六の炎
六の炎
ビルのシャッターには、一本の真っ直ぐな並木道が描かれていた。
並木道の両サイドの木は左右対称に植樹されていて、右側の満開の桜はそよ吹く 風とともに花びらが舞い散り、左側は紅葉でハラハラと舞い降りた真紅の葉が一本の見事な赤絨毯の道を作り出していた。
赤絨毯の道の上部は、大きく伸びた枝葉が折り重って見事なトンネルを作り上げ、桜の花びらと紅葉の葉がハラハラと交差しながら舞い散る中を、男女混合の4人のグループが横一線となって颯爽と、こちらに向かって進んでいた。
4人が近づくに連れて人物の輪郭が鮮明となり、女性が2名、男性が2名の計4名のグループだと判るようになってきた。
政岡が妹の純子に言った言葉に嘘は無かった。グループの中に丈二はいた。
グループの右端を歩く丈二の風貌はガラリと一変していて、凛々(りり)し
さだけでなく驚くほどに逞しさと精悍さを増していた。
丈二の髪型は以前よりもグンと伸びて野性的な長髪となり、過去の面影は すっかり消えて無くなり、凄みさえ覚えるほどになっていた。
丈二の変化は風貌だけでは収まらず、全身が茄子色をした濃紺一色に統一されていて、上下のスーツだけでなく靴も、両手の手首と甲に装着されている手甲バンドも、風に棚引く前開きのトレンチコートさえも統一され、色彩の違いと言えば、ジャケットの下に見えるネクタイだけが真っ赤に燃える炎の色であった。
丈二の横には派手なチャイナ服を着こなし、見るからに妖艶さを漂わせている美魔女的な女性が歩いていた。
女性の名前は「エバ」で、エバは長髪を後ろで一つに綺麗に纏め上げてピン止めして、黒地のチャイナ服の胸元近くには、真っ赤な薔薇と大きく吠える虎の刺繍がされていた。
エバの横を「阿羅々」(アララ)という名の若い女性が並んで歩いていた。
アララはボーイッシュなヘア・スタイルで、首には真っ赤なスカーフを巻き、ほころびを見せた短パンのジーンズと、派手な豹柄模様で丈の短いノースリーブの革ジャン姿であった。
外人のように長く伸びたアララの肢体には、ピタリとフィットしたロングブーツがマッチしていて、ブーツの上部の外側に赤くて小さな二つのボンボンがポイントアクセサリーとして取り付けられてあった。
短パンと丈の短い革ジャンは腰の括れを強調し、豊満な胸の谷間も しっかりと見え、短パンから肌を見せている太腿は、はち切れんばかりで 若さを象徴し、スタイル抜群のアララは女性が見ても羨むほどの見事なボディの持ち主だった。
若くて可愛いアララの横を、三十代半ばの男が歩いていた。
男の正式名は西獄龍だが、グループ内では「リュウ」と呼ばれている男だった。
短髪のリュウは上下を白のネイビースーツで纏め、ジレの下のワイシャツは 淡いブルーで、ネクタイは少し赤みを帯びたピンクを着用し、ワイシャツの上から でも鍛え上げられた大胸筋がハッキリと判るほどのムキムキのマッスルであった。
この時、丈二は仲間たちから「快炎鬼」と呼ばれる男になっていた。
快炎鬼は突然、足を止めた。
エバが怪訝顔で快炎鬼に訊ねた。
「どうしたのよ。急に立ち止まったりなんかして?……」
快炎鬼は遠くを見ながら、感慨深げにエバに答えた。
「……思えば近くまで来たものだ」
「そうよねぇ」
「もう目の前だものねぇ。快炎鬼の念願だった現世は……」
リュウが二人を急かした。
「感傷に耽ってねぇで、早く前に進もうぜ」
アララがリュウに言った。
「いいじゃないの」
「ここまで来たんだから、少しは余裕を持って立ち止まっても……」
「うるせーッ!」
「物言えば何でもかんでも反対しやがって、天邪鬼の娘だからと言って図に乗ってんじゃねーぞ!」
アララは負けずに言い返した。
「図に乗ってンのはどっちの方よ!」
「な、なんだとォ?」
「図に乗ってんのはリュウの方じゃないの!」
「裏鬼門を一手に束ねているからと言って、大きな顔して「羅獄殿」を延し歩いてんじゃないわよ!」
「も、もう一度、言ってみろ!」
「ああ、言ってやるわ!」
「一度と言わず、二度でも三度でも!」
快炎鬼は二人を怒った。
「いい加減にしろッ!」
「俺が立ち止まっただけで、何だ!このざまは?……」
「俺たち4人はまだ一歩も現世に足を踏み入れてねぇってのに、こんなスタート地点でガタガタ揉めてくれんじゃねぇよ!」
