負け犬からアラフォーへ〜がんばれ!団塊ジュニアの就活・婚活難民〜
この物語はフィクションです。
※この物語はフィクションです。
2003年2月中旬
春のような陽気の2月も半ばのある休日、毎年出していると婚期が近づくという噂を聞いて数年前から連続して出していたひな人形を今年も出そうと急に思いついた。
気づくと30過ぎていて、今年は前厄。今の仕事は3月末までの契約だし、彼氏はいないし、お見合いさえも連続空振り。縁遠いこと限りなし…。もしかしてこれはかなりやばい状況なのでは??・・・多分、いや絶対そう。どうにかしないといけない。でもどうする?
そしてまたこれも急に思いついた。そうだ国家試験取ろっと!!
そしてひらめく時は立て続けにひらめくもので、市役所の臨時職員なら18日勤務で、コピーにお茶くみ、残業ゼロ。しかも家から近い。これしかない!ひな人形を和室にほっぼりだしたまま私は履歴書を書き始めたのであった。
2003年2月下旬
早速平日の午前中に市役所に履歴書を出しに行った。総務課に行くと奥のソファに通された。だるそうに出てきたおじさんはいかにも公務員という感じの人で無愛想にこう言った。「履歴書持って来られたそうだけどあなたアポイント取ってないでしょ。今日は忙しいんだよね」えっっ?このゆったりとした雰囲気のどこが?と内心思いつつ、30代貫禄の笑顔で「すいません」と返してみた。「まっ、こんな世の中だから履歴書が山積みでね。空きができたら連絡しますから」と、もう帰っていいよという表情をした。
こりゃダメだ〜と肩を落として市役所を後にした。私の住んでいるS市は人口5万人余りで2年後に隣の2村との合併と国体の開催を控えていた。緑が豊かでとても住みやすい街だ。
2003年3月上旬
団塊ジュニアの私は、ご多聞にもれず就職氷河期で憂き目に遭い大学のあった土地で卒業後2年頑張ってみたけれど報われず隠れるように地元に帰った口である。
帰郷後少し家で引きこもったがこれではいけないと思い就職活動をしたが25歳過ぎていたからか結局正社員にはなれず、地元の優良企業の子会社の派遣社員になった。その会社の人々は恐ろしく優秀で、卑屈な日々を過ごした。上司から「性格がいいから」という理由で契約を延長していただき気付けば3年が経とうとしていた。派遣社員は基本的に同じ職場には最大3年しかいることができない。
そんな頃小学校で事務をしていたおばさんから小学1年生の生活支援員をしてみない?という話がきた。次年度から始まる小1グッドスタートという制度で、35人以上のクラスの担任補助として1年契約。1回働いた人はもう採用しないという仕事だった。いろいろ考えてOKした。とにかく新しい風が欲しかった。そして今1年が経ち、本当にOKしてよかったと思った。こんな経験ができたことこの子たちに出会えたことを心から感謝した。そして、自分が対人援助の仕事が好きなことに気づいた。それまで自分には絶対対人援助の仕事は向かないと思っていた。
2003年3月26日
終業式。1年1組の36人の子どもたちとの別れの日がついにやってきた。最後の帰りの会、皆でゆずの「またあえる日まで」を歌った。
子どもというのはすごい力を持っている。自分の子どもが欲しいと心から思った。もし不幸にも女として生まれて一人の子どもも産めなかったとしたらせめて子どもが宝物として輝くという当然の権利のために何かできたら…
この1年間小学校で働いてみて、保健室登校の子どもが驚くほど多いことを知った。スクールカウンセラーはやはり必要なのではないかと感じた。どんな資格を取ればいいのだろう?それはどうやって取得する?
別れの涙も渇かないうちにそんなことを考えている自分に驚いた。20代の私ならセンチメンタルな気分から当分抜けきれないでいただろう。そういえばまだS市役所から連絡はない…
2003年3月30日
1年2組と3組で同じ生活支援員をしていた女子と日帰り京都旅行に行った。目的はただ一つ清水寺の一角にある縁結びの神社(名前忘れた)に行くためだった。私以外は20代前半でしかもかなりカワイイのになぜか彼氏がいなかった。つまり女三人本気の願かけ旅!
その神社には二つの石があり一つの石を触ってから目を閉じて無言で歩いて二つ目の石にたどり着き触ることができたら良縁があるという。私たちは周りの目を全く気にせず大声で「もっと右!」とか「そう、そのまま真っ直ぐ!」とか言ったり手を叩いたりして他の参拝者にかなりひかれていた。中には失笑している人もいた。そんなかい(?)あって三人とも無事石から石へたどり着きここぞとばかりに石を撫で撫でしたのであった。まっ、それだけした訳でなく観光もしっかりして昼は京漬物のお茶漬け→ぶぶ漬けを食べたりしてあっという間に一日が終わり、楽しかったね〜などと言いながら京都駅に向かった。
疲れ果てた顔でぼーっと新幹線を待つホームで意外な人に出会うことになろうとも予想だにせずに…
2003年3月30日
「お久しぶり」と肩を叩かれて振り返ると、女優トレンチのウエストをギュッと縛りピンヒールをはいた夜会巻きの女性が微笑んでいた。よく顔を見てみると変わらない絹のような綺麗な白い肌…それは高校時代の同級生で元首相の娘アッコさんだった。
高校時代のアッコさんはパツパツのショートカットにいつもピンと伸ばした真っ白いソックスをはいていて飾り気のない親しみやすい性格で人気があった。大学を出てすぐ年上の青年実業家と結婚したと聞いていた。ご主人と週刊誌に載っていた時そのままの姿で今目の前にいる。
そしてその奥にとりまきのものものしい感じの長身の男性たちに隠れ光るポマード頭。S市出身の大物政治家橋山龍之介だった!
「今どうしているの?」アッコさんの質問にS市の臨時職員に履歴書を出している話をつい正直に話してしまった。アッコさんには昔からそういう所があった。その話に龍様の目がキラリと光りアッコさんに何か耳打ちした。その後慌ただしくアッコさんと連絡先を交換しアッコさんたちは忍びのように気配を残さずホームを離れた。何だか変な感じだった…
2003年4月2日
いまだ市役所からは連絡なし…家でぼんやりしていると電話が鳴った。もしかしてと受話器を取ると母からだった。母は沈んだ声でこう言った。「やっぱりおばあちゃん大腸癌だったんよ」
なんとなく覚悟していたけどやはりショックだった。お彼岸に独り暮らしのおばあちゃんの家に行ってトイレを借りた時、ハッとした。便器の汚れ方がおかしかった。汚れの中に血のような色がたくさんあった。実家に帰ってすぐ母に話した。検査のため大きな病院に連れて行くことになった。去年の夏からお腹が痛い・下痢ばかりすると言っていたのに田舎の町医者は腐った牛乳のせいにして帰したのだった…
大好きなおばあちゃんが死ぬかもしれない。涙があふれてきた。その時また電話が鳴った。涙を飲み込み電話に出るとなんとアッコさんからだった。
2003年4月2日
アッコさんからの電話の内容は父である元首相橋山氏からたってのお願いがあるので近々O市内の料亭でこっそり会いたいが、そんなに難しいお願いではないので気楽に来て欲しいとのことだった。
もしかしてよくあるドラマみたいに隣にもう一つ部屋が用意してあり布団が敷いてあり枕が二つ…「龍様いけませんわ!あれぇ〜」ってことになるのでは?などと考えながらも、これはなんとなく断わるにしても行くだけは行かないとなぁと思い承諾した。
電話を切り頭の中が混乱してしばらくの間脱力した。ふいにおばあちゃんの「どこの一生も一生は一升」って言葉を思い出した。皆生まれた時の幸せの量は同じでどんな人生を歩んだ人も死ぬ時はとんとんになっている。でもどんな人生かはやはり自分次第。誰かが「あの人は選ばれた人だから」って言葉を口にしたけどそんな人っているのかな?多分ホントはその人がいつも選ばれたいと強く思って、その方向に進もうとしたから(努力したから?)そうなっただけなんじゃないかな。何もしないより一度だけの人生だから経験してみよう。たとえ傷ついても何か自分の中で意味をなすに違いない。そう思った。
2003年4月10日
O市内の料亭に着くと女将がしずしずと現れ奥の方の一室に通された。しばらくしてふんわりポマードの香りがして龍様が一人で入ってきた。丁重に挨拶をし自己紹介をした後アッコさんは?と尋ねると今日は来ないとのこと。もしかしてやはり…と隣の部屋に繋がる襖をちらりと見てみた。あの襖の向こうにきっと赤い布団と二つ並んだ枕が…龍様はおもむろに切り出した。「実は君に覆面オンブズマンとしてS市役所に臨時職員として入って欲しい」「え?」多分その時私は鳩が豆鉄砲を喰らったとはまさにこんな顔という顔をしていたに違いない。
2003年4月10日
龍様は熱く語り始めた。S市の現市長はコネ人事で有名でさらに自身が土建業を営んでいて癒着もありうる。しかももう一人の地元の大物政治家虎さんと懇意にしていると言いながら現市長T氏と虎さんが握手をしているパンフを見せられた。さらに鼻息荒く自分の故郷S市がこれ以上腐食するのは見ていられないと唾を飛ばさんばかりだった。しかし龍様は今は隣のK市に拠点を移し選挙区も違っている。市役所の近くの3階建ての元邸宅は幽霊屋敷のように荒れ放題だ。元首相とはいえやや世間から忘れられつつあり、たまに名前が出てくれば批判の対象としてでしかない最近の龍様が、故郷の市長さえも自分をさしおいて虎さんと仲良くしているのがなんだかんだ言って気に入らないというのは明白だが、龍様も人の子だなと少し微笑ましかった。
仕事も欲しいし、引き受けることにした。2年後の3月の合併後にある市長選に今龍様の秘書をしているK氏が出馬するようでその方にメールで随時報告を入れるだけでよいらしい。総務部長とK氏が実は関わりがあり話はもう通してあるらしい。そうと決まったらあっさり帰された。「あれ〜龍様いけませんわ」は妄想に終わった。
2003年4月12日
おばぁちゃんの手術は無事終わったが、おばぁちゃんはお腹に袋をつけその中に排泄する生活になった。手術後初めて面会に行った。おばぁちゃんはやはり少し消沈していた。小さくなったような気もした。なのに今まで聞いたこともない強い意志のこもった口調でこう言った。「家に帰りたい。」答えに困ってしまったが心の中でこう思った。一時間だけでもいい、どうにかして叶えてあげたいと思った。そして同時に確信した。おばぁちゃんは死ぬんだ。そして自分でも気付いている。
私は努めて明るい話をしておばぁちゃんを笑わせた。病院から帰ると留守電が入っていた。S市役所人事からだった。「社会福祉協議会という所に5月から」ということだった。社会福祉協議会って何?市役所の臨時職員じゃなかったの?全く意味がわからず秘書のK氏にメールした。
2003年4月30日
K氏からメールの返事がきた。社会福祉協議会とは地域福祉のことー民生委員の統括・赤い羽根共同募金・日赤の会費回収・ボランティアの斡旋・ヘルパーの派遣などを行っていて運営費は市などからの補助金、香典返しなどの寄付金、社協会費などで市役所とは別物で社会福祉法人なのだそうだ。
今の不況で就職できない女子が多く、特に今年は新卒の履歴書がたくさんきた。まずコネ、次に若い子かわいい子の順で決めていき空席は4月からの勤務の時点で埋まってしまった。市役所に履歴書を出している子の中には公務員と結婚したいと思っている人もいるので社会福祉協議会は行きたがらないそうで空いていた。でも市役所より社会福祉協議会に潜入した方が意外に情報が集められるかもしれないとのことだった。
驚くことに一応面接があって、上品なおじさんと頼りなさげなおじさんと怖いおばさんに色々聞かれて決して雰囲気はよくなかった。さらに驚くことにもう一人女の子が面接に来ていた。大丈夫なのかK氏…しかもいつまでたっても返事がこない。今日は4月30日、只今17時をすでに回っている。ゴウを煮やしてついに自分で電話しようかなと受話器を取った時電話が鳴り、あの面接の時の頼りないおじさんと思われる人がにやけた声でこう言った。「もしもし明日から来てくれる?」 !
2003年5月1日
朝8時までに事務所に来てくださいと言われていたので8時5分前に行くが、誰も来ていない。そうじのおばさんが入って来て「あれ〜新人さん?」とか話し掛けられているうちに8時も10分回った。すると「ごめんなさ〜い」とかわいらしい男性が入って来た。いかにもいいお父さんという感じの30代の男性。「今日からお世話になる…」と挨拶すると、これぞ福祉職というような笑顔を返してくれた。
そうこうしているうちにざわざわ職員が出勤してきたが、人数はさほど多くなく面接にいた人のよさそうなおじさん(=室長)と怖そうなおばさん(=次長心得)と、子育て終わった感じの女性2人(嘱託職員と臨時職員)と主婦という感じの女性(臨時職員)と気の強そうな若い女の子だけだった。若い女の子(=Wさん)が隣りの席で、色々教えてくれた。少し話しているといきなり「やっぱり福祉についての考え方がダメですね。福祉ってのは同情じゃないんです、同情じゃ。」と説教された。彼女は嘱託職員だがよく聞いていると、地元の私立大を出てすぐ市役所の税務課で2年(市役所は2年しか臨時職員ではいられない。ただ、3ヶ月休むとその2年はチャラになりまた臨時職員として復帰できる。実に8割以上が復帰している!運のいい人やコネのある人、または2年間に自分でがんばってコネを作った人は嘱託職員になったりする)いた後、おそらく(その話ぶりだと)コネで社会福祉協議会の嘱託職員になったようだ。ここでの経験は4年あるとはいえ、福祉の資格を持っていないのにこの自信はどこから…それに私には年上に説教するなんて勇気はないかも。若いのねぇ、と変に感心した。
私は老人クラブと独り暮らしの老人の会の担当を当面任されることになった。Wさんはさらに「社会福祉協議会では市役所の臨時みたいにコピーとお茶くみだけしてキレイな服着ておしゃべりしてコビふってればいいってわけじゃないんで!」とくぎをさしたが、私の方といえば子どもの次は老人かぁ…Wさんのその言葉にも上の空で変な感慨に浸っていた。
2003年6月
社会福祉協議会(以下社協)で働き始めてはや一ヶ月。T市長が福祉に興味がなく、また前社協会長が前の市長選挙でT市長の対抗馬の応援を堂々としたことから補助金がかなり減らされたことなどK秘書にせっせと報告する日々だった。
S市の高齢化率は20%で少子高齢化は進んでいる。S市の社会福祉協議会は福祉スマイルで初日に私を迎えてくれた社会福祉士Nさんが進める子育て支援事業が有名になり他県からも視察にくるくらいだった。一方私の担当は老人関係でこちらはごく地味。老人会という言葉が年寄り臭いということで最近は「老人クラブ」と言うというらしい。60代で老人クラブに入る方は今やほとんどいなく、クラブ会員平均年齢は80歳に近いと言っても過言ではないくらいだ。だんだんその存在価値が薄らいでいるのも確かだ。しかし高齢者というのは付き合ってみると実に真面目でかわいらしい。「頑張っている」のだ。だんだん「老人」にはまっていっている私がいた。
2003年6月中旬
その頃「負け犬の遠吠え」という本が注目を集めつつあった。30過ぎて結婚してなくて子どもがいなくて…って私じゃん!私今はホントにまさに負け犬って感じだもんなぁ。
この頃老人クラブの評議員会の準備で忙しくS市老人クラブ連合会の会長と会う機会が多かった。年寄りはおせっかいだから当然のように「あんたは結婚しているのか?」という話になり独身ですと言うと演説が始まった。あんたみたいな女性がいるから年金は破綻するんだ。つまり女が子どもを産まないから年金が貰えなくなるということ。会長は年金制度を守る会とかいう活動を熱心にしているらしい。でも当の本人は元公務員でたっぷり共済年金をもらっている。好きで結婚していないわけではないのにって内心はらわた煮えくりかえっていたけどなんとか笑顔で会長を見送った後、いつもの福祉スマイルでNさんが近付いてきてこう言った。「精神保健福祉士って資格知ってる?」
2003年6月下旬
Nさんにはスクールカウンセラーになるにはどんな資格がいるんでしょうねと以前から相談していた。臨床心理士は大学院を卒業しなければなれないし国家資格ではないので微妙という所まで調べて行き詰まっていた。
小学校で働いていた時の給料が極端に少なかったので貯金は底をついていて働かなければならなかったので大学院はムリだった。精神保健福祉士という資格は精神保健福祉領域のソーシャルワークや精神障害者の様々な支援を行う国家資格で四大を卒業していれば福祉の経験や資格がなくても通信教育で2年半くらいで取れるらしい。ただ毎月2個の小論文の提出と2回のスクーリングと2週間の実習に行かなければならなかった。でも今一番新しい国家資格でまだ取っている人が少ないので合格率が高く、さらに需要もあるみたいだ。
これはいけるかも!すぐに取れる学校を調べたら、通信は(当時)新潟、東京、佐賀にしかなかった。ちょうど前の年にはなわの歌で佐賀に注目が当たっていたこともあり、な〜んとなく佐賀の学校に決め、資料請求をした。
おばぁちゃんが一日だけの帰宅を果たしたのもこの頃だった。その日は梅雨のじめじめした天気だったけどおばぁちゃんは終始笑顔だったよとお母さんは寂しそうに笑って言った。
2003年7月上旬
社協で私は老人クラブの他にも松寿会という独居老人の会を担当していた。その理事会で要望が強かった交通安全教室を行うことに決まった。でも交通安全教室といっても何から始めていいのかさっぱりわからなかった。
Nさんに相談したら市民課の生活交通係(当時)にとりあえず聞いてみれば?といつもの高音の声と福祉スマイルで答えてくれた。その話をしているとNさんが「あっ!」と入口の方を指差した。背の高くすらっとした少し影のある若い男性がこちらに向かって来た。「偶然。あれ生活交通の人」Nさんが言った。今日は交通安全母の会の総会があり社協が管理している大会議室を借りていたのだった。「会場使用で鍵をお借りしたいんですが…」入口から一番近いところに座っていた私にその男性は話しかけてきた。そしてその男性と目があった時、もう決めてしまっていた。この人を好きになるしかない!
