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【短編】クイーンズゲーム

作者: 赤河ますみ

久しぶりに登録してみました。

 今、私は世界を相手にしていた。


 目の前にはチェス盤が一つ。

 きっと、私の会社員としての年収よりも、遥かに高い逸品が堂々と鎮座。


「アガータリフは終盤の読み合いが何よりも強いチャンピオンです。挑戦者のルークが取られたことにより、形成は一気にチャンピオンに傾きました」


 周りには大勢の人間が私たちの方を見ている。スーツやタキシードを着て紳士然とした沢山の大人たち(大半が上流階級の白人ばっかり)。 

 目を細めて、私とチェス盤の向こうに座る老練な紳士の戦いを見ていた。


 彼らの視線は、全てチェス盤の上で動く駒。

 ボーンやルーク、そして中央のクイーン、チェスの駒たちに注がれている。


「挑戦者にとっては、苦しい展開といえるでしょう。挑戦者は果敢な攻めが持ち味ですが、彼女の手はここにきて、完全に止まりました」


 的外れな実況だって。


 私はただ自分の人生を振り返っているだけなのに。


 まず、胸を張って言えるのは、私はチェスに人生を捧げてしまったってこと。

 家庭環境が特殊だったから、何度生まれ変わっても私はチェス漬けの生活を送るに違いない。

 チェスを愛した両親のもとに生まれて、幼い頃から英才教育を受けてきた。

 チェスを打ち続けるお父さんとお母さんの姿。

 毎日あの姿を見せられたら、私がチェスに興味を持つことも自然といえよう。


「挑戦者は予想に反して、優勝候補と呼ばれる実力者を次々に退けていました。一戦目のバンカー・ヂア。二戦目の、ヒアリー・クリトン。四戦目のカラー・リバイブ」


 世界のチェスは男性が優勢。頭の構造が男性と女性では違うって言われているから、両親は男の子を待ち望んでいたらしいけど……実力で黙らせた。

 思い返せば、私のモチベーションは両親への反骨心もあったに違いない。


 日本人として、世界に誇れるチェスの指し手になるために。

 小学校に行っても、社会人になっても、私の頭の中はチェス一色。

 だけど、それぐらい徹底しないと世界には勝てないって言葉が両親の口癖だった。


「唯一の女性として目覚ましい活躍を繰り返す挑戦者に対して、国内でも彼女を応援する声は小さくありません。会場の外には、異国の挑戦者を一目見ようと大勢の観客が詰め寄せています」


 もう両親はこの世にいない、それでも私は人生をチェスに注いだ。

 両親がいなくなったから、途中で道を諦めるなんて選択は私には無かった。

 少なくとも、空の上にいるんだろう両親には胸を張って言えることが一つ。


 今、この場所に座っている。

 チェスの聖地――。


「挑戦者の駒がようやく動きました。動いた駒は……クイーン。これまで盤上で睨みを利かせていた挑戦者の代名詞、クイーンです。今、外では歓声が上がったようです。無理もないでしょう。クイーンは彼女の代名詞」


 世界戦に挑めるのは今年が最後。

 歴史上、最強と言われる世界チャンピオンは今年をもって、引退を表明したから。


 チェス盤を挟んで、向こうに座る老骨の紳士。

 今日をもって、アガータリフが持つ全ての栄光を、私が奪い取る。


「クイーンズゲームの始まりです。一戦目から本日に至る全て、中央のクイーンが動き出してゲームは動き出します。彼女に敗れた実力者たちは、誰一人として彼女のクイーンを取ることが出来ませんでした」


 目の前はぼやけてる。

 体調は相変わらず、最悪。

 残された時間は少ないって、自分が一番わかってる。


「挑戦者によるチェック!」


 チェス盤上の仲間たち、駒がはっきりと見える。


 理解出来なくても、駒が自分を動かせって伝えてくる。

 たまにこういう日がある。


 こういう時は、深読みよりも自分の直感を信じないといけない。


「……」


 虚勢だって、時には大事だ。 

 勿論、この老練な世界チャンピオンには通用しないだろう。

 

「世界チャンピオンの手が止まりました。世界チャンピオン――アガータリフ、考えて込んでいます、熟考です――アガータリフ、キングを逃がしました」


 身体が熱い。

 ひどい風邪をひいているみたいに。

 駒を動かすだけで体力がこっそりと削られていく。


「……」


 私たちの間に言葉は無い。

 けれど駒の動きが会話だ、なんてね。


「……」


 既に私はキングの守りを捨てている。

 私のクイーンズゲームに、守りは不要。

 キングより、クイーンの攻勢に価値を置く。


 クイーンの進撃が一度でも止まれば、私は負ける。

 だからキング。

 いつもみたいに、我慢して? 

 私のキングなら、今、攻撃の手を緩めるわけにはいかないって分かるでしょ?


「挑戦者は得意な形に持っていきました。そして世界チャンピオン、再び深い熟考。これまで淀みの無い、アガータリフの動きが初めて止まりました。 長い聴講――世界チャンピオンの頭には何が浮かんでいるのでしょうか」


 アガークリフは守りに強く、私のミスを狙っている。

 人生経験の豊富さがチェス盤にも表れているみたいだ。

 チェスしか知らない私とは真逆のスタイル。


「……」


「……」


 私は気迫だけで、この場に座っている。

 今、医者の自分の状態を見せれば、勝負は強制的にストップ。 

 顔色の悪さを隠すために、化粧もばっちり。


「……」


「……」


 チェスは男性優位とされる盤上のお遊びだ。

 この会場の大勢だって男性だし、全員が私の敗北を願ってるんだろう。


「……」


「……」


 この勝負が終わったら、旅行に行こう。

 勿論、会社は辞める。

 うん、それは確定だよね。

 馬車馬みたいに働かせやがって。有休を取るためだって、いやがらせを受けたし。


「…………いつか、来ると思っていました」


 え?


 実況の拡声器じゃない生の声。

 顔をあげたらそこにいるのは当然、チャンピオン一人。


「おそらくは男性で、同国の人間。だけど、私の予想は外れました」


 目の前の老紳士が、にっこりと笑う。

 表情なんて捨てたと思っていたよ、世界チャンピオン。


「悔しいが、勝ち筋が見えない」


 初めて見る。

 雑誌の中でもテレビの中でも、動画サイトの中でも、男に支配された男の姿。


「おめでとう。初めての女性」


 世界チャンピオンが、キングを倒す。


 それはチェスのルールで、降参を示している。


君の勝利だ(ニューチャンピオン)



 万雷の拍手が聞こえ、私はゆっくりと目を閉じた。

 

 この瞬間が、私にとって何よりも尊い。



「――救護を呼べ! 倒れたぞ!」


 症状は多分、過労だと思う。

 だって、働きまくってるからね。

 それ以外には考えられない。

 仕事をしながら、暇さえあればチェスの研究に明け暮れた。本当はチェスだけの生活を過ごしたかったけど、今は天国にいるんだろう母親の遺言に私って呪われてる。


「医者を通せ! マスコミは部屋から下がらせろ!」


 最後の最後にあの人は、チェス以外にも興味を持って、普通の生活をしてなんて。

 今更、呪いみたいな言葉を伝えられたから。


 だから就職活動を頑張って、一般企業に就職。

 平日は社会人として働き、他は全てチェスに注いだ。過労だって分かってるけど、それでも世界を取るまでは休む気になんかなれなかった。


「――」


 最後まで両親の操り人形だったとしても、私に全く後悔はない。


 清々しい気分で一杯だよ。


 言葉通り、私は命を懸けて戦ったんだからね。

 やりきったんだ――。



 ……。

 …………。

 ………………。


 ぼやけた視界の中に映る目一杯映る笑う2人の男女が移る。


「ユーリ! 今は何も考えるな! 私たちの子だ! 今日だけは全てを忘れればいい!」


 ……え、だれ?


