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破棄された婚約は糾える縄の如し(前)

「エミリー。お前、浮気しているだろう! 俺は見たぞ!」


 大きく響くバリトンボイスで怒鳴ってくるのは、四つ年上の婚約者ダニエルだ。彼の身長はエミリーより5インチは高い。スキンヘッドバリバリの肉体派消防士だ。


(なにごと?)


 私ことエミリーは思わず、細身の身体についた首をすぼめていた。聞き慣れた大音量だが、一体、何が起きたのかと眼鏡を直す。


 彼はなんと言ったか。『浮気』こんな、地味でしがない二十二歳の大学職員を捕まえて問うことではなかろう。ダニエルが浮気したと言うなら、まだ見込みがある。浮気性か、甲斐性があるのか、は置いておくとして。


 そういう訳で、とぼけるでもなく、はぐらかすでもなく、エミリーは素直な気持ちで聞き返した。


「……なんの話?」


 ダニエルとテーブルを挟んで向かい合わせ。彼が座ると、備え付けの椅子が子供用かと錯覚しそうだ。もちろん、子供部屋なんてことはない。


 ここは、大学職員用に斡旋された部屋。いや、寮の一室とでも言おうか。台所と寝室にバストイレがくっついたくらいの古ぼけたアパートメント。時折虫が這ってくることだってあるけど、両親が厳しいエミリーにとっては、ようやく手に入れた自由の砦だった。


「だから、見たんだよ! お前が、街の噴水の前で『ケヴィン』と腕を組んで歩いているのを」


「ケヴィンと? なんで私がそんなことをするのよ。あなたもいるのに」


 ケヴィンは学園の同僚だ。少し小太りで、そのシルエットは遠目でも良くわかる。気のいい男ではあるけど、エミリーとは『そんな関係』じゃない。


「……嘘をついてまで隠そうとするんだね。君がそんな女だとは思わなかった。言いたくなかったけど、言うよ」


 ダニエルの顔は紅潮し、テーブルに置いた手は、がたがたと音を奏でている。どうやら彼は怒りに震えているらしい。しかし、エミリーには何の心当たりもなかった。あの『ケヴィン』となんて、酔って薬を盛られてもありえない。


「ケヴィンと腕を組んで一緒に入っていった……」

「どこに?」

「……こに」


 ダニエルの声は小さく、震えている。

 とてもとても珍しいこと、そんな感想を持ちながら、エミリーは内心でけっこうなショックを受けていた。まさか、大声バリトンのダニエルに、こんなことを告げる日が来るなんて。


「ごめんなさい。声が小さくて、聞こえなかった」

「だから! この部屋に! 君と! ケヴィンが!」

「はあ?」


 いま、エミリーはかつてないほど間抜けな顔をしていることだろう。口と目を丸くして、ぽかんと。もし写真にでも収められたら、一生のお笑い草だ。


 一方で、ダニエルの表情は真剣そのもの。怒りの炎が燃え上っているのが見て取れる。テーブルはコンガじゃないよ、そんな苦言を呈したくなるほど、ダニエルはテーブルを叩いて詰め寄ってきた。


「この浮気者め! 君との婚約なんてもう止めだ!」

「ちょ、ちょっと待って欲しいのだけれど、」


 婚約解消とは穏やかではない。エミリーは友人曰く『冷凍庫に住むモグラ』のような性格だったが、それゆえダニエルの直情的なところが嫌いでなかったりする。二人揃って、押したり引いたりしながら生活するのは、むしろ好ましかった。


「とにかく、少し落ち着こう。私には覚えがないし、一度見たくらいで決めつけるのは、ダニエル良くないよ」

「……一度じゃない。部屋に入っていくのを見たのが二度、二人で部屋から出ていくのを見たのが三度だ。いくら俺でも、すぐにこんな話をする訳がないだろう。冷静になって、注意深く判断したよ。君と出会って覚えたことだ。皮肉にもね」


 ダニエルの成長に祝杯でもあげたいところだったが、今はその時じゃないだろう。何度も見かけているとなれば、誤解を晴らすのも容易ではない。ダニエルは思い込んだら一直線の男だし、正義感も強い。


 あまり表情に出てないだけで、内心ではエミリーもけっこう慌てている。こういう時は、鍛錬不足の表情筋が疎ましい。


(部屋の鍵は私がいつも持っているし、隣の部屋と見間違えた? じゃあ、私がケヴィンと一緒にいるってのは? たしかケヴィンって最近、彼女できたとか言っていた気がするけど……)