2003年7月中旬
30過ぎても恋は台風のようにこの身を襲うものなのだなぁと今になってみればおかしいけれど、思い込みにしては運命的な感じがしてかきけせない…つまり恋はいつでも一種の病なんだろう。
あの日から目の前の風景ががらりと変わってしまった。仕事も断然楽しくなった。交通安全教室のために彼のいる係に行ったり電話したりできるからだ。交通安全指導員という女性が2人嘱託職員としてその係にいた。にやけた人のよい室長と一緒に派遣をお願いに行ったらなぜか派遣できないと彼の上司にばっさり断られた。その時彼はすまなさそうにちらっと私を見た。それが後押ししてくれて私は思い切って彼に白線を引く道具を借りたいけどどうしたらいいのか聞いてみた。すると彼は交通公園にあると思うから今度行ったら見てくると言ってくれた。
どきどきしながら電話を待つ日々が続いたある日ひょっこり彼が社協の事務所にあわられた。「白線引きなんですが壊れていたんです。すいません。でも多分体育振興課がもっていると思うのでKアリーナに聞いてみられたら…」と丁寧な口調で教えてくれた。ぽわ〜んとして「ありがとうございます」と言うのが精一杯だった。ハート型になった目で彼の広い背中を見送る私に隣の席の気の強い女の子が言った。「電話ですむ内容じゃん。市役所はヒマでいいよね」
確かに。わざわざ来てくれたなんてもしかしてこれは!…根拠のないプラス思考になるのも病ゆえか。まっ、こんな罪のない恋の病が今後罪深きものになっていこうとはこの時点ではまだ思いもよらなかった。
2003年7月下旬
梅雨も明け爽やかな日が続いていた。私の心もまるで初恋をしている十代の乙女のようなまさに甘酸っぱい「わ〜たしさくらんぼ」状態だった。
けれど歳が気になって全く前進していない。彼の歳も知らない。苗字だけかろうじて知っているだけだ。
最近は恋の病でオンブズマンの仕事もいい加減になっているような気がする…今調べるように頼まれているのは農林課にいる臨時職員と市長が特別な関係ではないかという噂の真相だが、全然進んでいない。
キラキラした初夏のある日、社協の事務所に突然K秘書が現れた。今日の天気みたいに颯爽と登場したK氏は軽やかな動きで職員全員に名刺を配り最敬礼をして帰って行った。実はこの時私は初めてK氏を見たのだった。いいお父さんって感じで、清潔感と人柄の良さを前面に出したK氏はイメージとは違っていた。しかも今頼まれている調査内容とのギャップもあってちょっと可笑しかった。それにしても一体K氏は覆面オンブズマンが私だって分かっていたのだろうか?少しも私の方見なかったなぁ。覆面オンブズマンってこういうことなのかも…
顔が妙に怖いおばさんの次長心得がドスのきいた低い声で言った。「あれか。次の市長選に出るって噂の…」
「今の市長と正反対のキャラですよね」Nさんが芸人の「鉄拳」みたいな話し方で空気をがらりと変えた。
2003年8月初旬
S市では8月の第1週の土日に市民夏祭りがある。それに向けてミスS市とも言えるミスSの選考が行われる。ミスSに例の農林課の臨時職員Aさんが応募したと噂されていた。Wさんに聞いてみると事実らしかった。でも二次選考で落とされ結局選ばれなかったらしく市長との関係もないかなぁと思われた。市長と関係があるなら選ばれるだろうし…
市役所も社協も夏祭りに向けてバタバタしていた。社協は福祉バザーを開くのだ。そんなことはおかまいなく私は最近交通安全教室や老人クラブにかこつけては市役所の方に行っていたのでどうやらWさんが怪しいと思い始めているみたいだ。ある日用事で社協を訪れたEくんをうっとり見ていた私にWさんがニヤニヤしながら言った。「ふーん。あぁいうのがタイプですか」私は思わずわかりやすい反応をしてしまい、いとも簡単にあっさりバレてしまった。
その日家に帰ると母から留守電が入っていた。お見合いの話だった。母に電話してみるといつになくオススメのようでどんなにいい人か熱く語られたが、もちろん右から左へ、心ここにあらずだったことは言うまでもない。
2003年8月中旬
お盆に家に帰ってお見合い写真を見た。お盆前で実家は忙しく母がうちに来られなかったので私が見に帰って来なさいと再三言われていたのに先延ばしにしていたら結局お盆になってしまった。思ったより素敵な人だった。真面目で誠実そうで清潔感があって…そうまさに大林宣彦監督の映画に出てきそうな感じ。きっとこんな人と結婚したら幸せになれるんだろうな。それにくらべてEくんは影があって結婚には向いていない感じ。なんか浮気とかもありそうだし大病もしそう。とにかく苦労しそうな予感がする…
8月の下旬なら会えると返事して欲しいと親に言うとそれじゃ遅すぎて相手に失礼だからもう少し早くと言われたけどなんとなく今すぐ会う気にならないのだった。お墓参りをすませて実家からの帰りにおばあちゃんのお見舞いに行った。なんとなく忙しくて久しぶりに会ったおばあちゃんは驚くほど小さくなっていた。視線がぼんやりしていて私を見てもあまり反応がなかった。ちょうど食事をしていたおばあちゃんはデザートのくずもちをごはん茶碗の中に入れてそれをごはんと一緒に口に運んだ後「梅干しがあるとごはんがおいしいなぁ」と言った。私はあふれそうな涙を必死にこらえた。帰り際おばあちゃんはつぶやくようにでも気持ちを込めてこう言った。「あんたに誰かいい人ができたらいいね。おばあちゃんはいつもそう思ってる」これが動いているおばあちゃんに会った最後だった。
2003年8月下旬
今年の4月に第3セクターが経営する国民宿舎が開業した。社協は結婚相談事業もしていて毎年クリスマスにお見合いパーティーを開いていた。ちなみに去年はK市のT公園で行われた。今年はその国民宿舎でやることに決まった。
Wさんが新たに担当になり去年の担当Nさんと一緒に会場に下見に行った。帰ってきたNさんとWさんがニヤニヤしながら私に近づいてきた。Nさんが「生活交通係のEくんが仕事で来てたよ。彼女いないらしいよ。お見合いパーティーに誘ってみたら乗り気だったよ。」驚いて聞いていた私の肩をWさんが「参加すれば?」笑いながらたたいた。喋ったな!しかも今Nさんは事務所じゅうに聞こえるかん高い声で喋っている…
ショックな気持ちで家に帰ると母が来ていた。例のお見合い相手がこちらが会いたいと言った時期が遅すぎて失礼だという理由で向こうから断ってきたらしい。当然ひとしきり説教された。今日はなんて日なんだろう…やっぱり前厄だからかなぁとか考えながら寝苦しい蒸し暑さも手伝い眠れずにいたら電話がかかってきた。時計を見ると12時だった。受話器を取ると父だった。「おばあちゃんが意識不明じゃ…」
2003年8月下旬
母はもう寝ていたので急いで起こし、私の運転で隣の市の病院まで川沿いの国道をとばした。病院に着くとおばあちゃんはいろいろな管をつけられて布団に埋まるようにベッドの上にいた。おじさんとその奥さんと娘(従姉妹)がすでに来ていた。ベッドの周りにおばあちゃんを囲んで座り言葉少なに私たちは数時間過ごした。
このままおばあちゃんは逝ってしまうのかもしれないと思ったその時、急におばあちゃんの目がかっと開いて一言だけはっきりとこう言った。「ぼたもちが食べたい…」でも誰もそれには返事を返さず、口々におばあちゃん、おばあちゃんと叫んだ。おばあちゃんが手を伸ばしたので代わる代わるに手をとって自分の存在を告げた。「〜が来ていますよ」という風に…するとおばあちゃんはすまなそうに「みんな忙しいのに来てくれたんだね…ごめんな…」と言った。そしてその後また意識がなくなった。「こんな時までみんなに気を遣って…」おばさんが泣きながら言った。おばあちゃんの声を聞くのはこれで最後だった。
2003年9月1日
おばあちゃんの意識はあれから戻らず、いつ亡くなってもおかしくない状況と医師から告げられ24時間親戚が交代でそばについている状態が一週間近く続いていた。私も土日の昼間にそばについていた。おばあちゃんの従兄弟という人が見舞いに来ておばあちゃんの初めて聞くような昔話をしてくれた。おばあちゃんは神戸に憧れて親戚を頼って故郷を飛び出したものの結局帰ってきて地元で農家に嫁いだ。同じようにお母さんは大阪へ私は東京へ行ってそして帰って来た。3代で同じことをしてたんだ!おばあちゃんはそんな昔話はどこ吹く風といった感じでまるですやすや眠っているようだった。
気付けば今日から9月になっていた。昼休みなんとなく虫が知らせて公衆電話から家に電話すると父が出た。ついさっきおばあちゃんが亡くなったと言った。電話を切って動揺を抑えて振り向くとEくんとばったり会った。やっとのことでこの前のお礼を言うと「なんか顔色悪いですけど…」と私の顔をのぞきこんだ。泣き出しそうになりながらやっとのことで「大丈夫です」と言って逃げるように彼の前から去った。
社協の事務所に戻り怖い顔のおばさん次長心得におばあちゃんの死を告げ早退を願い出ると冷たい声で「ホントかね?」とにらまれた。このおばさんバツイチって聞いたけど今なんとなく納得できた。社協の会計を長年一人でやってて、かなり私腹を肥やしているとの噂もある。今までまさかねってあんまり信じてなかったけどK氏に報告してやるぅ〜!と誓った。
2003年9月2日
おばあちゃんの家で葬儀が行われた。爽やかなよい天気でまだ夏の暑さが残ってはいたが赤とんぼが飛んでいたりコスモスが少し咲いていたり空気は澄んでいてもう秋だった。前日の通夜で座敷に静かに横になっていたおばあちゃんはお棺の中で一段高い所にいた。
久しぶりに会うおばさんやおじさんに対して私はなるべく話をしないでよいように振る舞った。まだ結婚しないの?って言われたくないがためだった。おじさんおばさんもそれを心得ているように私には近寄らなかった。火葬場に行き私は生まれて初めて人の骨を拾った。病気の所が黒い炭のようになっていた。人が死ぬことはこんなにあっけないものなんだなと思った。でも煙突から出る白い煙が空に消えるのを見ながら何かが繋がっていくような気もした。
2003年9月初旬
おばあちゃんの葬儀の次の日から交通安全教室や新しく与えられた仕事でめっきり忙しくなった。新しく与えられた仕事は民生委員の関係だった。忙しくしていた中にもEくんへの想いは募るばかりだった。
ある日ふと社協の事務所にEくんが訪れた。私に話しかけたEくんをこともあろうか事務所の皆はくすくす笑った。Eくんはキョトンとしながらも「秋の交通安全週間に向けてポスターの表彰式をしたいのですが部屋を見せていただきたいんですが」と言った。私達は二人きりで階段を上がり部屋をひとつひとつ見て回った。なんともいえない安らかな空気が流れた。あまり会話はなかったけれどやはりこの人だと確信してしまうのに十分な時間だった(…というかどう転んでも確信していただろうけど)。事務所に戻ると皆がニヤニヤしながら迎えてくれた。Wさんが大声で言った。「なかなかお似合いだったで〜」
2003年9月中旬
秋の交通安全週間が始まった。Eくんたち生活交通係も忙しそうで社協にポスターを展示するためのパネルを借りにきた。汗だくになりながら運ぶEくんを窓越しに見ているとふと立ち止まりポケットからキレイにたたんだハンカチを取り出して上品に顔を拭きはじめた。その姿が何ともいえずかわいらしくてやっぱりこの人かも〜と妙に感心した。
独居老人の会の交通安全教室は結局警察の人を呼ぶことにした。地域ごとの老人クラブ(単位老人クラブという)でも何度か講師として来ていただいていて人気のある方だけに感じのいい素敵なパパ風の警察官だった。当日はあらかじめ都市計画課に申請して近くの公園をかりていた。2年後の国体のために作られた体育振興課が管理するKアリーナから借りてきた白線引きでは私一人で横断歩道などを引いた。事務所の人はまたしても見て見ぬふりだった。もう慣れていたので黙々と頑張った。自転車やお茶や拡声器を用意したりとバタバタだったけどなんとか無事に終わった。
事務所に戻ると怖い顔の次長心得が嫌味な感じで言った。「大行事が終わったから明日からは共同募金の手伝いに精をだしてもらわないとね」共同募金はWさんの担当だ。次長心得とWさんはプライベートでも仲が良いらしく、それで生意気なWさんに事務所のマダム方も遠慮しているのだった。最近やっと事情がつかめてきた。何でもWさんはやりたい仕事を優先的にやらせてもらったりしているらしい。次長心得とWさんがいないときはみんなWさんの悪口を言っている。そういえば次長心得とWさんはなんとなく顔も似ている。これは一応K秘書に報告かな。
そういえばおばぁちゃんのこと以来あまり報告できてなかったし、農林課の臨時職員の調査も進んでいないなぁ…いっちょ覆面オンブズマンの本領発揮といきましょうかね!
