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快炎鬼  作者: 吉田四郎
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二の炎

二の炎

珍皇寺の境内の一角には十坪にも満たないほどの小さな閻魔堂(別名、篂堂【たかむらどう】)の建物があり、格子窓の隙間から閻魔堂の内部を覗いていた真央は思わず身をらし、感嘆の声を上げた。

「凄っご~い!」

小さな格子窓の隙間から、真央は改めて閻魔堂の中を覗き直した。

閻魔堂の中はその名の通り「閻魔大王座像」の全身が黒く塗られて安置されていて、閻魔は右手に持ったしゃく胡坐あぐらの上に立て、クワッと目を大きく見開き物凄い形相で真央を睨みつけていた。

「怖いほどだわ。閻魔さんの迫力って……」

閻魔堂の中には、江戸時代に作られたという小野篂おののたかむらの像もまつられていて、左右には獄卒ごくそつの悪童子と善童子の像が安置されていた。

閻魔大王坐像の下にある鏡は「浄玻璃のじょうはりのかがみ」と言って、すべての死者の行状が映し出され、生前の行いによって地獄での量刑が決まってしまう鏡だった。

―――

珍皇寺の境内には、地獄に通じると称される梵鐘ぼんしょうの「迎え鐘」が収められている御堂の建物が閻魔堂の近くにあるのだが、閻魔堂の中を熱心に覗いている真央の様子を殺人犯の矢沢が「迎え鐘」の御堂の陰から静かに伺っていた。

矢沢は不敵な笑いを浮かべながら呟いた。

「若い女がのんびりとここに一人でおるということは……」

「警察は俺の動きを、まだ察知してないということの証明や」

―――

白頭ガラスは、境内の大きな松の木の枝の天辺に音も無く舞い降り、格子窓の隙間から閻魔堂の中を覗き込んでいる真央と「迎え鐘」の御堂の陰に隠れて真央の様子を伺う矢沢の二人を、鋭い眼光で見下していた。

「‥………」

―――

車の屋根の上にポンと乗せられた赤色灯を回転させながらけたたましくサイレンを鳴らし続け、白いセダンの覆面パトが京都の市街地を走っていた。

覆面パトと言っても交通機動隊の覆面パトではなく、緊急時には車の屋根の上に赤色灯を回転させながらサイレンを鳴らして現場に急行する刑事たちが使用している車両のことである。

ハンドルを握っている政岡の表情が、急に険しく変わってきた。

「ったく、いい加減にして欲しいぜ」

助手席の丈二は呆れた顔で、運転席の政岡に訊ねた。

「まだ怒っているのか? 俺が「仕事の鬼」だと言ってしまったことを……」

「そんなチンケなことで気分を害する男じゃねーよ」

「ここんところ事件続きで苛立いらだっている時期に、今日は朝っぱらから拳銃チャカを使っての殺人ころしの発生だ」

「涙が出てくるほどに嘆かわしいぜ。世界に誇れる安全都市の京都だったのがいつの間にか事件続きの物騒な都市に成り果てやがって……」

丈二は政岡の意見に同意した。

「京都だけじゃねぇよ。魑魅魍魎ちみもうりょうどもが現実にこの世を闊歩かっぽしているかどうかは知らないが、あっちでもこっちでも、いたる所で想像もつかないとんでもない事件のオンパレードだ」

「ったく、どうかしているよ。今の世の中は……」

政岡は憤慨している丈二の横顔を見て苦笑した。

「何だよ?」

「俺以上にボヤいているじゃねーか?」

―――

珍皇寺の境内の一角には地獄に通じると言われる古井戸があり、古井戸から少し離れた場所から真央がスマホで古井戸を撮っていた。

「珍皇寺には地獄に通じる井戸が二つもあって、遣唐使だった小野篁おののたかむらは 夜になったら閻魔さんの補佐をして明け方になればこの世に戻り、冥界を自由に行き来していたらしいのだけど……」