エバが二人に追い打ちをかけるように叱った。
「今からこんな調子じゃこれから先が思いやられてしまうじゃないの!快炎鬼の言うように魔餓鬼を退治する旅は始まったばかりなのよ」
「一致団結とか固い絆ってものはね。些細な揉め事から始まって、 やがてはそれが原因で取り返しのつかない命取りになってしまうのよ。だから、少しばかり快炎鬼が足を止めたくらいで言い争わないでくれない?」
「判ったよ。エバ……」
リュウは素直に謝った。
「俺が言い過ぎてしまったようだ。許してくれ」
快炎鬼は振り返って今来た季節感の無い道を見ながら、右手の指を伸ばして揃え、 肘を曲げて指先が額に当たるようにして、最敬礼をした。
エバも振り返って、快炎鬼に聞いた。
「何やってんの?」
快炎鬼は敬礼をしながら、エバに応えた。
「羅獄殿に向かっての敬礼だ」
エバは言った。
「敬意を表する価値はあるわよね」
「羅獄殿では色々な人たちにお世話になったのだからね」
―――
快炎鬼が敬礼していた羅獄殿は、漆黒の闇の中で不夜城の如く燦然と光り輝き、荘厳であった。
羅獄殿の大手門は、見上げるほどの巨大な観音開きの門扉になっていて、門扉の上部の梁には大きな文字で「羅獄殿」と書かれた額が掛かっていた。
羅獄殿の内部は枯山水の日本庭園が設けられているほどに広く、羅獄殿の前の広場は日の光を浴びたように明るく、高い白壁の塀の近くには大きな樹が植えられていた。
樹々の合間に設置されている幾つかの篝火の松明は、赤々と炎を上げて燃えていたが、広場は明るい為、照明としての役目は果たさずに、装飾を兼ねたインテリアとして置かれているだけであった。
二条城の東大手門によく似た羅獄殿の大手門を背にして、丈二たち4人は横一列に 並んで立っていた。
羅獄殿の大手門を背にしていた時点では、実はまだ丈二は快炎鬼とは呼ばれていなかった。既に皆から呼ばれてるけども……!
城に見えながら絢爛豪華な造りの羅獄殿の中から、若くて綺麗で妖艶さを漂わせている女性と一緒に、閻魔が4人の男たちを従えながら丈二たちに近づいてきた。
閻魔と4人の男たちの服装は黒の正装で統一され、各自の差は好みのヘア・スタイルとワイシャツの色とタイピンの違いだけであり、紅一点の女性だけは 真っ赤なドレスにその身を包み、ドレスの長い袖は、燃える火の鳥が翼を折り畳んでいるようにも見えた。
丈二はエバの耳元に口を近づけ、囁くようにして聞いた。
「教えてくれ」
「閻魔さんの横の綺麗な女性は誰だ?」
「エンマさんです」
「そうじゃない。俺が聞いているのは女性の方だ」
「だからエンマさんだと言っているでしょうが!」
小声で言い争っている二人に、閻魔が咳払いをしながら近づいた。
「ウホン!」
慌てて身を正して畏まる丈二たちの前で、閻魔と女性の二人が立ち止まった。
閻魔の後ろを歩く4人の男たちは、閻魔たちの横に並んで扇形になり、丈二たちと対峙する格好で向かい合った。
温厚そうで恰幅のいい閻魔が、笑顔で丈二に言った。
「お前の話は十王たちから聞いた」
「目標を持って数々の試練に臨んだとは言え、よくぞ頑張った」
丈二は不服そうな顔で言った。
「試練などとそんな生易しいものじゃ無かったですよ」
「ここにいらっしゃる秦広王さまの試練は、そりゃあ酷いものでした。あれは試練と 言うよりも「地獄の責め苦」そのものでした」
閻魔は横の秦広王に訊ねた。
「秦広王よ」
「どのような事をしたと言うのだ?」
秦広王は笑って応えた。
「なあに。風呂に漬けてやっただけのことですよ」
「……風呂?」
「赤ん坊が生まれると産湯で身を洗うのと同じことで、この男も地獄で生まれ変わろうとしているのですから、風呂に漬けてやったのです」
丈二は秦広王の言葉に呆れながら、秦広王の試練を思い出した。
―――
石と岩とネズミ色の土だけの荒涼たる灰色の広野の中に、丈二が独りで立っていた。
中年の男が丈二の背後に音も無く突如現れ、背後から丈二に声をかけた。
「待たせたね」
丈二は振り返って男に聞いた。
「……貴方は?」
「秦広王です」
「シンコウオウ?」
「地獄にはこの私を含めて十名の「地獄の十王」と呼ばれる王たちがいます。そして、 地獄の十王の中心にいるのが閻魔大王でして、因みにキミをこの秦広王に託した閻魔大王は死後五七日の審判員なのです」
