第84話 共同作業
「なん……だ……?」
立て続けに響き渡る轟音に、俺は路地を飛び出していた。
逃げ惑う人々。空へと立ち上る煙。焦げ付くような匂い。
火の手が上がっているのか。
何が起きているんだ。
まず最初に目に飛び込んで来たのは、勿論大量の人なんだが、問題はその奥。彼らはそれから逃げまどっているのだ。
2メートルはあるだろうか。赤銅色の塊。筋骨隆々。毛むくじゃらの身体をしていて、鋭い爪を振り回している。その動きによって、鮮血が舞い、より一層民衆の精神を揺さぶる。
あれは……。
トロール、なのか。
実物を見るのは初めてだ。どうしてモンスターが街に。……そんなこと、今は。
「……!! 守、動けるか!?」
それを確認するや否や、路地の中へと叫んでいた。先ほどまで蹲っていた守。足を細剣の切っ先によって斬られ、貫かれたように見えたが……。
「すぐに行きます!」
予想以上に元気のいい返事が聴こえてきて、ほっとした。
そしてほっとしたついでに、俺はトロールへと疾駆した。
「邪魔だ、どいてろ!」
そんなことを言ったって、恐慌状態の住民に届くはずもなく。幾度となくぶつかりそうになりつつ、実際にぶつかりながら、直ぐにそれは視界の中で大きくなった。
逃げまどう民衆の中にあって、自らに近づいてくる相手というのは、相当に目立つものらしい。トロールはかっこいい牙を見せびらかしてくれながら、酸性の強い唾液と共に大音声を放った。
「ゴガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア……!!」
その足元に、もの言わぬ死体となってしまったのか、人が一人倒れている。
……いや、身をよじって、咳をした。かろうじて息はある。今にも踏みつけられそうなその人……クソッ、間に合え。
左腰からハーミルピアスを引き抜いて、前方に突き出しながらボタンを強く押し込む。それによってすぐさま展開され始めた傘を、それでも遅いとばかりに、内部に突き入れた足で蹴り飛ばす。
これを上手ーく投げつけて、カッターのように使う人もいたそうだが(一人しかいねェよ)、生憎俺にはそんな技術は無い。攻撃とかじゃなくて、ただ単に物体がぶつかる、そんな程度だ。煩わしかったら払ってくれ。そうして時間を無駄にしな。
トロールは前進を止め、思惑通りに傘を払っていた。誤算があるとすれば、その単調な動きに秘められたエネルギーすら凄まじかった、というところか。
率直に言うなら、傘部分は再起不能になった。ビリビリに引き裂かれ、風に舞っていく。それの行く先を眺めている場合じゃない。
「てめえよくもヒガサの忘れ形見を○×△□%☆……!!」とか言ってる場合じゃない。怒りが力に変わるというなら別にいいんだろうが、大抵怒りに我を忘れてもいいことないんだ。俺はもう、それを知っている。「だから、戒めろ……」泰然と、標的を見据える。
硬そうな肌ではあるが、この武器を舐めてもらっちゃ困るぜ。
両手を振り上げ、飛びかかる俺を掴まえようとでもしたのか? 残念、フェイントだよ。俺は直前で足を止め、右側から回り込むように移動。……しつつの、刺突。
あまり深く踏み込むのは得策ではない。撫でるように牽制して、まずは相手の出方を見ろ。
トロールの胸の下あたりを薄く掠めるに留まったピアス。足元にいる人間からトロールを遠ざけるためにも、まずは引き付けないとな。
大した傷ではないだろうが、所詮は獣。自らに傷を負わせた存在へ、目の色を変えて突進する。あ、要するに俺ね。俺の方に来る。来ちゃう。
トロールを引き付けながら、周囲の地形を確認する。
まだここは、港のすぐ隣なんだ。
都市の外周をぐるりと囲む外壁の切れ目……右に見える高台から下を見下ろせば、俺達が大階段を上った成果を確認できる。つまり、その殺人的な高さを、だ。……そしてそれは、人間だけに死をもたらすワケじゃない。そうだろう……?
しかし、そこから落ちてくれってのは、この獣に対してあまりにも高望みしすぎか?