2003年9月下旬
10月1日から赤い羽根共同募金が始まる。社会福祉協議会がキャンペーンをはる。初日の10月1日は朝からスーパーなどで職員はもちろんヘルパーさんまでかり出され風船を配ったりして呼びかける。12月に入ると歳末たすけあい運動と名を変え年末まで3ヶ月間続く。先立って赤い羽根のバッチを市役所の各課に売りつけに行くのが恒例になっている。Wさんが意気揚々と売りに行った。(市役所の若い男性職員と話ができるからだ)帰ってきたWさんが私に駆け寄って来て言った。「市民課交通のEに色々聞いてあげたよ。高卒で24歳なんだって。2浪して大学あきらめて公務員になるために専門行ったらしいよ。彼女はいないってさ。でもなーんか嘘くさくてホントに〜?って追求してやったら感じ悪い苦笑いしてごまかすし。ありゃ遊んでるわ。止めた方がいいかもよ。」
2003年10月1日
赤い羽根共同募金が始まった。早朝から駅で募金箱を抱えてキャンペーン活動をした。社協に帰ってから用事で市役所に行って愕然とした。なんと受付に市長と噂が流れている農林課の臨時職員Aさんが黒いスーツで座っているのだ。そこにEくんが来て何か話している。美しい笑顔で立ち上がったAさんは膝上10cmのミニスカートできれいな長い足がスラリとまっすぐ伸びている。確かAさんはEくんより1つ上の25歳。私にはあのミニスカは逆立してもはけない…
市役所の受付には見栄えも感じもよい臨時職員が選ばれて座る。受付は市民課の管轄で昼休みや休憩時間は市民課の職員が交替で受付嬢に代わって座る。だからEくんがAさんと話しているのはおかしいことではないが何か気になる。
Wさんの話では市役所には若い職員で毎月ボーリング大会をしていてAさんは抜群に上手くボーリング大会の女王と呼ばれているらしい。かなり社交的な性格で市役所中の人と知り合いらしい。彼女と付き合っているのではと噂になっている男性職員も何人かいるそうだ。ミスSには落ちたものの最近県の森の妖精というミスコンに受かったという話もある。事務所に帰りWさんにAさんが受付にいることを話すとこう言った。「知らなかったの?彼女市長に頼みこんであそこに座ってるんだよ。みんな知ってるよ。前の受付にいた臨時さん怒って辞めちゃったってさ」
あらぁ〜覆面オンブズマン失格だ!恋にうつつを抜かしてサボってないで早速今夜報告しないと。でもやっぱり頭の中はEくんとAさんの間に何か起こらないか根拠のない心配がよぎるばかりなのだった。
2003年10月3日
市役所の臨時職員は2年間以上は働けない(実際は3ヶ月間空けてまた復帰する人が多い)が、さらに半年ごとに1回辞めたことにしないといけないという決まりがあるらしい。給与を上げないといけないからか待遇を改善しないといけないからかその辺りはわからない。よって10日間休みの前形式上いったん契約を切る。
社協は2ヶ月更新で無期限でいてよいことにしているが、市に準じて臨時職員は10日間休みを取る。私も明日から10日間休みを取ることになった。昼休みに市役所のATMにお金を下ろしに行ったら受付にEくんが座っていた。今しかない!そう思った。おそるおそる話かけたら笑顔で「あっ、こんにちは」と昔からの知り合いみたいに返してくれた。
「あのぅ〜前にNさんに誘われたと思いますけど本当に社協のお見合いパーティーに出るんですか?」・・・なんてバカな質問!
「興味はありますよ」と答えたEくん。こんなに若くてかっこいいのに…社交辞令の冗談に決まってる。
「本当に彼女いないんですか?」またまたストレートな質問。よく知らない私に本当のこと言うわけないのに…
すると彼は意外な返事をした。「いないんですけど色々あって…」どういうことかなとちょっとひっかかったけど昼休みは終わりそうだったのでとっさに思いついた事を言ってみた。「お見合いパーティーに出る前に私の友だちを紹介したいんですけど…」「本当に?是非お願いします!」
慌ただしく私の携帯とメールアドレスを携帯画面で見せた。彼はメモを取り「絶対電話かメールします」と言ってくれた。ドキドキしながら事務所に帰り午後は全然仕事にならなかった。
どんな10日間休みになるんだろう。
2003年10月5日
10日間休みが始まった。精神保健福祉士の受験資格が取れる佐賀県の専門学校の通信講座の選考論文の期限が10月下旬だったがまだ全く手をつけていなかったので、まずはこれを片づけるため図書館に通った。
論文の題目は「精神障害者と偏見について」だった。とにかく精神障害がどういうことなのかから調べなければならなかった。統合失調症、気分障害…全てが知ってるようで知らないことばかりだった。面白くて面白くて借りた本を片っ端から読みあさった。
Eくんに携帯の番号とメアドを渡してから3日が経っていたがまだ連絡はなかった。精神障害についてはまっていた3日間ながらそのことはやはり気になっていた。夜ベッドで精神障害についての本を読んでいたらメールが来た。
Eくんからだった!これから電話してもいいですか?って内容だった。思わずベッドから飛び起きた。
2003年10月5日
数分後Eくんから本当に電話がかかってきた!30過ぎて好きな人からの電話に心臓が口から飛び出しそうになっても恥ずかしくないと思いたいが、その反面やはり10代や20代の頃みたいに何も喋れないということはなくあれやこれやとにかく喋りまくってしまった。向こうが合わせてくれていたのかもしれないがなんとなく波長が合っている気もしたからというのも手伝った。
受付で連絡先を渡した時とっさに友だちを紹介したいと言った手前、とりあえずお互いの友人を集めて飲み会をしようという話になった。Eくんの同期のOくんは社協のヘルパーさんで個人的に仲良くしている方の息子さんだったが彼も来るかもしれないとのことだった。Eくんは人と日にちを調整して必ずまた連絡しますと言って電話を切った。これはイケるかもしれない…と思うと同時になーんとなく嫌な予感が走った。でもうれしい気持ちが先行してなかなか寝つけなかった。
2003年10月9日
10日間休みも残り半分になった。専門学校の通信過程の選考論文はEくんの電話以来全く手がつけられなくなってしまっていた。Eくんとはほぼ毎日何らかのメールをやりとりするようになった。長いメールが来て飲み会に来ていく服を買いに行ってきて家に帰って鏡の前であれこれ合わせているとかいうメールがきてカワイイなぁと思ったりした。(普通ならそんな男は大嫌いなはずなのに…オシャレな男というのはどうも苦手で、いつもシンプルなボーダーのTシャツやチェックのシャツにチノパンといった格好で髪も黒いままでいたって自然で素朴な理系のメガネ男子が好みなのだから)でもEくんも安くてシンプルな服が好きだって言ってるし。黒やグレーしか似合わないような感じではあるけど…まっ好きになればそんなことはやはりどうでもよくなるのが恋なのだろう。
飲み会についてはOくんが年上は嫌だとか言っているらしくメンバー集めと日にちの調整に難航しているようだった。待ちきれずに10日間休みヒマだよ〜金曜日夜ご飯でも食べないってメールを送ってみたらすんなり行きましょうと返事がきた。早まったかなと思いつつ食事くらいならと思い行くことになった。どうしよう…こっちこそ何を着て行こう!
2003年10月10日
金曜の仕事が終わって市役所の近くにある市民会館の駐車場で待ち合わせになった。ここは灯台元暗しで市役所からは死角になっているのですぐに決まった。駐車場に着くとEくんはすでに来ていた。Eくんは助手席にごく自然に乗ってきた。
和食の定食で有名な店に向かった。初めてとは思えないほど話は盛り上がった。支払いは彼が出そうとしたが私から誘ったからと断るとすぐに彼は財布をしまった。この後どうするということになり彼が運転しますと言い出したので私は深く考えず承諾した。その後24時間営業のコーヒー店に連れていかれそろそろ帰りたいと言ってももう少し…となんとスロットに連れて行かれた。
この人大丈夫かなぁと少し不安になったが、惚れ惚れするようなルックスを目の前にして私は結局言いなりなのだった。やっと家まで送りますと言われ家に着くと彼は思わぬことを言い出した。「僕はあなたの家から歩いて帰ります。でも少し家で休ませてもらえればありがたいです」私が独り暮らしなのを彼は知っているようだった。ついに私は「うん」と答えてしまった。
2003年10月11日
Eくんはごく自然にうちに上がりこみ、出したお茶を当然のように飲んだ。なんとなく気まずくなりかけたので新しく受付に来たAさんについて聞いてみた。EくんはAさんの友だちで去年まで市民課の市民サービス係にいた臨時さんと仲良くしていて去年の市民まつりにAさんの彼氏も含め4人で遊びに行った時AさんがEくんの私服姿を見てダサいと言ったことを根に持っているようであまり彼女をよく言わなかった。メイクがケバいとかブランド物好きの女は嫌いだとか言いたい放題だった。
今彼女いない歴1年という話を受け1年前はどんな彼女と付き合っていたの?と聞くとフィリピン人みたいでAさんみたいな遊んでる感じのブランド好きな人で1ヶ月で分かれたとケロリと言ったが私はかなりショックを受けた。この人遊び人であまり賢くないのかな?と疑った。それと彼女=Aさんの友だちでは?とふと思ったが深く追求しなかった。一重に嫌われたくなかったからだ。さらにEくんはヒョウヒョウと「僕家に帰りたくないなぁ」とか言い出した。ごたぶんにもれず私は断れなくて1階の和室に布団をひいて寝させた。
私は次の日早朝用事があったので早々と2階で寝た。Eくんは少し面食らっているようだった。翌朝Eくんを叩き起こした。Eくんは眠そうにしながら「襖を開けたまま着替えちゃおっかな」などと冗談を言い、私が作った朝御飯を当たり前のように食べた。家まで送っていくと家を知られたくないからと大きい通りで降ろしてくれと言った。私の家はバレたのになんだか腑に落ちなかった。ここまでで普通なら彼について少しいぶかしく思うところかもしれないがそこは“恋は盲目”熱い感情がたくさんの疑念に見事にフタをしてしまったのだった。
2003年10月12日
おばぁちゃんの四十九日の法要のため実家に帰った。おばぁちゃんの家は実家から近い。(つまりお母さんとお父さんは割と近くに住んでいたということだ)
Eくんから日曜はヒマですか?と聞かれたが四十九日には絶対出たかったので事情を話して断った。私の携帯は実家付近では一切つながらなかった。法要は無事終わり葬儀の時は慌ただしくて挨拶もろくにできなかった親戚とゆっくりおばぁちゃんの話をしたりできた。結婚の話は出なかった。
次の日は仕事だったのでその日のうちにS市の家に帰ると携帯にEくんから3通メールが来ていた。電波が悪くて今メール見たよって返信したらなんと「ホントに法事だったんですか?」ってメールがきた。嫉妬されてるんだなってうれしかった。束縛する男かも…って疑念はひとつも起こらなかった。
恋の病とは本当に恐ろしい…Eくんのメールにはまた二人きりで会いたいとあった。私はその前にもう一回電話で話したかったので日にちを提示しなかった。すぐに会うと平常心を保てない気がしていたからだ。しかしこれがまたEくんの不信を招くとも知らずに…
2003年10月15日
相変わらずEくんから毎日メールが来たが電話はなかった。自分から電話したくはなかったのでじっと我慢の日が続いた。
社協事務所ではWさんがEくんのことに感づいて探りを入れてきた。仕方なく少し話したらお茶しながら話そうよと言ってきた。なんせお山の大将裸の王様と陰で言われているだけありその強引さと空気の読めなさに否と言えなかった。夕方近くの喫茶店モカで待ち合わせた。Wさんは煙草をふかしながら待っていた。慌てて煙草をもみけしながら「遅いよ〜。煙草のことは絶対言わないでよね」と睨みつけた。
「男は何か料理でも作ってあげればすぐおちるよ。雰囲気で一気にいけばいいのよ。私と彼は流れでそうなったんだよね」私がオドオドしながら「でもそんなんじゃ軽いと思われないかな…」と言うとWさんは「はぁ?」って感じで笑い飛ばした。Wさんは県の社協で評判のモテ男と付き合っていた。Nさん曰く泣き落としで射止めたらしい。二股とかじゃないかと私は疑ってはいたがどうやらそうでもないらしく、次第にWさんにはある種の恋愛のテクニックがあるのかもしれないと思いはじめてきた。その夜私はEくんに電話し17日金曜日うちでデートすることを決めてしまった。17日は私の32回目の誕生日だった。
2003年10月17日
32回目の誕生日であることはEくんには告げていなかったし、姑息にも前日に「実は私31歳なんだ〜」とカミングアウトして次に聞かれるまで答えないつもりでいた。前に27くらいですか?と言われたので「そんなとこかな」と答えていた。
18時にEくんの家の近くのスーパーの駐車場で待ち合わせしそのままうちに向かった。ピザを注文してソファでテレビを見ながら食べた。Eくんは家では朝御飯も作ってもらえず冷たくされているのに給料からたくさん家に入れている話やお母さんがねずみこうのようなことにはまっていることやお兄さんが不倫の末の略奪愛で随分年上の女性と付き合っている話をして「僕も年上の人が好きなんですよ。癒されたいですね」と言った。
内容的にどうなんだろうと思いながらなんとなく「お父さんはどんな人?」と聞くとEくんは今までと違い静かに「僕が7歳の時に交通事故で死にました」と言った。「ごめんね」と言うと「いいんです。いないのが普通なんで」と寂しそうな笑顔を見せた。私のハートは射抜かれた。
沈黙が流れ自然に体が近付いた。キスか!と思ったその時Eくんが言った。「実は2年前に別れた彼女から最近連絡があって今悩んでいるんです…」えっ??今そんなこと言われたって。しかしすでに自然な流れでそのまま唇は合わさってしまった。
2003年10月19日
私たちは何もしないで一緒に寝て朝を迎えた。実はEくんは何度も「したい」と訴えてきた。私は彼女になってないからとかたくなに断った。なんとなくしらけた朝だった。
元彼女と明日話をして決着をつけ、明日の夜電話すると言われた。でも彼女とは付き合わなくて私と付き合うとは一言も言わなかった。電話がかかるのが正直怖かった。日曜の夜、私は携帯電話を持たずリビングで大河ドラマを見て洗濯をしていた。もう寝ようと2階に上がるとEくんから着信が2件入っていた。覚悟を決めてEくんに電話をした。
2003年10月19日
電話に出た瞬間に結果は分かった。Eくんは明らかにテンションが低く、「彼女と寄りを戻すことになりました…」と告げた。2年前彼女を泣かせて別れた。(おそらくEくんが浮気でもしたのだろう) 彼女はショップの店員だが、就職して4年目を迎え重要な役目を任されて悩み、電話をかけてきた。今さらと思ったが会って話をしていると情が戻ってきた。「別れている間誰かと付き合っていたの?」って聞いたら彼女は泣きました。彼女は不細工でたよりなくてストレートで不器用です。彼女には俺しかいない。だから寄りを戻しました。ごめんなさい。…
私はやっとの思いで「大丈夫だから」って言った。するとEくんは「優しいですよね。あなたとは付き合えないけど僕はあなたのことが好きです。だからツラいです…」と言ってわざとらしく泣いた。
ずるい。あなたのことが好きだけど付き合えないってどういうこと?それに私は今嘘でも泣けない。それが私。私もつける薬もないくらい不器用だから…。電話を切って私はオエツした。
2003年10月20日
月曜日。仕事に出勤。一睡もしていない。もうこれ以上ツラい日はないだろうという一日だった。
しかしこれはこれから始まるツラい日々のほんの序章だった。私は数年前からかなりひどい月経前症候群(PMS)で生理前にはうつ状態や不眠になりわけもなくイライラして寂しくなる。まさに今がその時期だった。この後この病気が事態をさらに悪くする要因になることにもまだ気付いていなかった。
社協の事務所には結果を知りたくてうずうずしているWさんが待ち構えていた。私の顔を見てすぐ気づいたようで大声で「元気出しなよ」と肩を叩いてきた。笑いをかみころしたような顔をしている。人の不幸は蜜の味なのは誰でもそうなのだから仕方ない。
