第1話 天使、逃亡する
天界って、きらびやかで神聖で、誰もが憧れる場所だと思われているのでしょう?
はっきり言いましょう。超ブラック企業です。
私の名はセラフィエル。天界でも上位に位置する熾天使として、数千年にわたり世界の理を管理する仕事をしてきました。世界の均衡を保ち、魔物の発生を調整し、英雄の運命を導き、時には神の使いとして下界に降臨する——
聞こえはいいですよね?でも実態は違うんです。
「セラフィエル、北の大陸で魔王が復活しそうだからちょっと封印してきて。あ、今日中にね」
「セラフィエル、東の王国で疫病が流行りそうだから予防しといて。ついでに西の方の洪水も止めといて」
「セラフィエル、この書類千枚、明日までに処理よろしく」
休日?ありません。残業代?概念がありません。有給?「天使に休息は不要です」だそうです。
そして今日、ついに私は限界を迎えました。
「セラフィエル、次元の裂け目が七つ同時に開いたわ。全部塞いできてちょうだい」
大天使長ミカエラ様がにこやかにおっしゃいました。にこやかに。笑顔で無理難題を押し付けるタイプの上司です、最悪ですね。
「あの、ミカエラ様。次元の裂け目一つ塞ぐのに丸一日かかるんですけど……」
「あら、セラフィエルなら余裕でしょう?あなた上位天使なんだから」
「いえ、物理的に無理が……」
「じゃあ頑張って。報告書も忘れずにね♪」
ミカエラ様は優雅に去っていきました。残された私の手には、次元の裂け目の座標が書かれた資料の束。
私、震えました。怒りで?いいえ、違います。
悲しみで震えたんです。
「もう……やだ……」
涙が零れそうになりました。数千年生きてきて、初めて泣きそうになりました。
そして、決めたんです。
「逃げよう」
天界の最上層、管理塔の最上階。私は誰もいないのを確認してから、禁術の準備を始めました。
異世界転移。
本来、天使が許可なく下界に降りることは重罪です。ましてや、別の世界に逃げるなんて前代未聞。でももう知りません。追いかけてこられない場所に行くんです。
魔法陣が淡く光り始めます。転移先は……適当でいいや。とにかく、ミカエラ様たちが見つけられない、辺境の世界。
「せ、セラフィエル様!? 何をなさって——」
後輩の下級天使エルが部屋に飛び込んできました。やばい、見つかった。
「エル!見なかったことにして!」
「で、でも、それ禁術……!」
「お願い!私、もう限界なの!このままじゃ本当に壊れちゃう!」
エルの表情が曇ります。彼女も、天界の労働環境の厳しさは知っているのです。
「……分かりました。十分時間を稼ぎます。どうか、幸せになってください」
「エル……!ありがとう!あなたのこと、絶対忘れないから!」
魔法陣の光が最高潮に達しました。
「それと、セラフィエル様!」
「なに!?」
「下界では、その翼、隠した方がいいですよ!」
エルの言葉を最後に、私の体は光に包まれました。
次の瞬間——
「いったーーーい!」
私は地面に豪快に落下していました。お尻が痛い。転移の着地、完全に失敗しました。
「う、うぅ……やっちゃった……」
涙目で立ち上がると、そこは深い森の中でした。木漏れ日が優しく降り注ぎ、小鳥のさえずりが聞こえます。天界の冷たい白い床とは大違い。
「ここが……異世界……」
空気が違います。神聖な力で満ちた天界と違って、ここは自然の魔力がゆるやかに流れています。
「よし……ここからは、普通の女の子として生きるんだ……」
そう決意して、私は背中の六枚の光翼を消しました。天使の証である頭上の輪っかも消去。これで見た目は普通の……少女、ですね。
天界の堅苦しい天使服も、魔法で質素なワンピースに変えました。茶色のシンプルなデザイン。うん、一般人っぽい。
「これで完璧!誰も私が天使だなんて分からないはず!」
自分で自分を褒めながら、私は森を抜けることにしました。
とりあえず、人里を見つけて、のんびり暮らせる場所を探さないと。お金?ええと……天界のコインは使えないでしょうね。でも私、魔法が使えるし、何とかなるはず!
「よーし!新生活、頑張るぞー!」
両手を上げて気合を入れます。その瞬間、お腹が「ぐぅぅ~」と鳴りました。
「……あ」
天使って、実は食べなくても生きていけるんです。でも、食べることはできます。というか、食べると美味しいんです。でも天界には美味しいものなんてなくて、栄養補給用の淡白な食事しかなくて……
「そういえば、下界には美味しい食べ物がいっぱいあるって聞いたことある……!」
急に楽しみになってきました。
「パンとか!お肉とか!スイーツとか!」
想像しただけでよだれが出そうです。よし、とりあえず村を見つけて、美味しいものを食べよう。それから仕事を探して、小さな家を借りて……
「のんびりスローライフ、始めちゃうんだから!」
私、元上位天使セラフィエルは、こうして異世界でのんびり生活をスタートさせるこ
とにしたのでした。
……ただ、この時の私は、まだ知りませんでした。
「のんびり」することが、私にとってどれだけ難しいことなのかを。