「ついでに死後の話を説明しますと、人は死んでも直ぐには地獄に辿り着くことは出来ません。死後六日間は魂が地獄の十王の元に辿り着くために、険しい道のりの「死出の旅」を続けなければならないのです」
「そして死者は七日目にして初めて死後初七日の秦広王のこの私によって第一回目の審判が下されます。死者は七日毎に生前の罪を問う審判が七回行われます」
「そうでしたか?」
「お話はよく分かりましたが、自分は初七日の秦広王さまに審判を下されるような覚えは、何一つとして無いのですが?……」
とその時、丈二の両足首に鉄の足輪が掛けられた。
「あッ!」
どこからともなく突然、出現して来た足輪には、頑丈そうな鉄の鎖が長々と繋がっていて、丈二は足輪を装着された囚人同様の恰好にされた。
「な、何だ、この足輪は!」
「私の自己紹介とあらましの説明は終わりましたので、次はお風呂にしましょうか?」「な、何を寝ぼけたことを言ってんだ?」
足輪に繋がれていた2本の鎖は、音を立てて一気に巻き上げられ、足元を掬われた丈二は逆さになって吊るされた。
丈二を逆さまに吊るした鎖の先には滑車が取り付けられていて、滑車は上部でクロスした3本の柱の根本で括り付けられていた。
「降ろせ―ッ!」
「こんな仕打ちをされる覚えはねーッ!」
逆さ吊りにされて絶叫している丈二を見ながら、秦広王は右手を高々と上げた。
秦広王の頭上近くで、一本の剣が横になって宙に浮いていた。
秦広王は浮かんでいた剣の柄をパッと掴んだ。
掴むと同時に左手に羂索を持ち、右手に剣、腰には布を巻き、上半身は裸で背中に火焔後背を背負った、忿怒の形相の不動明王に化身したのだ。
「バ、化けた―――ッ!」
「化けたとは人聞きの悪い。不動明王に化身したと言いなさい」
「化身したと……」
「言えるかーッ!」
不動明王は忿怒の形相で言った。
「私が化身して、こうして怒りの形相になっているのは悪を仏の道に導き、火焔で煩悩を焼き払っているからです。右手のこの剣は人々の煩悩を断ち切り、左手の縄は煩悩から抜け出せない人を吊り上げてでも救い出そうとしているからです」
「ウソだ―――ッ!」
「ホントーです」
「キミも一度は名前を聞いたことがあると思いますが、例えば多宝如来、宝生如来、千手観音、日光菩薩、月光菩薩、金剛夜叉明王、愛染明王、三宝荒神、蔵王権現さまなど、他にも、もっと大勢の仏様たちが化身しているのです」
「私の化身などはまだまだ序の口で、死後五七日目の閻魔大王はお一人で、とげ抜き、イボ取り、子育て、子安、安産、田植え、縛り、身代わり、裸、延命、勝軍、水子、蛸地蔵などの他にも、色々な場所で色々な「お地蔵さん」に化身されているのです」
「多種多様に化身されているのは閻魔大王だけではありません」
「観音さまは十一面、千手、馬頭、如意輪、推胝、三十三、聖観音など、多くの場所で多くの観音さまに化身されているのです」
「わ、分かった!」
「分かったから、早く降ろしてくれ!」
「了解しました。では早速、そのように……」
不動明王は剣先を、丈二の頭の真下の地面に差し向けた。
剣先で差された地面は水輪が広がるように急激に拡大して、直径2㍍ほどの大穴が ぽっかりと開いた。
「地獄の窯の蓋です」
「な、何だって?」
「地獄の窯の蓋が開くのは「盂蘭盆」だけとは限りません。いつでも、どこでも、地獄の窯の蓋の開閉はOKなのです」
丈二は身を丸くして足首を持ち、強引に首を曲げて穴の中を見た。
穴の中は真っ赤に煮え滾るマグマが怒涛の如く波を打ち、 今にも噴き出しそうな勢いで活発に躍動を続けていたのだった。
丈二は悲鳴を上げた。、
「ギャ―――ッ!」
不動明王は剣先を滑車に向けて、剣先をクルクルと小さく回した。
滑車はカラカラと音を立てて回り、丈二をゆっくりと降ろしていった。
丈二は絶叫した。
「やめろ、やめろ、やめろ―――ッ!」
不動明王は鼻歌を歌いながら、滑車に向けて剣先を回し続けた。
「やめろといわれても~♪♪……」
「もう、どうにもとまらない~♪♪……」
ナマケモノのようにぶら下がった格好で悲鳴を上げながら、丈二はマグマ溜まりの穴の中に降ろされていった。
「ギャ―――ッ!」
丈二の姿が消えた穴から、音だけが外に飛び出してきた。
ドボン!