その日ダブルパンチを浴びた。私が来る直前に事務所内で私の履歴書を回していたことがおばちゃん職員のおせっかいなチクリで発覚した。今日そんな話をするなよとむしょうに腹が立って衝動的にK秘書にメールしついでに愚痴を送ってしまった。K秘書から珍しくオンブズマンの仕事を労う返信が戻ってきた。「また泣いてしまうじゃないか〜K秘書のバカ」と言いながら泣きじゃくった。
2003年10月11月
10月11月は老人クラブや独居老人の会などの旅行や行事が盛り沢山で「あっ!」と言う間に過ぎていった。ツラい日々の中にも老人たちの優しさに触れ癒された。何も用事がないのに事務所に会いに来てくれたり野菜を持って来てくれたりした。
市役所の方に行くと嫌でもEくんを見掛けるしそのたびにどうして私の恋愛は上手くいかないのだろうと情けなくなった。いっそEくんが目に入らない職場に転職も考えたがでもS市の素朴で温かい老人たちのためにここで働こうと決めた。
努めて笑顔でいるように心掛けた。さらにこんな精神状態の時に精神保健福祉士の通信の選考論文を書き上げなんとか10月末の締め切りに間に合わせた。我ながらよく頑張っていると思った。でもやはり無理がたたる日がくるのだった。
2003年12月
本厄の年も暮れようとしている。私は歳末のお見舞いの担当になった。失恋の痛手を忘れるようにそれらに打ち込んだ。
毎年独り暮らしの高齢者に配る餅をつく行事があり、それの段取りを任された。餅つきの次の日社協のある福祉センターという建物の階段でばったりEくんに会った。(Eくんはずっと前から昼休みは福祉センターの3階で過していて今も毎日同期の人と来ていた)
Eくんと私は自然に会話をした。Eくんも先日交通安全母の会の餅つき大会を取り仕切ったようで、餅つきの話で盛り上がった。昼休みの終わるチャイムが鳴り、私たちは笑顔で別れた。もうひとつ歳末のお見舞いは市内外の児童養護施設や乳児院に入所している児童を訪問し、一人ずつにお見舞い金を渡す行脚だった。施設は市役所の福祉部長と社協の室長(例の人の良さそうでおっとりしたおじさん)と一緒に2日に渡って出かけた。どの施設もさびれた寂しい感じだった。どの施設の施設長も「お金がないこと」、「定員が一杯で入所を待っている子どもがたくさんいること」「以前はこんなことはなかった、日本はどうなっていくのだろう」と寂しそうに語った。以前は事故などで両親が亡くなったような子どもが大半だったが今は虐待や放置で他人に連れられてやってくることが多いようだ。
帰りの車の中で室長がポツリと言った。「あなたもしんどいことがたくさんあると思うけど今日の話を聞いて自分は幸せだと思ったんじゃない?」ドキっとした。室長はぼんやりしているように見えて私のことちゃんと見てたんだ。
確かに私はこの上ない幸せな子ども時代を過ごした。だから福祉の仕事を選んでいるのかもしれない。いろんなツラいことはそれがなければ気付かないことを気付かせてくれるためにあるのかもしれない。
穏やかに2003年は暮れていった。
2004年1月
後厄の年が明けた。節分までに厄払いをしなければいけない。
年が明けても私が落ち込んでいるからか、Wさんが急に優しくなった。ある日市役所の若い人で作っているボーリングサークルの定例ボーリング大会に久しぶりに誘われたので一緒にどう?と言われた。私はすぐにEくんにメールした。久しぶりのメールだった。もしEくんがボーリング大会に行くのなら私は行けない…Eくんからすぐに「あなたがいても僕は全然平気ですよ。だけど僕は誘われていません。」と返信がきた。
若い職員間にも派閥みたいなのがあると、前Nさんが言っていたっけ。とりあえずWさんと私はボーリング大会に参加した。受付嬢のAさんも参加していた。知らない若い職員もたくさんいた。Aさんはたくさんの若い男性職員に囲まれていた。彼女は一際目立っていて華やかでまるで女王様みたいだった。なんだかうらやましい気がした。あの人は失恋で悩んだことなんてないんだろうな…また「好きだけど付き合えない」というEくんの言葉が頭の中にぐるぐる回りすっかり暗くなってしまってWさんをややイラつかせていた。
Wさんと親しいボーリングサークルのヘッドの男性が近付いて来て、もしよかったらこの後みんなで食事に行くので一緒にどう?と言ってくれた。私は断って欲しいとWさんに頼んだ。Wさんはあきれて「あんたダメだね…」とつぶやいた。
2004年2月
同じ市内に住んでいる友だちの家に久しぶりに遊びに行くと、友だちのお母さんがお見合いの話を持ちかけてくれた。なんと誰でも知っていて地図にも載っている有名な寺(なんでもお手伝いさんがいるらしい)の後継ぎとの縁談だった。友だちがその男性と高校の同級生でお母さん同志も知り合いなのだそうだ。
話は釣書なしに進み、市役所の近くの喫茶店でいきなり二人きりで会うことになった。早めに着いて待っていると、ニット帽をかぶりオシャレな男性が爽やかに現れた。とてもスマートな話術でさすがに品もあったが、なんとなく違和感があった。これがよく言うフィーリングが合わないというやつかもしれないと思った。
別れ際に電話番号を聞かれ、あまり深く考えずに教えた。その後何度か電話がかかってきて話をしたが違和感は消えなかった。メールアドレスを教えてもらったが、なんとなくメールできなくていたら、友だちのお母さんから電話があった。お見合い相手のお母さんが私と電話で話したいと言っているけどどうする?という内容だった。この話は断った方がよいと判断した。息子のお見合い相手に自ら電話して話をつけようとする母親との同居は苦労するだろうなと思ったからだ。相手の男性はしっかりしたよい方だとしてもこう出られるとやはり女性はひいてしまうと思う。
お見合い相手の父親は市のいろんな役をしていて力があり、私はどうなってしまうのだろうとK氏に相談すると、あの住職はそんな方ではないとの返信がきた。多分彼も人格者だったのだろう。フィーリングとか縁とか…よく分からなくなってきた。
2004年2月
社協の今年の社内旅行は北海道に行くことになったが、私はこれからお金がいるので行かないことにした。次長やWさんは協調性がないとかなんとかあからさまに不満をもらした。旅行積み立てをしていたのでそれが返ってくる方が、今この精神状態でWさんや次長と旅行に行くよりよっぽどよかった。しかし臨時職員からも慶弔費も集めている社協だけあって、旅行に行かない人は行く人におこづかいとして5千円出せと言い出した。私は3千円にして欲しいと言ってさらにヒンシュクをかった。でもそれは後で正しい主張だったと思った。行かなかった人にお土産として買ってきてくれたものはあきらかに千円くらいのしょぼいものだった。
今だお見合いの男性から電話がかかってきていたが、何とかフェイドアウトの方向にしたいがどうしたらいいかなと悩んで誰かに相談したいと思っていた。ちょうど福祉センターの階段で昼休みにEくんに出会った。思わずEくんに断りたいのに断れないお見合いのことを話した。「はっきり言った方がいいですよ。男は中途半端に対応されるとふん切りがつかないことありますから…」と助言してくれた。
お見合いの話はEくんの助言どおりにして終止符を打つことができた。そのあと今まで社協に来るのをおもむろに避けていたEくんが市老連の理事会の最中に突然電話をしてきた。「K会長が来ていませんか?話があるんですが」という内容だった。「では会議が終わったらそちらに行くように言いましょうか?」と返すと「いやそちらに行きます」と言われた。事務所に来たEくんは別にどうでもいいようなことをにこやかに私に聞いて帰っていった。それきりで別に何もなかったけど、あれはどういうことだろうと少し当惑した。
もしかして相談して頼ったことで風向きが変わってきた?と早合点し「また相談したいことがあるからごはんでも食べない?」とメールをしてみた。するとこう返信があった。「あなたの言っていることは冗談かホントか分からないことがあります。社協に行って笑われたことやWさんやNさんに変なさぐりを入れられたことはとてもイヤでした。今は彼女に集中したいんです。わかってください」・・・なんだか電話で振られた時より落ち込んだ。私の一途さはひとつも彼に伝わっていなかったのだった。
2004年2月
月経前候群(PMS)は月毎に激しくなっていた。ある日冷蔵庫の中の物を片っ端から食べ吐いてしまった。
2日間仕事を休んだ。あのメールがあってからうつ状態になり生理前はMAXに落ち込んでいた。
2日の休みの後出勤した日、Wさんも機嫌が悪くささいなことで言い合いになってしまった。Wさんの激しい口調に私は思わず泣いてしまった。周りは慌てた。人のよい室長は泣いている私をそっと相談室に移した。
室長は自分の身の上話をして慰めてくれた。室長は足をひきずっていたがそれはなぜかその時初めて聞いた。交通事故に遭った時のこと、その後の話をしながら「いい時はみんな寄って来るが悪い時は誰も相手にしてくれなくなる。随分寂しい思いをし、悩んだこともある」と赤裸々に語ってくれた。それなのに私は被害妄想的になっていたので、あなたはわがままだというお説教にしか聞こえなかった。衝動的に「辞めます」と言ってしまった。室長は面食らい必死で引き止めてくれた。結局私は頑張ってみると約束した。
昔の職場の後輩のDくんは血管の表面に癌ができるという珍しい病気にかかっていて、入退院を繰り返しながら気丈に仕事をしていた。Dくんは音楽に詳しく、日頃から音楽が苦しい時自分を随分助けてくれたというようなことを言っていた。久しぶりにDくんにメールをしてみた。Dくんはすぐに当時流行っていたエモーショナルロックにはまっていると返事をくれ、アジカンやレミオロメン、フジファブリック、ゴーイングアンダーグラウンド、バンプオブチキン、アシッドマンなどを推薦してくれた。エモーショナルロック…いい響きだ。私はレンタルショッブに向かった。
2004年3月
嵐のような苦しい日々もだんだん落ち着いてきていた。春を感じる日もあり、そんな日は気分も少し晴れた。ある日仕事帰り駐車場に向かっている時、原付に乗ったAさんに思いがけず声をかけられた。「コート着てなくて寒くないですか?」びっくりしたがチャンスだと思った。市長のことEくんのこと市役所のこと…彼女と仲良くなれば色々聞ける。私はわざとらしく「受付に座られている方ですよね」と尋ねてみた。彼女は予想通り愛想がよく、何やら名刺を出してきて「私こういうのしてるんです。市役所は今月末で2年が来るので4月からは農政関係の国の出先機関に行くんです。」と言った。
市役所の臨時でコネのある子は2年たったらS駅近くのその事業所に行き6ヶ月いて、また市役所に戻ってくるというのを繰り返していた。名刺は森の妖精の名刺だった。その日はそれで彼女は原付で颯爽と去って行ったが、後日自分のメアドと携帯番号を書いたメモを受付に持って行った。「よかったらメールください」と笑顔を作ってみた。なかなかメールは来ず3月末日彼女が大きな花束をたくさん持って市役所の男性職員と談笑しながら帰っていくのを見た。作戦失敗か…と思っていたら4月になって突然メールがきた。
2004年4月
Dくんから奨められたエモーショナルロックとやらを片っ端からレンタルし、さらに自分なりに開拓し「リンク」というお気に入りのバンドもでき、エモーショナルというよりラウド系に走りすっかり音楽にはまり癒されていた。
選考論文を出していた佐賀の専門学校から年明け入学許可の通知が来て、この4月から精神保健福祉士通信講座の生徒になった。最初のレポートは5月に二つ提出予定だ。そしてスクーリングの日程も決まっていて1回目は8月の上旬だった。
早速恐い顔の次長心得に休みを欲しいと言ったら、その期間は他の臨時職員が10日間休み(長く勤めると待遇をよくしないといけないのでいったん辞めたことにするための休み)を希望しているからその期間を10日間休みに充てられない。スクーリングの休みとあなた自身の10日間休みと合わせると連続2週間以上も休みになる、夏のボランティアの調整や市民まつりの福祉バザーもあるし忙しい時期なのに困るなぁとおもむろに嫌な顔をされた。室長や会長(めったに現れないがイベントなどではあいさつだけしに来る飾り物的感の否めないトップ)と話し合ってみると言われた。
後日7月いっぱいで辞めて欲しいと言われた。ショックだったが当然と言えば当然だ。1回辞めますと自分から言ったのだから。でも色々あって打たれ強くなっていたのかすぐに立ち直り、改めて市役所の臨時になればいいのだと考えた。(市役所と社協の臨時職員は別物扱いで保険や契約書、勤務体系も違う)すぐK秘書に事情を話し市役所に履歴書を出すことに決まった。愛想が悪く畏れられている総務課長M氏とK秘書が実は同級生で密かに親交がありなんとかなるだろうとのことだった。
一方Aさんと次第に距離を縮めるのには成功しつつあった。
2004年4月
Aさんは4月から市役所から少し駅寄りある農政関係の国の出先機関で働き始めた。(そこはちょうどEくんの通勤路の途中にあった)私は昼ごはんに誘ってみた。なかなか警戒心が強かったのでもしかしてEくんとのことを知っているのではと思った。でもなんだかんだ言ってランチにこぎつけた。
最初は緊張したが色々話してみるとざっくばらんな人で、自分のことをたくさん話してくれた。実家が私の実家の隣の町ということが分かった。やはり今の職場には市長のコネで入ったらしい。市長とは農林課のイベントに市長が来た時親しくなったようだ。市長は耕地課のA次長や農林課長と繋りが深いみたいだ。市長は土建業もしているので経済部(土地や建築関係の課)を優遇しているらしい。あと耕地課A次長の権力はなかなかのもので市長にも渡り合えるらしい。Aさんも田舎から出てきて何のツテもなくこんなやり方しかないんだろうなと少し同情した。でも念願の受付嬢にもなり強力なコネも作り、ある意味彼女のやり方は間違っていなかったのかもしれない。彼女は前に出て私を見て見てというタイプだから自分をよくわかった生き方をしているとも言える。
Aさんは今の所で9月まで働いた後、市長の選挙事務所で働くことになっているらしい。いよいよ来年3月にS市とK村Y村は合併し、次月の4月にK秘書も出馬する市長選挙があるのだ。これはなにがなんでも彼女と友だちにならなければいけない。おぼっちゃまくん顔で少し頼りないK秘書に最近はだんだん親しみを感じつつあるのだった。そして実は一番聞きたかったEくんのことを聞いてみた。Eくんと私のことは知らないみたいだった。Eくんってかっこいいよねという前振りで色々聞いてみた。やはりAさんの友だちとEくんは付き合っていたことが分かった。二人は1ヶ月くらい付き合い、Eくんが価値観が違うという理由で一方的に振ったみたいだ。寄りを戻した彼女を泣かせたのはつまりAさんの友だちと浮気したからだ。全てが符合した。
2004年4月
Aさんとはまたたく間に距離が縮まり毎日のようにメールが来るようになった。ある日ちょっとお願いがあるとメールが来たので聞いてみると、男女2×2で飲み会をするので来ないかということだった。別にいいよと返信した。
また市役所のボーリング大会にも誘われ一緒に行った。今回は食事会にも参加した。そこでFくんに話かけられた。Fくんは4月に市役所に入ったばかりでやたらに愛想がよく明るかった。おかげで食事会は楽しかった。
Eくんはやはり来てなかったがEくんの友だちで社協のヘルパーさんの息子のOくんは来ていた。AさんはOくんと親しく話していたが私は結局話ができなかった。話しかけたかったが彼は私たちの間にあったことを知っているような気がした。ボーリング大会の後、昼休みに社協の事務所に突然Fくんが現れメールアドレスを教えて欲しいと言われた。メアドだけならと教えた。すごく強引というか巧みだった。
2×2の飲み会は6月の初め頃に決まった。なんだか急に周りが騒がしくなった。
2004年6月上旬
Fくんはとてもマメでよくメールをくれ、会えば愛想よく声をかけてくれた。Fくんは背が低いし容姿もお世辞にもよいとは言えず私のタイプでもないし趣味も合わないけど人見知りしがちな私もだんだん打ち解けてきた。しかし心は許さず一線を引いていた。人間というのは長く付き合わなければ分からない、最初は油断大敵だというのが私の持論。でも恋に関してはそうではないので失敗するのかもしれない。持論は的中し、Fくんには長い付き合いのかわいい年下の彼女がいるし、かなりの女性好きだということが分かった。
