間章 ◆神明守◆
――僕は、清流の国の右寄りにある、白猿湖――通称、目玉池――を代々守り続けてきた一族、神明家に生まれた。
そこで、【ミル】と呼ばれ神聖視されている生き物と、仲良く暮らしていたんだ。
一族からは剣術の才があると期待されていたようだけど、僕はそんなことはどうでもよくて。
ただ、ミルと……大好きな人たちと、ゆったりとした暮らしさえあれば……それでよかったんだ。それだけを望んでいた。
ううん、違う。
――――当たり前だと思っていたから、わざわざ望みもしていなかった。
僕のルーツを説明するなら、その家族構成は欠かせない部分だろう。
父、堅と母、浄見。そして4つ下の弟、蓮。
母さんは蓮を産むと同時に亡くなってしまったけど、父さんは男手一つで懸命に僕たちを育ててくれた。それだけは分かっていたから…………、僕はきっと、今“こうして”いるんだと思う。
やんちゃに育った弟は、僕よりも剣術の修業が好みなようだった。男児たるもの、家を守り抜く為に強くあれ。そういう風潮は根強く残っていたし、実際、僕もその経験があったお陰で乗り切れた事件ばかりだ。
それでも、本当はこんなもの……持ちたくなかった。
生まれ持った資質のせいか、弟から羨望の視線を受けることも多かった。……そんな弟とも、もうずっと会っていないから、今はこっちをどう想っているのか、分からないけど。
……いや、本当は、怖いんだ。
弟に恨み言を言われるのが、怖い。彼に嫌われていることを知ることが、怖い。
だから僕の鞄には、今日も。書きかけの、書きなぐりの、書き直しの、破れかけの手紙が入ったまま。
……そして、最後に。
姉であり妹でもある…………真衣。
潮の森でのモンスター討伐作戦の折、シャルアントの巣から助け出した同世代の女の子。
助けなければ。そう思ったことに、理由なんていらなかったと、今でもそう思う。
餌として巣穴に運び込まれたのか。不思議と無傷であったその少女。自らに関することを、何も覚えていないと、無感情に語る少女。
それを不気味だと謗る討伐隊の面々を黙らせ、僕は彼女を家へと連れ帰った。
父さんは僕の頼みを聞き入れてくれた。彼女は名前を与えられ、うちで暮らすことになった。
彼女が感情を取り戻し、名実ともに家の人間として認められ、苗字を名乗ることを許されるようになったのは、もっと後の話だったけど。
彼女の個が見えるようになってからは、今までとは打って変わって、僕の方が面倒を見てもらうことも多くなっちゃったりして。これが自他ともに“姉であり妹である”なんて評される由来なんだけど。
……とても充実した日々だった。
父さん、蓮、真衣。そしてミルたち。僕を構成するそれらに囲まれて、心配事といえば……周辺の名家から受ける圧力くらいのもので。
僕がいつか家を継いだ時の為に、そういう人たちとも円滑に物事を進められるようにならないと。そのための勉強だけしていればよかった。だから剣なんて、ただの趣味でいいんだと。
でも、それは永遠には続かなかった。
14歳になったある日、ミルである親友……アイビーはいなくなった。池を探し、森を探し、屋根裏を探し、途方に暮れ始めた頃、噂を思い出した。
取るに足りない、嫉妬の類だと思っていた。
……神明家はその立場を利用して、ミルを密漁者に引き渡し、多額の報酬を得ている。
自分の中に、そんな行動力が眠っているなんて、想像だにしていなかった。それは父さんも同じだったらしい。僕は父さんの私室に忍び込んで、手掛かりを探した。彼の無実を信じながら。
それは、いともたやすく見つかった。鍵なんて掛かっていなかった。どうやら、僕はよほど信頼されていたようで。
乾いた笑いを浮かべながら、僕は濡れた羊皮紙を握りつぶした。
――お前ならいつか、清流国を代表する剣士になれるぞ。
――家を継ぐことは、望まないのか。なら、ここを出て帝国に行き、仕官するのもいいかもな。お前なら、きっと上手くいくさ。
――そうして成り上がって、爵位を得て帰るのだ。それが、お前の幸せに繋がるんだから。
そんな勝手な期待で、僕を。よくも。
さぞ満足だっただろう。従順な僕を、よくも騙してくれたな。
でも、それでも僕は。
その悪事が、この小さな村を守るためのものだということも……想像がついていた。何故なら、父さんが私腹を肥やしている様子は無かったし、何より村は……以前よりはマシという程度で、未だギリギリの財政事情だったからだ。
勿論、本当は違ったのかもしれない。けれど、それはもう解らない。僕は、父さんを問いただしはしなかったから。できなかったから。
直接話したら、あの厳しくも優しかった父の口から、言い訳の言葉が出るかもしれない。暴力を振りかざすかもしれない。理想の親の像が崩れ去ってしまうその瞬間こそ、僕が最も恐れたものだったに違いない。
……そんなもの、もうとっくに崩れ去っていたっていうのに。
――もうここにはいられない。自分が壊れてしまう。
その日のうちに決めた出奔すら、勇気から出たものだとはとても思えなかった。
袂を分かつことを決めても、それでも父さんを司法に引き渡すわけでもなく。最低のヘタレのまま、僕は逃げ出したんだ。
全てを捨てて。
こんな僕が一人で生きていけるわけない。そう言って付いてきてくれた真衣には……本当に悪いと思ってる。きっとそれは事実だし、彼女がいることで、僕が何度、どれだけ救われたか。
――だからこそ僕はここで、新しい人間として、≪ガード≫として。早く地位を確立しなければならないんだ。
本当の意味で、何かを決断できる人間になるために。