「この井戸は地獄の入り口なのかしら? それとも地獄から戻って来た出口の方の井戸なのかしら?」

真央はスマホで古井戸を撮る手を止め、悲しそうな顔で呟いた。

「この井戸が地獄に通じる入り口でも出口でも、どうでもいいの」

「あ~あ~」

「ホントに嫌ンなっちゃうわ。出てくるのは溜め息ばっかりなんだもの」

真央はスマホのホーム画面から写真と動画のアプリをタッチして、アプリ履歴の中から一つの画像を選び出した。

画像は「ガーデンミュージアム比叡」においてモネの名画を再現している「睡蓮の庭」をバックに、丈二が自撮り棒で真央と一緒に笑顔で撮ったモノだった。

真央は写真の丈二に語りかけた。

「一緒にいられるのは……。写真の時だけね?」

「写真の時だけでも、私は嬉しいの」

「丈二さんと一緒にいることが出来るから……」

―――

ネットで「ガーデンミュージアム比叡」を検索すると【「ガーデンミュージアム比叡」は花と絵画が奏でる色彩の調べが美しい庭園美術館で比叡山の頂上にあります。

季節の花やハーブが咲き誇る庭園で、印象派のモネ、ルノワール、ゴッホなどの絵画45枚を、彼らが夢見た自然の風景を再現した中に陶板画で展示しており、京都、  大阪、琵琶湖の雄大な眺望とともに楽しめ、体験工房も開催しており、押し花を使ったオリジナルキーホルダーやアロマ石鹸作りなどが体験出来る】と記載されてあった。

―――

バッグの中からキーホルダーを取り出した真央はジッと見つめ、在りし日の「ガーデンミュージアム比叡」を思い出した。

園内の体験ショップで真央と丈二の二人は、押し花を使ってオリジナルキーホルダー作りに励んでいた。

透明のキーホルダーに綺麗にバランスよく押し花を並べて入れた真央は、子供のように大きな声ではしゃいで出来上がったキーホルダーを丈二にかざして見せた。

「はい。完成で~す」

製作中の丈二は手を止め、笑顔で真央をうらやましがっていた。

「いいなぁ。真央は……」

「手先が器用だから「パン屋の裏」だ」

「……何よ、それ?」

「表がパン屋で、裏がめし屋」。うらめしやァ……ってことさ」

「何、バカ言ってんのよ!」

「それを言うなら恨めしいじゃなくて、羨ましいでしょう?」

「恨めしいと羨ましいとでは大違いじゃないの!」

「いいじゃないか。よく似ているから……」

「似てな―――い!」

「ホッペが少しふくらんでいるぞ。怒ってンだろ?」

「怒ってなんかいなーい!」

「いや、その顔は怒っているよ。絶対に……」と言いながら、膨れている真央の顔を丈二は笑顔で見ていた。

手にしていたキーホルダーを、真央は悲しそうな表情でバッグの中に収めた。

「比叡ではバカを言ってくれていた丈二さんと一緒だったのに……」

「今日はお寺を訪ねているわ。私一人だけで……」

―――

国道143号線の東大路通・八坂神社の前の祇園交差点では緊急配備が敷かれていて一斉検問が物々しく行われ、交通係りの警官たちは盗難車に該当する不審車両を次々と路肩に寄せて停車させていた。

―――

助手席に丈二を乗せた覆面パトが、烏丸今出川を右に折れ、同志社大学の前を走っていた。

「どこへせやがった?」

「事件直後の緊急配備キンパイだってのに……」

助手席で丈二は、笑顔で政岡をなだめた。

あせることなんて一つもねーよ」

「奪われた車種と車のカラーとナンバーは判明済みだ。それに空にはヘリ。地上には白バイとパトカー。犯行直後の緊急配備キンパイだから逃走予想範囲も限られている。発見されるのは時間の問題だ。俺たちが現場到着げんちゃくする頃には犯人ホシの 身柄は確保されていて一件落着ってことさ」

「いいよなぁ。お前はお気楽で……」

「何を言ってんだ。お前が神経質なだけだ」

殺人事件発生にも関わらず全く緊張感を持たずに覆面パトの中でバカを言い合っている二人の元に、指令センターからの緊急指令が入った。

《指令センターより、各移動、指令センターより、各移動!》

《現在逃走中の手配車を東山署管轄の松原通りにて発見!》

『な、なんだって?』

丈二の顔面から一瞬にして血の気が引いた。

『な、なんてこった!』

『松原通りと言えば、珍皇寺が在る場所じゃねーか?』

今朝けさの真央との会話を丈二は思い出した。

―――

「どうすんだよ? これから……」

「心配しないで」

「六道の辻の珍皇寺ちんのうじへ行って、写真でも撮ってくるわ」

「……珍皇寺?」

「珍皇寺って凄いのよ。地獄に通じる「井戸」と、鳴らせば十方億土じっぽうおくどの冥土まで届くと言われる「迎え鐘」の鐘楼があって、今では時代の脚光を浴びて、京都魔界伝説スポットの一つにまでなっているの」