トロールの固められた拳が、地面にヒビを入れる。跳び退ってそれから逃れつつ、思考する。
そりゃ確かに、野生の獣に比べたら相当な脅威だろうさ。だが、この程度か。そう思う自分がいたのも事実だった。
壁を砕くような奴らと戦ってきたからな。こいつ程度となら、力比べができるんじゃねェかと思ってしまう。
再度飛びかかろうとしたのか、両腕を振り上げたトロール……またその構えか? そいつの心臓目がけてピアスを突き入れた。少しズレたが、許容範囲だろう。そしてピアスから手を放し、そのままトロールの両腕を掴み返す!
「ゴガッ! ガガガガアッ!!」
苦し気に呻くそいつに、一切の同情が無かったとは言わない。
緋翼を腕から侵食させて、これでお前はただの木偶だ。身体ごと体当たりをかまし、トロールを壁に押し付ける。さすがに、重いな! ……そして、トロールの身体からピアスを引き抜いて、後ろに放った。
あとは、こいつを落下させられれば……もしかしたら明日の漁ぐらいには悪影響が出るかもしれねェが、許せよ、漁師さんたち!
「ぐっ……あがれええええッ、よッ!」
だが、簡単には壁の向こうまで持ち上げてやることはできない。更に、不思議な現象。俺が貫いたトロールの傷跡が、しゅうしゅうと音を立てながら、蒸気を上げている!
かーっ! さすがは魔物ってことか。異常なまでの再生能力。そういえば、聞いたことがあるような気がするぜ。人間のささやかな抵抗を無に還す、悪魔の再生、みたいな。はは、俺も人の事言えねェかもだけど。
……こいつを殺すには、やはり特大の一撃が必要か。何としても、このまま――、
「レンドウさん、凄いです!」
――その時、傍らに現れたのは。
勿論、守だ。
来てくれたか。血に飢え、憎悪に染まった眼をこちらに向ける怪物に、しかし怯まない少年。さすがだ。守はすぐさま俺の意図を察して、ドロップキックをトロールにお見舞いする。
それにタイミングを合わせ、俺も緋翼を腕力を総動員。耳障りな唸り声を黙らせるように、左手で顎を。右手で腕を抱えて、一気に持ち上げる。
「逝っ……ちまい、な!」
己の運命を悟ったのか。耳をふさぎたくなる怒声。怨嗟の声か。それを残し、トロールの巨体は壁の向こうへと消えていく……落ちていく。
……はあ、はあ。ふぅ……はあ。
満足感に浸り掛ける俺だったが、「これで本当に倒せたんでしょうか」守の心配性にあてられてやらんこともない。
「気になるか?」
「はい……」
「そうか。うん……」
これで終わりじゃなかったら辛すぎるんだけど? ハーミルピアスを拾い上げて、ズタズタになって向こうに転がっている傘部分を眺めてセンチな気分になってから。
俺は勢いをつけて、高台へと飛び乗る。
「ちょっと待ってろ、すぐに確認すっから」
体勢を低くして、這うように眼下の光景を睨む。万が一にも落ちたくないな。
「見えるんですか?」
「吸血鬼の視力、なめんな。光の下じゃクッソ痛ェけど、それでも尋常じゃなくよく見えるんだぜ……っと」
正しくはアニマの視力、か。いや、守の前でいちいち言い換える必要もあるまい。それも、俺自身納得していないような事柄を。
遥か下方、世界一巨大な水たまり。その入口に浮かんで動かなくなった獣を確認すると、
「間違いなく死んでる!」俺は高台に上がったまま立ち上がる。
少しでも高いところから、街の様子を観察したかったんだ。ま、せいぜい1メートル半の変化でしかないんだが。
「大丈夫ですか!」
守は、少し戻ったところで、倒れた人の意識確認をしていた。
すっかり人通りの無くなった海沿いの高台通りだが、逃げてった人たちって……どこに行ったんだろうな。やっぱ、有事の際にはそこへ逃げ込む、既定の避難場所があんのか。
しかし、全ての人々が走り回っていたわけではなかったようだ。元々家の中にいた人間たちは、ほら。二階だったり三階だったりの窓を空けて、恐々とこちらを覗いている奴らがいる。そりゃ、家の前でモンスターが暴れてれば、一定数の人は家の中に居続けるもんか。それでもお前、俺がなんとかしなけりゃ、家の中へだってあいつは押し入ってたぞ? 感謝しろ、この俺様に!