不動明王は穴に近づき、首を伸ばして穴の中をそっと覗き込んだ。
「ここは地獄のぉ~ ドブ漬けの湯ぅ~♪♪……」
丈二の全身はスッポリとマグマに浸かって消えていた。
「勝負は引き上げ時のタイミングだけだ」
穴から離れた不動明王は鼻歌を歌いながら、剣先を滑車に向けてクルクルと逆回転 させた。
「回って、回って、回るぅ〜♪♪……」
散水のホースのように伸ばして巻き取るだけの滑車は、カラカラと音を立てて回り、 丈二をゆっくりと上に引き上げていった。
焼き入れされた鉄のように真っ赤に焼けただれた丈二が、伸び切ったスルメイカの ように万歳をした格好で引き上げられてきた。
丈二が地上に姿を見せるのと同時に、地獄の窯の蓋は一瞬にしてピシャリと閉じられ、元の黒い土に戻った。
丈二は平地になった地面に、ゆっくりと寝かされるようにして降ろされた。
真っ赤に熱せられていた丈二の身体は、赤銅色から黒へと変色し、変色と比例するようにして身体が異常な膨張を始めた。
丈二は黒く膨らんだ縫いぐるみのような身体になってしまった。
縫いぐるみのような身体で起き上り、丈二は四つ這いになった。
黒い鋼鉄の縫いぐるみを着こんだ状態で四つ這いになった丈二の身体に、 ピシリピシリと音が走った。
弾ける音とともに、黒い身体にヒビ割れが生じ、大きな亀裂が全身に走った。
亀裂は手の平よりも大きな黒い瘡蓋を作り上げ、四つ這いになっている丈二の手元と足元に、音を立ててバラバラと崩れ落ちていった。
四つ這いの丈二は、地面にドッと黒い塊を吐き出した。
黒い瘡蓋と吐き出された黒い塊は、氷が解けるようにして土の中に溶け込み、そして消えていった。
穴の上でクロスしていた3本の柱と滑車は、穴と同時に消え失せ、丈二の頭の近くで不動明王が仁王立ちで見下していた。
不動明王を睨みつけるようにして、頭を上げた丈二の眼光は鋭かった。
丈二の頭髪は伸びて長髪の天然パーマへと変わってしまったが、人相だけでなく風貌もガラリと変わり、精悍さと逞しさを増した男になっていた。
丈二は憤怒の形相で、不動明王を睨み上げながら聞いた。
「……何のマネだ?」
「閻魔さんに依頼されたのですよ」
「鍛錬してやってくれと・・・」
「……これが鍛錬か?」
丈二は拳を地面に叩きつけて怒った。
「ふざけんな―――ッ!」
―――
秦広王は閻魔に言った。
「と言うワケです。閻魔さま」
「そうか」
「焼を入れたか?」
閻魔は丈二に言った。
「刀剣は焼の入れ方一つで、出来、不出来が決まると言われている」
「秦広王の焼き入れなら完璧だ。お前は秦広王のお陰で炎に強い男に生まれ変わったということだ」
丈二は秦広王に言った。
「俺は聞きたい」
「あれのどこが、風呂だと言うんですか?」
秦広王は茶目っ気たっぷりに丈二に言った。
「溶岩風呂って言うんだよォ」
「な、何が溶岩風呂だ!」
「あのやり方は拷問じゃないか!」
「なぜ、事前に言ってくれなかった!」
「心配するなと、たった一声だけでよかったんだ!」
閻魔の横にいた女性が大きな声で、丈二を一喝した。
「おやめなさい!」
「ここはあなたの不平や不満を聞く場所ではありません!」
地獄の十王と閻魔たちを差し置いて、女性が一歩前に出た。
「現世に旅立つ前に、あなたに知っておいて欲しい事があります」
「何でしょうか?」
女性はエバたちに言った。
「リュウとアララとエバの三名はすでに承知の事をこれから彼にお話しますので、 何も言わずに黙って私の話を聞いていて下さい」
エバが応えた。
「了解しました」
女性は再び丈二に向かって言った。
「地獄には二人のエンマがいます」
丈二は驚いた。
「えッ?」
「二人のエンマの母親の名前はサラニューで、二人のエンマは双子の兄妹であり、 そして、夫婦でもあるのです。兄妹が夫婦というのは別に珍しいことではありません」「双子の兄のヤマは、今では閻魔大王と呼ばれるようになり、妹のヤミーは艶の魔と書いて艶魔と呼ばれておりますが、何あろう艶の魔のエンマはこの私なのです」
