クウツさん
「クウツさん」は、山の麓の質素な小屋に住んでいた。
その小屋にはもともと樵の爺さんが一人で暮らしていたのだが、ある年の冬、爺さんが「拾った」と肩を貸しながら連れてきたのが彼だった。養和の飢饉で妻を亡くした爺さんは、人手があるほうが良いと言って、彼を自分の小屋に住まわせたのだ。
クウツさんは、年の頃は三十前後で体格の良い男だった。目は虚ろで、誰とも視線を合わせることがなかった。「クウツさん」というのは本名ではない。名を聞いても郷里を聞いても何も答えぬので、里の誰かが、
「お前は傀儡か」
と呆れて言ったところ、近くにいた子供が、
「くうつさんていうの?」
と問い返したのを、爺さんが気に入ったのだ。
クウツさんは一週間ほどで回復して、樵の仕事を手伝うようになった。爺さんに言われた通りのことをし、小屋と仕事場の往復以外に足を動かすことはない。ふた月ほどすると、爺さんは仕事をクウツさんに任せるようになった。何も話さないのは相変わらずで、あいつは口がきけないのだろうという噂も立った。
里の子供らは連日のようにこの新しく珍しい住人を見に行ったが、程なくその親たちが禁止した。野盗や、源平の乱の落人に加え、色が白い子や顔の美しい子を平家の子孫と決めつけて殺す「平孫狩り」も出るという噂があり、大人たちは彼のことを完全に信用していなかったのだ。
それでも、クウツさんの周りをちょろちょろとついて回る兄弟がいた。兄は太助といい当年十、弟は月彦といい当年八つであった。この兄弟は似ておらず、特に月彦の方が端正な顔立ちをしていた。
それについて、
「母ちゃんが里一番の美人だったんだ」
と、なぜか太助が自慢した。
「あんちゃんは父ちゃんに似てっから、里で一番でっかい男になるんだよ」
と月彦は笑った。
クウツさんは、自分に話しかける兄弟の方を見ることもなく、ただひたすらに木を切っていた。兄弟は飽きるまでそれを見、飽きたら木っ端を拾って地面に絵を描くなどして遊んだ。クウツさんが小屋に戻るときまでついてくるので、いつしか爺さんの小屋で四人一緒に飯を食うようになった。
兄弟は飽きることなく家族の話をし、爺さんは「ふん」とか「そうか」とか相槌を打ち、クウツさんはただ黙々と食べるのだった。
そうして、一年が経とうとしていた。
その日は前夜から雪が降っていて、雪沓でなければ歩くのも支障が出るほど積もっていた。戸を開けたクウツさんが暫し固まっていたので、爺さんは妙に思って後ろから覗き込んだ。
「まだ降っとるな。やめておくか」
言葉に幾分か気遣いの意味合いが込められているのを知ってか知らずか、クウツさんは蓑と雪沓の調子を確かめると、斧を担ぎ、ザクザクと雪を踏み分けて出かけた。
「昼まで雪が止まんかったら、戻れよ」
爺さんは、クウツさんの後ろ姿が見えなくなるまで、戸口に立っていた。
クウツさんは、雪の中を、あまり顔を上げないようにして進んだ。やがて仕事場につき、斧を振る。雪は一向に降り止まなかった。空には重い雲が満ちて、辺りは静かな暗さを帯びている。斧を下ろし、周囲を見回した。
あの兄弟が居なかった。
雪が降っているからだろうという考えが彼の頭を掠めた。雪が道を隠し、此処まで辿り着くことを阻んだのだろう。
息を吐いて、切った木を集めようとした時、後方からほんの僅かに声が聞こえた。振り返ると、太助と月彦が見えた。目を細めてよく見れば、並んで走っているようだった。
此方に向かってくる兄弟を視界に入れてぼうっとしていると、二人の後方に、甲冑をつけた男がいるのが目に入った。積もった雪に難儀しながら、兄弟を追いかけているらしい。
睫毛に雪が付いてクウツさんが瞬きしたとき、太助が転んだ。隣を走っていた月彦は、兄が転んだことに気づけなかったようだった。
太助は倒れたまま弟に手を伸ばす。太助がすぐに立ち上がれないのを見た甲冑の男が、下卑た笑い声を上げた。その声を聞いた月彦が、兄が隣にいないことにようやく気づき、振り返る。太助までの距離よりも、クウツさんとの距離の方が近くなっていた。
それを見て、クウツさんは胸の奥が疼くような心地を覚えた。困惑して、斧を持たぬ方の手で胸の辺りを掴んだ。雪が彼の視界を乱し、倒れた太助に別の影が重なる。
(「あんとき」も雪が降っとった)
──立派な鎧兜をつけた若武者が倒れており、自分はそれを見下ろしている。馬の上で。
降る雪の合間から、あの方は自分を見て手を伸ばした。
その目から、手から目を逸らし、手綱を引き馬を走らせた。
その瞳を二度と見たくなかったはずなのに──
雪が見せたほんの一瞬の幻があまりにも懐かしくて、クウツさんは息がくるしくなった