 男泣きした白人さん、どちらかといえば暑苦しそうで私の苦手なタイプ。海外ドラマの中で出てきそうなイケメンが、ドアップに見えた。


 う、うわ。

 今度は違う人のドアップ。

 次は女性だ。こちらも白人。

 おしとやかな美人。

 幸が薄そうで、男性が守ってあげたくなるようなタイプ。私とは正反対。


「……だけど、ハーランド様」


「何も心配することはない! 君が平民だろうと関係ない! この美しい子供は私たちの娘だ! 戦争が終われば、君をヴァイナルダムへ連れて帰る! ユーリ、君は私の妃になるんだ!」 


 え? 

 何この状況?

 う、うわ! よくわかんないんですけど! 


 暑苦しい青年が、もう一度私を抱き上げる。

 抱き上げる……? どういうこと? 私、そんなにぬいぐるみみたいに持ち上げられる程、軽くないんだけど……?


 あれ……声が出ない。

 声の出し方を忘れてしまったみたいに、私の口からは泣き声ばっかり。


「君の名前はアレニャ。アレニャ・ヴァイナルダムだ!」


 そして、イケメンな青年が私に向かって言う。


 ……端正な顔立ちが、涙でくしゃくしゃに歪んでいる。だけど、悲しそうには見えなかった。むしろ、この男性も、女性も喜びで溢れている。


「アレニャ! 君は……北部国家ヴァイナルダムの正当なる王、このハーランド・ヴァイナルダムの娘だ――」


 ……む、娘? 私が……?





 ――そして16年の時間が過ぎた。



「――アレニャ! アレニャはどこにいるの!」


 お姉さまの声を聞くと、いつだって私はうんざりした気持ちになる…。


「アレニャはどこ!? 急いでいるの、誰か見ていないの!? 地下の書庫? あの子って、またどうして地下なんかにっ!」 


 階段を走り続ける音。

 ……はあ、今度はどんな嫌がらせを思いついたんだろう。

 バタンと扉が開かれて、薄暗い書庫の中に一気に光が走った。

 私はお姉さまが持つ燭台の炎に、目が眩んだ。


「アレニャ、あんたってば……ずっとこんな場所にいたの!? 今日が何の日か忘れたの? はあ、昔からどうしようもないところって一つも変わらないのね」


 高級生地のドレスに身を包んだカミーラお姉さま。

 北部女性特有の色白の肌に薄青の髪、スタイルの均整がとれたモデルみたいな人。だけど、ちゃんと出るとこは出てて、美容に余念がないお姉さま。


 北部国家ヴァイナルダムに咲く一輪の花、なんて自称するお姉さまは目を吊り上げて、書庫の整理をしていた私を見つめる。

 けれど私にだって言い分があるんだ。

 

「……カミーラお姉さま。アレニャはお姉さまから言われた通り書庫の整理を行っていましたけど……」


 私がいるのはお城の地下にある書庫。

 古めかしい書物が埃とともに並べられている。

 書庫の大半を占める本棚には古めかしい歴史書が並んで、私はこの書庫を暇さえあれば整理するようにお姉さまから命令されていた。


 お姉さまはこうやって時折、私が掃除をサボっていないか見に来るんだ。

 誰がどう見たってイジメだ。

 けれど、お姉さまはお家の中ではかなりの権力者。


「私、そんなこと言ったかしら? あんたの勘違いでしょ? 何、私のせいにするの?」


 きょとんと惚けるカミーラお姉さま……この野郎。


「……私の聞き間違でした、申し訳ありません」


「そうよ、アレニャ。あんたは自発的に掃除していたんでしょ?」


「……」


 だけど、今日は高慢ちきなお姉さまの様子がおかしい。

 化粧がばっちりだし、服装だって気合が入っている。 

 まるで今からどこかの舞踏会に行くようだ。


「……はい、お姉さま」


 私に書庫の整理を命じたのは、お姉さまなんだけど……。

 勿論、私は口答えなんてしない。


 王族に生まれてしまった可哀そうな女の子、それが私。

 アレニャ・ヴァイナルダム。 

 父親は国王で、母親は平民。

 何とも中途半端な立ち位置で生まれてしまった哀れな子は、王族の中では除け者扱い。いつの時代だって、下賤な血は嫌われるのだ。


 唯一の後ろ盾であるハーランド国王、お父様が急逝でもしたら……。

 平民の血が混ざってる私は正当な王族、特に私の存在を嫌っているカミーラお姉様に暗殺でもされるんじゃないかって、平民からは噂されているらしい。


 ……はあ。

 お父様はどうして平民と結婚なんてしてしまったの。

 私が生まれた時、お母さまが不安そうな顔をしていた理由、よく分かります。


「何ぼさっとしているのアレニャ、早く上に上がってきなさいって行ってるでしょ! この愚図! のろまね!」


「え、でも……」


「本当に鈍い子ね。今日がどれだけ大事な日か分かってないの? 貴方って記憶力も悪いの?」


「……大事な日、ですか?」


 私が言うのもアレだけどお姉さまは、こうやってプンスカしてなければ相当な美人だ。王族の嗜みである魔法だって相当に使えるし、北部の社交界では華々しく活躍している。

 北部では誰もが憧れるセンスの良いカミーラ姉さま。 

 だけどちょっとだけ性格が悪い。いや、ちょっとじゃないか……。


「中央の王子が四国巡りに来るのよ、ヴァイナルダムは最後なことが腹立たしいけど!」


「中央っていえば……」


「シンクレアのジュリオ王子に決まってるでしょ! 競い合いになるわ! 北部の雪解け時期を狙ってわざわざ来るんだから! 魔物討伐って聞いてるけど、嫁捜しの理由もあるわね……あの人、浮いた話を聞かないから」


 何やら興奮していると思ったらあの人が来るからか。

 我が家は、北部国家ヴァイナルダム。

 非常に由緒正しい家柄、というか王族だけど上には上がいる、それが世の常だ。


「だけど、ジュリオ王子の到着は明日だって……」


「にっぶい子ね! こんな子と同じ血が少しっでも混じってるなんて、ぞっとしちゃうわ! いい、アレニャ。よく聞きなさい。ジュリオ王子が、もういらっしゃったのよ! いつまで、ほうきを持ってるの! 凍って、バラバラ!」


「わっ!」


 書庫の整理に使うから、私に与えられていた小さな箒が氷漬けに。

 慌てて手を離すと、カチカチに固まった氷の塊、元々は箒だったものが床の上で弾けて散った。


 恐ろしいことに、この世界には魔法というものが存在する。

 私が生まれた北部国家ヴァイナルダムが司る魔法は氷、そしてさっきお姉さまが唱えたバラバラという言葉。あれがお姉さまの力。


「ほら、ぼさっとしないでアレニャ、行くわよ! お父様から、家族全員集まるようにってお達しがあったの! でも、身の程を弁えなさい? 本来なら、王城に住まうことを許しているのも情けなのだから?」


 ムカムカしてるのは、私を薄暗い書庫に押し込めて置きたかったからだろう。

 お姉さまより先に結婚してもいけないしお姉さまより先に目立ってもいけない。

 それが私。

 平民の母親を持つ、王族の汚点アレニャ・ヴァイナルダム。


「い、痛いよ」


「早く準備をなさい。あんただって一応、王家なんだから! 誰も認めてないけど!」 


 お姉さまに腕を掴まれて、書庫を出る。そのまま階段を上って歩いた。


 自分で言うのもなんだけど、私は外見には相当恵まれたと思う。

 だけど容姿が役に立つのは貴族や平民のみ。

 この世界に生を受けた王族に大事なのは外見ではなく、どれだけ尊い血を持っているかと言う事。その点で言うと私は非常に中途半端、むしろ呪われていると言って良いかもしれない。

 なぜなら父親が国王だけど母親は平民。


「裕福で、お喋りが上手で、気が利いて……そんな私が北部の貴族と婚姻なんてぞっとするわ。何もない北部から逃げられるこの機会を逃すわけにはいかないんだから! 邪魔するんじゃないわよ、アレニャ」


