第74話 無慈悲なる熊の爪
◆レンドウ◆
腕の中で、カーリーが立てる穏やかな寝息を聴いていた。
まあ、疲れてただろうしな。仕方ないか。
吸血とは言っても、血液を相手から奪っているのではなく、取り替えているだけだ。彼女が失血によって失神しているということはないハズだ。
ティス曰く、吸血鬼に血液の取り換えをされても、どんな人間も――勿論、亜人も――死にはしないのだそうだ。あれ、それおかしくね? 人間同士だと怪我した時には血液型がどうちゃらっつって、慎重な対処が求められるんじゃねェのか。と思ったが、大丈夫らしい。吸血鬼の血は万能なのだそうだ。
それって、まるで……いや、今はいいか。
いつからか俺にしがみ付くように回されていたカーリーの腕を剥がして、彼女の体を塔の壁に寄りかからせる。名残惜しかったけど。……いやいや。
ちょっとだけ、待っててくれよな。
立ち上がって、塔を回り込む。俺たちが公園に入ってきた入口を見れば、丁度奴が現れたところだった。
「…………本代・J・バティスト」
対敵の名前を、呟く。
今から俺は、こいつとの戦いに決着をつける。その覚悟の下に。
「なんだ、もう逃げねえのか。鬼ごっこはしまいか?」
その声には、無感情さがあった。努めて冷静であろうとして、行きついた先。いつ俺が飛びかかってきてもいいように、頭の中は戦闘のことのみ。言わば、殆ど中身のない会話をしている状態なんだと思う。
「バティスト。お前、勘違いしてるぜ」
「ほう?」
そういう相手のペースを崩す為には……何か、興味のある話でもしてやれればいいんだろうけど、生憎俺はその手の搦め手が大の苦手だ。
だから。
「これは鬼ごっこじゃない」
このまま、やってやる。カーリーからもらった力で。
「俺が、鬼なんだよ」
叫ぶことで相手の動揺を誘うわけでも無ければ、突然走り出して意表を突くわけでも無い。力強く大地を蹴りだして、予備動作も隠さぬまま、俺はバティストへと走り出した。
「ふん。やってみろ」
悠然と構えるバティスト。その余裕面を、何とか明かしてやりたい。
そうして俺は、奴までの距離があと2メートルを切るか切らないかというところで……足を止める。
「…………どうした?」
動かない。
「…………おい、吸血鬼」
それでも、動かない。
「ちっ――――、」
こちらを馬鹿にしようと、奴は口を開きかけたのか。そこを狙って、被せるように言葉を放つ。
「ビビってる訳じゃねェぜ」
「この状況で、よくそんなことが言えるな。女に申し訳ないと思わねえのか。ってかあの女、どこに隠れてやがる……?」
バティストは視界の内にカーリーを探しているようだったが、それ、まったく同じこと俺からも言えるからな? というか、お前の仲間はアーヴリルだけじゃなく、兵隊共までいやがるじゃねェか。
「考えたんだよ。本代家お得意(?)のカウンター戦法に、戦闘の素人の俺がどうやったら対抗できるのか」
その結果が、これだ。
こちらの攻撃の勢いを利用して反撃するというならば、こちらから一切攻撃しなければ、どうだ。少なくとも、こちらが受けるダメージは減るはずだ。体力の消耗も抑えられる。
あわよくば、こちらがカウンター戦法を使えればいいのだが。
だが、してやったりと笑みを浮かべるのには早い。俺がこう言ったなら、恐らくバティストは……。
「ははっ。はっは。そう来るか。お前が、待ちの姿勢を? はっはっ、は――――」
笑い声を上げた。その音が一瞬途切れた、と感じた瞬間、俺は丹田を意識しながら、左足を後ろに引いた。
「――――甘すぎんだよ」「来ると思って――――ガッ」
俺とバティストが喋り始めるのは、ほぼ同時だった。が、俺の方はバティストからの打撃を受けて、最期まで言うことは叶わなかった。
左胸に拳を貰ったのか。後ろに下がり始めていなければ、心の臓にほど近い位置を狙われ、一発で動けなくされていたかもしれない。それを知覚した瞬間、冷や汗がドバッと噴出しだした。
早すぎた。分かってはいたけど! やはり素人がいきなりカウンターありきの戦術を組み立てるのは、難がある。
だが、一発で諦めてたまるか。
「なんだ、耐えやがるのか」
すぐ目の前で、体勢を低くしたバティストが、その声に多少の驚きを滲ませながら言った。やはり、一撃で仕留める気だったんだな。
勿論教えてやらないが、吸血鬼としての全力を発揮している今の俺の耐久力は、どうやらバティストの力を持ってしても、常人からはほど遠いのだ、きっと。
当たり前のようにこいつは手を止めない。俺を動かすことなく、要するに怯み連を取るつもりだろう。怯み攻撃連打。そうはさせるか……いや、させてしまう。
バティストの右足が俺の左わき腹に、それを掴もうと両腕を伸ばせば、俺の右腕は捕らわれ、気づけば回し投げをするかのように俺とバティストの位置が反転。
俺は無様に地面に転がった。
だが、それは奴との間に距離ができたということ。僅かに与えられた猶予に息を……馬鹿、その油断が命取りだ! すぐにもう一回転転がれ! 這ってでも移動しろ!
