第75話 高揚感に小休止
◆カーリー◆
どこかで、レンドウが戦ってくれている音がする。
……私も、いつまでも寝ている場合じゃない。
本代・J・バティストとの戦いに割って入っても、邪魔になるだけだろうという自覚はある。それでも、あのゾンビたちが現れないとも限らない。
露払いくらい、できるはず……。
それに、レンドウのかっこいい姿を、見たい。そんな想いもあった。
立ち上がるべく力を入れつつ、視線を上にあげると……、
――こちらを見下ろす黒髪の女がいた。
まずい。
「本代――――ムグッ」「はーい、少し静かにしたってなぁ」
顔を掴んで持ち上げるように、口を封じられたのか。
この女、本代・L・アーヴリルに。
「んん~~~~~!!」
「ちょお、暴れんときぃ」
あぐっ。
無理やり引っ張り上げるように立たされたかと思いきや、後ろ手に拘束されて、そのまま壁――滑り台の遊具――に叩き付けられる。
「安心しい、殺すのが目的やない。ちょぉ~っと、そん体に用があるだけじゃあ」
そう、信じられるはずもないことを言いながら、アーヴリルは懐から何か、とても嫌な感じがするものを取り出した。凶器の類か。
身をよじって拘束から逃れようとするが、片手だというのに、なんと凄まじい力か。
いや、これは、怪力というよりは……人体のどこを抑えれば、相手の抵抗を許さずにいられるのかを理解しているかのような。
壁に顔を押し付けられたまま、そのまま地面まで倒され、背中に跨られる。
がっ……!!
後頭部を押さえつけられて、何も見えなくなって。
「ちょっと我慢してなぁ」
――――ああッ!!
ケタ、ケタケタケタケタケタケタケタケタ。
首に走る痛みに喘ぐ中、不気味な嗤い声が脳裏にこびり付いて離れなかった。
◆本代・J・バティスト◆
この男が、俺を水田公園の奥地、水辺へと誘導しようとしているのは、すぐ分かった。その上で、誘いに乗ってやることにしたのだ。
理由はすぐに判明した。視界の隅に、遊具に寄りかかって意識を手放した様子の片耳女がいたからだ。こいつは、俺が気づいていないと思っているか、気づいていないことに賭けているのかもしれないが……。
正直、今の俺にはどうでもいいことだ。
自分でも不思議なのだ。
ただひたすらに無感情。国に仇なす存在を、事前に摘み取る日々。退屈とも言える、戦闘とは言えない敵との交錯。俺と敵。両者が交われば、自ずと先方は崩れ落ちている。そんな予定調和の中に、俺は諦観のような、達観のような境地にいたのだろうか。
「目が覚めた気分だ……」
ずっと、汚泥の中にいたようだったと、今になって思える。
この俺に、望みがあったとは。
これほどまでの、高揚感。失いたくないと思える、名残惜しいとさえ感じる、この瞬間。
それを、人質だとか闖入者だとか、そんなくだらないものに邪魔されたくなかった。
生まれ持った力と力。俺の拳と、こいつの黒い影。それだけでいいとすら思った。そうか、それで俺は頑なに素手に拘っていたのか。拮抗した“勝負”を求めて。
長年の疑問が氷解して、なんとも晴れやかな気分だ。
「礼を言っとくぜ、レンドウ……だっけか」
言いながら、広大な土地に広がる堀。薄く水の張られたそれに、対敵を叩き落とした。ちゃんと聴こえたか?
まさか、これで終わりじゃないだろうな。
馬鹿にするように、反撃を期待するように、俺は奴が沈んだあたりを見つめながら、しゃがみ込んで自らの膝に頬杖をつく。
そんな視界が、突如としてブレる。
すぐ傍だった。水中から伸びた腕が、俺の左足を掴んだんだ。そして、勿論そのままでは終わらない。吸血鬼の持ち前の怪力、特に先ほどから目覚ましいまでの変貌を遂げたその力で、水中へと俺を引きずり込まんとする。
はっは!
はっはっはは。
それに俺が神がかった対応をすれば、またお前の驚愕の悲鳴が聴けるのか。聴きたい。聴きた過ぎるぜ。
宙に投げ出されつつも、右足で俺の左足を掴む奴の手を、げしげしと高速で踏みつける。どうだ痛いだろう。放しちまえよ。
だが、奴は力を緩めなかった。ちっ、息を止める必要が出てくるじゃねえか。ははっ!!
どぷん。
俺の世界を構築する要素の一つ、“音”の変遷。水中へと移行したのだ。勿論、人間は水中では生きていけない。いつかは自ら上がる必要があるのだが……。
水の中だからといって、俺を手玉にとれると思うなよ……?