 お姉さまは今日は特に荒れている。

 その理由を口に出したらとんでもないことになる。

 お姉さまは適齢期だけどまだ結婚していないからなあ。

 それに中央国家シンクレアのジュリオ王子と言えば、特大の優良物件。


「も、勿論です、ジュリオ王子は、お姉様にふさわしいと思います」


「当たり前でしょ!」


 嘗ての戦争と呼ばれる大戦で大活躍した中央国家シンクレア。

 ジュリオ王子は、先代国王の魔法をそのまま受け継いでいるって噂だ。

 姉のカミーラお姉さまの目の色があんなに変わるわけだ。


 地上へと繋がる階段を上って、廊下に出る。

 底冷えする地下とは違って、暖かな空気に身が包まれる。

 廊下では大勢の使用人が慌ただしく働いていた。

 この様子じゃ、本当にジュリオ王子の予定は前倒しになったみたいだ。


「すぐに着替えて、広間に集合よ。王室の人間が掃除をしていたなんて知られたら、ヴァイナルダムの品位までさがるわ!」


 こ、この人……。

 書庫の整理を命令したのは貴方だろうに……。


「はい、お姉さま。急いで準備します」


 だけどいちいち、反論しても仕方がない。

 私は王族だけど、立場は王族の中で最の下の底辺だ。カミーラお姉さまに言わせれば、こうやって家族扱いしていることを感謝しろって話らしい。


「何よ……アレニャ 。何か言いたげな顔をしてるわね」


「そんなことありません、カミーラお姉さま。お姉さまはいつも正しいですから」


 家族に噛み付けば、私は一巻の終わりだ。

 息を吹けば、消し飛んでしまう立場の弱さ。

 それが平民と国王の間に生まれてしまった私の立ち位置。


「いい? アレニャ、先に言っておくけど、主役は私。あんたは隅の方に隠れていなさいよね。北部王室の一人だなんて、思われたくないから」


「はい……お姉さま」


 私の拠り所だった母親は既に病でこの世を去っていること。

 噂好きな人たちは、私の母親は平民でありながら第二妃となったため、恨みを買って呪い殺されたなんて言っている。だけど、私は物心ついた時から母親の傍で、そういう連中から立場の弱い母親を守るために目を光らせていた。


「ちょっと待ちなさいアレニャ。もう一つ、言うことがあったわ」


「……」


 母親の死に目にすらお父様は来てくれなかったけど、母親はお父様のことを恨んではいけないといつも言っていた。疑うことを知らない母親の最後の言葉は、私は父親から愛されているって言葉だった。

 ……。

 今の私の状況を見て、愛されているなんて思う人はいないでしょ。


「出来るだけジュリオ王子の視界に入らないで。あの人があんたみたいな出来損ないを見るだけでも不快だから」


「……はい」


 私が生まれたのは北部国家ヴァイナルダムと呼ばれる大きな国。

 文明の程度はそれほど高くなくて、民の大半が自給自足で暮らしている。

 

 便利とは程遠い生活だけど、嫌いじゃない。むしろ前世よりも好きかもしれない。

 お城を一歩出れば、純白な雪に彩られた町が目に入る。

 それに空を見上げたら、前世では見上げることも忘れていた青い空がどこまでも続いている。

 北部国家ヴァイナルダム、雪山の城(レインバック)、それが私の家の名前。


 だけど、私の大好きな季節はもう終わってしまった。

 これから雪溶けの季節が始まる。


 ――はあ、カミーラお姉さまには困っちゃうわ。


 お姉さまは素晴らしい男性との結婚こそが最上の価値と考えている。

 別に悪いこととは思わないけどそのために私に当たってくるのは本当にやめて欲しかった。だけど今日はこれでもご機嫌が良い方なのだ。


「身を開けろ! 中央より、ジュリオ王子がやってこられた――」


 お兄様の声が聞こえた。 

 噂のジュリオ王子、どんな人かと思ったらお姉さまが慌てて私を突き飛ばす。


「いたっ」

「黙りなさい……!」


 使用人達と同じように、私は壁際に立った。

 着替えは間に合わなかった――今のはお姉さまの配慮ってことにしておこう。


 廊下の向こう側からやってくる人影、壁際に立つ使用人が次々と頭を下げている。

 先頭を歩くのは我が兄、ベラミーお兄様。

 熊みたいな身体の長男で鼻息が荒い。あぁ、後ろに続いている次男ルイス兄さまと比較すると、哀れなこと。

 

 そして、本当に一瞬だけ、その人と目が合った。


「ふん……」


 ジュリオ王子の視界に、たぶん、私は使用人と認識されたようだった。 







 うちの家系は映画の中に出てきそうな美男子美女ばっかりだ。

 若い頃は世界でも有数の美男子だったらしいお父様(今は肥えて見る影もないけど……)の子供なんだから、当たり前なんだろうけ。


 だけど、家柄と同じように上には上がいるってことがよく分かった。


 ジュリオ王子、中央からやってきた来訪者。

 中央王族の代名詞、輝く金色の髪と類い希な容姿。

 だけど、柔らかく微笑む貴公子みたいなタイプじゃなくて、触れたら怪我をしそうなほど鋭い雰囲気を全身からみなぎらせている。


 まだ雪溶けの季節まっさかり。 

 外は寒いのに、あの人は季節感を無視した薄着のまま。


「ジュリオ王子! 歓迎会のご用意が……」

「歓迎はいらない、そう事前に伝えていたはずだ」

「しかし、相当な長旅であったと聞いております。旅の疲れを癒すためにも……そうだ、――ジュリオ王子も耳にしたことがあるのでは? わが国ヴァイナルダムの海産物、特に雪溶けの魚は絶品ですので」


 思わずまじまじと見てしまう。

 長男ベラミー、次男ルイス、三男セスク、そして私の可愛い弟、四男ルカスが、ジュリオ王子の後ろに続いている。

 盛んにジュリオ王子に喋りかけているのは長男のベラミーお兄様だ。


「ベラミー・ヴァイナルダム。俺が北部にやってきた理由は、お前たちが黄泉の森と呼ぶ魔境に現れた魔物の討伐。ここで無駄足を喰っている暇はない」


 歓迎会の準備に数日前から、うちの使用人は大忙しだった。

 けれど、すぐに遠方へ出発しようとするジュリオ王子に戸惑っているお兄様たち。

 お兄様達があたふたしている姿を見るのは珍しいこと。

 北部国家ヴァイナルダムは大国、国王じゃなくても王子が持っている権力は大きい。


「北部ヴァイナルダムの豪族が手を焼く魔物、俺の力を試すには打ってつけだ」


 大陸に存在する5つの巨大な国々。

 我が家はその内の一つ、北部に位置する巨大国家ヴァイナルダム。

 しかし、嘗ての戦争で覇権を取った中央国家シンクレアと比較すると、我が家の格が一つ下がるらしい。底辺王族である私が詳しい話を知った所でって感じで、あんまり興味はないのだけど、お兄様達の態度を見る限りそうなんだろう。


「しかし、ジュリオ王子。到着と同時に出発なんて、急すぎます。少なくとも、同行する我らの準備というものが……」


 長男ベラミーが次男や三男にそう呼びかける。

 だけど、まごまごしているお兄様たちを押しのけて、ジュリオ王子の横に並ぶ人がいた。

 

「ジュリオ王子! 私はお供いたしますわ! 行きましょう、黄泉の森へ!」


 結婚願望が極度に強い……カミーラお姉さまだった。 



 

 中央からやってきたジュリオ王子のお陰で兄姉たちが北部に向かった。

 私は勿論、置いてきぼり。

 でも、いやな気持になんかなりません。


 これで少しの間、平穏な毎日を送ることが出来るからね。

 特にカミーラお姉さまがいないのは大きい。あの人、普段は魔物狩りなんて興味も示さないのに……恋の力ってのは凄いものだ。


 ジュリオ王子が北部にやってきてからというもの、我が家はどこかいつもと違う浮ついた空気が流れていた。

 使用人たちはジュリオ王子の余りに美しさにため息を漏らしているし。

 確かに氷像のような外見と言われる北部国家ヴァイナルダムの人間と、夏のように明るいシンクレアの王族、黄金の髪を持つジュリオ王子の姿は太陽と月みたいなものだと私も思う。


 だけど、私にとってジュリオ王子は無価値。

 私の人生とは何も関わりがない人だから、気にも留めていなかった。

 

「アレニャお嬢様、書庫の整理なんて私たちがやりますのに――」


 それよりも私はこっちだ。

 今なら、思う存分魔法の練習が出来る!