Aさんにもやはり彼氏がいた。6月の上旬、以前Aさんに誘われた2×2の飲み会に行った。Aさんの目当てはすぐわかった。年下のかわいい男の子が来ていて、彼とAさんは特別な関係らしかった。しかしAさんの気持ちほど彼の気持ちは本気ではないように感じた。彼はYくんと言って大工だった。実は冬にS市役所のトイレを修理に来ていて、受付に座っていたAさんをナンパしたらしい。端的に言うと浮気だから仕方ないが、Aさんみたいな人も恋で思い通りにならないこともあるんだなぁと思った。恋愛って容姿や人柄に関係なく、数打ちゃ当たる・強引なもの勝ちみたいなとこがあるんだなと思った。
でも私に関して言えばそんな恋愛はできそうにない。そんな恋愛で結婚して幸せになれるのかな?つまるところは縁の問題ってことかもしれない。
2004年6月中旬
AさんからYくんとのことをメールや電話で相談されたり夜に呼び出されることが多くなった。Aさんは独り暮らしをしているが家賃は彼氏が払って半同棲していた。Aさんの浮気が彼氏にバレてもう家賃を払わないとか言い出したらしい。当然と言えば当然で、しかもAさんは今Yくんのことで頭が一杯で彼氏がうっとおしいから家に来させないようにしているらしく、彼氏に少し同情した。
Aさんから誘われてまた市役所のボーリング大会に行くことになった。今回も食事会に行った。今回横に座ったのはEくんの友だちの税務課のSくんだった。Sくんはとても仕事ができて将来を期待されていると聞いたことがあった。寡黙な感じで少し何を考えているかわからないところがあった。彼は今日のボーリングの商品でホットプレートをもらっていた。私はずっと前からホットプレートが欲しかったのでその話をしてみると、せっかくだからみんなでホットケーキパーティでもしようという話になった。Eくんの同期で親友のOくんとはまた話ができなかった。Sくんと近付くのはSくんとEくんが仲がいいということもありリスクはあった。でもその時はあまり気にしなかった。ただ市役所の人と少しでも多く知り合いになりたかった。
2004年7月上旬
SくんはFくんと同級生で28歳だった。Sくんの同期が福祉関係の課にいて仕事で面識があったので、彼女を通じてメールアドレスを交換した。私はホットプレートをもらうこととホットケーキパーティで少しでもたくさんの市役所の人と仲良くなりオンブズマンとして情報を得たいのと、Eくんの情報も欲しかっただけなのにSくんはホットケーキパーティの話は出さず、「下の名前は何?」とか「休みの日は何をしてるの?」とかメールしてきて当惑した。
私は質問の返事をかわしていたがSくんのメールにはなんとなくそっけなくなってしまった。それから後、SくんとEくんが喫煙所でヒソヒソと話しては大笑いしながら社協の事務所を二人してチラチラ見ることが何度もあった。社協の事務所の私の席からちょうど喫煙所がよく見えるのだった。私は嫌な予感がした。SくんはEくんから私とのことを全部聞いていて私をからかっているのではないかという思いが頭の中をくるくる回った。
かなりじらされてやっとホットケーキパーティの日取りや来る人が決まった。うちでやることになり、男性陣は税務課中心で女性陣はAさんの知り合いと例の福祉課の女の子で総勢10人くらいになった。Sくんは当日まで本当にホットケーキパーティがやりたいのかかなり疑問な態度を貫いた。Eくんの同期で親友のOくんもさりげなく誘ってもらったがやはり来なかった。多分Oくんは私とEくんのことを全て知っていると思った。
2004年7月上旬
ホットケーキパーティは午後3時スーパーの駐車場に集合して始まった。買い出しをするためだ。なんとそこにもSくんは遅れて来た。3台の車に乗り合いしてうちに着いた。うちに着くと一階の2部屋に男女別に分かれた。
生活交通係の婦人警察官みたいな格好をして交通指導をしている嘱託職員の女の子とは前にAさん主催の飲み会で一緒でその後Aさんが思わずEくんと私のことをばらした経緯があり気まずかった。しかし人なつっこい彼女は台所で調理をしている私にそっと近付いてきてEくんとのことを耳打ちするように聞いてきた。Eくんはあるレコード店で働いている年上の女性と付き合っていると教えてくれた。実際彼女は二人で歩いている所を見たそうで、最初お姉さんかと思い次の日聞いたら堂々と彼女だと答え、彼女は剣道有段者だとか得意気に話していたらしい。地味で太っていて色黒で髪も真っ黒で伸ばし放題といった感じで、顔もお世辞にも可愛いとはいえず、なんであなたを振ってあの人と付き合っているのか理解できないと言った。私だったらあなたと付き合うのにとも言っていた。
少なからずショックだった。容姿でない所に惚れているなら勝ち目はない。Eくんの彼女がどうしても見たくなった。Sくんは最後まで無愛想で今日はつまらなかったと誰かに言っているのを聞いてしまった。みんなは深夜までいて一斉に帰っていった。
2004年7月中旬
ホットケーキパーティの翌日喫煙所で集まっているSくんたちに会った。Sくんはそっけない挨拶でお礼の一言もなかった。その後そこから少し離れた所でEくんとSくんがまたヒソヒソ話していた。ホットケーキパーティの後Sくんからは全くメールが来なくなった。
私の被害妄想はMAXになった。ついにSくんにこんなメールを送ってしまった。「Eくんと私のことを知ってるんでしょ?Eくんと一緒に私をからかうつもりだったんでしょ?私は傷ついてます。謝ってください」
Sくんから「あなたが傷ついたなら謝ります。ごめんなさい」というメールがきた。後で後悔し、Sくんに申し訳ないと思った。Sくんからは二度とメールは来なかったし市役所で会っても挨拶もしなかった。
私は少しおかしくなりつつあったのかもしれない。Eくんの彼女のことも気になって仕方なかった。私はついに彼女を見に行くことにした。Aさんに頼んで付き添ってもらった。Aさんはそういうことならホイホイついてきてくれた。生活交通係の交通安全指導員の女の子が言っていたレコードショップでそれらしき人は一人しかいなかったがまさか…と思った。Aさんは「いくらなんでもあれはないよ」と笑った。私は意を決して彼女に近付いて話かけた。「あのお仕事中すいません…K商業高校で剣道されてましたよね?私も剣道しててどこかでおみかけしたと思いまして…」彼女は最初は不審な顔をしていたが「剣道」という言葉に静かに笑った。その笑顔はゆったりしていて、なぜEくんが好きになったのか少しだけ分かるような気がした。
2004年7月31日
市役所の総務の臨時職員担当の方はとてもいい方だった。7月下旬社協事務所までわざわざ来てくださり、お盆明けから経済部耕地課で働いて欲しいと言ってくれた。
捨てる神あれば拾う神あり…救われた!と思った。臨時職員の給料は少なく、貯金も思うようにできず学費で今までの貯金はほとんど底をついていたし、これからもスクーリングや実習、国家試験でお金がかかる。
社協を退職する日、ふくさに包まれたものを渡された。その中には8万円もの大金が入っていた。旅行と慶弔費の積立の返金分と職員から集めたせんべつのお金だった。花束や品物よりこれからお金がいるから現金がいいと思ってと言われた。それから次の仕事がまだ決まっていないので、心配して市営プールのバイトを紹介してくれる職員の人もいて、佐賀から帰って来て耕地課に行くまで2週間足らずだが働くことにもなっていた。
Wさんと折り合いが悪くなり、EくんとWさんは実はつながっているのではと勘繰ってしまったり、次長や他の職員の冷たい態度につらい時もあった。でもどんなにつらい時も仕事だけは手を抜かなかったのをちゃんと見ていて考えてくれる人がいたということだ。感謝しないといけないなと思った。
明日からスクーリングで佐賀に行く。切り替えてがんばらなければ!
2004年8月上旬
スクーリングはホテルの宴会場で行われ、朝から夕方まで講義で夜はそのままホテルに泊まり文字通り「ホテルに缶詰」になって5日間にわたって行われる。佐賀は初めての土地だった。本当に地味だったが、これがはなわの歌で有名な…となんとなく感慨に浸ってしまった。受講生は百人はゆうに越えていた。介護福祉士や社会福祉士、看護師、社協職員、福祉事務所などに勤務の公務員、臨床心理士、年も定年後の人から大学生までいろんな人がいた。地元の人何人かと友だちになった。九州の人は親切と聞いていたが本当だった。夜は食事に行ったり、鳥栖のアウトレットに行ったりして楽しかった。あっと言う間に5日間は過ぎた。
岡山に帰ったらプールバイトだ。
2004年8月上旬
スクーリングから帰って来たら息つく暇なく市営プールのバイトに入った。バイトにはシルバー人材センターからおじいさんも来ていたがほとんどが大学生だった。大学生のほとんどが福祉の勉強をしていて社会福祉士や介護福祉士を目指していたのも偶然とは思えない縁を感じた。
みんなよい子で情報交換もできバイトは毎日とても楽しかった。キラキラ光るプールの水面をぼんやり見ているのが心地良かった。まるで帰ってきた青春時代みたいな、あっと言う間の2週間だった。市の体育振興課の方も優しくてこの後市役所に行くと言うと色々教えてくれたりした。スクーリングとバイトの間はEくんのことは少し忘れていられ楽だった。でも市役所で働くことになると毎日Eくんを見掛けることになる。それがどんなことかその時はまだ認識が甘く、もしかしたら自然に距離が縮まるのではないかなどと考えていた。
2004年8月中旬
経済部耕地課はEくんがいる本庁舎ではなく西庁舎という比較的新しい建物の中にあった。農業用水や農道の工事の仕事をしていて比較的若い男性が多く13人中女性は3人の課だった。(でも独身男性は2人しかいなかった。)
威圧的なA次長が市役所内外で有名で、耕地課にもの申す課はなかった。そういえばT市長とA次長は仲が良いとAさんが言っていた。さらに耕地課にはS市役所の白石美帆と呼ばれている市役所でも一、二を争う人気の臨時職員がいた。なんと彼女は24歳だった。明らかに作っているかわいい声で「よろしくお願いしま〜す」と言われた。なんとなく嫌な予感がした。
2004年8月31日
プールのバイトの最終日に市立公園で打ち上げのバーベキューをすることになり、私も誘われた。バーベキューには体育振興課の臨時さんでとても可愛い女の子が来ていて、市役所の若い男性職員の話になったが、彼女の口からEくんの話は出なかった。よく聞いていると彼女とEくんは同じ高校で年も一つしか違わないのにEくんの話をふってみても知らないなぁとのことだった。そういえばEくんは自分で「オレ高校まで目立たない地味な人間だったんです。専門学校デビューなんです」と言っていた。
その後ホットケーキパーティにも来ていたSくんの同期の福祉課の女の子がEくんと私のことを聞きつけて卒業アルバムを持って来た。彼女は実はEくんと高校の時同級生でしかもクラスも同じだったことがあるらしい。なのに本当に私との一件の噂を聞くまで彼の存在に気付かなかったのだ。高校の時と今があまりにも変わっていて分からなかったよ〜とびっくりしていた。
アルバムを見て私も驚いた。メガネをかけて七三分けみたいな髪型で緊張した顔のEくんが写っていた。私にとってみれば、彼がいろんな思いでそれなりに努力したんだなぁとなんだかいとしく感じた。人はいろんなことを抱えているんだなと思った。
2004年9月上旬
市役所での仕事を始め一ヶ月がたった。たくさん驚くことがあり、ほぼ毎日K秘書にメールしていた。「オンブズマンの仕事してるな〜」と実感する毎日だった。
何に驚いたかと言うと臨時職員の仕事のしなさぶりだった。S市役所の白石美帆はいつも高そうなキレイな服を来てちょこちょこ歩き、スローモーションかとみまごうばかりの仕事ぶりで、他の臨時職員をつかまえては廊下でもトイレでも就業時間中にも関わらずしゃべりまくっていた。そしてそれが当然のように…いやむしろ微笑ましそうに職員は見守っていた。
また公印を押す総務課長は例のK秘書の隠れ友人で、この人は愛想が悪く皆に怖がられていた。だから公印を頼みに行くのは臨時職員と決まっていた。
Eくんのいる生活交通係が秋の交通安全週間にイベントをするらしく、それに地元出身のお笑い芸人などを呼び市民会館で派手にやることになり、友だちと見に行ってみることにした。また市民会館の前にはバブルの時代に竹下総理がした故郷創生一億円事業で作った有名な彫刻家による石のピラミットがあり、そこで毎年薪狂言があり母親と見に行くことにした。
故郷創生の一億円をとっておいて増やし、今になって財源不足を補ったり市民に還元している市もあるそうだ。税金の使い道は何が有効かは市民が決めることではあるけれどでかい石のピラミットはどうなのだろうか…時代や時の流れが決めることとも言えるかもしれない。
2004年9月下旬
市役所のゆったりとした仕事ぶりにも慣れてきた。私が耕地課に入る前に老人クラブの人やプールバイトの時お世話になった体育振興課の人や社協のNさんが耕地課の人に私を可愛がってなと言ってくれていたことが分かり、温かい気持ちになった。
そのうち気になり始めたのはEくんがどんな仕事をしているかだった。市送といって郵便を使わず市民によって配達される文書や耕地課に来ている文書を運びに、総務に1日一回行く時に必ず使う階段からEくんの机が見える。最初はうれしかったが、だんだんツラくなってきた。楽しそうに笑っていたりすると腹が立つようにさえなった。9月は市民会館である交通安全イベントや薪狂言、毎月第三日曜の朝にある朝市などEくんの関係する仕事全部に友だちや母親と参加した。Eくんが割とまじめに仕事をしていることが分かり少し安心した。だがその分Eくんへの固執がひどくなりますますツラくなっていった。
2004年10月中旬
三十歳過ぎると独り身には誕生日は一年で一番うれしくない日になってしまう。誕生日を忘れようとまでしてしまう。その日が仕事ならまだよいが休日だったら最悪だ。今年の誕生日はよりによって日曜だった。メールもカードも電話もない誕生日になったらどうしよう…と思う恐怖の一日だった。
辛うじて親から電話があり、大学時代と高校時代の友だちからカードが届いたが私の気持ちは穏やかにはならなかった。昼間はせっせとレポートを仕上げなんとか乗りきったが、夜ツラくて仕方なくなった。
去年のあの最悪の誕生日からもう一年がたった。あれほどツラいことはないだろうと思ったけどどんどんツラくなり今日は去年のあの出来事よりもっとしんどい気がする。Eくんは私の誕生日に私をふったことは知らない。だから私の誕生日も知らない。でも奇跡的にメールが来ることを祈っている。
独り暮らしでなかったらと今日ほど思った日はなかった。好きで独り暮らしをしているわけではないけど、女は結婚するまで実家で守られながら暮らした方がよいとつくづく思った。独り暮らしというだけで色メガネで見る男も確かにいる。独り暮らしはしんどいことが多い。しんどいくて頑張っても色メガネで見られるなんてたまったものではない。もし私が娘を持ったら絶対こんな思いはさせない。くやしい。
私は携帯電話を壁に投げつけた。
2004年11月上旬
平成の大合併の合併ブームのご多聞にもれず、S市も来年2005年3月21日に隣のY村とK村と合併することになっていた。新しい市の名前も市民・村民に公募しS市の今の名前のままでいくことに決まった。合併に伴ういろんな噂も流れた。その中に今いる臨時はいったん全員解雇され、必要な人(と言うのはコネのある人って意味)だけが再雇用されるというものだった。
日頃覆面オンブズマンとしてろくな仕事もしていないのに、こういう時だけK秘書に頼ってその真相を隠れ親友のM総務部長に探ってもらうよう頼んでみると、「その可能性はあるらしい」という返事が返ってきた。
私は少しでもお金を貯めるため知り合いに頼んでNPOセンターのバイトを始めた。福祉を目指して頑張ってると自然にその道が開けるんだろうか?自分のためになるありがたいバイト内容だった。土曜日曜もバイトしながらレポートも書き、忙しい日々になった。