斧を握り直す。一瞬此方を向いた月彦の顔を見た。幼い彼の視線は揺れて、くしゃりと顔を歪ませる。恐らく「平孫狩り」である男の本命は月彦だろう。戻れば確実に殺される。こちらに来ればいい。そう思った。
月彦は──勢いをつけて後ろを向き、兄に手を伸ばして走った。
一拍置いて。
周囲に獣の咆哮のような叫びが轟いた。その大音声に、月彦も、甲冑も足を止める。唯一、クウツさんの足だけが動いていた。先の咆哮の主は彼だったのだ。
あっという間に月彦を追い抜かし、甲冑の前に立ち塞がる。甲冑は、手に持った刀をぶんぶん振った。その様子を見つめる眼は、雪より冷たく、刃より鋭い。
「手前、」
嗄れた声だ。彼がまともに声を発したのは、一年以上前のことだった。
「侍では、なかろ。其の鎧、兜、揃いの物ではない。鎧のつけ方も、違う。死んだ者から、盗ったか、落人の、捨てた鎧を、拾うたか」
甲冑の動きが止まる。
「黙れ! 平家の子を狩って何が悪い!」
「この子らは、平家の子、じゃあない」
刺すような殺気を孕んだ声に、甲冑も、子供らも息を呑んだ。
「両親とも里に生まれて里に育ち、筒井筒の仲だった。母は里一番の美人で、父は里一番の偉丈夫だった。母は産褥で、父は戦に巻き込まれて、死んだ。遺されたこの子らは、大人の手伝いをし、時には木の根も齧って生き延びた。平家の子じゃあ、ない」
太助は、雪の冷たさも、体を起こすことも忘れて、クウツさんの背中を見上げていた。月彦が手を差し伸べたのに気がついて、太助はようやくその手を取った。
「それがなんじゃあ。てめえの首も取ったるぞ。平家の落人言うて差し出したらあ」
「その、なまくらでか」
クウツさんは僅かに笑ったようだった。
カッとなったらしい甲冑が刀を振り上げた時、クウツさんは腰を落として両手で斧を構えた。長く伸びた前髪の隙間から睨み上げられて、甲冑は「ひ」と小さく漏らし尻餅をつく。クウツさんがジリジリと近寄る。甲冑は、取り落とした刀を拾う間も惜しんで、一目散に逃げ出した。鎧が擦れる不快な音も、やがて聞こえなくなった。
兄弟は、斧を持ったままの男の背を呆然と眺めていた。
クウツさんだよね、と、確認したかったけれど、太助は声が出なかった。今になって、歯の根が合わなくなっていた。それに気づいた月彦は、慌てて太助に抱きついた。
ざく、ざくと足踏みをするようにゆっくり振り返った男は、着ていた蓑の紐を解いて太助の前に放る。
月彦がそれを拾って、太助に掛けてやると、太助はそれをさらに広げて月彦も一緒に入れようとした。月彦はふるふると首を振った。
「あんちゃん着て。おれは平気だ」
男は、兄弟の様子をじっと見ていた。月彦が、彼に一歩近づく。
「クウツさん。ありがとう。助けてくれた」
男は少し眉を顰めたようだった。
「思ったより、骨のないやつだった。俺みたいな卑怯もんにびびってよ」
困惑して兄弟は顔を見合わせる。構わず、彼は話し続けた。
「生きたかったんだ。
俺はな、兄のように接してくれた主を見殺した卑怯もんだ。俺を戦場から逃してくれた馬を食った卑怯もんだ。拾ってくれた爺さんに素性も話さん卑怯もんだ。月彦が太助を見捨てたら、その手を取って遠くへ逃げようとした卑怯もんだ。生きたかったんだ。
生きたかったんだがな」
ぼとぼとと口からこぼれるままに言葉を落とし、男は兄弟の顔を順に見て目を細めた。
「生きるために、生きたかったんじゃあないのにな」
「……おっ、おれは」
太助が、ガチガチいう歯の合間から言葉をつむいだ。
「月彦も。クウツさんも。生きてって。思ったよ。きっと。アルジも。馬も。思ったよ」
クウツさんは、黙って太助の頭を撫でた。
「優しい男だな、太助も、月彦も」
いつの間にか、雪は止んでいた。クウツさんは太助を背負い、月彦の手を引いて一緒に爺さんの家に帰った。
それからのクウツさんは、相変わらず無口ではあるが、人の目を見るようになった。声をかけたら短く返事をするようにもなった。ただ唯一雪の降る日だけは、外に出て、じっと遠くを見つめていた。拳を握りしめて。唇を引き結んで。
誰かを、雪の中に見出そうとしているように。
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「雪」をテーマに書いた短編でした。
こちらは、平家の武将、平重衡の乳母子、後藤盛長をモデルに書いたものです。
後藤盛長は一ノ谷の戦いで、重衡の替えの馬に乗っていましたが、重衡の馬が射られたとき、真っ先に助けるべき主を見捨てて一人逃げました。
最期まで主と運命を共にする乳兄弟が多い中、平家の中でも特に人望があり、頼朝にも命を救いたいと思わせた重衡を見捨ててしまった盛長は、逃げたあとはどうやって生きたのだろうと思ってしまいます。
お読みいただきありがとうございました。