 お姉さまたちがいない間。

 いつも私のことを不憫に思っているらしい使用人たちからは、書庫の整理なんかしなくてもいいと言ってくれるけど、これは私が好き好んでやっているだけ。


「いいの。カミーラお姉さまから頼まれたのは私」


「しかし……アレニャ様に掃除をさせたなんて国王様に知られたら……」


「いいよ。皆もジュリオ王子の歓迎会に向けてこれから忙しくなるでしょ? それにお父様は私のことなんか気にもしてないよ。皆も知ってる通り」


 私は書庫に入り浸る毎日だ。

 薄暗い地下、王城の古めかしい古書を収めた場所で一人になりたかった。


 地下書物には、何て書いてあるかも分からない大昔の歴史書で埋まっている。

 最近の物だと、お父様が大活躍したらしい嘗ての戦争を分析した資料があるぐらいかな。昔は古書や嘗ての戦争を記した書物を読み漁っていた時期もあったけど、こんなものを読んでも何にもならないって知ったら、やめた。


 今は、魔法の練習場所として重宝しているんだ。

 集中、集中。


「カチカチ凍る。氷の世界(アイスワールド)


 この書庫は私だけの秘密の練習場。

 尊い血は半分しかないけれど、ヴァイナルダムの王族としての力は私にもしっかりと受け継がれているんだ。


 この書庫の中にある本は歴史的に見ても貴重なものばかりらしい。

 私からすれば読めない本に何の意味があるんだって思うけど、ここにある本は魔法の練習に打ってつけだったりするんだ。


「例えばこの一冊がそうよね。暗黙の祈祷書なんか、並の魔法じゃ弾かれちゃうもん」


 貴重な本には刻まれている情報が失われないように、魔法がかけられている。


 私の魔法の練習は、強い魔法抵抗の力を持つ古書を凍らせると言うものだ。


 北部国家ヴァイナルダムの王族は昔から氷を操る力を持っている。

 魔物狩りに向かったお兄様たちは氷の魔法を剣として操ったり、吹雪を生み出して戦っている。だけど、私は違う。


「目標は高く。生き物を氷漬けにしようとしてるなんて……家族に知られたら私は破滅ね……」


 熱を発し続ける、生き物を凍らすことは非常に難しい。

 特に人間を凍らすことができた魔法使いは長い多くの歴史を見ても数える位しかいないらしい。


 私は将来を考えて自分の魔法、特に威力を高め続けることだけを考えている。

 書庫で練習を始めたばっかりのころは、この地下書庫にある本を氷漬けにすることは出来なかった。

 けれど少しずつ、努力を重ねて今は――。


「氷女神の吐息」


 詠唱の一言で書庫の大半を閉める本棚が氷に包まれる。

 この書庫に収められている古書は並大抵の代物じゃない。

 強力な魔法によって壊されないよう保護されている。

 だけど、今は。全てが凍っている。


「……お兄様よりも、お姉さまにも、魔法なら誰にも負けないんだから」


 この練習風景は絶対に誰にも見られてはいけない。

 魔物討伐に行ったお姉様や兄様たちよりも私の方が才能を受け継いでいるなんて知られたらもう人生終わり。


「……家族と仲良くなんて、もう諦めてる」


 もっともっと小さい頃はそんな未来を夢見たこともあったけど、この世界はそれほど単純じゃない。

 結局は血の尊さとかそういうのが一番、重要。


「上出来ね。今なら傭兵にでもなれる気がするわ」


 私に頼れる人はいない。

 自分の力だけが、重要だ。

 お父様が死んだら、私を守ってくれる人はいなくなるのだから。


 この世の真理に気付いてからは、寝る間を惜しんで練習した日々。

 そのお陰で、私は確かな魔法への自信を手にしていた。


「―――――アレニャ様、アレニャ様! ご家族様がお帰りになられます!」


「……え、うそ!? もう帰ってきたの!??」


 けれど私の幸せの時間はすぐに過ぎ去ってしまった。





「素晴らしかったですわ、ジュリオ王子!」


 晩餐会の主役は当然、中央からやってきたジュリオ王子だ。

 そして隣に座るのは……カミーラお姉さま。


「……北部の女は慎み深いと聞いたんだがな。別にカミーラ・ヴァイナルダム。あんたを非難しているわけじゃないんだ。遠征中も伝えていたが、俺は静かに食事をする方が好みだ」


「ジュリオ王子。私たち、夕食は家族全員で食べることにしておりますわ。中央では、そのようにしないので?」


「俺の兄弟が何人いると思っている。少なくとも、この食卓の数では足りん」


「まあ、素敵ですわ! 何よりもジュリオ王子が、4国巡りをしているとことは、一番ってことですもの!」


「……うるさい奴だ」


 ジュリオ王子と会話をすることに夢中で、王子に北部自慢の食事を楽しませようなんて気は一切ないように思えた。お兄様達がカミーラお姉さまに目配せをしているけど、あの人は気付いている様子は一切ない。

 いや、むしろ気付いている? あれは……あえて? さすがカミーラお姉さま。


 でも、私は半信半疑だったりする。

 雪解けの時期に北部の山々を超えて私たちの領地を襲ってくる……通称、向こう側の魔物討伐はいつだって大騒動なんだ。

 たった一週間足らずで、魔物を向こう側へ追い返してきたなんて信じられない。


「ジュリオ王子なら、嘗ての戦争でも大活躍していたに違いありませんわ!」


 カミーラお姉さまのお世辞も案外、的外れじゃないのかな。

 我が家ヴァイナルダムの王族に伝わる力が氷なら、中王国家の王族に受け継がれている魔法は武に直結していると聞いたことがあった。

 それでもジュリオ王子一人の力で、そこまで変わるもの?


「……俺の目には食卓全員で仲良くって感じにも見えないけどな」


 さて、私はといえば晩餐を囲んでいながら、身体を隅っこで縮めている。


 家族だけじゃなくて、ジュリオ王子にとっても私はいないもの同然。

 魔物討伐にも同行しない王族なんて、ジュリオ王子からすれば無価値だろうなあ。


 カミーラお姉さまの大声によると、明日にはジュリオ王子は中央に帰ってしまうらしい。さすが大人気の王子様は忙しいね。

 書庫の整理が日課の私とは大違いだ。

 私はこんな風に、最後までジュリオ王子とは言葉を交わさなくて済むと思って安心していた。


 あの人が寝る前に日課のチェスをしたいと言うまでは。


「アレニャ、ジュリオ王子の相手をしてあげなさい。お前、チェスは得意だろう?」


 わざわざ人目につかないよう大人しくしていたのに国王ハーランド・ヴァイナルダム。私のお父様の言葉に凍り付く私だった。




 目の前にあの人が座っている。

 私とあの人の間にはチェス盤が置かれていた。

 イケメンなら王族として見慣れている私だけど、この人は次元が違う……。

 心を乱さないよう平静に、頑張れ私。


「……」


 私のことを親の敵のように、睨め付けているはカミーラお姉さま。

 はいはいわかってますよ。お姉さまの憧れる人を取りませんってば。


「……あの、白の駒は私でよろしいですか」

「どちらでも構わない。ただ、遠征中にアレニャ・ヴァイナルダムは昔、チェスの名手だったと聞いている。だから楽しみだ」

「……」


 や、やりづらい……。


 さて白の駒とは、先行のこと。

 チェスには黒白の駒があって、先に打つ人が白の駒を打つ。


「ジュリオ王子のお言葉通り。アレニャ様はチェスが上手いと評判でしたからなあ。最近、噂はとんと聞かなくなりましたが、私も勝てた試しはありません」


 王城に集う貴族の一人が、私の後ろでそう言った。

 家族だけじゃなくて、仕事に余裕のある貴族連中が集まってきている。

 私とジュリオ王子の周りを大勢の人間が覗き込んでいる。

 注目が集まって、や、やりづらいー! 特にカミーラお姉さまの睨みが!