背中から緋翼を爆発させ、その勢いを借りつつ一気に起き上がる。勿論、その場で起き上がるのではなく、斜めに飛び退りながらだ。立ち上る砂煙。バティストが、俺が転がった地点に何かをしたのだろう。
予想できていたことだ。本代の人間が、一度捕らえた人間を、理由なく放すものか。
問題は、バティスト自身がそこに飛びかかって攻撃を仕掛けたのか、それとも奴は先ほどの場所から移動せず、何か質量のあるものを投げたのか、ってことだ。それによって、今の奴の位置が変わってくる。
砂煙が去るまではそう長く掛からないだろうが、それを悠長に待っていれば、恐らく俺は朝を迎えられないだろう。
バティストの身にも、周囲にも、投げられる類のものは見受けられなかった、ハズだ。奴自身が飛びかかってきたものと仮定して、その背後を取る様に動く。
が、足音を立て過ぎたのか。砂煙を切り裂くように手刀が現れ、宙を一閃。それを……反射的に真剣白刃取りしようとしたのが間違いだった! 俺の腕に裂傷が刻まれ、鮮血が舞う。
真剣白刃取りと言ったが、さすがに真剣ってほどじゃないな。何故なら、素手でこの威力のバティストが振りかざした真剣であれば……。俺の腕どころか、首まで持っていかれていただろうことは、想像に難くない。
――くそっ。
俺はやっぱり、強敵との戦いを楽しむ、なんて精神構造はしちゃいないみたいだ。戦いなんて御免だ。いっそ田舎で農民になりたい。その方が絶対合ってる。
バティストからは、いかなる攻撃も受けきる、という絶対の自信が感じられた。それはやっぱり、この男がカウンター、つまり待ちのスタイルを得意としていることを意味するのだろうけど。
結局、その得意戦法じゃない分野でもバカ強ェんだよな。強者ってやつァ、本当に理不尽だ。
俺に息もつかせないとばかりに、人体の急所を狙って突き出されるその手は、まるで槍。
それを止めるために俺が腕を晒せば、それを捕らえられて攻撃の起点とされてしまう。それはさっき身をもって実感した。
なら、やっぱりこの力に頼るしかないだろ。
「しゃらせェェェェッッ!!」
突き出した俺の手に添わせるように、二本の蛇を、強大な咢を模したような緋翼を招来。
腕をねじる様に回転させながら、大蛇の首根っこを掴むように動いたそれは、癖か、バティスト?
確かに、お前の力ならどんな質量の物体も、恐るるに足らずなのかも知れない。
だがな、緋翼は別に、硬度がウリの力じゃねェんだ……!!
やはり、勝機はここにある。バティストが緋翼に慣れる前に、決着をつける必要がある。俺の勝利で、終わらせるのならば。
ずぶり、と。バティストの両腕は、それぞれの蛇の中にいともたやすく入り込んでいった。それは勿論、バティストが緋翼の蛇を殺そうとしたからに他ならない。撫でるだけならそうはならなかったかもしれないが、奴の力は強すぎた。
「こいつなら、お前と力比べをする必要も、ねェッッ!!」
なんせ、すり抜けちまうみたいなモンだからな!
