァルト公爵家令嬢
王太子との婚約を一方的に解消された後、実家の領地で静養の日々を過ごし、現在は本邸に戻っている。
派手に目立つことはないが、物事を整え、人と人との間に無理のない距離を作ることに長けている。
自覚はないものの、周囲に安心と安定をもたらす存在。
紅茶を好み、香りや余韻を大切にする。
穏やかで控えめな佇まいの奥に、揺るがない芯を持ち、「選ばれる」よりも「自分で選ぶ」ことを、静かに大切にするようになった。
必要な線引きを、決して曖昧にはしない。
アレクシス・フォン・ヴァルディエール
ヴァルディエール王国の若き国王/28歳
即位して数年、年若いながらも政務は安定しており、「落ち着いた王」と評されている。
身長は高く、姿勢が良い。細身ながら鍛えられた体つきで、かつて騎士としての訓練を受けていたことが窺える。
淡いプラチナブロンドの髪と、澄んだ青灰色の瞳を持つ。
微笑みは控えめだが、ふとした瞬間に年相応の優しさが滲む。
理性と感情の均衡を重んじ、相手を縛らず、答えを急がせない距離感を自然に保つ人物。
静かに物事の本質を見極めようとする観察者でもある。
クラウス・フォン・ベルンシュタイン(元婚約者)
18歳/ベルンシュタイン王国第一王子
王族らしい自信家。両親の庇護のもとで育ち、喝采や舞台に慣れている。
伴侶には、自分を引き立てる存在を求める傾向があった。
王宮内の混乱や、周囲の歪みに対しては無自覚。
アンネリースの不在を知り、うまくいかないのは彼女がいないからだと思い込んでいる。
彼女が戻れば、かつての関係も当然のように戻ると信じていたが、その思いはすでに彼女の人生には影を落とさない。
マルガレーテ(愛称:グレーテ)
年齢非公開/ローゼンヴァルト家侍女
長年アンネリースに仕えてきた、落ち着いた物腰の女性。
穏やかで口数は少ないが、主の変化を誰よりも早く察する。
問いただすことも、答えを求めることもせず、必要なときに必要な距離で寄り添うことを心得ている。
言葉にせずとも通じ合う、深い信頼関係でアンネリースと結ばれている。