「知らなかったよ。真央が魔界に興味があったなんて……」

「お仕事に活かせるの」

真央は小さく笑って答えた。

「だって、真央の仕事はバスガイドなんだも~ん」

―――

助手席で腕を組み、丈二は厳しい表情で覆面パトの窓の外の景色を見つめていた。

『冗談じゃねーぜ』

『松原通りじゃねーか。真央がこれから行くと言っていた珍皇寺は……』

走行中の覆面パトに次の指示が入った。

《指令センターより、各移動、指令センターより、各移動!》

轆轤ろくろ町、六波羅蜜寺ろくはらみつじ近くに車両を放棄した容疑者は拳銃を所持したまま、現在もなお逃走中、各移動、急行せよ!》

助手席の丈二はハンドマイクを取って、指令センターからの呼び掛けに応答した。

「7号車、了解」

政岡は覆面パトの窓から赤色回転灯を出して屋根の上にポンと取り付け、サイレンをけたたましく鳴らしながら松原通りへと急行した。

―――

スマホで古井戸を撮り終えた真央は境内に戻り「迎え鐘」の鐘楼しょうろうの前で立ち止まって御堂の中を伺おうとした。

御堂の小さな壁穴から一本の綱が外に延びているだけで「迎え鐘」の鐘は外からは 見えなかった。

「この綱を引けば……」

「冥土にまで梵鐘かねの音が鳴り響くのね?」

真央は綱を掴み取った。

「……どんな音がするのかしら?」

先端を赤い布で覆われた綱を真央が手前に引っ張ると、御堂の中から清冽な音が鳴り響いた。

カア~~ン!

