退院日からの彼女
「うーん、5万円台がいいですけど、女性だと厳しいですかね?」
私は病院から駅に向かうバスの中で予約できた、駅前の不動産屋にいた。
「うーん、と… 通学ならこの沿線も視野に入れていただくといいかなと思いますね。防犯とか、譲れない条件もありますしね」
「ありがとうございます。いったんどんな感じの物件あるか見ていいです?」
私は最初に決めた通り、彼の前から消えることにした。
借金してでも引っ越すつもりで物件を探しに来たものの、ゼロゼロ物件が意外と多いことが分かったのは良かった。
病院から、真っ直ぐ大学近くの不動産屋に行くと、不動産屋さんが親身になって色々な物件を見せてくれた。
何件か物件情報をもらって、部屋を二つ見せてもらった後、お店に戻って入居審査の話をされた。
まぁ親御さんが普通にお仕事されてるなら、大丈夫だと思いますよ、不動産屋さんは普通のことみたいに言った。
(審査か…)
親に確認しておきます、とだけ言って今日は帰ることにした。
「はぁ」
大学近くのネットカフェでバイト情報を探そうと思っていたものの、ブースに着いて一度座ったら、急に眠気がやってきた。
(疲れた…)
いや、クタクタに疲れるまで、今日は動いていたかった。
他のことを考えないで済むように。
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「よし」
電車賃に困っていないうちに、一度お兄ちゃんと住んでいた部屋に行くことにした。
(バイトの面接に着ていく服も欲しいし!)
それなのに、いざマンションの前に来ると、胸がドキドキしてそこに居られないくらいになった。
今までよりも、お兄ちゃんがいるかもしれない場所に行くのが怖くなっていた。
大学も同じで、食堂や図書館を避けてコソコソと授業だけ受けて帰る日が続いていた。
今日も泊まりに行けるような友達のいない私が行ける所として思い付いたのは、ネットカフェだけだった。
とはいえ三日目ともなればシャワーや洗濯も慣れたもので、だいぶ使いこなせるようになっていた。
個室ブースのPCで授業を受けられたのは良かったけど、授業が終わった瞬間、うっかり彼のことを考えてしまった。
(そういえば冷蔵庫に入れたケーキ、食べてくれたかな。気持ち悪かったかな…)
(あっ)
しまった。
ついに思い出してしまった。
浮かれていたせいか早く起きちゃったこと、持て余した時間で彼の部屋を掃除して、いつものように病院に行ったこと。
その後のこと。
最初から分かっていたのに、お兄ちゃんの言うことを聞かなかったからこんなことになったんだ。
(あの時お兄ちゃんに言われたことを無視したから…)
あの日は本当に怖かった。もし家に帰ったら、殺されていたかもしれない。
お兄ちゃんはカイト先輩のことになると、本当に私を殺してしまうかもしれない。
(それなのに言うことを聞かなかったから… やっぱりもう帰れない、絶対どこか見つけなきゃ…)
そのために審査をどうするか。
いい案が浮かばずにため息をついて、ブースの中で寝転んで天井を見た。
「っ!」
私は思わず飛び起きた。
ブースの仕切り板から、中を覗いている人がいた。
目が合うとその人はスッといなくなった。すぐに鍵がかかっているのを確認した。スマホを握り締めながらしばらく様子を窺ったけど、何も起きなかった。
でも、これ以上ここに居るのが怖くて、せっかくパック料金でとったブースだったけど、出ることにした。
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(どこに行こう…)
いや、他の店に行けばいいんだろうけど。そろそろ終電も近い、混む前に入らないと。
頭では分かっているのに、身体は大学駅前のチェーン店で、百円のコーヒーを片手に座ったまま動けない。
まずい。
(不安で…潰れそう)
このままだといずれ彼に会いに行ってしまう気がした。
あの優しい眼差しで、また見てもらえたら。
(理性があるうちに鍵を返そう)
