文明の利器
「うん、来週にはまた来るって。その時スマホを持ってくるって言ってた」
「おぉー文明の利器! 友だちからの連絡も来てるかもだし、履歴とか見たら関係性も分かっていいかもね」
今日も白湯を飲む彼と、キスしたことなど無かったかのように振る舞おうとしている彼女の世間話が続いていた。
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病院からの帰り道、彼女は沈んでいた。
(きっとお兄ちゃんも来るだろうな… 友達だし)
会話中は考えないようにしていたが、いつ兄が来るかと想像するだけで怖かった。
(でも、いいことなんだから。それに)
彼女は伯父から、退院の日が早まるかも知れないと聞いていた。
(記憶が戻るまでは、来るなって言われるまでそばにいる!)
そして、いつ彼の記憶が戻っても良いようにと、気分転換がてら彼の部屋を掃除して眠った。
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彼女はいつも通り病室の扉を開けた。
瞬間、呼吸が止まった。
「あっ、ごめん三守さん、友達が来たとこなんだ」
彼はいつも通りの笑顔で彼女を迎え、傍にはにこやかな表情でこちらを向いた兄がいた。
思考が停止したまま、入口で黙っている彼女を不思議そうに見ながら、彼は兄に尋ねた。
「どうしたの?入ってきて、いいよね?」
「もちろん。カイトの彼女でしょ? 俺も知ってるよ。同じ大学の一個下だよね」
「…うん、そう。あの、私、帰るね。せっかく二人会えたんだし」
彼女は普通の会話ができるよう努力したが、不自然さは隠せなかった。
心臓はおかしくなりそうなほど鼓動を早め、意識しても、いや、するほど息が速くなり、目がチカチカし始めた。
「あぁ、いや待って、せっかく来たんだし、一緒に話さない?」
兄が爽やかな表情に優しい口調で、彼女に近づいて来た時、彼女は反射的に病室を飛び出した。
「三守さん!?」
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エレベーターのボタンを押した瞬間、兄にその手を掴まれた。
「ひっ!」
「待てって言ったよな」
兄は冷たい瞳で彼女を見下ろした。彼女は反射的に呟いた。
「ご、ごめんなさい」
「ごめんなさい? 何に対して?」
優しい笑顔に穏やかな声で、兄は彼女に答えを促した。
「あの、待てって言われたのに」
「馬鹿なの? それじゃないよね?」
兄は彼女の言葉を遮って、彼女の耳に顔を寄せて囁いた。
到着したエレベーターに二人が乗ると、ドアが閉まり下へ向かった。
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「…あれ、帰っちゃった?」
病室で待っていた彼は、申し訳なさそうな表情で戻ってきた兄を出迎えた。
「うん、ごめんね? 俺が急に来ちゃったせいで。追いついて話せたんだけど、あんなに怒ると思わなくて…」
「えっ怒ってた!? マジで? 何でだろ…」
彼の前で彼女が怒ったことなんて無かった。彼は信じられないとばかりに表情を曇らせた。
「あっいや、邪魔するなとか、何とか… でも俺が悪いから、お前のせいじゃないよ。今度会ったら謝っとくし、気にしないで」
「いや、悪くないだろ。彼女とも何時にって約束してた訳じゃないから。ユタカこそ気にしないで」
こちらが申し訳なるくらい恐縮した兄の様子に、彼は申し訳なく感じた。
それから彼は努めて明るい声を出して、他愛もない話を始めた。
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いつもより控えめなノックだったけど、予想通り、彼女が肩を丸めてそっと入ってきた。
「あの… 昨日は急に帰って、ごめんね?」
彼女はなかなかこっちに来ないで、入り口の近くに立って気まずそうにしていた。
明らかに元気が無い様子で、何で急に帰ったの? とは聞けなかった。
「いや、うーん… あいつと面識あるんだよね。あいつのこと嫌いなの?」
「嫌…うーん… えぇと、苦手、かな… ごめんね、友達なのに」
僕に気を遣いながらも、はっきり否定の言葉を口にしたのは意外だった。
(そういう所はあいつの方が大人だな)
「いや、好き嫌いは、しょうがないよ。でもさ、あんな急に帰るのは良くないんじゃない?」
「ごめんなさい…」
(そんな反応してほしい訳じゃないのに)
彼女が来るといつもあんなに楽しかったのに、見たくない一面を見てしまった気がした。
「もう、来ない方がいい、かな?」
彼女は立ったまま、こっちを見ないで呟いた。急な言葉に、思わず声が大きくなった。
「何でそうなるの? もう来たくなくなった?」
彼女は、強く首を横に振った。
「そんな訳ないよ。毎日、会えるだけで嬉しいよ」
そう言って、やっと僕の方を見た。
さっきまでの気持ちが嘘みたいに、嬉しくて胸がぎゅっとなった。
「…僕も、会えるのが楽しみだから。来ないなんて言わないでよ」
「…うん。ごめんね」
それから、いつも通り二人で話していたら、おじさんが来た。
「あれ? 明日じゃなかったの?」
「うん、前乗りすることになってね、ちょっと寄ったんだ。来週は来られないかもしれないけど、まぁ問題ないだろう。何かあったら連絡してくれ」
おじさんは仕事帰りらしく、僕にスマホだけ渡すとさっさと出て行ってしまった。
「おぉ… 一生見れるわ、スマホ」
あまりスマホを使っていた記憶が無かったから、そんな不便という感じは無かったけど、手にしてみると手放せなくなるのも仕方ないくらい便利だった。
「ついでだから」とおじさんが三守さんを車で送るからって一緒に帰っちゃって、多少の寂しさを感じてたけど、これでちょっと紛れそう。
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それからは、彼女が来る時間を事前に教えてもらって、誰かが来たときは彼女に連絡するようにした。
僕は僕で、友達と話せるようになったりスマホで連絡できるようになったり、できることが増えて楽しいし、彼女もあの時の様子が嘘みたいに、いつも通り会いに来てくれた。
ただ、三守さんとのトーク履歴が無かったのは、ちょっと残念だった。彼女は気にしてないみたいだったけど。
「あまり連絡とりあう方じゃなかったし、広告とかと間違えて消しちゃったんじゃないかな」
「そうかな… でも、なんかぶっきらぼうな単語ばっかの連絡してそう」
そう言うと彼女は笑った。多分正解だ。