ある日曜にバイトの帰り車を運転しているとどうにもトイレに行きたくなりコンビニを探していたがなかった。仕方なくパチンコ屋に入った。そこで二人でパチンコを楽しむEくんとレコードショップの女の子を見てしまった。やはり付き合っていたんだ。彼女の横で平然と煙草を吸うEくん。(私といる時は絶対吸わなかった) 長い付き合いの友だちみたいなまったりとした空気が漂っていた。これがEくんの表現によると「気を遣わないでよい彼女」かぁ、なるほど…と思った。同時に私が勉強にバイトにオンブズマンに頑張ってるのにあの人たちはあんなとこで何してるんだろうとバカバカしくなってムショウに腹が立った。
2004年12月
同じ耕地課の臨時職員Mさんは最近彼氏ができたらしい。しかし彼氏のことを聞いてもオブラートに包むような表現ばかりで何かひっかかることが多く、私の中ではなぜかその相手はEくんなのではという疑惑が芽生えていった。
この時期、街はクリスマスムードが高まり、一年で独り身には一番身につまされる時期である。家で夜一人でいることが耐えられなくなり仕事の後でできるバイトを探すことにした。
探していると家の近くのレンタルショップがバイトを募集していることが分かりすぐに面接に行った。そこはエモーショナルロック・ラウド系ロックのレンタルで大変お世話になっている所だった。
急募だったためすぐに採用が決まった。しかしバイトを始めてもEくんがMさんとレコードショップの彼女を二股かけているのではという疑惑は根拠もなく日に日に深まった。
12月22日、Mさんは急に前日に休みを取ると告げて休んだ。その日Eくんも休んでいた。私は確信した。23日から25日まで3連休は最悪のものになった。休み明け26日、Mさんは22日は実はおばぁちゃんが亡くなり葬儀だったと悲しそうな顔をして私に告げた。しかしその日は友引だった。
2005年1月
S市にとっては合併と国体で市の歴史に残るであろう一年の幕が明けた。
私にはぱっとしない年明けだった。EくんとMさんのことが頭を離れず、今年は6月にせまった精神科病院での実習など、私にとっても勝負の年なのだ。しかし一向に気合いは入らなかった。
レンタルショップのバイトとNPOセンターのバイトとレポートのための勉強に没頭するしかなかった。とりわけレンタルショップのバイトは休日の前は夜勤にしたり、頻繁に入るようになった。市役所の人にも何人かにばれ、ついに耕地課の係長にもばれた。臨時職員は基本的にはバイトはダメだが給料が手取り10万円と少ないため公然としている人も多く黙認されていた。時々、「今日はバイト入るの?」と話かけてくる職員もいた。
レンタルショップの店長はとてもいい人だった。市役所の職員のことはあまりよく思っていなく時々批判していた。でも気持ちは分かった。店長は昼夜境なく働き、客の好き勝手な苦情に笑顔で対応し、なかなか返却しない客に丁重に電話をし、スタッフには気を遣いクタクタになっていた。公務員が羨ましくなるのも分かる。僕もあなたみたいに資格でも取ろうかなぁ。ある日店長はポツリと言った。
2005年2月
エモーショナルロックを紹介してくれた血管の表面に癌ができる病気にかかっている男の子が結婚することになった。相手の女の子は小学校の教師でとても性格の良さそうな子だった。彼が病気でいつ悪化して、最悪亡くなるかわからないというのを承知で、彼を心から愛して結婚したいと自分から言ったそうだ。
私と友人たちは式に参加した。新婦のお父さんは娘をエスコートしてバージンロードを歩いてくる時からもう泣いていた。確かにいつ亡くなるか分からない男性に嫁がせる父親の気持ちは複雑だろう。例えそれが娘の心からの願いだとしても。私はしかし二人の幸せそうな顔を見て本当に良かったと思った。ひとごとだからかもしれないが、何を信じてよいか分からないようなこの世の中にこういう愛を成就させる二人がいてそれを祝福している人がいること、その場に自分がいられることが幸せだと思った。
最近すさみきっていた私の心が久しぶりに温かくなった一日だった。
2005年3月21日
合併の日がやってきた。いつものようにT市長が開庁前の本庁表玄関に自転車に乗り水筒を持って現れ、元Y村とK村の村長とT市長の3人に新しいS市の旗が渡され、3人はぱっとそれを開いた。きれいな緑色だ。前のS市のくすんだえんじ色の旗よりずっといい。
新聞社のカメラのフラッシュがいっせいにたかれ、TVカメラが寄っていった。その後宣言やテープカット、花束贈呈など式次第が続いた。まれに見る円満合併と言われただけあり式典も穏やかに晴々しく進行した。
そして私は仕事前に西庁舎の廊下の窓から一番いいアングルで歴史の1ページを見ることができた。
私の実家のあるK郡はT市と先だって去年の10月に合併した。合併のため補助金10万円が削られた観光地の飲食店の店長が、2月に経営に行き詰まり桜の木で首を吊る事件が起こった。合併って何なんだろう?一体市民には何がもたらされるんだろう?そしてその合併をすすめている上の人たちはたった10万円でと思っただろうか。子どもや妻をのこして寒い夜中にまだつぼみさえない桜の木で自らの命を絶つのがどんな気持ちか、それを発見した子どもの心の傷はいかほどかなど想像できるのだろうか?華やかな式典とT市長の笑顔を見ていてその事件のことを思い出した。
2005年3月31日
合併後も臨時は辞めてくれとかいうことはなかったが、いろんな噂はまだ流れていて不安な日は続いた。NPOセンターのバイトもレンタルショップのバイトも続けていて、それに勉強も手を抜かず私の体は悲鳴をあげていた。でも何もせず家に独りでいるのがいたたまれなかった。
耕地課の同じ臨時職員のMさんは3月末で2年間の契約が満了になる。Mさんは自分では決して口を割らなかったが、実は皆に恐れられているA次長の前の奥さんで教育委員会の職員さんの姪だった。Mさんの就職を面倒見ているのは、A次長が自分の都合でMさんのおばさんにあたる教育委員会の職員さんを勝手で捨てた償いなのだ。
MさんはA次長の口ききでこの後Aさんも行っていた農政関係の国の出先機関に6ヶ月いてまた市役所に戻ってくることになっているらしい。予算の関係でその間私は2人でしていた仕事を1人でしないといけないらしい。理不尽な話だ。
そういえばAさんは9月までMさんがこれから行く所にいて、10月からT市長の事務所に移っていた。4月17日に合併に伴う市長選挙がありどうやら元S市T市長とK秘書の一騎討ちになりそうだった。今K秘書はいっぱいいっぱいで、多分今このことを報告してもとりあわないだろう。今はAさんから聞いたことをK秘書に報告する毎日だった。A次長はT市長の側近ということもありかなり幅を効かせえらそうにしているが、選挙の結果いかんではどうなるかわからない。Mさんも同じだ。
3月31日にMさんはやや嘘泣きじみた美しい涙を流し完璧な態度で市役所を後にした。Eくんの疑惑は消えてはいないけれど私は笑顔で見送った
2005年4月
市長選挙候補者が公示された。T市長は象をシンボルマークにK秘書は「S市を変える」にかけてカエルをシンボルマークにそれぞれステッカーまで作り、熱い選挙戦が幕を明けた。
バイト先のレンタルショップでもかなり話題になっていた。市役所内でも職員は表には出さないがかなり関心が高く、中には臨時職員にT市長には入れるなと密かに吹聴している人もいた。
市役所の周りを、Aさんがかん高い声でうぐいす嬢をする選挙カーが何度も通った。Aさんからは毎日のように市長事務所の状況やT市長をよろしくというメールがきた。私はそのメールの内容や市役所の事情をK秘書にメールしたり、励ましの言葉を送り密かに応援した。
選挙前1週間の日曜の夜に突然知らない携帯電話の番号から電話がかかった。選挙関係かもと思ったしもともと知らない電話番号なんか絶対出ないので出なかった。その後すぐ税務課のFくんから電話があった。実はこの前税務課の人と花見に行ってまた話をするようになったのでこれには出た。Fくんによればさっきの電話は耕地課のTさんからなので、今度かかったら出て欲しいと言われた。びっくりした。Tさんと言えば背が高くクールでリーダーシップがあり女なんて…って感じの人で話もほとんどしたこともなかった。しかしFくんもいくら先輩の頼みといえども勝手に人の電話番号を教えるのはどうかと思った。
Fくんの電話を切るとすぐTさんから電話があった。Tさんはかなり酔っていた。私はお酒を飲んだ人が死ぬほど嫌いなのと、酔って自分の電話番号を人に聞いて急に電話されたのは安い臨時職員と馬鹿にされたようで気分が悪かった。しかも今飲んでいるから出てこいと命令口調で言われた。Fくんもいるし近い所だったので渋々出向いた。
Tさんはベロベロで、私が行くなり「おまえ」扱いでいきなりレンタル屋のバイトのことをぶちまけてきた。「おまえはなんか秘密があると思ってた。俺はてっきりおまえは風俗でバイトしてると思ってた」と言った。私がどんな気持ちでバイトしてるのかなんかこの人にはわからないだろう。とても冗談になんかとれなかった。ひどく腹が立ちレンタルショップのバイトはもう辞めることに決めた。
2005年4月17日
ついに市長選挙投票日がやってきた。
朝からAさんの「T市長をよろしくメール」が何度もきた。その日は最後のレンタルショップのバイトだったし、そういうメールには返事はできないので無視していた。実はレンタルショップの近くに偶然K秘書の事務所の近くだった。もちろん覆面オンブズマンなのでそこに近寄りもしなかったが密かに様子を見ていた。
その日はバイトが9時までで終わってから店長と他のスタッフに今までお世話になりましたと挨拶して出て行くと、K秘書の事務所にたくさん人だかりができていた。もしかしてとメールをチェックするが何も入ってなかった。帰ってTVを見るとニュースで新S市の新市長にT市長がわずか70票差で当選したことを伝えていた。AさんがT市長に花束を渡していた。愕然とした。私の覆面オンブズマン生活も終わりか…私はK秘書に励ましのメールをした。K秘書からは意外にもすぐメールがきた。めげずに次を目指して頑張るという前向きなもので私にはこれからも覆面オンブズマンとして頑張って欲しいとのことで、M総務課長にもよく言っておくとのことだった。
Aさんからもメールがきた。市長から早速のご褒美として4月20日から下水道課に臨時職員として戻ってくると書いてあった。
2005年4月29日
新しい市、新しい市長になっても何も変わらない感じだった。
4月20日からAさんが下水道課に臨時職員として戻ってきたし、Y村やK村の職員も各課に配属されたが、何だか市役所は前と少しも変わらなかった。
公印をもらいにM総務課長の所に行くと前みたいにつっけんどんには違いないが、時々「あなたも大変ね」というような視線をくれるようになった。K秘書の落選に市役所の中で一番がっかりしているのは私じゃなくてM課長かもしれない。M課長は密かにT市長を支持していないのだった。
…つまるところ、私にとってEくんが市役所からいなくならない限り他には市役所ではどんなことも大した意味はないんだとあらためてよくわかった。耕地課のTさんが夜遅く時々酔って電話をくれるようになった。いつもへろへろに酔ってから電話するので何を話しているか分からないことも多かった。私は必ず10時には寝るようにしていたので、もう寝ますからと強引に切ることもあった。
Tさんは太鼓をたたくという趣味があり、今度地元の春祭りの催し物で出演することになっていた。友だちの夫婦と私は遊びに行ってみた。ちょうど舞台で温羅太鼓が始まった。Tさんが雄壮に太鼓を叩いていた。背か高く引き締まった体で太鼓を叩くTさんは素敵ではあったが、その時の私には手の届かないEくんの方が価値あるものに思えた。恋とはなんて理性的でないものなんだろう。だからこそ宇宙の彼方のように未知で、人を狂わす力があるのかもしれない。
2005年5月
新しいS市がスタートし少し落ち着いた頃、AさんからT市長と食事するから来ない?と誘われた。
Aさんは最近寄りを戻した彼氏に今度は逆に浮気され落ち込んでいた。どうやら悪いことをすると自分に返ってくるというのは真実らしい。ということで、ここのところAさんからまた頻繁に誘われるようになっていたのだ。どうしようかと思ったがこれも一つの経験ということで行くことにした。
割烹料理店の個室に通されると、T市長とおじさんが一人いた。4人でまずまず楽しく食事をしながらT市長が耕地課のA次長の話をした。社交辞令に他ならないがA次長には大変お世話になっておりまして…と言ってみた。T市長は何か処遇などで言っておきたいことがあれば話してみるよと言った。私はすかさず資格を取る勉強をしていることを話し、6月の実習で2週間休みを取りたいことを話した。今はMさんがいなくなって補充がなく二人でやっていたことを私が一人でやっているのでもしかしたら辞めさせられるのではと思うと怖くてまだ言い出せていなかった。
実習は6月の下旬で今は5月の初め…もうそろそろ言わなければと思っていたのだ。T市長は「そりゃ大丈夫だよ、A次長によく言ってあげるよ。」と言ってくれた。私は胸をなでおろした。しかしうまい話はやはりないもので、場所を移した二次会のいわゆるクラブのような所で私はT市長の友だちのおじさんと長時間に渡って密着してチークダンスを踊らなければいけないはめになった。それは大変な苦痛で夜のお仕事をされている女性に尊敬の念を感じたくらいだった。
これも実習に気持ちよく行くためと私は耐えたのであった。
2005年6月
6月上旬Tさんが何度も飲みに行こうと誘うので、サシで飲むのは絶対に嫌だしそもそも飲みはキライだと念を押した上で男女3×3で飲み会をセッティングすることにした。
Tさんは本当は優しい真面目な人で、気が小さいから飲んで軽口をたたくことはよく分かっていたけど、やはり飲む人はダメだった。飲んで下品なことを言ったりセクハラまがいのことをしたり服を脱いだりするのに私は耐えられなかったし、あんなに複雑な思いでしていたバイトを冗談でも風俗で働いてるんかと言われたことがひっかかっていた。傷つけたくなかったがその時はできるだけそっけなく振る舞うことが精一杯だった。
T市長が約束通りA次長に言ってくれたおかげか、実習の2週間の休みは無事取ることができた。実習先はO市にあるM精神科病院だった。実習はスムーズで当事者の方ともうまくやっていけた。デイケアや施設に実際に入り当事者さんと一緒の時間を過ごし、朝の医師たちの会議や看護師詰所での病棟会議に出席したり、訪問看護に同行したり、家族相談に同席したりした。精神病院という空間はもちろん全てが未知の世界で、驚き考えさせられるばかりのあっという間の2週間だった。
その頃アネゴというドラマが話題になっていて、訪問看護の看護師さんが車の中で「あなたドラマの中のアネゴと同じくらいの歳でしょ。なんかアネゴ世代ってのは独特みたいね。」と言われた。
確かに私たち団塊ジュニアはベビーブームで人数が多く、大学受験も大変だった。私は国立大学に入る予定が浪人して東京六大学に入るのがやっとだった。
東京で彼氏がいた私は卒業後そのまま東京で就職活動したが、空前の就職氷河期に資格もないし英語も喋れずパソコンも使えず当然失敗し、故郷に帰ってきてなんとなく仕事をつなぎ過ごしてきた。子ども時代は夢がなんでも叶うような世の中だったので、少し現実離れした子どものまま大人になり気付いたら超厳しい現実社会が目前にあった。非現実的で頼りないのでもちろん結婚も遅れがちな人が多い。私たちはまさに負け犬世代かもしれない。
でも独特な私たちの世代だけが創造できるものがあるような気がする。その時は飛ぶ鳥を落とす勢いだったホリエモンも団塊ジュニアだった。
2005年7月上旬
実習から帰ってきてすぐにバイトしていたNPOセンターから、事務員が病気(うつ病)になったが後任がいなくて辞められないでしんどい思いをしている、あなたが来てくれれば助かるのだがという話があった。私はその話を人事の方に婉曲に匂わせてみたら、耕地課のA次長が常々あなたには絶対辞めないで欲しいと言っているからとなだめられた。