善は急げと、私は終電間近の電車に乗って彼の部屋がある駅へ向かった。
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コトッ
(よし。ここなら外から取り出せないよね)
集合ポストに鍵を入れるのに何となく抵抗があって、迷った結果、彼の部屋にあるポストに入れて逃げ帰ってきた。
オートロックになる前の名残りで誰も使わないみたいだったから、不気味に思ったかもしれない。
(大丈夫だったかな)
彼のマンションを出て、早足で少し歩いてから振り返った。
(まぁ、でも、もう会わないし、よしとしよう)
大学内で会うかもしれないのは許してほしいけど、もうかぶっている授業もないし大丈夫。
(鍵も返したし、これで私が今死んでも誰も困らないな)
鍵ひとつ返してこんな気分になるなんて、自分が思っていた以上に鍵のことを意識していたことに気付いて苦笑した。
駅に行こうかと思ったところで、何で駅に行かなきゃいけないんだっけ? と、足が止まってしまった。
どこにも行きたいところが無くなってしまった。
(寒くなってきた)
突っ立っていても仕方ないので、大学に向かって歩き始めた。
もちろん大学の門はもう閉まっていた。
私は大学の正門から、駅に向かう道を歩いた。
(よく一緒に帰った道)
思い出だけでも、未練がましく触れていたかった。
そうしないと本当にどこへも行けなくなる気がした。
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私と駅で別れてから、一人歩いて自分の部屋に帰る、彼の優しさが嬉しかった。
私は彼と一緒ならどこでも良かったし、彼は私とどこにも行きたくなかったし、ちょうど良かった。
(こんなに遠かったんだ)
一番の最寄り駅ではないからか、しばらく歩いても駅前の賑わいは遠かった。
「はぁ」
いつも、あっという間の気がしてた。
疲れたとか、のどが渇いたとか、無理に寄り道して。
彼はいつも迷惑そうだった。
(でも、いつも駅まで歩いてくれたし、あそこでジュースを買ってくれた…)
「…あ」
(自販機、無いや)
ブランコもすべり台も無い小さな公園の横にある、謎ブランドの百円自販機が撤去されていた。
「寒い…」
人通りの無い深夜の路上なので、ひとり言を我慢することもなかった。
(バカか。笑える。私、自販機が無いだけで泣いてんの?)
だからって往来で泣くのは嫌だった。
(泣くな!)
(歩け!)
(働け!)
ってクビになったんだ…
「あ」
(そういえば昔、派遣の登録したな…)
ふと思い立った私は、公園前にあるバス停の錆びたパイプ椅子に腰掛けて、スマホの電源を入れた。
古いメールを漁り、単発の仕事を予約した頃にはもう涙も止まっていた。
「おしっ」
ネカフェ行ってシャワー浴びてコーンスープ飲もう。
完全個室のネットカフェが近くにあるかも検索してみようかな。高いかな…
だから、ここから駅までもう少しだけ。
彼と歩いた場所を歩いて、せめて幸せな気持ちに触れたかった。
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「三守さん?」
彼女は思い出しながら歩きをしていたところに名前を呼ばれ、思わず振り返った。
そして、すぐに後悔した。
「待って!」
逃げようと走ったが、無駄な抵抗だった。
(け、怪我人相手なのに撒けなかった…!)
彼女はたった三日で姿を現してしまった自分の迂闊さを呪った。
「ごめんなさい、鍵を返しに来ただけで、二度と来ないから!」
「え?」
「だから、ごめんなさい! 許してください…」
彼は彼女から身体を離して周りを見た。深夜とはいえ、往来でのやり取りにしては目立ち過ぎたようだ。
「ひとまず、来て」
「でも」
「いいから」
彼女は周囲のざわつきに気付き、頷いた。
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(ずっと外にいたのか…?)
