それぞれの就寝前
あんなに怒っているお兄ちゃんに、何をされるか分からなくて怖かった。
実家からは今の大学に通えないし、私が戻る場所があそこしか無いのは分かっていたけど、とにかく逃れたくて電車に乗った私は、犬飼先輩が一人暮らししている部屋の前に来た。
「……」
鍵は持っていた。でも、絶対に無断で来るなとも言われていたから、一度しか来たことが無かった。
(こんなことになってるなら、もっと早く来れば… いや)
そこで、彼と最後に話したときのことを思い出した。
「お前と会う前からやり直したい」
「最初から最悪だった」
「二度と連絡してくるな。俺が言うまでは」
前のことなのに、まだ昨日言われたことのようだった。
(だめだ。帰ろう…)
引き返して下りのエレベーターを待っていると、彼の部屋が開いた。
「カイト先輩の伯父さん!」
「あぁ、また会ったね。来るつもりだったのならこっちに送れば良かったかな」
ほぼ初対面なのに、伯父さんの顔をみると何故か泣きそうになった。
「いえ、あの…やっぱり帰るので大丈夫です」
「ここまで来たのにかい? 用事がある訳じゃないんだろう?」
「う、はい」
「もう遅いし、私はホテルに帰るところだから、ここで過ごすのがいいんじゃないか?」
「う、はい、でも…」
「そうだ実は、着替えを持って行く必要があるんだが、こういうのは苦手でね。もし予定が無いのなら、今週どこかで持ってってやってくれないか?」
「あ… はい、わかりました。私で良ければ」
「うん、悪いね。ありがとう。それじゃあ、今日はお疲れ様。お休み」
伯父さんは話を終わらせ、私が呼んだエレベーターに乗って帰っていった。一緒に乗る訳にもいかず、私は彼の部屋に入った。
付き合って数か月、ほとんど来たことは無いが、何もないワンルームにはそれでも彼のいた跡があった。
我慢する理由も無く、涙が溢れては流れ落ちた。
「事故って…熱って…」
やっと病室に移れたって、どれだけひどい状態だったんだろう。
嫌われても、事故は防げなくても、会いに行くべきだったんじゃないか。
今も、記憶が戻らなくて不安な顔をしているのだろうか。
「神様…」
命に別状が無かったことを喜ぶべきなのか、記憶を失ったことを嘆くべきなのか、自分の感情も分からないまま、私は泣き疲れて眠った。
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おじさん以外に初めて会った。
僕の奥さんかも知れない人。
見覚えは無かったなぁ。
前に知ってる人だと思った人はテレビの人で、記憶が戻ったと思ったら古いドラマの話だったから、見覚えがあっても意味が無かったろうけど。
記憶については無理にどうこうできることでもないし、今は脳が頑張ってるから、僕は身体を回復させて、ひとまずエレベーターホールまで歩くことを目標にした。
もし奥さんなんだったら、一緒にリハビリ付き合ってくれるかなと思ったけど、まだ奥さんじゃないそうだった。まだとは。
まぁ奥さんだったら、目が覚めたときに話しかけてくるのは、おじさんじゃなくて奥さんだよね。
奥さんかも知れないからって最初に電話したとき、すぐ行くって急いで来てくれたんだって。
嬉しいけど、こっちは何も覚えてないから申し訳ない気がする。
でも、僕が覚えてないからってがっかりした感じも無かった。
呼んでくれたら、いつでも会いに来ますよ、だって。きっと仲良かったんだな。嫁って登録するくらいだし。
ここまで、治療がんばったんですね。って。優しい子だった。
そう! とにかく痛いし寒いし大変だった。何も分からないし、辛くて怖くておかしくなりそうだった。
看護師さんの話し声とか、電話の音とか、食器の音とか、そういうので何とか気を紛らわしてたもんだ。もう戻りたくない…
僕の彼女は、みもりさんだって。覚えたけど、「三守←ミモリさん」って一応メモしておいた。
大学くらいから覚えてないから、そこで会ったんだろうなぁ。
第一志望の大学らしいし、彼女も優しい子だし、自分がどんな生活してたのか知りたくなってきた。
明日も来るかなぁ…