Eくんのことが目に入るのが本当に辛くて、寂しさから時々Eくんにメールしてみてももう返信は来ないようになっていたし、MさんとEくんのこともまだ疑惑が晴れていなくてこのまま自分もうつ病になりそうだった。もうその頃はかなり被害妄想的になっていた。でもA次長がそこまで言うのならと続けて仕事することを承諾した。
しかしその何日か後に人事に呼ばれ、実はMさんが9月から帰ってきて10月から耕地課はMさんと商工観光課のNさんがやっていく。あなたには出納室が空くのでそちらに行って欲しい。出納室はあなたみたいな人しかできないからと言われた。Mさんと商工観光課のNさんは仲良しで、多分Mさんが私よりNさんと組みたいとA次長にだだをこねたのだろう。裏切られた気持ちで一杯になった。一人で半年頑張ってきたのは何のためだったんだろうと思った。
私は何でも思い通りにしているA次長に反逆することにした。人事に辞めますと言ってやった。人事はなぜか慌てた。悪いと思ったのだろう。M総務課長が説得に出てきた。私はまたも屈した。心の奥ではまだEくんのそばにいたいという気持ちがあったからだと思う。一方でいろんな人に迷惑をかけてしまったけどA次長の言うことを皆が皆が「はいはい」と聞くわけでないことを示せたわけだ。
Tさんが一連の出来事を聞き付けてメールをしてきた。あんな不条理を味あわせて自分まで申し訳なく恥ずかしく思うと書いてあった。しばらくして朝に組合の人が配っているチラシに「臨時職員の適正な配置を!」と書いてあった。Tさんはやはりマジメないい人だった。でもどうしても恋愛感情は抱けなかった。
005年7月下旬
臨時職員は昇給はできないし2年以上の勤続は不可能なので、雇用の法律上の決まりかなんかで半年に一回いったん辞めたように見せかける(?)ため、10日間休みを取ることになっている。前の社会福祉協議会は、結局それとスクーリングで長期休みになってしまうというのを理由に辞めることになったので、今回は早目に人事に交渉してスクーリングの日と10日間休みを合わせもらった。
本庁から裏出口を出るとEくんが喫煙場所で一人で煙草をすっていた。私は「お疲れ様です」と言い足早に去ると、Eくんも珍しく「お疲れ様でした」と答えてくれた。今まではすれ違って挨拶してもさりげなく無視されていた。言葉を交したのは1年半ぶりくらいだった。
佐賀県でのスクーリングは、授業の後で有名な博多ラーメンの店や百種類くらいあるパフェの店やアウトレットやカラオケに行ったり、それは楽しく過ぎていった。今回は社会福祉士と共通の一般科目で前年より楽だったが、国家試験についての特別講習があったり、問題集を買って休憩時間にせっせと解いている人がいたり、国家試験があと半年もたたないうちにせまっていることを実感させられた。
就職の話も仲良くなった人から出てきて気持ちが引き締まった。私は精神科病院か行政関係か地域活動支援センター(当時は地域生活支援センター)に就職したいと思っていた。今まで思い描くことすらしなかった就職してからの青図をやっとうっすらとだが思い描き始めた。
2005年8月中旬
実習とスクーリングもレポート提出も全部終わり、後は国家試験だけとなり一段落した。
お盆はゆっくり家族や姪っ子と過ごし、Eくんのことも許す気持ちになっていた。ちょうどお盆前はEくんの誕生日だった。久しぶりに返信はないと知りつつメールを送ってみた。
お盆明け市役所に出勤し本庁に行くと、Aさんが走り寄ってきて耳打ちした。「Eくんが前教育委員会にいた臨時職員のDさんと付き合ってるんだって」Aさんはうれしそうに笑っている。
私は愕然とした。レコードショップの女の子はどうするのか?やはり寄りを戻しても2年もたなかった。私の持論は「付き合っても2年もたない男はダメだ」だった。やっぱりEくんはダメダメだ。「彼女(レコードショップの子)にはやっぱり俺しかおらん」という言葉は一体…
Dさんはまさにレコードショップの子とは正反対の女の子だった。診療所の医者の娘で、ピンみたいに痩せていて、フランス人みたいに洗練されていてオシャレで、森泉と木村カエラと松本莉緒を足して3で割ったみたいでとにかく可愛かった。グッチのバッグを肩からかけてお嬢様らしくおっとりしていた。結局容姿なのか。容姿では選ばないとかブランド物を持つような人とは付き合わないって言ってたのに…男なんてそんなものなんだなぁと思った。
泣きながら車を飛ばしレコードショップに行ってみた。Eくんの元彼女はいた。いかにも憔悴しきっていた。仕事するふりをして陳列棚の前にしゃがみしきりにため息をついていた。
ひどい仕打ちだ。彼女は2回もEくんに裏切られたのだ。彼女の腕には真新しいミサンガがあった。こんな仕打ちを受けてもまだEくんが戻って来てくれるのを祈っているのだろうか。私の複雑な恋心はこの日を境にただの憎しみに変わった。
2005年8月下旬
EくんとDさんのことがあってから私はますます被害妄想的になり、すっかりいろんなことにやる気がなくなっていた。国家試験の勉強にも手がつかずもう何もかも放り出したい気分だった。努力してもいいことなんか何も起こらない。自分を追い込むばかり。いっそ逸脱してしまいたいと思った。
Eくんのいる市役所に仕事に行くのはやっとの思いだった。Eくんが昼休みに福祉センターの3階に一人でも来ていたのも納得した。教育委員会と福祉センターの3階はすぐ近くでEくんのいつもいるソファの近くに女子トイレもあった。Eくんはチャンスを狙っていたのかもしれない。確かにDさんが退職した今年の冬以降Eくんの姿を福祉センターで見ることはなかった。
ある日、本庁に行った時受付にEくんが座っていた。私はいつもなら目をそらすところじっと見てやった。Eくんも気付いてこちらを向いて何か言おうとした。その瞬間思いっきり睨みつけてやった。Eくんは素早く決まり悪そうに顔を伏せた。
その日の夜Aさんから電話があった。交通安全指導員の女の子から電話があり、Eくんからなんで私がDさんのことを知ってるみたいなんだけどどうしてか聞いてきたけどAさん言った?って聞かれたそうだ。AさんはもともとEさんとDさんのことはおしゃべりな交通安全指導員の子から聞いたのだ。なんだか女子高校生みたいな低レベルな出来事の渦中に自分がいることが情けなくなった。自分はもっと最悪だ。涙も出なかった。するとEくんから電話があった。話すことは何もない。私は拒否した。今度はEくんからメールがきた。「あなたには本当に悪いことをしたとずっと反省しています。でも誰と付き合ってもあなたには関係ない。放っておいて欲しい」とあった。
ずるいところは相変わらずだ。返信はしなかった。
2005年9月
郵政民営化に伴う衆議院解散総選挙が行われることになった。このうやむやで強引に決まったものが障害者自立支援法で、この法律の成立が私の就職活動にも大いに関係することになった。
また郵政の議論で時間がなくて議論先送りにされたものに臨床心理士の国家資格化があった。私は精神保健福祉士で5年キャリアを積んでから後、大学院に行き臨床心理士を取得しようとひそかに考えていた。もしいつか国家資格になるとしたら、これは追い風だった。国家試験は始めの方が合格しやすいからだ。
総選挙には団塊ジュニア代表のホリエモンが出馬した。私はその思考回路は理解できた。いかにも団塊ジュニアだ。議員でも宇宙飛行だって何でもありでとにかくデモンストレーション的にアイデンティティを確立したいのだ。不景気に振り回された失った10年のギャップを埋めるために…
T市長からある議員の選挙活動を手伝って欲しいと電話があった。すぐに断わった。選挙に関わるのは得策ではないと思った。それ以後T市長から電話がかかることはなかった。
選挙当日投票後図書館で勉強していたら、Tさんからメールがきた。今選挙の受付をしているが誰も来なくてさみしいという内容だった。選挙事務は1日で何万にもなりそれで彼女にカバンを買ったという話をしている職員もいて、選挙は職員にはおいしいことらしい。私はそれを知っていたので、勉強している私にこのメールは一体何だろうととても腹立たしく感じた。「たくさんお金がもらえるんだから我慢しましょう。私は勉強しています」と返信してしまった。
2005年9月下旬
10月から出納室に行くことに正式に決まった。隣の席の大好きな土地改良区の嘱託職員の中年女性が、今出納室にいる臨時さんのHさんの話を聞かせてくれた。Hさんは例のS市役所の白石美帆Mさんを耕地課に入れるため、嘘をつかれ騙されて(Aさんが行っていた)農水省関係の出先機関に追いやられた。そこで6ヶ月いてから、今度は出納室に帰って2年経った。この度また農水省関係の出先機関で勤務するらしい。おとなしくて堅実な子で、あんたもあの子と同じ仕事ができるのか心配だわと言われてしまった。
耕地課勤務もあと少しのある日、駐車場に着くと噂のHさんが待っていた。Hさんとはほぼ初めて話すのに、いきなり怒ったように隣の嘱託さんが話したのと同じことを語り出した。つまりは「大変な侮辱を受けショックを受けた。あなたもやっぱりコネですか?私は出納室がとても気に入っている。これから私はまたA次長の口添えで農水関係の出先機関に行くが、6ヶ月したらまた出納室に戻って来たい。あなたはこの後どうするつもりか」ということを探りたかったようだ。
この訴えが理不尽で非常識な訴えだとHさんは自分でわかっているのだろうか?A次長の離婚の罪滅ぼしのスパイラルはこんな所でまた人を傷つけていた。罪滅ぼしがさらなる罪をおかしているという訳だ。あのおっさんろくな死に方しないなと思った。
私はHさんの無礼と勘違いに驚きつつも少し彼女に同情した。私は来年1月に国家試験を受けて、受かったら就職活動をして市役所を辞めるつもりであることと、コネは一切なく(覆面オンブズマンの話はできないし)私自身A次長とMさんに蹴り出された被害者であることを説明した。Hさんは恐縮して謝ってくれた。私は努めて毅然として車に乗り、その場から走り去った。
耕地課最後の日お世話になった気持ちを込めて課の人にシャープペンシルをプレゼントした。A次長は受取りを拒否した。私が反抗したことを今でも怒っているのか。なんてネチネチした男!市役所の公務員なんてだいたい器が小さいと誰かが言っていたっけ。最後に大きな花束をTさんが渡してくれた。私はTさんに悪いことをしたなと感じた。とてもいい人なのはわかっていた。でも市役所の男性への不信感はその時マックスになっていた。
2005年10月
出納室第一日目は国勢調査第一日目でもあった。Aさんが推薦してくれて国勢調査員に任命された。これからお金がいることが増えるので助かった。
国勢調査員は国勢調査の期間のみ公務員とみなされ、任命書が下る。慣れない出納事務をしながら帰宅後近所を回る日々が続いた。
出納室の隣は税務課で、FくんやTさんの友だちが声をかけてくれた。耕地課にはMさんが帰ってきて、商工観光課のNさんと二人で私一人がやっていた仕事をしている。時々二人でペチャペチャ喋りながら出納室にやってきて、挨拶もせず修正が必要な支出命令書を持って帰った。
合併に伴う市議会解散の賛否を問う住民投票の結果、10月2日市議選挙が行われた。Aさんの友だちがBさんの推薦でC市議のうぐいす嬢になり、その議員が当選したので、Bさんは出張所の嘱託職員になったという話を聞いた。
選挙後、選挙事務の支出命令書が選挙管理委員会からきた。その日当の多さに目が飛び出しそうになった。選挙はお金がかかるというけれど、それは人件費によるところが大きいのだなと思った。
出納室の職員さんは市役所で一番まともだと思った。室長はとても紳士的で、次長はエレガントだった。出納室の人たちは黙々と仕事をこなしていて、無駄話をする人はいなかった。
次長は社協の内情をよくご存知で、「あそこの会計はめちゃくちゃで、役付きの給料を平職員の何倍も高く出したりしている。それに旧態依然としなくて働きにくいって話だし」と言っていた。私はコメントを控えた。
2005年10月下旬11月上旬
合併と並ぶ今年のビッグイベントの国体が10月23日から始まった。S市では国体のために作ったKアリーナで卓球、そしてその横の野球場で軟式野球が行われた。そのために新しく道もできた。市役所からKアリーナに続く道には国体のために1年以上前に誕生した国体室の職員が頑張って育てたマリーゴールドがきれいに咲き誇っていた。
障害者スポーツ大会の観戦に皇太子様が来られることになっていて、市役所の一部屋でお昼ご飯を食べられることが決まった。急ピッチで庁内の皇太子様が通るところだけの壁を塗り替える工事が行われた。
卓球にはあの愛ちゃんが来るということで盛り上がっていた。私も軟式野球を観に行った。市役所の職員も皆何らかの係を持たされているようで、揃いに揃っていた。
国体は長い長い準備期間の割にあっという間に終わり、後は11月5日から始まる障害者スポーツ大会を残すのみになり、市役所の皆は一段落しホッとしたように見えた。
文化の日私は実家に帰る用があり、国道を車で走っていたらDさんを乗せたEくんの車にすれちがった。やはり付き合っているんだな。Eくんとバッチリ目が合った。私は悔しい気持ちで泣きながら車を走らせた。実家に近くになった所で珍しく救急車が後から走って来た。実家はひどい田舎で人口も少ないので滅多に救急車には出会わないのだ。
次の日市役所に行くと何かザワザワしていた。出納室の隣の席のM次長が税務課のSくんがバイクの事故で亡くなったことを教えてくれた。Sくんはホットケーキパーティを主催してくれた人で、Eくんと仲良しだったために私が一方的に誤解してしまい絶縁してしまった人だった。
私の実家のある町で、カーブを曲がりきれずバイクから体を投げ出され対向してきたトラックにひかれたらしい。私は茫然とした。あの救急車はSくんを救助しに行っていたのだ。私はSくんにとても申し訳ない気持ちになった。その日私は花束を買い事故現場に行った。涙が止まらなかった。あれから挨拶もしなかったけどいつも気になってはいた。Eくんなんかより信頼できる人だったかもしれない…出納室に来てから隣の税務課で見るSくんの仕事ぶりは噂どおり真面目で手際がよいなと感心していた。もしEくんのことがなければ無駄に傷つけることもなく今でも話をしていたかもしれないなと思った。どうしてこんなに早く逝ってしまうのか納得できないような人を時々神様は召してしまう・・・
2005年11月5日6日
11月5日から全国障害者スポーツ大会が始まった。その日は文化の日にバイク事故で亡くなったSくんの告別式が行われる日でもあった。
私は一日中図書館で勉強していたが途中気晴らしに市内で紅葉が有名な所にドライブに行った。まだ色つきはじめだったがなんとなく落ち着かない気持ちをなだめることができた。
翌日も朝から図書館で勉強していたが、昼ご飯を食べに家に帰ろうと外に出ると道路脇に日の丸の旗を持った人が集まっていた。そういえば今日は皇太子様がKアリーナに来られて昼を市役所で食べられる日だった。旗を持った人が私に近づいて来て「あいにくの小雨で人が少ないからあなたもお願いします」と言われた。こんな機会もないよなぁと思い道端の集団に加わった。程なくパトカーや白バイ、黒塗りの車に先導され皇太子様を乗せた車がやってきた。窓は全開で皇太子様の顔がとてもよく見えた。さすがの気品だった。
午後また図書館に戻り勉強していると、午後4時頃また驚くべき人がやって来た。Eくんと付き合っているDさんだった。ワイドパンツに質のよさそうな白いニットのアンサンブルを合わせ、グッチのバックを肩にかけ茶色い長い髪はきれいに巻いて、パンブスの音を鳴らしながら席に着き何かテキストを開いて勉強し始めた。気になって勉強が手につかない。しかもその日私は自宅でできる国試の模擬試験をしていたのだ。
Dさんは肩にカーディガンをかけ、小さなハンカチで口を押さえかわいらしい咳をしたり、アンニュイに首をかしげたり、やはりまるでフランス人みたいだった。私もDさんも閉館時間の6時までいた。図書館を出る時わざとらしく話かけてみた。彼女は意外にフレンドリーでサバサバしていて私のことも知っていた。Eくんとのことを聞くと、「なんで知ってるんですか?」と驚いた。