「近親相姦と違って近親婚は悪いことをしている訳でも無く、それほど珍しいことでも無いのです」
「例えばエジプトのファラオであるツタンカーメンは、兄弟姉妹の間に出来た子供ですし、西洋では王族と貴族間では近親婚は慣例的になっています。日本の古代においても、聖徳太子は異母兄弟婚で生まれた子供なのです」
「ただ、近親婚の怖い所は、血が濃くなり過ぎて劣勢遺伝子を持った子供が出来ることです。残念ながら私たち夫婦の間に出来た死々怒は優勢遺伝子ではなくて、典型的な劣勢遺伝子を持って生れてきた子供です」
「地獄にいるのは赤鬼・青鬼の獄卒たちと、そして死者と亡者と仏さまたちですから、私たちの息子の死々怒がどんな悪さをしても誰も咎めることは致しませんが、死々怒が現世へ行ったとなれば、話は大きく違ってきます」
丈二は艶魔に聞いた。
「息子さんが悪いのは、果たして劣勢遺伝子の所為だけでしょうか?」
「どういう意味ですか?」
「言っては悪いですが、親の責任ではないのですか?」
艶魔は間髪入れず、怒ったように言い返した。
「褒めて伸びる子供がいれば、厳しく育てて伸びる子供がいるのと同様に、甘やかして育てても立派に育つ子はいますし、その逆に厳しく育てても性根が捻じ曲がって腐って育つ子は数多くいます」
「親の責任、育て方、云々(うんぬん)の話ではありません。その子の持って生まれた性格だということは、遺伝の法則でメンデルがそのことを実証してくれているのです」
丈二は恐る恐る言った。
「トンビが鷹を生んだとか、掃き溜めに鶴の例えもありますが……」
「あなた、少しおかしいのじゃないの?」
「えっ?」
「だって、仰っていることが、本末転倒じゃないですか!」
「あなたは些細なことに拘り過ぎて、あなたにとって一番大切なことを疎かにしているとは思わないの?」
「あなたが死々怒を擁護するのは一向に構いませんよ」
「……でもね?」
「あなたは自分の恋人が、私の息子の死々怒によって地獄の穴に投げ込まれたことを、もうすっかり忘れてしまっているんじゃないのですか?」
「!」
「はっきり言って私、あなたを見損なってしまったわ」
「あなたが恋人に対する気持ちって、その程度のものだったのよね?」
艶魔に窘められ、丈二は自分が言った言葉を恥じた。
遺伝子はどうであれ、丈二は一時的にしろ、復讐相手の魔餓鬼を擁護したからだ。
痛い所を突かれた丈二は、既に反論する言葉を失っていた。
「・・・・・……」
気まずい空気を察した閻魔大王が、一歩前に出て艶魔の横に立った。
「息子の話はそこまでだ」
「ここから先は、この私が話を続けよう」
「氷室丈二よ」
「はい」
「お前は氷室丈二という名を捨て「快炎鬼」と名乗るがよい」
「……カイエンキ?」
「快い炎の鬼と書いて快炎鬼だ」
「分かりました」
「現世へ行けるのでしたら、喜んで快炎鬼と名乗らせて頂きます」
「ところで、お前に名付けた快炎鬼という名の由来だが……」
「お前は阿修羅と言う男を知っておるか?」
丈二は奈良の興福寺の憂いを帯びた阿修羅像を思い浮かべた。
「天平の美少年の仏像で有名な、奈良の興福寺の阿修羅でしたら知っていますが?」「その阿修羅では無い」
「私の言っている阿修羅とは、最愛の娘の舎脂を神々の帝王・帝釈天に陵辱されて怒りに狂い、全く勝ち目の無い無謀な戦いを今も尚、帝釈天に挑み続けている阿修羅のことだ」
「た、帝釈天が阿修羅の娘を陵辱したですって?」
「そうだ」
「それって犯罪じゃないですか!」
「陵辱とは強姦で、レイプのことでしょう?」
「そうとも言う」
「信じられません!」
「神様である帝釈天が、そんなバカなマネをするワケが無い!」
「信じられないのも無理はない」
「……だが、これは事実なのだ」