 あれこれ疑問が沸いて黙り込んでしまう。それでも、返事をじっと黙ってくれるのがダニエル。熱くなっていても、話を聞こうという姿勢はいつもの通りだった。


 エミリーは何か糸口を見つけようと、もう少し掘り下げる。


「ごめんね。たぶん、何かの誤解だと思うの。……いつ見たのか、それを教えてくれる? もしかしたら何かわかるかも」


「……全部は覚えていないが、噴水の側で見たのは今日の昼頃。出入りしているのを見たのは……三日前だ。とにかく……」


 言いながら、ダニエルは扉の方へ歩いていく。


「君への疑惑が解消できなければ、もう会うことはできない。これっきりだ。何かあるってなら、まずはメールか人づてで寄こしてくれ。あげた物や貸してる物、これも返さなくていい」


 見慣れた大きな背中が、急に小さくなっていくのをエミリーは感じた。いきなり告げられた別れ。しかも、思い当たる節は何もない。


「さようなら」


 ばたん、と扉の閉められる音。部屋は急に静かになった。なぜだろうか、部屋の温度まで下がった気がした。


「……一体、どういうことだって言うのよ」


 エミリーは深いため息を吐きながら、天井を見上げた。

 古くこびり付いた天井の汚れが、やけに気になった。



◇◆◇



「と、いう訳なのだけど、レレイに何かいい知恵はない?」


 途方に暮れたエミリーは、親友のレレイをいつものカフェへ誘い出していた。アッシュブロンドの長髪が印象的なレレイは、エミリーの二つ年下。彼女は九歳で大学を卒業した天才だ。センスはどこか他人とずれているレレイだが、不思議とエミリーとウマが合った。どこか、似たところがあるからだろうか。


(『同じ羽をもつ鳥は群れる』なんてことは、きっとない)


 類友と呼ぶには出来すぎた頭脳の持ち主と、ストリートに面したテラス席で向き合い、エミリーは頬杖をつく。昨日のできごとは、もうかいつまんである。


「……『やってない』ことの証明は難しい」


 いわゆる、『悪魔の証明』だ。あることの証明、例えば『浮気をしている』ことの証明の方がよほど簡単に済む。


「可能性の話で言えば、『ケヴィン』から説明をしてもらう方法」

「……話してなかったけど、ケヴィンからは言い寄られたことがあるのよ。もちろん、断ってはいるし、ダニエルにもちゃんと話したのだけれど」


 一度ではない。三度もあった。もちろん、すべてを一秒も間を置かず断っている。要するに、そういう相手だからこそ、ダニエルも気にしてしまうのだ。


「なるほど」

「でしょう? だから困ったな、って。それに彼の話、ちょっと変なのよ」

「『アレ』の話はいつもおかしい」


 レレイは汗のかいたアイスティーをおいしそうにすっている。彼女の手元には、ガムシロップが七個転がっていた。おまけに、自前でシナモンパウダーまで。味覚も少し常人とは異なる。『一味違う』では、きっとすまない。


「彼は『昨日』と『四日前』に私を見たと言っているのだけど、『四日前』の私は……レレイ、どこにいた?」

「日本」

「そう。こっちにいるのはありえない。自家用機を飛ばしたって無理」

「……教授に頼んで、軍用機を使わせてもらえば可能」

「レレイと私は、ずっと一緒にいたでしょ」


 そんな裏技までしないから、とエミリーはじとっとした目をレレイに向ける。


『こりゃ失敬』

「……どこで覚えたのよ。そんな日本語と仕草」

「お台場」


 レレイは眠そうな目をしながら、両手の指先を頭頂部に乗せている。

 天才と何とかは紙一重と言うが、普段のレレイは一線を踏み超えている。もちろん、天才とは逆側に。とはいえ、集中しだすと、その道の専門家が束になっても敵わないのだから、天才であることは間違いないのだが。


 エミリーはため息を吐いた。


「仕方ない、とりあえず、もう一度ダニエルに話してみる。レレイ、話を聞いてくれてありがとう。気が晴れた」

「……本当に?」

「えぇ。その代わり、本当に婚約がぽしゃったら、あなたも旅行に付き合ってよね」

「それは断る」

「あら、冷たいのね」


 レレイがにいっと口角をあげていた。眠そうな目が見開かれ、心なしか身体が震えている様に見える。


「私が謎を解く。そうしたら、旅行に行く必要はない。代わりに、」


 レレイがくすんだトートバックからタブレット端末を取り出す。


「祁門紅茶を私に奢ること。それから、マルチフローラルマヌカハニーを2.2ポンド用意すること。それを、お願いしたい」

「どっちもけっこうな高級品じゃない。ていうか、ハチミツを2.2ポンドって……熊にでもあげるつもり?」


 レレイは、冷たそうに見えて情に厚い。しかし、欲しい物に手加減や容赦はない。専門店か海外から輸入するしかない。たぶん、今月は金欠で決定だ。


「もちろん、私が食べる。手で」

「知ってる。……少しは分けてね」

「構わない。まず、監視カメラの映像と警察のボディカメラ映像をサーバーから手配した。ケヴィンの写真は持っている?」


 レレイの行動は早い。彼女の仕事はホワイトハッカーだ。街中のカメラ、警察のサーバーに侵入するくらいお手の物だろう。彼女にかかれば、どんなに強固な燃える壁ですらレッドカーペットも同然。軽くノックしたら裏口が開いてました、感想なんてそんなものだろう。