梵鐘の音が鳴り終わるのと同時に、どこからともなく声が聞こえてきた。

【げに恐ろしや、この道は冥土に通うなるものを……】

【ここは鳥辺野とりべの。魔界エリアの真っ只中……。冥土と現世の分岐点にあたる六道珍皇寺の「迎え鐘」……】

声に驚いた真央は、パッ!と後ろを振り返った。

境内に人の気配は無かった。

『た、確かに聞こえたわ。人の声が……』

『不思議よね。誰もいないのに?……』

真央が頭上を見上げると、松の木の天辺に白頭ガラスが止まっていた。

真央が怪訝顔で白頭ガラスを見上げると、目と目がバシッと合った。

『ま、まさか、このカラスが?……』

真央は白頭ガラスに問いかけた。

「あなたが言ったワケじゃないでしょうね?」

真央に応えるようにして、白頭ガラスが鳴き返した。

「カ―――ッ!」

急に寒さを覚えた真央は、身震いをした。

「さ、寒気がしてきたわ」

「怖いわ、このカラス。どう見ても、私の問いに応えたンだもの」

真央は自分に言い聞かせた。

『もう、帰ろう』

『不気味なカラスが鳴くから、もう帰ろう』

―――

白頭ガラスに怯える真央を「閻魔堂」の物陰から殺人犯の矢沢が伺っていた。

『あの女、いつまでこの寺におる気や?』 

矢沢は真央を見ながら、不敵な笑いを浮かべた。

『まあ、ええわい。機嫌よう、そこで遊んどけ』

『何かあったら、お前を人質にしたるよってに……』

―――

国道143号線の東大路通を走行中だった覆面パトが、清水通の信号の前で大渋滞に巻き込まれてしまった。

ノロノロ運転中の各車両は、後方でサイレンを鳴らしている覆面パトにゆっくりと 道を譲ってくれているのだが、助手席の丈二はいても立ってもいられなかった。

逃亡中の殺人犯が珍皇寺の近くで盗難車を乗り捨ててどこかに潜伏しているのだ。

真央が珍皇寺にいることを知っている丈二は、心中穏やかで居られるはずが無かった。真央を心配し、不安はつのるばかりだった。

「少しは前に動きやがれってンだ!」

イラついている丈二に気付いた政岡は、運転席から声をかけた。

「こりゃあ、自然渋滞じゃあなさそうだ?」

「事故っているのかもしれねぇな。前方で……」

政岡の話しかけに応えるどころか、丈二は大きな声で叫びながら、目の前のダッシュボードをいきなり平手打ちでバシンと叩きつけた。

「バカヤローッ!」

「ビ、ビックリするじゃねーか!」

「驚かせて悪かった」

「この大渋滞にイラついただけだ。許してくれ」

「今日は緊急配備キンパイでの一斉検問だけでなく、お前も知っての通り、京都は碁盤の目の道路事情もあって狭い路地や一方通行が多過ぎるんだ。それに今日はタクシーや観光バスもいつもよりも多いようだ。そんなにイラつかずに諦めろ」

京都市内は碁盤の目状の四角形で道幅が狭いので、円滑な通行をするためにはどうしても一方通行が必要になり、松原通りも烏丸通を境にして東西に分離された一方通行となっている。

珍皇寺が所在している松原通りに於いても烏丸通よりも東側の道路は東に向かう一方通行となっているのを丈二は職業柄よく知ってはいたのだが、やり切れない怒りと不安を押さえることが出来なかった。

