第10話|贈られたのは、束縛ではなく
第10話|贈られたのは、束縛ではなく
静養の名目で領地に身を寄せていた日々を終え、アンネリースは本邸へと戻ってきていた。
朝の光が、静かにカーテンの隙間から差し込んでいる。
鳥の声が遠くで重なり、屋敷はいつもと変わらぬ穏やかさに包まれていた。
アンネリースはベッドを抜け出し、窓辺に立つ。
昨夜までの出来事が嘘のように、本邸の朝は何事もなかったかのように始まっている。
――いいえ。
何も起きていないのではない。
ただ、もう揺れる必要がなくなったのだ。
屋敷に迎え入れてくれた家族や使用人たちの表情が、ふと脳裏をよぎる。
誰も問いたださず、誰も詮索しない。
ただ、帰ってきたことそのものを受け入れてくれていた。
身支度を整え、廊下に出ると、使用人たちが静かに一礼する。
過剰な気遣いも、探るような視線もない。
それが、かえって胸に沁みた。
階段の踊り場で、グレーテが待っていた。
「おはようございます、アンネリース様」
「おはよう、グレーテ」
それだけのやり取りなのに、互いに十分だった。
グレーテは、何も尋ねない。
アンネリースも、説明しない。
それでも彼女は気づいている。
歩き方、呼吸の深さ、視線の揺れなさ――
主の内側に起きた“変化”を。
朝食の席には、家族が揃っていた。
父はいつも通り新聞に目を通し、母は紅茶の湯気越しにアンネリースを見て、柔らかく微笑む。
兄は騎士団の話題を簡潔に語り、妹は近く決まる縁談の話を、少しだけ照れながら口にした。
誰も、昨夜の宴には触れない。
誰も、選択を迫らない。
それが、この家族の答えだった。
食後、アンネリースは自室に戻り、ドアを閉める。
窓を少し開け、朝の空気を入れたあと、ゆっくりと紅茶の準備を始めた。
今日選んだのは、白茶。
花のように淡く、しかし芯のある香り。
お気に入りの磁器のティーカップに湯を注ぐと、湯気がふわりと立ちのぼり、部屋の空気がやわらぐ。
椅子に腰を下ろし、カップを両手で包む。
王太子クラウスの視線。
言葉にならなかった焦り。
そして――アレクシスの、押しつけることのない沈黙。
思い返しても、胸は乱れない。
恋かと問われれば、まだわからない。
未来を共にするかと問われても、答えは急がない。
ただ、ひとつだけ、確かなことがあった。
――あの人は、私を“所有しよう”としなかった。
紅茶を一口含む。
舌に残るのは、やさしい余韻…。
昼過ぎ、アンネリースが自室で紅茶を片づけていると、グレーテが控えめに自室の扉を叩いた。
「ヴァルディエール王国より、お手紙が届いております」
封を切る。丁寧な筆跡。
簡潔で、必要以上の言葉はない。
近況報告と、体調を気遣う一文。
そして、同封されていたのは茶葉と、小さな箱。
中に収められていたのは、手に馴染む形のティーカップ。
華美ではないが、飲み口は驚くほどやさしい。
――選ぶ時間も、拒む自由も、あなたのものです。
書かれてはいない言葉が、はっきりと伝わってくる。
アンネリースは、静かに息をついた。
「……そういう方なのね」
グレーテは何も言わず、ただ一歩下がって微笑んだ。
夕方、庭を歩く。
兄が遠くから手を振り、妹が駆け寄ってくる。
使用人たちの笑顔が、自然にそこにある。
ーー夜。
もう一度、紅茶を淹れる。
今日という一日を、心の中で静かに閉じながら。
アンネリースは窓辺に立ち、夜空を見上げた。
「選ぶのは、いつも私」
そう口にしても、孤独はない。
恐れもない。
紅茶の香りが、部屋に満ちる。
――今日も、紅茶が美味しい。
そして、これからの人生は、私のもの。
それで十分だと、彼女はもう知っていた。
その静けさこそが、彼女が選び取った自由だった。
登場人物
アンネリース・フォン・ローゼンヴァルト
18歳/ローゼンヴァルト公爵家令嬢
王太子との婚約を一方的に解消された後、実家の領地で静養の日々を過ごし、現在は本邸に戻っている。
派手に目立つことはないが、物事を整え、人と人との間に無理のない距離を作ることに長けている。
自覚はないものの、周囲に安心と安定をもたらす存在。
紅茶を好み、香りや余韻を大切にする。
穏やかで控えめな佇まいの奥に、揺るがない芯を持ち、
「選ばれる」よりも「自分で選ぶ」ことを、静かに大切にするようになった。
必要な線引きを、決して曖昧にはしない。
アレクシス・フォン・ヴァルディエール
ヴァルディエール王国の若き国王 28歳
即位して数年、年若いながらも政務は安定しており、「落ち着いた王」と評されている。
身長は高く、姿勢が良い。細身ながら鍛えられた体つきで、かつて騎士としての訓練を受けていたことが窺える。
淡いプラチナブロンドの髪と、澄んだ青灰色の瞳を持つ。
微笑みは控えめだが、ふとした瞬間に年相応の優しさが滲む。
理性と感情の均衡を重んじ、相手を縛らず、答えを急がせない距離感を自然に保つ人物。
静かに物事の本質を見極めようとする観察者でもある。
クラウス・フォン・ベルンシュタイン(元婚約者)
18歳/ベルンシュタイン王国第一王子
王族らしい自信家。両親の庇護のもとで育ち、喝采や舞台に慣れている。
伴侶には、自分を引き立てる存在を求める傾向があった。
王宮内の混乱や、周囲の歪みに対しては無自覚。
アンネリースの不在を知り、うまくいかないのは彼女がいないからだと思い込んでいる。
彼女が戻れば、かつての関係も当然のように戻ると信じているが、その思いは、もはや彼女の人生には影を落とさない。
マルガレーテ(愛称:グレーテ)
年齢非公開/ローゼンヴァルト家侍女
長年アンネリースに仕えてきた、落ち着いた物腰の女性。
穏やかで口数は少ないが、主の変化を誰よりも早く察する。
問いただすことも、答えを求めることもせず、必要なときに必要な距離で寄り添うことを心得ている。
言葉にせずとも通じ合う、深い信頼関係でアンネリースと結ばれている。