「……それに、その時は陵辱であったが、阿修羅の娘の舎脂は帝釈天の夫人として、 今は仲良く幸せに暮らしておる」
「時には過去を忘れてやるというのも相手を思いやる心の一つだが、父親の阿修羅はそれを選ぼうとはしなかった」
「阿修羅は帝釈天を許すことが出来ず、怒りを帝釈天に向け、戦いを挑み続けているということだ」
「お話は聞いてよく判りましたが、俺とはまったく関連性の無い話です」
「この俺が快炎鬼と名乗る必要性がどこに有ると言うのでしょうか?」
「快炎鬼とは阿修羅の幼少期の名だ」
「えッ?」
「リュウとアララは私の依頼で現世へ行くことになったが、エバとお前は復讐だ。復讐に燃えるお前には、快炎鬼がピッタリの名だと私は思った」
「折角ですが、そのお名前、返上させて頂きます」
「なぬ?」
「断るだと?」
「娘を凌辱した帝釈天に復讐したいと願う父親の阿修羅の気持ちは理解出来ますが、 だからと言って、俺が快炎鬼と名乗る必要は何もありません」
「ですから、現世では氷室丈二という名で魔餓鬼と闘わせて欲しいのです」
「それは無理な注文というものだ」
「なぜでしょうか?」
「人間が死ねば戒名が付くように、お前が現世へ戻るには、新しい名前が 必要なのだ」
「なぜなら、お前は人間だからなのだ」
「いくら魔餓鬼の所為だといっても、お前は地獄に落ちて来た人間だ。一度地獄に落ちて来た人間が、以前の名前で現世に戻れると思っているとしたら大間違いだ」
「それに地獄界において、快炎鬼という名を知らぬモノはおらぬが、氷室丈二という 屁かハナクソのような男の名を知る者は一人としておらぬ」
「こ、この俺が、屁かハナクソだというのですか?」
「そうだ」
「屁なら臭くて顔を背けてくれる。ハナクソなら誰でも知っている。だが、 氷室丈二という名では屁の臭さも無く、名前を言っても誰一人として見向きもせず、知名度においては、お前はハナクソ以下の男だということだ」
「むむッ!」
丈二はグッと下唇を噛み締め、悔しさに耐えた。
強く握り締めた拳が、ワナワナと震えていた。
「お前が現世で快炎鬼と名乗らねばならぬ理由は他にもある」
「魔餓鬼は快炎鬼の名前を知っていても、氷室丈二という名を知らぬということだ」「このことはお前にとっては致命的な弱点となり、お前が魔餓鬼にどう立ち向かって いこうとも、肝心の魔餓鬼は名も知らぬお前を最初から相手にはしないということだ」
丈二は閻魔の説得に納得した。
「私はお前の生き様と男気に感動を覚えて快炎鬼の名を与えようと したが、どうしても快炎鬼の名が受け入れられないのであれば仕方が無い」
「お前は現世行きを諦めてこの地獄に残り、成仏することも叶わず、エンドレスで死出の旅路を独りでいつまでも続けておればよい」
「この話はこれで無かったことにする」
閻魔はクルリと背を向け、立ち去ろうとした。
「ま、待って下さい!」
閻魔は立ち止まった。
「閻魔さまのお心遣いも、現世での自分の立場もまったく顧みず、自分は後先考えずに氷室丈二の名を望んでいましたが……」
「撤回します!」
「俺は阿修羅の如く復讐の鬼となって、現世で魔餓鬼と闘いたいのです!」
「どうかこの俺を快炎鬼と言う名で、現世に行かせて下さい」
閻魔はニンマリと含み笑いを浮かべながら、切なる丈二の訴えを背なで聞いていた。
丈二はパッとその場に土下座して平伏した。
「お願いします。閻魔さま……」
閻魔は真顔で振り返った。
「土下座などしなくてもよい。起き上がりなさい」
起き上った丈二に、閻魔は言った。
「では、現世へ行くにあたって、魔餓鬼と行動をともにした犬について、少しばかり触れておこう」
「はい」
「あの犬は以前は「神犬サラマー」として、時には崇められ、時には畏怖の念を抱かれるほどの犬であった」
「……神犬サラマー?」
「そうだ」
「元は神だった犬の名だ」
