幼さ
幼さ
太陽、雨、大地。自然の恵み。
幼い彼女は祖母に連れられて森の中を歩いて行く。
「おばあちゃん、そこきれいなの」
「きれいだよ、とっても」
薄暗い森の中、落ち葉でおおわれた地面を、木漏れ日が点々と強く照らすのを見ながら彼女は歩いた。
「何があるの」
「レンゲだよ」
彼女は上を見る。木漏れ日の強い光が彼女の目をかすめる。彼女はそれをお日様のいたずらのように感じクスクス笑った。
「何がおかしいの?」
「だって。だっておかしいんだもん」
祖母も微笑んだ。孫のおかしさは祖母には幸福だった。
曲がりくねった下り坂を進み、ごく細い流れの小川を越えた。そして少し急な上り坂を祖母は歩いていく。彼女は祖母について行けず後を追う。先に坂の上についた祖母は孫を呼んだ。
「ともちゃん、ついたよ」
彼女が坂を上りきると森は一望に開け、田んぼが連なる。田んぼには一面にレンゲが咲いていた。彼女は喜びに満ちて駆けて行き、田んぼに咲くレンゲの花の海に身を沈めた。
レンゲの花の海で泳ぐ彼女の目に強い日光が差し込む。彼女は、目を閉じまぶたに流れる血液で真っ赤に見える視界を楽しみ、そして視線をレンゲの海の中に移し目を閉じたまま暗闇を見つめた。暗闇の中で黒く輝く残像の太陽。彼女はしばらくそれを楽しんだ。光の対比を楽しんだ。この楽しさは。恵み。だが幼い彼女にはそれを表現する言葉が無かった。
「ともちゃん」祖母の声がした。
レンゲをかき分けて祖母の下へ彼女は駆けていった。
「そら、できたよ」
祖母は彼女の首にレンゲの首飾りをかけて、レンゲの花束を渡した。
「おばあちゃん、ここはレンゲ畑なの」
「ここは田んぼだよ。春になったら稲を植えるのよ。レンゲのお花がその前にお祭りをしているのよ」
「ふうん。じゃあレンゲ畑になるのはまた来年か」
彼女は遠い来年を思い浮かべ、その前に始まる田植えの行事を見たいなと思った。レンゲのお祭りがこれほど華やかなら、田植えの行事も華やかで美しいものだろうなと思った。
だが、彼女には残念なことに田植えの行事の前に両親につれられて都会の家へ帰ってしまった。
*
田植えの行事は彼女の想像とは全く異なるものだった。油のにおいの中を耕運機と田植え機が行きかい、石油の米を作っていた。
そして来年もそれ以降の春も、ついに彼女はレンゲ畑には来なかった。もう他に楽しいことを見つけてしまったのだ。幼い子が成長するということはそういうことだ。
祖母が亡くなった時、彼女は再び祖母の下を訪れた。もうレンゲ畑も、田植えの行事もなかった。それらはブルドーザーで無残に剥ぎ取られてしまった後だった。彼女は祖母の仏前で手を合わせ目を閉じた。まぶたの中には遠い日のレンゲ畑が浮かびあがる。彼女にはそれ以上の感慨は無い。
彼女は母と一緒にかつての田んぼが一望できる丘に上がった。
「ここにも家がたくさん建つのかしら」
「そうよ、一戸立てや団地が立ち並ぶわ」
「ここだと通勤、通学に少し時間がかかるわね」
「今はね。そのうち鉄道も通って便利になるわよ」
彼女は茶色い肌をさらした広大な地面の上に美しい町並みを想像した。
*
彼女は両親と共に祖母の法要の為に再び仏前へ行く。父の運転する車はかつての田園、今は街路樹が並ぶ目新しい舗装道路の上を滑らかに進む。
「母さんあれはどの辺りだったかしら」
「ともみのレンゲ畑? さあね。母さんももう何処が何処だかさっぱり分からないわ」
彼女は再び祖母の仏前で手を合わす。まぶたの中には新しくできた町並みの想像が浮かぶ。
「母さん。新しいお家を見に行かない?」
「そうね。あとで行きましょう」
彼女と母はまだ居住者がいない無人の街を歩く。車道、歩道、公園、学校、役場、街は無人のまま希望を蓄えていた。彼女はそれを美しいと思った。ここが人で満たされるより、この希望の世界のまま保っておく方が彼女にとっては美しいと思った。この美しい街も自分が今住んでいる都会と同じように油と手垢にまみれてしまうのか。そう思うと物悲しくなった。
「人はいつ頃入るのかしら」
「半年後位には街らしくなるんじゃないかしら。いいわねこんな空気のおいしい所で暮らせる人は」
だが、彼女はこのおとぎの世界を汚すより、他の事をしたかった。自分の生まれ育った小汚い都会より、もっと光り輝く清楚な大きな街があるだろう。自分が将来そこでおとぎ話を演ずることを望んだ。
*
人は得るためにどんどん失う。失うものより、得るものを喜ぶ。私達は幼い。新しく得るものに目を輝かせ駆けて行くほど幼い。私達はレンゲ畑を剥ぎ取って、その上に快適な住居を立てることを楽しむ。それが成長するということなのだ。いつしかその住居も廃墟となろう。私達が何かを望んだ結果として。
幼い私達への庇護。それはいつまで続くものだろうか。
太陽、雨、大地。そして自然の恵み。