 私のチェスが誰よりも上手な事は、私のことをちょっとでも知っている人なら当たり前の事実だ。

 この世界に転生して、チェスの文化があることに私は喜んだ。

 けれど、チェスが上手だからって何の意味もないことをすぐに学んだ。

 こちらの世界ではチェスは文化として成熟しておらず、子供や暇を持て余した大人の遊戯ぐらいの扱いだから。


「チェスと言えばシンクレアですから。ジュリオ王子も大層な腕前なのでしょう」

「噂によると、誰もジュリオ王子に太刀打ち出来なかったらしいですから」

「黄泉の森で、チェスを打つ余裕があるとは、さすがですな」


 ジュリオ王子は北部の向こう側に行っていた時も毎晩チェスの相手を探していたらしい。

 でも、ジュリオ王子のチェス相手になれる人は一人もいなかったとか。

 だから幼い頃はチェスで無敗だった私にお鉢が回ってきたわけだけど、カミーラお姉さまからは無様にボロ負けしろと事前に有難いアドバイスを貰っていた。


「どうした。お前の番だアレニャ・ヴァイナルダム。まだ悩むような局面ではないだろう」

「……」


 一度チェスを打てば、相手の実力が分かる。


 ……この人、強い。

 私の目から見ても王子様の実力は並外れていた。


「あ、えっと。じゃあ……ボーンで……」


 北部ヴァイナルダムにはろくな打ち手はいなかったから、感動してしまう。

 これだ、これだよ。動きに制限のある駒を巧みに操り、自らの有利な配置に誘導。時には表情や言葉から、相手の真理を探る読み合いこそがチェスの醍醐味。

 なのにヴァイナルダムの打ち手と言ったら……何を考えているかが顔から丸分かりで、相手の真理を探る楽しさも見いだせない、


「当た障りのない手だ、つまらん」

「……ごめんなさい」


 ジュリオ王子は退屈そうに、駒を動かす。

 確かに中央国家シンクレアはチェス文化が北部よりも盛んって聞いたことがあるけど、もしかして中央の実力ってこんなに強いのかな。

 だったら、私も将来のシンクレア移住を本格的に考えようかな……。


「……じゃあ、ルーク」


 少なくともこっちの世界ではだいぶ上手な方。

 前歯で女子のチャンピオンだった私はいくつもの戦術を理解しているけど、こちらの世界では本当に簡単な戦術しか広まっていない。

 ボーンを当たり障りのないマスへ進めると、ジュリオ王子が間髪入れずに駒を進める。


「ふん」


 え。うそでしょ。

 王子の一手に驚いてしまった。


 巷に広がっていないチェスの戦術。

 今、ジュリオ王子が打ったのは、前世で幅広く知られているチェスの一手。

 懐かしさが頭に広がって、私は反射的にジュリオ王子の一手を潰してしまった。だって、その手は既に潰し方が決まっている。


「ねえ、誰か教えてくれるかしら。どっちが優勢なの? チェス、詳しくないの」

「カミーラ王女。僭越ながら、この私が。そうですな、私の目からはジュリオ王子の優勢に見えます」


 ジュリオ王子の優勢だって?

 ……これだからヴァイナルダムのチェス文化と言ったら。

 

 まっ、そうだよね。そういう風に打っているから。

 少なくともチェスを嗜む程度の人には、さっき私が動かしたビショップの意図は理解出来ない。このビショップが活きてくるのは、もっと先の話。


「……お前、やってくれるな」


 だけど、驚いたことにジュリオ王子の顔色が瞬時に変わった。


 え? 何? もしかして、気付いた?

 ジュリオ王子は前世の私のように、一日中チェスをやっている人間でもない。

 それでも、だ。


 今の攻防で私の意図に気付いたのなら、ジュリオ王子は並外れている。

 

「アレニャ? 打ちなさい」


 突然止まってしまった私の肩をお父様が叩いて打つように促す。


「は、はい……ごめんなさい……」

 動揺する心を落ち着かせる。

 私だって、相当なブランクがある。全盛期よりは遥かに実力が落ちている筈。


 今の私の打ち手、その意図に気付いたのならジュリオ王子の評価をさらに一段階上げざるを得なかった。


「楽しそうだな、アレニャ・ヴァイナルダム」


「……え?」


 今までチェス盤しか見ていなかったジュリオ王子が私を見つめていた。

 北部では滅多に見ない黄金の髪に綺麗な灰色の瞳。

 端正な顔に私の顔も赤くなる。ああまずい、カミーラお姉さまに怒られちゃう。

 いけない。顔に出ちゃってたかな。北部では出会うことのない、そこそこチェスが打てる相手に私の気持ちは確かに高揚していた。


「続けろ」


 ――楽しいです、ジュリオ王子。ありがとうございました。


 忘れかけていたチェスの楽しさを思い出した気持ちになれた。

 だから、これで十分。



「……私の負けです。さすがです、ジュリオ王子」

 

 そこから私は、おそらくジュリオ王子を落胆させるだろう手を連発して、カミーラお姉さまが望む通りにボロ負けした。




「はあ、疲れたー……」


 自室に戻ってくると、やっと一息つける。

 ジュリオ王子といきなりチェスで戦わせるなんてお父様も何を考えているの。


 試合は勿論、私の負け。

 カミーラお姉さまの言いつけ通りきっちりと無様に負けてあげた。

 お姉さまは私が負けた瞬間、握りこぶしを作ったのを見逃さなかった。これでジュリオ王子滞在期間中の振舞いで、お姉さまに嫌われることはないはずだ。


「……暖まるなあ」


 使用人に温めてもらったミルクを飲みながら、椅子に座った。

 一見何の変哲もない狭い部屋だけど、無造作に机の上に置かれているティーカップだって値が張る。

 私は腐っても王族なんだ、お父様が生きている間はだけど。


 お父様は必要以上に私に干渉はしない。

 ただ一度だけ、申し訳ないと謝られたことがある。

 それはお城の離れに住むことを強制された私の母親が病で亡くなった時だった。あれは母親に向けてが私に向けてだったのか、今では確認しようもない。だけどお母さまを失ってから、私はカミーラお姉さま達と一緒にお城に住むことを許された。


「……?」


 そろそろ寝ようかな、なんて思っていると部屋に響くノックの音。


 外は真っ暗で、明かりもない。

 さすがのお姉さまも、こんな夜中に私の部屋を訪ねてこない。

 お姉さまにとっては睡眠不足は美容の天敵だからね。


「……??」


 またノックの音。

 メイドのマレーちゃんかな。私とも年齢が近い彼女。時折、二人で毎日の愚痴や噂話で盛り上がるをこぼすことが私の楽しみなんだ。


 けれど愚痴をこぼすときは事前に場所と時間を決めていたから、急に私の部屋にやってくるなんて大事件でもあったんだろうか。

 扉を開けるとそこには。


「……ひっ」

「冷遇されているとの話、事実だったか。王族の部屋とは思えない程、何もない」


 悲鳴を上げそうになった。

 中央国家シンクレアのジュリオ王子が立っていたのだから。


「部屋の配置はわざとだな。客人には分からないよう、お前の部屋は巧妙に隠されている。お陰で、お前の部屋を探すのに手間取った」


 しかもジュリオ王子は私の許可も取らずに、部屋の中に入ってきたんだから。

 な、何だこのひと! しかも失礼なことを言われた気がする!