仰向けに沈み込みながら、視線は真っ直ぐ。目は瞑らない。この程度の水の汚さ、どうだっていい。
俺に覆いかぶさるように、一足早く体を起こしたらしい奴が、水上から何かを仕掛けてくる。揺れる水面の向こう、奴が何をしようとしているのかは非常に分かり辛いのだが。
直感で、あの影を吹き付けてくるな、と思った。
いかに“不動のバティスト”と称される俺と言えども、多少なりとも水中で動きが緩慢になるのは避けられない。そこを、あの硬質化する影の力で縫い止めようというのだろう。
いい手だ。そのまま俺を酸欠まで持っていくことができれば、確かにお前の勝利だな。お見事だ。
だけどな。
――――まだ、終わらせたくねえんだよ。
ばちゃばちゃと動き回り、騒がしく水面を荒立てて、向こうも同じようにこちらが見えないのだ。
だから、こういうこともできる。吸血鬼の黒い力が炸裂する数舜前。俺は腰に巻いていたクロスをほどいて、顔の前に広げることに成功した。
そして、視界が黒に染まる。
クロスをかざすだけでも月明りが遮られたのだが、その更に上をいく暗さ。吸血鬼の力のせいだろう。もう、何も見えないと言っていい。
……こんな暗闇に、いつまでも身を置いといてもな。
そろそろ地上に回帰するとしようか。
頭からクロスを被る様に勢いよく起き上がり、そのまま頭部を振り回す。予想できていたこちらは舌を噛むこともなく、鈍い衝撃に一瞬目を瞑るだけで済む。
対して、頭突きされた側となった奴は、脳震盪でも起こしたか? ぐらつきながら後ろに倒れようとしていた。
影に汚れたクロスをその辺に放ると、遠心力を効かせた蹴りを、腹に向けて叩き込んでやる。それも、打ち上げる形で。
吸血鬼は5メートルほど吹き飛んで、吹き飛んだ先は――――、水辺の中に佇むベンチ。その上にある雨よけの屋根。このままいけば、その屋根に背中から叩き付けられるところだが。
空中で、翼を展開したのか。先ほどまで脳みそがまともに働いていなかっただろうに、よくやるものだ。吹き飛ばされる勢いを削いで、そのまま真下に、水の上を走る観光客御用達の通路に着地した。
「……………………」
何も言えなかった。
……感動のあまり、だ。
俺の攻撃にここまで対処し…………対処しきれなくとも。かつて、ここまで耐え抜いて見せた輩がいただろうか。
いや、いなかった。
「……レンドウであってるよ。つか、戦いの最中に話しかけてくんのな。本代なのに」
加えて、先ほどの俺の発言に、返答までしてくれる。
いいねいいねえ、余裕があるってのは。だが、問題はその発言だ……。
「そういや、さっきもお前、言ってたか。落第生と知り合いなのか?」
「……ダクトのことなら、そうだな。ああ、話を聞いてくれる気になったなら、言わせてほしいんだが」
まあ、俺が話を始めてしまったんだしな。
小休止、それもまた戦闘の華か。再会が待ち遠しいぜ、くそ。
話の内容如何によっては、我慢できずにこっちからいきなりしかけちまうかも。
落ち着け、俺。クールだクール。……いやあ、無理だ。
最高の夜なんだ。
こんなにも、俺は楽しい。意図せず、口元が吊り上がるのを感じる。
――――この時間を、まだまだ終わらせてくれるなよ。
「信じてもらえるとは思っちゃいねェけどさ……」
レンドウは俺を真っすぐに見据えると、迷いを捨てた瞳のまま、語る。嘘をつくような様子ではないが。
「……フゥ。俺は、人間による治安維持組織“ヴァリアー”に所属してんだ。吸血鬼だけど、人間の街で、人間の為に働いてる」
「…………」
信じがたい。信じがたい話ではあるが。
「それを、お前が簡単に信じてくれるとは思わねェ。……あァこれ、今さっき言ったな。……それでも、何とかそれを証明できたら、敵対するのをやめてもらえねェか」
「それは無理だ」
レンドウが最後まで言い終わったと確信するや、俺はぴしゃりと言い放っていた。言い放ってしまっていた。
奴が口をひん曲げて、不満も露わに口を開こうとするのを手で制して。
「いや、ちょっと待て、俺自身混乱してて……ああ、どうしてこんな」
左手で、頭を押さえる。内より湧き上がる衝動を、どうにか抑えなければ喋ることもままならない。
「正直に言おう。俺はもう、レンドウ、お前が吸血鬼だから、人間の仇敵だから殺さなければならない……とは考えていない。むしろ……こんなに楽しく戦える相手を、殺したくないとすら思っている」
うげ……と表情を歪めたレンドウが「きもいけど、……だったら!」と食い下がってくる。
だが、俺は心から申し訳なく思いつつも、それを跳ね除ける。
「すまん。本当にすまん」
俺の内に棲む獣が、容赦なく俺の口角を引き延ばす。天を突かんと伸びていくようだ。無理だが。比喩だが。
「お前には死んでほしくない。だから、頑張って生き延びてくれ」
――――とても自分の口から出るとは思えない、そんな狂気に満ちた言葉に驚喜に狂気が驚喜した。