彼女の顔面がいつもよりずっと青白かったことが、彼は気になった。
二人はお互い黙ったまま、彼の部屋に到着した。
「入って」
ここまで彼に手を引かれて大人しく歩いてきた彼女は、ここで迷う素振りを見せたが、やがて黙って頷いた。
「お邪魔します」
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殺風景な部屋の、小さな折り畳みテーブルで彼女と対面して、さて何から話せばいいのか。
彼は正解を探していた。
結果、彼は知っていることを順番に話すしかできなかった。
「退院の日、あいつと話してるの聞こえてさ」
「うん」
彼女は俯いて、無表情なまま小さく相槌を打った。
「俺、二人が付き合ってんのかと思って、でも兄妹だって後から知って、勘違いで傷付けてごめん」
「え…? あ、いや、謝らないで、何も悪くないんだから」
彼女は驚きながらも彼の言葉にいつもの調子で返した。
彼は、今ならどんな内容でもしっかり受け止められる気がした。
「本当のこと、全部教えてくれる?」
「…うん。まず、私たちが付き合ってたのは本当。でも、カイト先輩が望んでた訳じゃなくて、私が」
そこから、彼女は彼と付き合い始めた経緯を語った。
試験会場で彼のカンニングを見たこと、それをネタに、兄の前で恋人として振る舞って欲しいと言ったこと。
その後も恋人として何か月か過ごしたこと。
「…ごめんなさい。最低なことをして」
彼女はぎゅっと目を瞑った。俺が怒り出して責める言葉を与えるのを待つようだった。
だが、彼女にそんなことをしたい気になるはずもなかった。
むしろ、今にも壊れそうな彼女に触れたくて胸が痛かった。
「謝らないで。そもそも俺がカンニングしてたって話だよね? 全然最低じゃん」
彼女も痛みを堪えるような顔で、首を振った。
「今思うと、あれはそんなんじゃなかったかも知れない。だって、いきなり袖から出してたもん。普通こそこそ見るよね? なのに、私は…私…」
それは、今はもう彼にも分からないことだった。
(彼女の話は嘘じゃないと思う。思うけど、どうだろう。カンニングだなんだって、現場をおさえた訳じゃないなら、従う必要無くないか? 変な話)
それに記憶が無いからと言って、今の彼は彼女に悪感情を抱いてないどころか、盗み聞きからくだらない暴走をするくらいは過剰に意識していた。
「分かった。話してくれて、…ありがとう」
彼女の肩に手を乗せた瞬間、びくりと彼女が大きく震えた。
こんなに近くで見つめ合っても、だからと言って記憶は戻らなかった。
怒りもわかず、彼はただ苦しいくらい彼女を抱きしめたくて困った。
「ねぇ、俺のこと好きなのは、本当?」
彼女は震えながら大きく目を開いた。
それから無言で頷いた。
彼は彼女を抱きしめていた。
「俺も好き。本当に」
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「明日仕事なんでしょ?」
「うん…」
彼女は彼の肩に額を寄せたまま答えた。
「じゃ早く寝よう。何時起き?」
「えっと、電車見るね… …九時」
「よし、風呂は朝? 夜派?」
「夜派…でも」
「はい、入ってきて。着替えとか買ってくる?」
「あ、ううん、あるから…リュックの中に」
彼がシャワーを終えて出てくると、彼女はテーブルに伏して寝てしまっていた。
先程より顔色が良くなっている様子に、彼はホッと息を吐いた。
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(良かった、アラーム前に起きれた。あれ? あれからすぐ寝たんだっけ?)