「ふん。部屋を見るにお前はまだ、ましなほうだ」


 堂々と立ちそのお姿。

 深夜に淑女の寝室を訪れる失礼な人とは思えない。

 ここまで堂々とされては、私の方が間違っているような錯覚を覚えてしまうぐらいだ。べ、別に、深夜に男性が私の部屋に来たって……その……。


「じゅ、ジュリオ王子……何の用ですか 」


「お前は手を抜いていた。俺の目は誤魔化せない」


「……え、あの、ジュリオ王子。何の話ですか……?」


 おずおずと聞いてみせると。

 

「アレニャ・ヴァイナルダム。お前に再戦を申し込したい。勿論、チェスの話だ」

 





「アレニャ・ヴァイナルダム。食卓での様子を見れば、北部王族の中でお前がどういう立ち位置にいるかが分かる。奴らの前では、本来の実力も出せないだろう。それにお前がチェスを辞めた理由も容易に想像がついた」


 夜中に寝室を訪れたジュリオ王子の望みは分かりやすいものだった。

 手加減無しで、私とチェスをうつこと。


 だから私は机の上に自前のチェス盤を置いて、ジュリオ王子ともう一度向かい合った。


「お前の部屋なら、家族の視線を感じることもない。この部屋にいるのは、俺とお前だけだ。先ほど見せたような下手な誤魔化しもいらない。チェスを打とう」


 カミーラお姉さま、ごめんなさい。

 だけど神に誓えと言われたら何も言えないんです。

 こう見えて私、神様を信じているんです。だって自分自身が転生しているんだから、こんなのって神様の悪戯としか思えない。


「……チェックメイト」

 ジュリオ王子はやっぱり強い、趣味程度でチェスをやっている人は相手にならないだろう。遠征中に北部の人間とチェスを打ったらしいけど、腕試しにもならなかったに違いない。それでも、私が相手であれば、こうなる。


「……チェックメイトです、ジュリオ王子」

 広間とは正反対に、私の勝ち越しが続く。

 だって、神に手加減をしないと誓わされたから。


「ッ……もう一度だ」

 あの時と違うのはルール。

 一手の持ち時間はたった10秒、つまり超速攻のチェス。

 夜通し、私とチェスがしたい、それがジュリオ王子の望み。明かりの少ない私の部屋でも、ジュリオ王子がいるだけで華やかに見える。

 既にシンクレアの次期国王と噂される理由も分かる、いるだけで場が華やぐ人、この人の存在感ってのはそれぐらい凄い。


「チェックメイト」

「有り得ない、俺の動きに間違いはなかった! もう一度だ!」

 夢中で駒を並べ直すジュリオ王子は、私の知る王子とは別人だった。


「わからん。なぜそこで、ルークが活きる」

 私の目の前で頭をひねってああでもない、こうでもないと喋るジュリオ王子の姿は年相応の人間に思える。むしろ、年齢よりも幼いような。


「それにクイーンだ。中央に張る、お前のクイーンが目障りでしょうがない」

 確かジュリオ王子って非常に気難しくて、余計なことはしゃべらない。だから今日の晩餐会でも、誰もがジュリオ王子に気を遣っていた。

 感情に支配されることのない公明正大な王子様。見てくれが良くて魔法も十分な才能を持っていて公平で感情にとらわれることもない理想的な王子様だ。


「チェックメイト」

「……キングを逃がしても無駄か。5手先で、詰んだな」


 チェス盤を見ながら、考え込む中央の王子様。


「確かに俺はお前に手加減をするなと言った……言ったが夢でも見ているのか。それとも俺が熱でもひいているのか……」


 だけど、私の前にいる王子の姿は私が知っているイメージとは全然違っていた。

 まるで自分が夢の中にいるようだった、

 空は真っ暗で目の前にいる人があの有名人だとは到底信じられない。


「アレニャ・ヴァイナルダム。もう一戦」

 だけど、私たちの間にある実力差は圧倒的。

 前世で私がチェスと向き合った時間は、ジュリオ王子のそれとは比較するも馬鹿らしい。私とジュリオ王子では、文字通り年期が違う。

 だからこうなる。


「チェックメイト」

「負けたままで追われるか。もう一戦だ」

 私がチェックメイトをするたびに王子様の素がどんどん現れる。


「チェックメイト」

「くそったれ……分かっている、俺の負けだ! もう一戦!」


 意外に口も悪くて、あの王子様がこんな風に笑うなんて誰が信じるだろう。


 それにジュリオ王子のチェス戦略は分かりやすい。

 攻勢の姿勢はただの見せかけ。

 この人の本質は守備にある。攻勢は、防壁を構築するための時間稼ぎ。

 ただ、ジュリオ王子はチェス盤における防壁構築の本質をよく理解している。

 一端、防塵が完成してしまえば、私だって崩すためには時間を要する。


 でも、だ。

 守備布陣が完成する前に攻めれば、ジュリオ王子のキングは逃げ惑うしかない。

 言ってしまえばジュリオ王子のチェスは負けないためのもの。

 細かな敗北も許し難い、そんなジュリオ王子の性格が色濃く反映されている。


「……何を笑っている」


「ジュリオ王子が、こんなに饒舌な方だとは知りませんでした」


「お前のような日陰者も、俺の噂を聞いていたか」


 ジュリオ王子は足を組み、俯いたまま薄く笑う。


「シンクレアの王子は冗談の一つも言えない頭でっかちな人間。政治へは無口で黙っているが、戦場では誰よりも功績を残す。民衆は勝手に俺のことを理想の王子だとあげつらう。しかし、噂など噂に過ぎない。俺の存在を妬む他の兄弟から流されたものだが、都合が良かったから利用しただけだ」


 再びジュリオ王子は駒を並べ始める。


「チェスと同じ。戦略だな」

「そんなこと、私に言ってもいいんですか……」

「お前も俺と同じだ。アレニャ・ヴァイナルダム。チェスを辞めた理由も、お前が望まれる自分で在るための戦略、違うのか」

「……」




 時計の針がカチカチと音を立てていた。

 私のクイーンがもう何度目かもわからないチェックを決める。


「……くそ!」

 

 窓の外はいつしか白み始めている。

 ジュリオ王子がどう思ってるか知らないけれど、この楽しい時間がいつまでも続いて欲しい。


 だけど、それは叶わぬ夢。

 お昼を迎えるよりも早くジュリオ王子は城を出る。


「チェックメイトです、ジュリオ王子。あの……そろそろメイドが私の部屋に来ます。私の部屋にジュリオ王子がいることを見つかったら問題に――」

「お前は何者だ、アレニャ・ヴァイナルダム」


 ドキリとした。

 値踏みするように、ジュリオ王子が私を見ていた。


 いるだけで場が華やぐ人、だけどそれだけじゃなかった。

 北部王族でありながら隠れ続けた私が持たない胆力を、ジュリオ王子は持っている。

 だってすっと目を細められると、身体が射抜かれたみたいに縮こまる。


「……何者かとは。聞かれている意味が分かりません」

「自分を愚かに見せようとするのはやめろ。俺を愚かな北部王族と同列に扱うな。少なくともチェスで圧倒されたこの状況では馬鹿にされているようにしか思えない」

「……申し訳ありません」


 夢中になってチェスを打つ子供みたいなジュリオ王子じゃない。

 初めてジュリオ王子と出会った時、私を見ても何も思わない、あの私が知る無表情なジュリオ王子。


「チェス文化が進んでいるシンクレアですら、お前程の打ち手はいない。どこでこれだけの力を付けた。特にクイーンが圧倒的だ。俺はお前が使う戦略を知らない、聞いたことも考えたことも無かった」


「……それは……私にはジュリオ王子と違って時間だけはありますから……」


 言えるわけない。

 前世で、人生をかけてチェスに挑んでいたなんて。


「お前の立場が弱いことは知っている」


 しかし、ジュリオ王子は口を堅く閉ざす私を見て、すぐに諦めたようだ。


「戦争とはかくも人の心を狂わすものだな。あの生真面目なハーランド国王が、戦時中とはいえ平民の妻を北部へ連れて帰るなど。娘が王家の中でどういう扱いを受けるか分からぬ男ではないだろうに――チェックメイト」