……どこへ行ったと言えば、俺の仲間達もだよ。俺と守があいつらから離れちまってた時間は、3分あったかどうかってくらいだと思うんだけど。その間に彼らが移動できた距離。起こった事件。……うん、どうして誰も残ってないんだ?
その答えに成り得る音が、耳に飛び込んできたのは、その時だった。
「悲鳴……まだ、終わってないのか」
当然か。あいつらが、立ち寄ったばかりだからという理由で、この街の住人を見捨てるはずがない。きっと、別の場所でも事件が起こっていて、それを止めるために奔走しているのだ。レイス達は、そういう奴らだ。
それに、もしかするとだが……。俺たちの存在こそが、災厄を呼び寄せてしまった可能性すらある。
予想されていたことだ。魔王軍の過激派による妨害。どちらかと言えば、闇夜に紛れて送り込まれるような刺客の方を警戒していた俺たちだが、これがそうじゃないとは言い切れない。どんだけ過激派どもはクソ揃いなんだよってハナシだが。
ここはヴァリアーみたいに小さく無ェんだぞ。何万人も住んでる、大都市なんだ。たぶん。
「守、行くぞ」
「でも、この人が……」
倒れ伏している人を指さす守。だが、首を振ってそれを一蹴する。
「そこら辺の住人に任せとけ! 俺たちが得意とするのは人間の傷を癒すことより、騒動の原因を取り除くことだろ」
「……分かりました。――すいませんっ、ここに怪我人がいるんです! どなたかお願いしますっ!!」
その守の叫びが、聴こえていないはずはないだろう。高見の見物人どもはすぐに動き出す雰囲気ではないが、そこまで待っていられない。
「行くぞ」
言い放って、俺は走り出した。
走り出そうと、した。
できなかった。
俺にそれを止めさせるだけの異音だった。
――鳴き声、なのか。
「ヴィイィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィッ!!」
一瞬、いや、一瞬以上、俺の身体に影を落としたその巨体。思わず、空を仰いだ。
でっか……。5メートルほどもありそうだ。正確な距離は分からないが、あれは……なんだ。
「か、怪鳥……」と、守が呟いたのが聴こえた。なるほど、確かに、まさしく怪鳥だな。種族名なんて、存在するかも疑わしい。
紺色の羽毛に覆われているのか、長い尾羽を靡かせながら、そいつは一直線に飛んでいく。
そして、随分離れた場所へ降り立ったのか。当然、全く見えなくなった。見えなくなったが、そいつが何かをしやがったのは分かる。またしても、轟音が響いてきた。そして、振動。
まさかあの怪鳥が、さっきから爆発を引き起こしてんのか。どうやって?知るか。
だがあれは、どう対処したらいいんだ。あんな風に飛ばれたら、俺じゃ太刀打ちできねェぞ。直接戦ったなら分からねェが、同じ土俵に立てないのでは……。
更に言うなら、俺があの鳥の対処に当たるには、随分と乗り越えなければならない壁がそびえ立っているようだった。
「うわああああっ!」
悲鳴が上がったのは、すぐ近く。ちっ……。
「そりゃあ、こんだけ大きな街だからな。襲う方も、そんだけの準備をしてるってことかよ……!」
それにしたって、何匹のモンスターが街に放たれてるってんだ……!?
再び視界に現れるトロール。それに加えて、赤い目に獲物を映す、飢えた黒犬。……ヘルハウンド。
ちくしょう、新手だ。
「僕たちだけで勝てますか……!?」
……台詞だけは臆病だけど、ちゃっかりロングソードを縦に構えている。お前のそういうとこ、嫌いじゃねェわ。
守に答えるように俺も右手を引いて、一切隠れ潜めなくなったピアスを水平近くに構える。一撃で獲物の命を抉り取る。そういう構えだ。本人から継承する時間がなかったことだけが悔やまれる。だが、腕力に物を言わせれば、俺にもできるはずだ。
「やるしかねェだろが。頼りにしてるぜ、守!」
そうして、全てのモンスターの注意を引くべく、叫びながら。
俺は再度、血に塗れた時間へと踏み込んでいく。