正確にはベッドで寝ろ、床で寝るといった類の攻防はあったが。
彼女は伸びをして布団から出た。
(何だか、久々にちゃんと横になって寝た気がする)
彼を起こさないように静かに身支度をして、天気でも見ようとスマホを開いた。
「あれ?」
(バイト先って履歴が増えてる… 電話きてたんだ…)
彼女は歯磨きをしながらSMSを見てみた。
『大丈夫? 店長です 急に辞めたって聞いてたけど、リーダーが勝手にクビにしたって聞いた。すぐ気付いてあげられなくてごめんなさい。できたら連絡ください』
(店長…)
彼女が後で電話しようとリマインダーをセットした。
この後に行く予定の仕事内容を確認していると、彼の身じろぐ音がした。
「んん… おはよ…」
「ごめん、起こしちゃった?」
うっかり彼がいることを忘れかけていた彼女は、つい部屋の主人に驚いてしまった。
「あぁ、全然。もう出る?」
「あ、うん、そろそろ出ようかなって。あの、泊めてくれて、ありがとう…」
寝起きの彼に慣れず、彼女はつい緊張しながら答えた。
「ん? あぁいや、全然。とりあえず、仕事のあとはまた帰って来て」
「いや、でも…」
「お願い」
「…うん」
彼の希望を断ることが彼女にできるはずもなく、昨日返した鍵を手渡されて、彼女は単発で入れた仕事に向かった。
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「は~~~」
久々の労働に、彼女は疲れと、一日を終えた達成感とともに帰りの電車を待っていた。
加えて、以前のバイト先に戻れるようになったことも、彼女の気持ちを軽くしていた。
(店長、気にしてくれてたんだ… 無断欠勤しちゃったのに…)
彼女は店長へ電話して、改めて謝罪と、欠勤の理由を説明した。
「やだ! 彼氏が事故で!? それじゃ仕方ないわよ、退院できてよかったわね~」
変わらない店長の優しい言葉に、彼女は胸が詰まって涙をこらえた。
その後、バイトリーダーが抜けたばかりで人手不足と聞き、早速明日からシフトに入ることになった。
今日、帰る場所がある。
明日も仕事がある。何よりも、
(また、カイト先輩に会える)
全ての問題が解決した訳ではなかったが、彼女は今、幸せだった。
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「お帰り」
「---た、だいま」
一応、共用玄関で一度インターフォンを鳴らしてから部屋に向かったところ、部屋の扉を開けて彼が彼女を出迎えた。
(し、心臓が止まるかと思った… 良い意味で)
彼の表情を見る限り、今日も記憶は戻っていないようだった。
いつのまにか俺呼びになっていたように、ある日ふと戻っているのかもしれないと三守は思った。
(今度こそ私を好きじゃなかったって思い出すまで、そばにいよう)
「カイト君」
準備しておいた夕食を広げている彼に、彼女は声をかけた。
「ん?」
彼は軽く顔を上げて応えた。
「大好き」
彼女は今、言えるうちに、彼に気持ちを伝えておきたかった。
「ねぇ、言った後で照れないでよ」
彼は照れながら笑った。そして彼女を抱き寄せて、腕の中に収まるガチガチの彼女に囁いた。
「好きだよ」
ここまで読んでいただいた方、もしいたら、心から感謝申し上げます。
一か月で完結させるぜ!と思ってた話が、最終話までの数話は書けたものの間が埋まらず、PCに向かっても無駄に話が長くなるだけで物語が進まない状態になりました。趣味だから好きにしろよ、と我ながら思いつつ、わずかでもブクマしてくれる方がいるのでチャキっと話を進めたい!進まない!Youtubeが面白い!
で、一回短い話を書いてみたくて始めました。立花お前は完結させられる、やればできる子なんだよ本当は、って自己暗示をかけたくて、あと砂吐きそうな甘い話を書いてみたくて。好きだよ…うひゃっ
一日で書き上げようと思ったはずが、五日位かかった気がします。うち二日はWBC見たり打順考えたり忙しかったので…
これより先は完全にTLになったので、一回終わりにしました。だからといってTLが悪いとかではなく、むしろ私はTLが大好きで、五日のうち二日は漫画アプリ巡回で忙しくしていたくらいです。今日はBLが別のページにまとまってあるのを見つけて、ちょっとそれを読んでて忙しくて…
書きたかったのは、まじで記憶失っちゃったらどうなっちゃうのかなって話と、記憶が戻らなくても幸せになる二人なので、一旦これで満足です。ではまた!万が一TLニーズが発生したら書きますが、変態が書くTLなんて本当見てられないですよ。