「ジュリオ王子、駒の形を見てください。もう王子は詰んでいます」

「…………油断も隙もない。もう一戦」


 私のお父様、ハーランド・ヴァイナルダムは嘗ての戦争に参加し、大戦の中で子供をもうけた。北部に帰りを待つ家族がいながら、旅の途中で出会った平民の女を愛してしまったんだ。


 それは今の私が考えても、家族に対する酷い裏切りだと思う。

 父親への怒りは、そのまま立場の弱い私に返ってきた。どこの出自かも分からない平民との娘が急に現れて王族を名乗り出しているんだ。

 誰だって良い気はしないだろう。


「チェスを子供の遊戯と言うものもいるが俺はそうは思わない。チェスは戦場の動きを極めて簡略に模した戦略遊戯だ。お前が戦場に出れば指揮官として功績を挙げることも可能だろう。だから俺は、朽ちるだけの才能を見るのは心が痛むのだ」


「私が戦場なんて……」


「ハーランド国王の血を引いているなら、お前にも魔法が受け継がれているだろう。これだけ頭が回るお前が戦場に立つ未来を一度でも考えなかったとは言わせないぞ。確かに戦場は男のものだ、しかし、歴史を見れば――」


 考えたことがない、と言ったらウソになる。

 私はお父様が亡くなった未来を見据えて、地下書庫で魔法を鍛え続けている。

 いつか家を追い出されても生きていけるように、力を付けている。


 お父様が死んだら、他国に逃亡しようとも思っている。

 目的地は決めていない、ただ、お母さまの故郷を一度見てみたい。


「北部国家にやってきて、次にお前と打てる日がいつになるか。お前が王族でなければ、シンクレアに俺のチェス相手として連れて帰りたい程だ」


 笑えないです、それ。

 特にカミーラお姉さまに何て言われるかわからない。

 今の言葉を聞かれたら、暗殺されたって可笑しくない。


「アレニャ・ヴァイナルダム。俺は、お前が北部の王族に生まれたことが悔しい。厳格な北部王族で無ければ、お前の立場はもっとましであっただろう」


 それも知っている。

 特に中央国家、ジュリオ王子の父親なんて子沢山だ。

 誰が母親とも分からない子供が大勢いる。だからこそ、次期国王として正統な後継者扱いされているジュリオ王子の優秀さが際立っているんだ。


「あの、ジュリオ王子。そろそろ本当に時間が……」


「去る前に、お前に1つ聞きたいことがある。地下書庫の件と言えば、分かるか」


 ドキリ。


「………………書庫に、入ったんですか」


「遠征中、粒ぞろいの古書が書庫に揃っていると間いていたのでな。嘗ての戦争でお前の父親、ハーランド・ヴァイナルダムの逸話を記した本に興味があった。我が父の活躍を記した書物は話を盛り過ぎて、真実が見えない。ただ、お前の父親は実直で愚直な男だ。真実を改竄することはないと考えた」


 地下書里……ま、まずい。

 あそこは私の秘密の練習場。

 私以外は減多に立ち寄ることがない私だけの空間。


「書庫で、このように凍っている本の山を見つけた」


 ジュリオ王子が懐から取り出したのは凍ったままの古書。内容はお父様、ハーランド・ヴァイナルダムが大活躍をした嘗ての戦争について記した禁書。

 というか、ずっと服の中に隠していたんですか……。


「これを凍らすだけの力は、今の北部王族にはない。全盛期のバーランド国王なら可能だろうがな。となると書庫の主と呼ばれているらしいお前だ。俺たちが遠征から帰ってくるまでも、ずっとあそこに籠っていたんだろう?」


「……」


 まずい、まずい。とってもやばい。


「身構えるな。確かに異買な状態の古書が多く目に入ったか、俺はあの場所で何も見なかった。そういうことにしてやる。今日中にお前の魔法で解凍しておけ。アレを見られて困るのはお前だろう」


 最悪だ、私のミスだ。

 書重で凍らせた古書の場は部屋から出る前に元の状態まで復元していた。

 カミーラお姉さまが急にやってくることもあるし、いつ中を見られてもいいように細心の注意を払っている。だけど今日だけは違った。予想よりもすっと早くジュリオ王子たちが帰ってきて、細部まで気が回らなかった。


「俺はただ、口惜しいだけだ。アレニャ・ヴァイナルダム、お前が北部王族として生まれていなければ、未来は違っていたのかもしれない。古い価値観に縛られた兄姉に怯えて過ごす毎日に満足しているのなら何も言わないが」


「……」


「満足はしていないようで、安心した」


 私だって夢見る子供じゃない。

 他国の王子様に不満を吐き出したって、何も解決しない。


「王族としての価値は才能が血の尊さに勝ると考えている。才能は魔法や性格、知性を意味するが、その点については何が保証する。アレニャ・ヴァイナルタム、お前は合格だ。実際に魔法を見たことはないが、遠征で確認した北部王族よりも上だと確信している」


「……」


 チェスに人生を張げた前世と比べても。

 今の生活に満足しているとは到底、言えない。

 だけど全ては生きるためだ。馬鹿な行いをすれば、痛いしっぺ返しに合う。


 この世界の人間は、そういうことを平気でやる。

 北部王族の汚点である私が目立てば、自分で自分の首を絞めることになる。


「俺が何と言おうが、お前は生き方を変えられない。しかし、きっかけぐらいは与えてやりたい。チェスの礼だ、感謝はいらない」


 ジュリオ王子が再び凍った古書を服の中に収めて、ゆっくりと立ち上がる。

 チェス盤からキングの駒を取り、敗北の記念だと言って王子は駒を胸ポケットに収めていく。私はジュリオ王子の背中を見つめて、立ち止まった。


「そういえばお前の姉についてだが……あれは凄まじい。魔物相手よりも辛い」


「……カミーラお姉さまは、たまに暴走しちゃう時がありますけど家族には基本、優しくて……慎ましくて素晴らしい女性……です……」


 私はここでもお姉さま上げを止めなかった。

 ジュリオ王子には悪いけど、お姉さまがジュリオ王子と結婚して、遠い国シンクレアに嫁いでくれたら私の立場も少しはましになるだろうから。


「……妹に使用人の格好をさせて、苛めていると聞いたが?」

 

 そう言い残して、ジュリオ王子は扉を出て行った。


 お姉さま、最悪の展開です。あなたの行い、ばれてます。






 雪山の城(レインバック)を出ようとする御一行の中にジュリオ王子の姿。

 これから北部から去っていくジュリオ王子の見送りに、雪山の城(レインバック)で働く使用人や貴族階級の人たちが集まっていた。



 大陸北部は待ちに待った雪溶けの季節に入ったばかり。

 太陽が隠れれば空から雪が降ってくることもあるし、特に中央の人には北部の寒さが身に応えるだろう。中央からやってきたジュリオ王子のお付き、大半は私たちが貸してあげた厚手の外套を着込んでいる。


 だけど、ジュリオ王子や王子に近しい人たちは来た時と同じ薄着のまま。

 寒さを感じていないのか、本当に寒くないのか。


 でも……やっぱりあの人は別世界の人だ。ジュリオ王子の一挙一動に誰もが大声を上げて注目をするし、いるだけで場が引き締まって華やかになる。


「ジュリオ王子! 次回は私に街の案内をさせてくださいませ!」

「……カミーラ・ヴァイナルダム。何度も言っているが、俺は遊びにきたわけではないのだ」

「毎日、働きづめです。息抜きも時には必要でしょう? シンクレアは確かに明美な都ですが、ヴァイナルダムの良さをまだお伝えできていませんから。それにジュリオ王子にいらして頂いたお陰で、昨年よりも兵の犠牲が―ー」


