第2話 蜚蠊戮名
朝早く。まだ営業時間ではないが来客を知らせる木製のチャイム式ドアベルが鳴る。
「おはようございます。ようこそ、蠱黒虫道抜事務所へ。緊急事態のようですね。」
出入り口の扉と向かい合っている机で書類を読んでいるのは眼の下から生えた長い触角が特徴の昆虫人間。ボタンが2列ついた、黒い軍服を着ている。
昆虫人間達……彼らは自分たちのことを蠱人と呼んだ。体長は、成人(成虫)で男女共にだいたい10cm。
幼年期はほとんど人間の赤子に近く、種によっては蛹を経、成熟するにつれその虫を象徴する特徴を持った人間といった容姿になるが、外骨格で体を支えているなど人間とはかけ離れた種である。
「ハア、ハア……あんた、虫と戦えるんだってな!?」
細長いバッタ……ショウリョウバッタの男が息切れしながら上半身裸で立っていた。
「虫の襲撃ですか。わかりました。」
虫と戦える……そう言われた彼は机の横のバッグを持ってショウリョウバッタの蠱人に近づく。
座高ですら立っているショウリョウバッタより高かった彼は、かなりいいガタイをしている。ショウリョウバッタ10cmに対して、16cm。
現在の男性の平均身長173.9cmから計算すると、もし彼が人間ならば276.64cmということになる。
蠱人は人間よりはるかに小さい種族であると同時に丈夫な外骨格をもっている。
なので人間のような殴り合いをしても大怪我をすることはないが、目の前にすればかなりの威圧感があることがわかるだろう。
「とにかく来てくれ!」
ショウリョウバッタについて走りだす彼こそ、この物語の主人公。名前は蠱黒 戮名。まだ成虫ではない、蜚蠊の青年。
10歳で家を出、カマキリの軍人に育てられ、その後自立して事務所を設立した。
「ハァ、ハァッ」
前を走るショウリョウバッタは遅い。もう跳ねる体力も残っていないのだ。
「失礼します。」
「何すんだよ!?」
戮名は彼を抱え、蜚蠊の脚の速さで走る。
(何だコイツ、服も脱がすにオレを抱えてこのスピード、虫以上のバケモンだ。これなら……待ってろよ……!)
主に、体に空いた穴である気門で呼吸する彼ら蠱人にとって、激しい運動をする時は服を脱ぐのが常識だ。
戮名は前方右から人のざわつく音を聞いた。その方向へ向かうと、すぐに現場に到着した。そこでは虫が樹液を飲みにきて大騒ぎになっていた。
集合住宅の木で樹液を取るのは禁じられている。またそのような場所で樹液の出る箇所を見つけたら塞ぐのが住民の義務である。
「取り残された人はいますか。」
「オレの子供がまだ家の中にいるんだ! あの、虫がいる近くの扉のとこがそうだ。他のやつは全員避難したらしい」
「わかりました。」
戮名はショウリョウバッタの父親をおろし、鍵を受けとるとバッグの中から生物の針や刃物を取り出して身につけ、木に取り付けてある螺旋階段を上り始めた。
蠱人たちは木を生かしたままくりぬいて家にするなどして、基本的には街を作って定住生活をしている。
普通の昆虫は蠱人たちから虫と呼ばれ、街へ入ってきてしまうと大抵害獣のような扱いを受ける。
虫はスズメバチが1匹、コガネムシが3匹、チョウが1匹である。樹液が出ているところとショウリョウバッタの家は近かった。
戮名は触角をしきりに動かして、虫たちが警戒していないか確認しながら扉に近づく。
……大丈夫だ。異常なにおいは感じとれない。彼らは樹液に夢中らしい。
そっと扉を開ける。中からヒィと小さな悲鳴がした。素早く中に入り、扉を閉める。
家の中で2人の女の子を見つけた。小さいほうは緑色の服を着ていてあのバッタの子だとわかる。
だが大きいほうはボロボロの、立派であった面影のある黒い服を着ていて明らかにバッタではない。
蠱人が大抵着ている服は蠱古皮服と呼ばれ、体から皮が脱げるようにしてできる。失くしても栄養状態が良ければまた体が作るが、文字通り一張羅である。おしゃれな蠱人用の服の店も少なくない。
「静かにすれば大丈夫……助けにきたんだ。」
戮名は2人にその低い声で怖がらせないよう、できるだけ優しげに話しかけた。すると片方の、小さいほうが返事をした。
「助けてくれるの……?」
戮名は頷いた。そして小さいほうは戮名に駆け寄り、抱えられた。しかし大きなほうは動こうとしない。
「きみもおいで」
「なんでここにいるの」
「助けにきたからだよ」
「ウソつき、あっちへ行って」
彼女は怯えた様子で戮名から遠ざかる。無理やり捕まえても暴れて虫を刺激しそうなので、まずはバッタの子だけを救出することにした。
「わかった」
彼は再び慎重に扉を開ける。虫はさっきと変わらず樹液に夢中だ。扉の鍵を閉めて急いで階段を駆け降り、木の根元までバッタの子を送り届ける。
「お父さーん!お母さーん!」
「「祥子!」」
救助された女の子、祥子は両親と抱き合っている。
父親が戮名のほうを向く。
「ありがとう、これで全員避難できた。あとは虫を殺してくれ。もちろんここにいる皆で金は払うさ。」
「黒い服の女の子がまだ残っているんです。何か知りませんか。」
「うーん、あ、あいつか。」
少し気を落として話す父親。
「詳しいことは分からないが、親のいない子だと思う。オレたちが避難してた時に引っ付いてきたんだ。」
数日前、戮名の住む街、塩夏街と川を挟んで向かいにある街、塩橋街がハチの集団に襲撃された。
通貨である塩、金券ならぬ塩券などの財産や食料を大量に略奪され、住む場所を破壊され、助けを求めてきた塩橋街の人たちに戮名の住む街……塩夏街は住むところや職を分けている。
そしてその後なぜか虫が樹液を飲みにくるという騒ぎが塩夏街で頻発しだした。このことは戮名も知っていた。
「引っ付いてきた?」
「ああ、船に勝手に乗り込んだらしい。」
あの傷ついた姿や警戒から、戮名は黒い服の女の子が虐待を受けていたかもしれないと推測した。
「わかりました」
周りの人たちが自分の家に虫が入りはしないかと不安になっている。
もう一度木の集合住宅をのぼる戮名。まずはショウリョウバッタの家の中の黒い服の女の子の元へ向かう。
彼女はうずくまって泣いており、扉が開いたのに気づくと飛びのいた。
「きゃあ……あ」
「ここは危ない。」
「わかってるの……さっきも扉のすぐ近くを虫が移動してる音が聞こえたもん」
女の子は戮名への警戒心が少し薄れていた。
「わたしはこれから虫を退治するよ。できるだけここに虫が入らないよう注意する。だからきみも音をたてないように注意して。」
「わかった」
戮名が家の扉の鍵を開けると、外から開けられそうになった。急いで閉める。
「手前はチヨの保護者だ。ここを開けな。」