「ある。……送った」

「照合する」


 タブレット端末の画面に何枚かの画像が表示されていく。ケヴィンが写っている物もあれば、別人と分かるのもある。彼のシルエットは特徴的なので、どこにいるかは見分けやすい。

エミリーは、表示されていた一枚の画像に指を向ける。


「……これって?」

「拡大する」


 そこに映っているのは、ケヴィンで間違いない。しかし、彼の横にいる女性が問題だった。その女性はライトブルーのセーターにグレーのパンツを身に着け、やたらと大きなサングラスをかけている。サングラスはともかく、セーターとパンツには、どこか見覚えがある。

 いや、見覚えがある、で済ませてはいけないだろう。


「これ……私の服装と、まったく同じ?」

「そのように見える」


 そう、ケヴィンの腕にしがみつく女性は、エミリーと同じ服装を身に着け、本人と瓜二つだった。



◇◆◇



 エミリーは頭を抱える。目の前には、プリントアウトした数々の画像。そこには自分とそっくりな女が写っている。しかし、まったく覚えがなかった。


(この女……誰だ?)


 エミリーとレレイはひとまずレレイの研究室に移り、女の正体を探っていた。こざっぱりとした研究室は大体200平方フィートほど。本棚やパソコンが壁面に置かれ、中央のデスクには件の画像を並べている。


「歩容認証と骨格認識の限りだと、この女はエミリーとは別人。しかし、誰かまではわからない」

「うーん。私が記憶を失っていたり、夢遊病の可能性はないだろうし……」

「目撃範囲から考えれば、エミリーの部屋を中心に出没しているのは確実」


 そう言ってレレイは立ち上がる。ホワイトボードに付近の地図を貼り付け、女が写っている画像の位置に赤いピンを立てていく。


「ねえ、最悪のことを考えると、」


 自宅を中心に赤いピンで輪ができていくのに、エミリーは眉をひそめる。


「私の部屋に出入りした上に、私の洋服を着て、男を……ケヴィンを連れ込んでる女がいるってこと?」

「同意見。私たちは気が合う。『アレ』は放っておけばいいのに」


 『アレ』とはダニエルだろう。レレイは口をもごもごしながら、チョコレートを摘まんで同意してくる。他人ではわからないだろうが、唇は歪んでいる。彼を口にする時、レレイはいつも不快感たっぷりの表情だ。


「それはともかく……できれば、否定して欲しかったけどね」

『だが断る』


 レレイの仕草には苦笑しか出ない。平常運転をしてくれるのは落ち着くが。


「……カメラ、それから、盗聴器。あと何がいる?」

「対人用の地雷でも仕掛ければ、被害者は二人で済む」

「あら、いい案ね。でも却下。大家さんが怖いから」

「大家。なるほど」


 エミリーの軽口を聞いたレレイは、何かに気づいた様子でキーボードとトラックボールを素早く操作する。にいっと口角が上がっている。涎を垂らさんばかりの勢いで画面に顔を近づけ、画面に表示されたタブを次々と入れ替える。


「見つけた」

「これは?」

「大家の娘。エミリーが住んでいるアパートの」

「それって、もしかして……」


 エミリーは何かに気づいたように目を見開く。『ペリィ・ポートマン』そう表記されている女は齢二十とある。身長、体重も、エミリーとほとんど変わらない。


『君の様に勘のいい娘は嫌いだよ』

「だから、どこで覚えてくるのよ」

「これくらいは義務教育」


 まったく、どうも日本行きの出張申請が多いと思ったら、そういうことか。ともあれ、ターゲットの見当はついた。あとは、証拠だ。


「裏付けは採れた……が、」


 画面にはSNSのアカウント。片割れのケヴィンと大家の娘双方がアップした写真をクロールして照合したらしい。相変わらず手際がいい。


「こんなにザルだと、さすがにつまらない」

「じゃあ、こういうのはどう?」


 エミリーはレレイにそっと耳打ちする。それを聞いたレレイはエミリーの方を向くと、極上のカモを見つけた詐欺師のように下卑た笑いを浮かべた。


「ふふふふ」

「ふふふふふふ」

「「ふふふふふふふふ」」


 ダニエルの疑惑を押し返すべく、そして、無礼な奴へは鉄槌を落とすべく、逆襲の二人は、ついに始動した。

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