「ところが、似た者同士と言おうか、類は友を呼ぶとでも言うべきか。神犬 サラマーだった犬が魔餓鬼と行動を共にするほどまでの駄犬、凶犬に堕ちぶれてしまったと言うことだ」
「堕ちぶれた犬だからと言ってサラマーを決して侮ってはならぬ。神犬が、今は魔犬と化してしまった化け犬だ」
「心してかかれ!」
「あの犬の怖さは目の当たりにして充分に知っているつもりです。決して気を 抜いて闘える相手ではありません。油断をせずに命を懸けて立ち向かっていきます」
「そのことだが、現世へ行く前に一つ心得ていて欲しいものがある」
「何でしょうか?」
「お前が現世で能力を活かせる期間は、四十九日の二倍の九十八日間だ」
「えッ?」
「た、たった……」
「たったの九十八日間ですか?」
「そうだ」
「む、無理です!」
「いくらエバたちが俺をサポートしてくれるからと言って、そんな短期間であの魔餓鬼を倒せるハズがない!」
「焦るお前の気持ちは分かる。だが、悲しいかな、所詮、お前は人間なのだ」「付け焼き刃的にお前に与えられた能力は、現世で無限に通用出来るワケでは無い」「九十八日間とは、快炎鬼として能力が発揮出来る期間の限界なのだ」
「お、俺はどうなるのですか?」
「九十八日間という期間が過ぎてしまえば……?」
「お前に与えられた能力は極端に薄れ始め、魔餓鬼を地獄へ連れ戻すチャンスはおろか、地獄に戻ることさえも叶わず、雲散霧消、風や日の光に当たり、やがて跡形も無く「無」となって消滅してしまうと言うことだ」
「そ、そんな……」
「そんな簡単に言ってくれて……」
「だから、そうならないように、心して掛かればいいのだ」
丈二は表情を曇らせた。
『……不可能だ』
『怪物魔餓鬼を相手に、そんな短期間で地獄に連れ戻すことなんて……』
ガックリと肩を落とした快炎鬼に、閻魔は声をかけた。
「お前は彼女を救いたいがために、自らこの地獄へ飛び込んできたほどの男だ」
「元来、無かった命と思って魔餓鬼に挑め!」
「もちろん命懸けで闘いますよ。阿修羅の如く、復讐の鬼の快炎鬼として……」
「快炎鬼よ」
「何でしょうか?」
「阿修羅の如く闘うのは構わぬが、復讐の鬼と化しては駄目だ」
丈二は怪訝顔で聞いた。
「なぜでしょうか?」
「それが目的で快炎鬼と名付けてくれたのでは無かったのですか?」
「私の言葉不足だったようだ」
「お前に鬼神なみに能力を与えたのは復讐の鬼と化した快炎鬼では無い。魔餓鬼と対等にバトルさせんがための能力だ」
「お前に快炎鬼と言う名と能力を与えた目的は他にもある。魔餓鬼の悪行によって これから苦しめられるであろう現世の人々のためにも、超人的なその能力を活かして欲しいと望んだからだ」
「刑事だったお前なら出来るはず」
「慈悲の心を持ちながら、魔餓鬼と互角に闘えるはずだ」
「俺も言葉不足だったようです。それなら心配ご無用です」
「いくら付け焼き刃だったといえ、俺に数々の能力を備えてくれたのは「地獄の十王」。正確に言えば十三名の仏さまたちが、俺の能力授与に協力してくれたからです。お陰で超人的な能力だけでなく、慈悲の心も自然と身に付いてくれています」
「慈悲の心を持った優しい鬼として、そして、復讐心を心の奥底に秘めた快炎鬼と して、俺は死に物狂いになって魔餓鬼に挑むつもりです」
「そうか。それならばよい」
閻魔は4人を促した。
「さあ、時は迫った。旅立つがよい」
―――
羅獄殿の正門に近づく4人の後を、閻魔と地獄の十王たちが追従した。
前を行くアララに、エンマが歩み寄って声をかけた。
「やっぱり天邪鬼は見送りに来なかったわね?」
「来なくていいのよ。あんな父親なんか……」
アララの横を歩いていた丈二が驚いた。
「な、なんだって?」
丈二は立ち止まって、アララに聞いた。
「アララの父親は天邪鬼だって言うのか?」
アララは平然とした顔で応えた。
「ええ、そうよ」
「マジかよ?」
丈二は確認するように、もう一度同じ事を聞いた。