丈二は停滞している覆面パトの車中から、前方に見える清水通の信号を険しい表情で見つめながら自問自答を繰り返していた。

『メールや携帯で「珍皇寺から早く離れろ」と連絡するのは容易たやすいことだ、だが、それは公私混同の刑事失格者のやることだ』

『……と言って、真央の近くに凶悪犯が潜んでいるかも知れないってのに、このまま何もせずに手をこまねいていてもいいのか?』

『……刑事としてよりも、男としてそれでいいのか?』

『いや、いいハズがねぇ』

『だったら、飛び出せ丈二!』

『刑事失格だと言われてもいいじゃないか。一人の女性を守ることが出来ない男が、どうして京都府民を守ることが出来るのだ?』

『いや、そうじゃねー。それは余りにも自分勝手な言い訳だ』

『公私混同なんぞは刑事失格者のやることだ』

丈二は前方に見える清水通の信号を恨めし気に見つめていた。

『あの信号を右に曲がれば珍皇寺は目と鼻の先だ』

『だが、松原通りは東に向かっての一方通行だ。車で行こうとすればグルッと遠回りしなけりゃあダメだ』

『ああ、時間が欲しいぜ』

『時間が有れば真央を危険から遠ざけることが出来るのに……』

丈二は広げた左手の手の平に右手のこぶしをバンバンと何度も当てながら、イラつく自分の心に言い聞かせていた。

『落ち着け、丈二。焦るな、丈二』

『真央は殺人犯と出会っているワケじゃないのだから……』

政岡は落ち着きの無い丈二を見て、怪訝な顔で声をかけた。

「まだイラついているのか?」

「身柄確保は時間の問題だと言ったのはお前の方じゃないか」

まるで政岡の言葉を待っていたかのように、丈二はハンドルを握っている政岡の腕を掴んだ。

「俺に時間をくれ!」

「な、なんだとォ?」

「直ぐに戻る。30分ほど俺に時間をくれ」

丈二の手を振り解き、政岡は丈二を怒鳴りつけた。

「バカヤローッ!寝ぼけたことを言うんじゃねーッ!」

「テメー、俺たちは職務執行中だってことが判らねーのかッ!」

「それを承知で頼んでいるんだ!」

「だったら、理由を言え!」

「事と次第によっちゃあ力になってやるぜ」

「お前を巻き込こもうとは思わない。言えばお前に迷惑をかけるだけだ」

「バカヤローッ!」

「格好つけてンじゃねーよ! お前はすでに俺を巻き込んでいるじゃねーかッ!」

丈二は申し訳なさそうに言った。

「分かってくれ」

「これ以上、お前を巻き込みたくないってことを……」

助手席のドアを開けて外に出た丈二は、車内の政岡に念を押した。

「30分後だ。珍皇寺の前で落ち合おう」

「バ、バカを言うな!」

「テメー、刑事デカを辞める気かッ!」

丈二は笑って政岡に応えた。

「辞める気なんてサラサラねーよ」

「だが職場放棄だ。懲戒免職にはなるかもしれないな?」

助手席のドアを強く閉めた丈二は、覆面パトの前で停車している数台先に見えている清水通の信号に向かって走り出した。

走り去っていく丈二の後ろ姿を、政岡は呆然と見送っていた。

「あの野郎、職場放棄なんかしやがって……」

「何を考えていやがるんだ? 緊急事態発生の非常時だってのに……」

―――

人気の無い境内から参道を、真央は独り言を言いながら山門に向かって歩いていた。「ホントに気味の悪いカラスだわ」

「ホラーを好む人は多いけど、私は苦手なの。怖い出来事は特に……」

真央の後を追うように白頭ガラスが音も無く滑空し、参道近くの木の枝の天辺に音も無く止まって、真央の行動を監視するように伺っていた。

真央が帰ろうとしている珍皇寺の参道の両サイドの空きスペースは駐車場も兼ねているようで、一匹の野良猫が駐車中の一台のセダンの屋根の上で気持ちよさそうに ぐっすりと眠っていた。

参道を山門に向かって進む真央が車の横に近づいたその時だった。

車上の屋根で眠っていた猫が突然飛び上がって、物凄い声で鳴いた。

「ギャオ―――ッ!」

ビックリして横に倒れそうになりながら、真央も同様にして悲鳴を上げた。

「きゃ―――ッ!」

本殿の大屋根と境内にいた野鳥たちが真央の悲鳴に驚き、激しく羽根をバタつかせて一斉に飛び立ち、珍皇寺の境内と参道は騒然となっていた。

車の屋根の上の猫は境内に向かって背を丸め、毛を逆立て牙を剥き、怒りのポーズを見せていた。

「フッシャ―――ッ!」

真央は怒れる猫の視線の先を辿って境内を見たが、人影は一人も見当たらなかった。

「ビックリさせないでよ!」

真央は大きな声で猫を叱りつけた。

「あなた!」

何かに対して威嚇していた猫は、今度は怒れる真央の声に飛び上がった。

「フンギャーッ!」

「誰に向かって威嚇しているのよ!」

「誰もいないじゃないの!」

車の屋根の上の猫は吹っ飛ぶようにして、その場所から逃げ去っていった。

―――

清水通の信号を右折れして、人通りの少ない一方通行の松原通りに入って来た丈二は、西の六原に向かって全速力で走っていた。

六原は松原通りから西を「六波羅」とも呼ばれていて、【轆轤ろくろ町、六波羅蜜寺ろくはらみつじ近くに車両を放棄した容疑者は拳銃を所持したまま、現在もなお逃走中、各移動、急行せよ!】と覆面パトに緊急アナウンスされた轆轤ろくろ町の六波羅蜜寺の所在地近くに、丈二が目指す珍皇寺が所在していたのだった。

松原通りを走りながら、丈二は自分自身をいましめていた。

『……俺は刑事失格だ』

『殺人犯が姿を消した場所を聞いただけで自制することが出来ず、真央の無事を確かめずにはいられない情けない刑事なのだから……』

パーキングの前で立ち止まった丈二は、携帯を取り出して真央に連絡を入れた。

「俺だ。丈二だ」

「今、どこだ?」

『珍皇寺ですけどォ?……』

「俺は今、キミの近くにいる」

「俺が行くまで、そこを動かないでくれ」

―――

白のセダンの覆面パトがサイレンを鳴らしながら、東山五条の交差点を右に曲がって疾走を続けていた。

ハンドルを握っている政岡が、険しい表情で不満をぶちまけていていた。

「あの野郎、身勝手なマネをしやがって……」

「ふざけやがって、ふざけやがって、ふざけやがって……」

政岡は大きな声で叫んだ。

「俺を道連れにする気かーッ!」

「ふざけんじゃねーッ!」

「規則で刑事は必ず「二人で一組」での行動と決められているんだ!」

「必ず30分で戻ってきやがれ! バカタレめがーッ!」

―――

真央は参道の中程に立って、心配顔で山門の方を見ていた。

「どうしたのかしら?」

「丈二さんったら、用件も言わないで?……」

―――

物凄い形相の丈二が声を上げながら、松原通りを走っていた。

「うわおおお―――ッ!」

「ど、退いてくれ―――ッ!」

全速力で走ってくる丈二の叫び声と形相に恐れをなした通行中の主婦たちが、急いで道を広げて譲り、走り去っていく丈二の後ろ姿を怪訝な顔で見送っていた。

「あんなに慌てて、どうしたのかしらねぇ?」

「スリかも?」

「そう言われれば、警察に追われて逃げているように見えたわね?」

―――

松原通りから少し入り込んだ敷地内にある小さな寺院が六道珍皇寺で、全速力で松原通りを走ってきた丈二は右折れして敷地内の石畳を走り、鮮やかな朱色に塗られている門扉と柱の山門を潜り抜け、真央の待っている参道に飛び出した。