 カミーラお姉さまは、ジュリオ王子に付きまとっている。

 ジュリオ王子は勘弁してくれって空気を出しているけど、そこで引かないのが私のカミーラお姉さまだ。必死さは北部の魔物よりも数段上。


 でもカミーラお姉さま、ジュリオ王子にはカミーラお姉さまの悪い部分もしっかり見抜かれているんだよね……。

 王子が運れてきた数人の護衛達。

 あの人達が王子の耳として役目も果たしているらしい。


「退屈しない毎日だった。世話になったヴァイナルダムの民よ!」


 ジュリオ・シンクレアが白馬に乗って、城門の向こう側へ向かっていく。

 ヴァイナルダム王族、長男のベラミーだけがシンクレアまでジュリオ王子に同行するようだけど、私たちここまでだ。


「ジュリオ王子! 今度は、私が会いに行きますわ!」


 名残惜しそうなカミーラお姉さまなんて、今にもハンカチを噛んで泣きそうだ。


「……」


 その時、しとしとと真っ白な雪が降りだした。

 雪と氷に包まれた北部の日常。北部の人間は誰だって、雪溶けの季節を待ち望んでいる。雪溶けの先に、明るい毎日が待っている。


「……」


 中央からジュリオ王子がやってきて、きっと私の知らないところでは幾つもの出来事があったんだろう。だけど、私には関係無し。

 ヴァイナルダム王族の汚点、それが私。

 ジュリオ王子は何かきっかけをくれるって言っていたけど、期待もしていない。

 ここだけの話、今まで何人もジュリオ王子みたいな入はいたりする。


「アレニャ様、もう戻られるのですか?」

「うん。だって寒いから」


 北部の貴族で、私の才能に気づいた人のことだ。

 だけど結局、北部王族の汚点として虐げられている私に手を差し伸べてくれる人は皆無だった。

 だから期待なんてしていなかった。

 ジュリオ王子、貴方に何が出来るとも思わない。

 北部の闇とさえ呼ばれる私を、他国の王子がどうにかするなんて―。


「……おい。助けを望んでいるなら、少しは助け甲斐のある顔をしてみせろ。北部の寒さが心を凍らせたわけではないだろう!」


 今のは、誰の声?

 足を止める。振り返ってみれば。


「――ハーランド国王。少しだけ、我儘を許してほしい。俺の我儘は、貴方たち北部王族ヴァイナルダムにとって悪い話ではないはずだ」


 いつの間にかジュリオ王子が白馬から降りて、お父様に話しかけていた。


「俺の父から貴方へ届いた要望、ご存知の筈。北部王族ヴァイナルダムなら、妥当だろう」


 なんだ、なんだ?

 次第にお父様の顔が赤らんでいく。

 お父様は感極まった様子でその場に膝をついた。


「お……お……喜んで……ジュリオ王子」

「ハーランド国王。頭を挙げてほしい。シンクレアとヴァイナルダムは対等。だけど感謝する、ハーランド国王」 

「……親友の息子と、我が娘が結ばれる。これ程の喜びは、見当たらぬ……」


 今の言葉、ざわつくのも無理はない。

 あのジュリオ・シンクレア王子が花嫁を見つけたって言ったんだ。


「ジュリオ王子!」


 私の傍にいたカミーラお姉さまの顔が、歓喜で赤くなっていた。


 さっきのジュリオ王子の叫び、意味はよく分からなかったけど、カミーラお姉さまは遂にやり遂げた。

 しかもお相手はシンクレアの王子様だ。

 これまでの苦労が報われるというもの。


 私も盛大にお祝いしてあげたい。カミーラお姉さまがジュリオ王子のお嫁様になるのなら、お姉さまは中央へ移住することになる。

 私の安穏な日々が確保されるから。


 ジュリオ王子の滞在期間、カミーラお姉さまは王子にあれだけ付き纏って鬱陶しそうに邪険に扱われていた。でも結局、ジュリオ王子は悪い気がしていなかったということか。やっぱりスタイルの良い美人は最強なのか。


 私だけじゃなくて、皆がそう思っていた。


「カミーラ・ヴァイナルダム。お前ではない」


 けれど、ジュリオ王子はカミーラお姉さまを華麗にスル―し、歩みを進めた。

 王子を見送る最前列。

 北部国家ヴァイナルダム王族、正当なる王家から離れていた私の元へ。しっかりとした足取りで、地面に薄く積もっていた雪に王子の足跡が残る。


 私の目の前で止まる……え。どうしてそこで止まる。


「アレニャ・ヴァイナルダム」


 はっきりと聞こえる声。


 ジュリオ・シンクレア。

 中央では、正当な後継者と謡われるその人。

 こうやって立ち上がった彼と対面したのは二度目。あの時はびっくりしすぎて、何も分からなったけど、ジュリオ王子の背は相当に高かった。


「……はい」


 自然と私が見上げる形になる。


「先に言っておく、お前はきっと怒る」


 先刻まで、私の部屋でチェスをうっていた彼。


「もしかすると生涯、俺を許さないかもしれない。それでも……俺が与えられるきっかけは他に思い当たらなかった。そして、俺の行動は全て本心だ」


 ジュリオ王子の背中超しには、絶句しているカミーラお姉さまの姿が見えた。


「生憎、持ち合わせが他にはない」


 ジュリオ王子は自分の指に嵌められていた指輪を外す。


「それに安い……しかし俺が身に着けている中で最も大切なもの。だから、許せ」


 許す? 何を?

 王子が私に見せたのは、シンプルな指輪だ。私の目には指輪の良し悪しなんて分からない。それを……くれるってこと?

 ジュリオ王子が私の前で、ひざまづいた。

 王子の表情が途端に見えなくなる。

 王子の大きな身体で隠れていた全景がはっきりと目に映る。


 長男のベラミーお兄様が馬を下りて目を見開いて、次男のルイスお兄様が側近と何かを囁き合き、三男のセスクお兄様は雪が積もる木に身体を預けて目を細め、四男のルカスは両手で顔を覆っている。

 ……これは、まずい。まずいなんてものじゃない。

 だって、ジュリオ王子。貴方は……。


「アレニャ・ヴァイナルダム。今は、俺だけを見ろ」


 私の前で畏まるジュリオ王子の声。


「俺がお前に、きっかけを与える」


 目の前でひざまづくジュリオ王子が私の顔を見上げていた。


「左手を前に」


 言われるがまま、左手を差し出した。

 すると、ジュリオ王子は柔らかく微笑んで。

 

「手のひらを、開いて欲しい」


 ジュリオ王子はカチカチに固まった私の手を取った。

 私の手を優しく解いて、手のひらの上に指輪をしっかり乗せる。

 スムーズな動作は事前に練習でもしてきたんじゃないかって思う位。


「チェスの時とは、別人だな。あの時のお前は俺の手を全て読んでいるのではないかと怖さを感じる程だった。この俺が、お前に怖さを感じたのだ」


「そ……それは……ジュリオ王子が手加減するなって……」


「そんなお前が今、ここまで狼狽える姿を見せてくれた。俺は、とても嬉しい」


 そう言えば、この人の笑った顔を見たのは初めてだ。


 魔物討伐のために北部にやってきて、お城で働く誰かが言っていた。

 噂通り、ジュリオ王子が笑った顔を一度も見たことがないって。


「最初に行動したのは俺だ。だからこれは、俺だけの特権だな」


「……」


「お前に預けておく。一緒になるまでは、この指輪を俺だと思え」


 これまで恋愛なんて興味の外にあった私でも、ジュリオ王子の行動がとっても意味のあることだって分かる。


 ――その時、誰かが地面に倒れた。


 王子様との結婚を誰よりも望んでいた私の愛すべきカミーラお姉様の姿。 


「勿論、知っているだろうが」


 だけど、お姉さまを助け起こす人はいない。


 私もそうだし、ヴァイナルダム王家、貴族階級の大人たち、雪山の城(レインバック)に使える平民の使用人が息を呑む中。


「それの名前は」


 この世界で私が知る限り、最もチェスが上手な王子は、チェスを打っていた時みたいに、子供染みた笑みを浮かべて言った。


「――婚約の指輪(エンゲージリング)と言うんだ。アレニャ」



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