「お寺の表門の仁王さんに踏みつけられている、あの天邪鬼がアララのお父さんなのか?」
アララは応えた。
「父が踏みつけられているのは阿形の金剛力士の仁王さまや吽形の蜜迹 力士の仁王さまたちだけじゃないの」
「父は須弥山の帝釈天に仕えている東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天の四天王たち以外にも、いつも誰かに踏みつけられているの」
そしてアララは、憎らしそうに言った。
「踏みつけられるだけでなく、一層のこと、踏み潰されてしまえばいいのよ。あんな父親なんか……」
「な、何があったんだ?」
「キミたち親子の間で……」
「今は何も聞かないで。いずれ話す機会が来ると思うから……」
「分かった。その時に聞くよ」
―――
羅獄殿の大手門の前に快炎鬼たち4人が横一列に並んで立ち止まり、閻魔と地獄の 十王たち6名は、4人を見送るようにしてその背後に並んだ。
エバがチャイナ服の胸元に止めてあったペンライトのような物を取り出し、先端を門扉に向けてキャップの部分をカチッと押した。
ペンライトから小さく照射された映像は、門扉の全面に拡大し、紅葉の落葉で作られた艶やかな赤絨毯の道を映し出した。
揃って振り返った4人に対して閻魔は言った。
「誰一人として欠けてはならぬ」
「野放しとなった魔餓鬼と凶犬を引き連れ、この羅獄殿に戻って来い!」
「魔餓鬼狩りを殺生だと思うな! 地獄に連れ戻すと思って抹殺せよ!」
4人は大きな声で返事をした。
「はい!」
4人は門扉に映し出されている景色に向かって進んでいった。
丈二たち4人が景色の中に入るのと同時に、門扉は元の黒い大手門に逆戻りした。
快炎鬼たちを見送った地獄の十王たちは、羅獄殿に戻っていった。
だが、閻魔と艶魔の二人はその場に残った。
艶魔は怪訝顔で閻魔に聞いた。
「戻らないのですか?」
「お前も知恵を貸してくれ」
「何のことでしょう?」
「ほれ」
「以前にも話しただろう。氷室丈二との「二つの約束」だ」
「今でも頭を痛めているのですね。二つ目の約束のことで……」
「そうだ」
「一つは簡単なのだが、二つ目が……」
閻魔は困惑顔で艶魔に言った。
「去ってからでも悩ませる男だ」
「あの氷室丈二という男は……」
艶魔は小さく笑った。
「凄い男じゃないですか?」
「閻魔さんを悩ませるほどの約束を取り交わすのですから……」
―――
桜吹雪と紅葉が舞い散る並木道を、快炎鬼とエバたちが横一列になって颯爽と、魔餓鬼と魔犬のいる娑婆に向かって突き進んでいった。
4人が進む前方では赤絨毯の道がいきなり線引きされたように途切れていて、灰色のアスファルトの道へと変わっていた。
快炎鬼たち4人は、赤絨毯とアスファルトの境界線上の先端で立ち止まった。
快炎鬼は感慨深げにアスファルトの道を見下した。
そして、エバに聞いた。
「一歩足を踏み出せば、そこはもう現世ってことか?」
「そうよ」
「この境界線は地獄と現世のボーダーラインなの」
リュウが言った。
「この境界線を越えれば、煩悩渦巻く娑婆だ」
「娑婆ってのは妖怪たちが暗闇に紛れて身を潜めていやがるだけでなく、魑魅魍魎どもは蔓延り、巷は狂気に満ちた人間どもが悪の華を咲かせているぜ」
エバは幽霊のような仕草で、丈二に悍まし気に迫った。
「あな、おそろしやぁ〜」
「現世は〜」
丈二は羅獄殿の一室で、閻魔に言われた「現世」の言葉を思い出した。
【今の現世に於いては悪が蔓延り、善であるべき政り事を司る人間は僅かしか存在せず、皆無と断言してもいいだろう。極悪非道、傍若無人の魔餓鬼を野に捨ておけば悪の権化と化し、民は地獄以上の地獄の責め苦を受け続け、自殺者が多量に出るのは火を見ることよりも明らかだ】
快炎鬼はエバたちを促した。
「じゃあ、行こうか?」
4人は足並みを揃えて境界線を越えた。
紅葉で出来た赤絨毯の並木道から、4人の姿は一瞬にして消えた。