Dさんは医療事務の勉強をするため去年の3月で市役所の教育委員会の臨時職員を辞め、学校に通い医療事務の資格を取り、今は実家の診療所を手伝っているそうだ。彼女は割と有名な名古屋の私立大学の心理学科を出ているそうで、私が取ろうとしている資格も知っていた。今は介護保険の事務の資格を取るための勉強をしているそうだ。彼女はとてもよくでいたお嬢様なのだろう。
「私、人の役に立つ仕事をしたいんです」髪を巻いてニットを肩にかけグッチのバックを持った彼女がそう言ってもなんか説得力はなかった。人の役に立つ仕事はおうおうにして汚くきつく、時にはさげすまれることさえある。きれいな格好ではできないことが多いのだ。レコードショップの彼女が泣きそうになりながら仕事をしていた時の着古したデニムとTシャツに店のエプロン姿を思い出した。Eくんは本当に罪深い。
2005年12月2006年1月
皇太子様とDさんに出会った日にした模試の結果はやはり最悪で、このままだと合格できませんと書いてあった。焦った。私はとにかく猛烈な追い込みを始めた。朝も早く起きて1時間勉強し通勤した。昼は西庁舎に行って農業委員会の臨時職員さんと食事していたが、そこに行かず出納室の自分の席で勉強しながらとった。仕事の後夜もファミレスで勉強した。休日はもちろん図書館で一日中勉強した。
それでも足りない気がしたので、思い切って1月に休みを5日間いただきたいと出納室長に言ってみた。
市役所に来て初めて会った本当の紳士で仕事が最高にできて人間的にも優れているS室長は「いいでしょう」と承諾してくださった。女性では珍しい次長という職にある今年度で定年退職されるM次長も口添えしてくださった。
かくしてさみしいクリスマスなんて言ってられない怒濤の年末を過ごし、1月は勉強また勉強であっという間に過ぎ、1月下旬ついに国家試験の日がやってきた。試験は広島であった。運よく高校時代の友だちが広島に転勤になっていて泊まらせてくれた。
久しぶりに会って話しをした。今までよく頑張ったねと勇気つけてくれた。友だちの家を早めに出て国家試験直前まで近くの喫茶店で勉強した。なんとそこで勉強したことが出た。それから出納室でチェックした児童手当や高額療養費などの支出命令書から得た生の知識がかなり問題を解くのに役に立った。私を出納室に追いやった耕地課のA次長とS市役所の白石美帆Mさんに心から感謝した。神様と運が味方してくれていると感じた。
2006年2月
国家試験が終わり、出納室の仕事にも慣れすっかり落ち着いた。仕事では細かいミスもみつけたりして信頼も得ていた。
ある日合併後まちづくり支援室と名前が変わったEくんの課から支出命令書がきた。まちづくり支援室は町内会の防犯灯などの補助金を出していて、印鑑には特に注意を払わないといけなかった。市民の方への補助金ならなおさらだった。Eくんの作った命令書は市民の方の印鑑が契約書と違っていた。押印しなおす必要があったので返した。すると恐ろしく早く訂正されてかえってきた。再チェックすると契約書の押印や他のもともとの押印も×で消され訂正印と同じ印鑑が押されていて書類が真っ赤になっていた。
おかしいと思った。この印鑑の名字はS市には非常に多く、案の定市役所内にも同じ名字の職員がたくさんいた。そういえば書類を持ってそそくさと庁舎内を移動していたEくんにさっきトイレに行った時に会った。次長にこの話をするとEくんに電話してくれた。Eくんは躊躇なく訪問してもらってきたと答えた。次長も室長もでもやはりおかしいということになり、もう一度今度は室長がEくんに電話するとあっさり偽装を吐いた。
室長次長私は3人であきれ果てた。この人と付き合わなくてよかったと思った。そういえば今までもいい加減な命令書をたくさん出してきた。それに平気で嘘もつける人だった。次長が「今の若い子は平気で嘘がつけるんだね」とため息をついていらした。
2006年3月
年度末で出納室はバタバタしていた。基金の切り崩しで財政課と話し合う毎日に加え、次長が定年退職なので引き継ぎやら送別会で大変だった。
市の財政はそんなに余裕はないらしい。そんな中室長が急に休まれた。次長がこっそり教えてくださった。室長はうつ病で何回か長期休職していたこともあったそうだ。うつ病は朝がしんどいので急に休むことも想定内だが、うつ病が前よりずっとポピュラーになったとはいえ皆が皆理解してくれるとは限らない。室長は苦しまれたに違いない。室長は仕事は誰よりもできるし紳士だし人間もできていて市役所では珍しい高潔な方なのだ。室長は私が今まで出会った中で一番尊敬できる人と言っても過言ではなかった。
市役所には実は精神疾患で休職している方が多いようだ。そういう方は出張所や人と交わらないでよい部署などに配置変えされ、そのことには皆で触れないようにして、割と手厚く守っていた。
私は国家試験後2月からまたバイトを始めた。福祉の資格を取得できる講座を提供するNPO法人での仕事で、土日も忙しくしていた。
ある日Aさんから久しぶりにメールがきて、3月で市役所を辞めることになったと報告があった。今の課での契約が切れるからだそうだが、T市長のコネでそれこそ嘱託職員にもなれそうなものだと思ったが、市長から次に行ける所が今ないんだと言われたようだ。もしかしたらAさんは色々なkとを知りすぎていてT市長には少しけむたくなったのかもしれない。
しかしAさんは潔く、しっかり就職活動をし、辞める前に正社員で仕事を決めた。そうこうしているとあっという間に3月31日の国家試験の合格発表の日になった。
合格通知が来た。結果報告の封書を抱きしめ、私はへたりこんでしまった。努力が実ったのだ!でも落ち着いてはいられない。明日から就職活動をしなければならない。
2006年4月
国家試験に合格してから指定休(臨時職員は18日しか勤務してはいけなくてその他は指定休として自由に休みを入れられる)にハローワークに通う日が始まった。
4月からは次長の代わりに福祉関係の課にずっといらしたFさんが補佐という役職名で入られた。とても穏やかな方で福祉の話を色々してくださった。
4月から「こども課」というタカアンドトシのつっこみみたいな課ができた。総務課長で不機嫌に公印を押していたK秘書の同級生かつ密かな支援者のMさんがこども課長になった。「意外だよね、似合わないよ」とかみんながささやくなか、なんだかM課長は前より朗らかで楽しそうに見えた。
この頃あのホリエモンが不正をはたらき逮捕され、評価がまたたく間に地に堕ちてしまった。ついこの間までヒーロー扱いされていたのに。やはり団塊ジュニアは爪が甘いのだろうか…私の就職活動も思ったようにいかなかった。
2006年5月
4月から障害者自立支援法が一部施行され、支援費のややこしい支出命令書がこなくなったかわりに福祉関係の課はてんやわんやになっていた。私もその支出命令書に新人の補佐と対応しなければならなかった。
私の中ではそれどころではなく、就職活動で頭が一杯だった。第一、精神保健福祉士の求人がなかった。ハローワークに何度も通い福祉人材バンクにも登録し、福祉の就職の合同面接会に学生に混じって顔を出し、病院や施設のHPを見たりフリーペーパーの求人誌も端から端まで読んだ。
ある日ハローワークに行くと、珍しく大きな精神科病院の系列の施設の精神障害者ばかりの介護保険のデイサービスが求人を出していた。しかしそれはパートで契約期間があり、給料も安い。それにとにかく遠かった。とりあえず面接に行くと、「うちはいつまで存続するかわからないけど、腰かけ気分で来られても困ります」と訳のわからないことを言われた。後日採用の通知が来た。もしかしたらもっといい所があるかもしれないし、6月のボーナスが欲しかったので7月から働けますと言っておいた。
2006年6月
就職活動は依然難航していた。やけくそで、県南の精神病院に片っ端から電話して「求人はありませんか」と尋ねてみた。偶然にもO市のK病院がたまたま求人をこれから出すとのことですぐに履歴書を出した。するとすぐに事務長直々に電話をくださり、「来週面接に来てください。詳しいことはまた電話します」と言われた。しかしおかしなことにそれ以来全く連絡がこなかった。
6月のボーナスをもらったら辞めて、とにかくキャリアを積もうと思っていたので、例の精神障害者ばかりの介護保険のデイサービスに行くことに腹をくくった。人事に辞めたいむねを伝えに行き、後任にHさんを推薦した。
人事のMさんは静かに「わかりました。F補佐があなたみたいな仕事をしっかりする人にはずっといて欲しいと言われていましたよ」と言ってくれた。Hさんが後任に決まり引継ぎが始まった。
わがままばかり言ってきた私に、Mさんは本当によくしてくださった。人事のMさんだけじゃない。あんなひどいメールを送ったのに、耕地課を去るとき自分で仕切って花束を贈ってくれたTさんとわがままを受け入れてくれただけでなく応援してくれた耕地課の人たち。国家試験に受かった時お祝いをくれ、一緒に泣いてくれた土地改良区の嘱託職員の女性。資格の勉強と私のことを心配し続けてくれた社会福祉協議会のマダム職員さんたちとヘルパーさんたち。市役所はこんな風に仕事をしている人がいるから回っているんだなと思い尊敬できる人ばかりだった出納室の方々。精神保健福祉士の求人の切り抜きをみつけては持ってきてくれた人もいた。よく考えると批判ばかりしてきたS市役所の人にどれだけ支えられ励まされて教えられてきたかに今さらながら気付いた。
Eくんとは最後まで仲直りすることも心を通わすこともなかった。最後の日Eくんは休みをとっていた。もしかしたら私の最後の復讐を恐れていたのかもしれないが、私の心はもうそんなことは超越していた。
最後の日花束を抱えて市役所を去る時、むしょうに寂しかった。あんなに苦しみから解放されるため退職するのを望んでいたはずなのに、何度も何度も振り返り「さよならS市役所」と感謝の気持ちでつぶやいた。
2006年7月8月
私がS市役所を去った翌日7月1日に、橋山龍之介が亡くなった。彼はS市出身だが、今では選挙区を移し、ほとんど関わりもなくなっていた。最近ではたまにマスコミに取り上げられるとすれば、総理大臣時代に今の日本国をダメにする根源を作ったように批判されていた。最盛期では考えられないようなひっそりとした死に、S市役所では職員全員で黙祷を捧げ半旗を掲げた。私はいつまでも故郷を思うあの時の橋山氏の情熱を思い出した。
去年4月の市長選挙に僅差で敗退したK氏は橋山氏の元秘書だった。私は覆面オンブズマンとして出納室での情報を活発にメールしていたが、K氏はやはり落ち込んでいた。K氏は2009年の市長選挙に出馬するため、選挙後すぐにまた地道な活動を続け、朝早く道沿いに一人で立ち行き交う車におじぎをし、クリーンな市政を叫んでいた。橋山氏がもはやS市にさほど影響がなくなったとしても、K氏には次の市長選挙出馬の心の支えだったようだ。
私は7月から朝6時半に家を出て車でバイパスを走り、新しい職場にはりきって通っていた。しかし現実は厳しく何事もすぐにうまくいかないものだった。
そのデイサービスはゆったりと時間は流れていたが、悪く言うとややネグレクト気味だった。生活相談員と言っても相談などなく、ここにいても勉強にはならないと感じた。
休みの日実家でハローワークのホームページを見ていたら、県北の精神科病院が精神保健福祉士の求人を出していた。ハローワークでは今の所を辞める意向を示さないと次を紹介してくれないので、私は非難ごうごうの中結局1週間で辞表を出した。しかしその県北の精神病院の採用試験にも落ち私は絶望した。
しかしここでくじけていてはいけない。毎日ハローワークに通った。履歴書や職務経歴書の書き方を勉強し直し、障害者自立支援法を研究し面接の本を読みあさった。それでも求人がまたぱたりとなくなり、これは長期戦だと覚悟した。
家の近くの医院がやっている介護保険のデイサービスで求人があり、パートだが条件もよく、さらに元社協のヘルパーさんがケアマネとして働いていた縁もあり面接に行った。あっさり受かってしまった。
2006年9月
家の近くのデイサービスの仕事も板につき、もうこのままここで働いてくのもいいかなぁと思いつつあった。しかしそこは平日に休みがあったので、ハローワークにはまめに通っていた。
ない時は全くないけど、ある時は大挙して押し寄せるということはよくある。ある日あきらめ気味にハローワークに行くと3つも精神保健福祉士の求人があった。その中に一つ面接を受けてもいいなと思うものがあった。隣のK市の施設(地域生活支援センター1型)の嘱託職員で、今流行りの指定管理制度での経営だった。
書類は通り、面接の前日にデイサービスを辞職した。プールバイトで仲良くなった福祉系大学の子の友人で、仕事を探している子を変わりに紹介して辞めた。
面接は勉強していた自立支援法のことが出て、本で読んだ面接技術をフル活用し成功した。作文も勉強していたことが出てうまく書けた。
面接が終わり携帯電話の電源を入れるとメールが入っていた。メールを見て驚いた。例の血管の表面に癌ができる病と戦っていたM君が亡くなったというメールだった。愕然とした。教えてくれた音楽で勇気つけられ、まるで面接もM君に力づけられていたような感じがした。
私は車に乗り込み、こらえていた涙を流した。M君の堂々とした生き方に恥じないように・・・。葬儀でM君の遺体に誓った。この3年間いくつかの死に出会った。どの死もそれぞれ心に響くメッセージを持っていた。
数日後採用の通知がきた。私は飛び跳ねて喜んだ。今までのツラさが全て吹き飛んだ。でもこれからが本当の勝負だ。
あれから1年たった。S市長T氏は入札の際知り合いの業者の口ききをしたという内部告発(議員ではなく市役所職員からという噂)によって百条委員会にかけられることになった。入札の不正だけでなく、人事に口出ししたことなど市政を私的に使ったことも理由にあった。
T氏は百条委員会にかけられる前に辞職し、身の潔白を強調した。出直し市長選挙が行われることになった。もちろんK元秘書も出馬し、2年半前と同じように一騎打ちとなった。市民とマスコミの関心は強かった。10月14日投票が行われ、大差でK氏が当選した。投票率は7割近かった。
K氏はついに市長になった。T市長はコネ人事を徹底的に排除し、臨時職員を大幅に減らした。人件費の倹約と、職員のスキルアップと研鑽に努めた。
Mさんは、K氏が秘書になって少しして、自分から辞職した。今は開業医と結婚してセレブになるため、お見合いに専念しているそう。Aさんは、今もあの会社で働き、同僚と付き合っている。時々メールが来る。
A次長は市長が変わり以前よりは求心力を失った。経済部部長にまでなったが、その後なんと出納室長に異動させられた。A次長と出納事務・・・最も結びつかない組み合わせだった。事実A次長もかなり苦戦していたらしい。久しぶりにみかけたら、以前の威厳は感じられなくなっていた。そして皮肉にもあのHさんと同じ職場で働くことにもなったのだ。
社会福祉協議会の怖い顔の次長は娘を医学部にやるため母子家庭でがんばってきたというのは知っていた。大変だったと思う。合併後と同時に理不尽な会計の責任を逃れるためか、次長は退職した。やはり悪いことはいずればれるようだ。それはすぐに新しく来て室長になったK村の社協の職員によって問題視された。しかし、それは罪に問われるようなことではなかったので、明るみには出なかった。子どものためとはいえ、市民の税金や寄付をそういう風に操作せざるをえなかった次長は哀しい人だと思った。
EくんとDさんは結婚を考え、EくんはDさんの父親に挨拶にいったそうだ。しかし、Dさんの父親は「娘は医師か弁護士としか結婚させない」とつっぱねた。
弁護士になる夢をあきらめ、大学進学もあきらめた高卒のEくんが、どんなに悔しく思ったかを考えると少し同情した。二人はその後別れたということだ。
あれから3年以上たった。今は身の丈にあった、肩の力の抜けた生活がしたいと考えるようになった。今思うととてもおバカなことをやっていて、恥ずかしく思い出す。でも人に起こることは全て意味があるのだって、それだけは強く感じる。
この物語に出てきたアルファベットや氏名は適当に考えたものです。