―――

参道の中程で丈二を待っている真央と、真央に駆け寄る丈二の二人を、近くの木の枝の天辺から白頭ガラスが無言で見下していた。

「…‥……」

丈二を待ちながら上を見上げた真央は、白頭ガラスに気付き、呆れた顔で呟いた。

「今度はそこにいたの?」

「カ―――ッ!」

「まるでストーカーだわね?」

白頭ガラスは笑うような鳴き声で、真央に応えた。

「クワッ!クワッ!カ―――ッ!」

―――

殺人犯の矢沢が境内の「迎え鐘」の御堂の陰から、真央に駆け寄る丈二を怪訝な顔で伺っていた。

「何や? あの男は?……」

「デートかい。この寺で?……」

―――

真央に駆け寄った丈二は直ぐに話すことが出来ず、両手を両膝に付けて荒い息を整えながら心の中で喜んでいた。

『よかった。無事でいてくれて……』

「どうしたのですか? 今は勤務中のハズなのに……」

丈二は下を向いた体勢から、顔だけを上げて真央に伝えた。

理由ワケはアトで教える。この寺を出よう」

「その前に、あの鳥を見てよ」

言われるままに丈二は真央の指差す先を追った。

「どうかしたのか? あの鳥が……」

「頭だけが白いの」

「体だってトンビのように大きく、珍しい鳥でしょう?」

「確かに体はでっかいが、あれは頭部だけが部分白化したハシブトカラスだ」

「……部分白化?」

「遺伝子異常が原因でメラニン色素が欠乏している「アルビノ」とは違って、毛の色を白くする遺伝情報がごくまれに白化する個体のことだ」

「自然界では他の動物たちにもよく見られる現象だ。例えて言えばホワイトタイガーとかホワイトライオンなどがそうだ」

「急いでいる。カラスの話は今度にしよう」

真央は白頭ガラスを見ながら言った。

「あの鳥、尾も白かったら、面白いのにね?」

―――

木の上で白頭ガラスが大きく口を開け、高笑いするような声で鳴いた。

「カッ!カッ!カ―――ッ!」

―――

白頭ガラスを見上げた真央は、小首を傾げて不思議がった。

「人間の言葉が理解できるのかしら?」

「笑っているように聞こえるのだけど?……」

「あんな鳥、どうだっていいじゃないか」

丈二は真央の腕を掴んだ。

「早く出よう。俺と一緒にこの寺を……」

「静かでいい所なのに、どうしてそんなに急いでいるのですか?」

丈二は真央の耳元に口を近づけ、小声で教えた。

「拳銃を所持している殺人犯が逃亡した」

「この近辺に潜んでいる可能性が大なンだ」

「ええーッ!」

「キミを安全な松原署の近くまで連れていく。政岡と直ぐに合流する約束をしている。時間が無いンだ。急いでくれ」

「は、はい!」

とその時、カラスの鳴き声とともに奇声が境内の方から聞こえてきた。

驚いた真央と丈二の二人が珍皇寺の境内の方を見ると、本殿の上空を飛び回っていたハトやカラスたちが飛行することが出来ずにバタバタと境内に落下している光景が目に入った。

二人は思わず顔を見合わせた。

「ど、どうなってんだ?」

真央は険しい表情で、白頭ガラスを見上げた。

「ここにいる動物、みんな変なんです!」

「野良猫だって、カラスに似ているあの鳥も……」

―――

本殿前の境内に激しく叩きつけられているのは、ハトやカラスだけでは無かった。

ヒヨドリ、ムクドリ、モズなどの野鳥たちもが、飛行しながら間断なく次から次へと本殿前の境内に落下し続けていた。


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