ストレンジ・ストリート
そして、信羽藍は気が付いた。
ふわふわとした心地は続いていて、まだ泉に居るような感覚だった。
しかし自分が横たわっている場所は以前のように生暖かく柔い土の上でなくて、フローリングみたく硬い、ひんやりとした床だった。
ラピスラズリのように惹き込まれる青色の、艷めく宝石で造られたと思われるフロアである。
どうやら今度は森ではなく、室内のようだった。
「やっと起きたか!まったくもう、君は寝起きが悪い!」
そして騒々しい声が、頭上から響いていた。
ゆっくりと、藍は体を起こす。
頭上にいたのはもちろんあの、赤髪の妖精だったが、それとは別に大柄の男が自分を見下ろしているのに気付いた。
「……随分と弱々しいゲストだな」
男はそんなふうに、悪態をついた。
彼は首にタイガーアイのような宝石が連なったネックレスを掛け、また紅蓮のローブを着ていた。
その威圧するまでに熱い色とは不釣り合いに、髪は穏やかなリーフ・グリーン、肩にかかる長髪である。
焼けていて彫りの深い、ヨーロピアンに似る顔は少し強面でひどく仏頂面だ。
そして、何よりも男の耳は………
「ん……?」
本来なら、藍は強気に出て男の悪態に反抗していたはずだった。
しかしその耳に気を取られて呆けてしまっていたのだった。
それは本来、人の耳がある場所ではなかった。
それはだいぶ上の方にあり、猫だとか虎だとかいう類の動物に似た、まさに"ネコ耳"だったのだ。
そこだけがふかふかとした、髪よりもさらに薄めの緑の毛に包まれている。
「ああ気にしないで。この国は、みんな”そう”だから。ね、ピート」
「ふっ。こちらからすればミスター・カーリー、あなたやそこの健気な少女のような、小粒の耳の方が面白おかしい」
どうやら男はピートというらしかった。
藍にとってその何人かも分からぬ名は、むしろ男の"大きい猫"というイメージの風貌に違和感なく定着した。
改めて藍は辺りを見回した。
自分が立っているブルーのフロアにはところどころに宝石が埋め込まれていて模様が形成されていたり、天井には奥の方から点々と続いてシャンデリアが飾られていたりする。
………"宮殿"、らしいな。
藍はそう考えて、だだっ広くてまるでストリートじみた、この廊下のど真ん中に放られた自分を場違いに感じた。
「…せめて汚れたブレザーだけでも取りかえてくれないのか?私以外、小綺麗ででおかしなローブやらを着ているのに」
「それはそのうち。僕だって、みんなと違う衣装だしね」
藍の耳打ちに対して、狩谷は笑いながら答えた。
確かに狩谷が着ているのはピートのローブとは違ってどこかの民族衣装のような、ひとつなぎで腰に紐を巻いた、言ってしまえば”カジュアルな着物”という衣装である。
あの森で初めに見た時もあまり気にしなかったように、その衣装は妖精という名前に合っていた。
……まあ、衣装を変えたところで場違いなのは変わりなしか。
そんなふうに、再び周りの現実感のない景色を見渡して、藍は思い直した。
「とりあえず早く会議に出てくれ。もうあの人たちは、焦りにあせっている」
「おや、そうだったね。と、いうことでそういう事だ、藍くん。急いでいこう」
藍の顔の真横で忙しなくぱたぱたと動きながら、狩谷が急かす。
「着いてこい」
そう言って、ピートは歩き出した。
藍は、何の説明もなしに実態が掴めない宮殿の、阿呆らしいほどに広いストリートに自分を放り出した狩谷に睨みを効かせながら、ピートの背中に着いて行った。
♢
廊下の脇には仰々しいまでに太く、綺麗に流線加工が施された、またそれも鮮やかな青色の柱が何本も建てられている。
その隙間には光を入れ込むための、サイズの大きい窓があるが、それは空と雲を切り取るばかりでまるでほかの景色は映っていなかった。
どうやらこのフロアは、宮殿の中でも相当高いところにあるらしい。
しかし、さらに不思議だったのは、この廊下を往来する者が藍と狩谷、そしてピート以外誰もいなかったことである。
空気はシン、と静まり張り詰めている。
この廊下は独特な緊張感の元にあった。
……間違いなくこのフロアは、建物の中でも重要な部分にあるはずだ。
藍は廊下を進んだ先にあった、おそらく5メートルも超えるであろう異様な大きさの扉を前にして、そう確信した。
「まだ名前を聞いていなかったな、フォーリナー」
ピートは藍に振り向いて、そう話しかけた。
「……信羽藍。それが私の名前だ、ピート」
威嚇じみて、鋭い目で藍はそう答えた。
「……実に折れそうな見た目だ。しかし、強い」
ピートは再び前を向いて、独り言のように話す。
「お前に託すか託すまいか、この先で決まる。
いいか、信羽藍?………開けるぞ」
藍は重々しい言葉が心にどしりとのしかかる感覚を噛み締めて、前を見た。
いよいよピートは扉の持ち手を両手で掴んで、フッ、と力を入れて開けた。
藍のからだには緊張が走っている。
一つ息を吐いて、まるで光が差してくるほどに明るい扉の先へと足を踏み入れる。
「そんなぴりぴりしなくていいのに」なんて、宥めるんだか茶化すんだか分からない妖精の声が、小さく、頬の横で聞こえた。