霧散しかけたそれに再び実体を持たせ、バティストの左肩に、右足にそれぞれを噛みつかせる。
「ちっ、またこれか……っ」
自らに取り付いた蛇、まずは左肩だ、と。バティストが無事な右腕を唸らせ、螺旋を描いたその手刀で、いとも容易く貫かんと。
――している、今がその、時だ!
後ろに構えた右手に、ありったけの力を込める。
今までであれば、俺はここで普通に殴りかかることしかできなかっただろう。緋翼の展開量には限りがあったからだ。であれば、またしても神速で対応したこの男に阻まれ、地面に投げ出される。最悪の場合、息の根を止められる。そんな未来もあったかもしれない。
だけど、今の俺は違う。
「際限なく沸いてくる、力があんだ……!!」
「なんっ」
この時、バティストを心から動揺させたと、俺は確信できた。
戦いは好きじゃないが、やる気は出るだろ、こんなん。
「ぐるあああああああああああァァアアッッ!!」
自分の右腕ごと呑み込ませた、巨大な熊のような掌で、バティストに向けて影の爪を振り下ろした。
「が、はッ……」
どうだ、無慈悲なる熊の爪……ハッ!?
脳内で技名までつけちまうとは。さすがに余裕ぶり過ぎじゃないのか。
これで終わりとしていては、止めまで持っていけなくなる。
どれだけ胸が痛かろうが、続けるんだ。俺は、俺が好きになれた人たちを守るためなら、戦える。鬼になるんだ。鬼そのものなんだ。そうだろう……?
「赦してくれとは言わねえ!」強く地面を踏みしめ、距離を詰める。
「これで眠れ、モトシロJバティストォォォォォォォオオオオォォォォアアァァァァアアアアァアァァアアァァアアアアァアアアァァァァアアアァアアアッッッッッ!!!!!」
左手を包むように……今度は形状に頓着するだけの思考は回らなかった。ただ単に、巨大な繭のように……グローブの方が聞こえがいいか。まとめ上げただけのそれで、バティストを殴打する。
さっき、“これ”で眠れとは言ったがな、一撃では終わらせてやれそうにない。すっきりと終わらせてはやれねェ。だが、もう、謝らない。
切り裂いて、ぶん殴って、打ち上げて、ふん掴まえて。引き摺り倒して、投げ飛ばして。
その身体が地面に叩き付けられる前に。
距離を詰め、どてっ腹に最大の一撃をぶちかましてやった。俺の顔に、バティストから流れ落ちた血が掛かって、思わず目を瞑る。
それを素早く拭って、再び目を開けても、バティストは未だに地面に転がったままだった。
…………はぁ、はぁ。
よかった、目を開けた瞬間、すぐ目の前まで迫ってきていた! とか無くて。
それでも、今度こそ一切の油断なく、倒れたバティストを見つめ続けた自分の事を、褒めてやりたい。
どうせ、息もつかせぬ連続攻撃で、こっちの息も切れてんだ。少しくらい、休憩を設けてもいいだろ。
そう思った俺は、バティストが体の調子を確かめるそぶりを見せながら、それでもしっかりとした足取りで起き上がるのを見つめた。
「やっぱり、まだ立つんだな」
「……当たり前じゃねえか」
……おや?
バティストの声の響き方が、少し変わったような気がして。
先ほどまでの、世界ごと俯瞰したような。無感情とさえ思わせた冷静さ。
「……久しぶりにこんな楽しい勝負が始まったってえのに、意識……手放して、たまるか……よ」
今は、僅かだが熱が感じられる。その方向性が、“闘いを楽しむ”ものであるのが残念だが。俺と気が合うようになった訳ではないらしい。
「けっ。お前、いまからやっと本気になるところとか、そういうのやめろよなァ」
言うと、バティストは緋翼に侵された上着を脱ぎ棄てながら、
「安心しろ、最初から本気だったさ」
ニィ、と。
前身血塗れ、更に緋翼塗れで、常人であれば身動きできないであろう状況の中、それでもこの男は、笑ってみせた。
その顔を見て、俺はどうしても。
何故、人間と吸血鬼は争わなければならないのか、と。
そう思わずにはいられなかった。