第46話 抵抗の代償
◆レンドウ◆
ああ、身体が温かいものによって包まれているのを感じる。俺は一体何をしていたのだろう。
このただひたすらに安心できる、母親の腕の中のような世界に、ずっと引き籠っていたい。
もう、痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。
先進国にはコタツなるものが存在するらしいじゃないか。人間を引きずり込み、心を蝕んで逃すまいと光る、その深奥へと足を踏み入れてみたい。そしてそれが至上の快楽であるならば、もう二度とそこから出たくない。
もう戦いはこりごりだ。
――そんな自分の弱さを肯定して、それでも戦うんじゃなかったのか?
急に、頭から冷水を被せられたかのように、意識が覚醒する。
幼馴染の兄貴分に、叱られたような気がしたんだ。
――まだ終わっていないぞ。
夢心地のようだった自分に、夢か現実か区別がつかないような言葉が、いまだに駆け廻っていた。
――今、周りで起きている事象から目を反らせば、絶対に後悔する。
ああ、分かった、分かったよゲイル。
……俺はまだ生きている。それをちゃんと意識さえできれば、俺はもう生を諦めたりしない。
俺は気絶していたのだ。素早く状況を確認する。冷たい。そうだ、何にも温かくねェじゃねェかボケが! 冷たい床に俺は寝そべっていた。何故? あの包帯野郎に蹴り転がされたからだ。
確か、何回転もさせられたはずだ。クソッ。俺はボールじゃねェぞ。
身体を包んでいたのは、何のことは無い、緋翼だ。使い手が意識を失おうとも、俺の身体を密やかに修復し続けていたらしい。どれくらいの間、気絶していたんだ?
とにかく、敵の追撃を受けることなく傷を治療できたのは僥倖だ。
あの包帯野郎。俺が普通の人間だと……さっきので死んだのだと疑っていないらしいな。
顔を上げるが、視界が明瞭でない。眼前に乾いた血がにじむ。目に入った異物により溢れだす涙も合わさって、顔を袖で拭うと、視界がようやく確保される。そこに広がっていたのは、見たくなかった光景。目を逸らしたくなる光景。
しかし、今見なければ確かに、必ず後悔したであろう光景。
起き上がった俺の真向かい、遠く向こうの壁に叩きつけられているのは……カーリーだ。
そんな。
片耳が……ウサギの左耳が無い。真っ赤に染まった顔面を濡らした血が、一体どこから流れ出たものなのか、既に答えは示されているようなものだ。
意識はないように見える。
地面に叩きつけるように腕を付き、ゆっくりと立ち上がる。爆発の時を待つように、俺は視界の内から怒れる要素を溜め込んでいく。
目の前に、赤毛の少女が倒れ伏している。何が「この姉妹を見分けるのは簡単だ」だよ、クソ馬鹿レンドウ、グズ野郎。倒れ伏した彼女が姉妹のどちらかなんて、全然判断がつかないじゃねェか。
右側の壁には、血みどろの身体を引きずったかのような跡が延々と続いていて、それが地下4階を目指したかったことが推察できる。無念にも力尽きた様子の少年に、思わず唇を噛む。
その隣に寄り添うように、或いは折り重なるように倒れ伏す長い髪の子供。……少女だろうか。こちらの外傷について、俺は深く考えることができなかった。それ以上見ていられなくて、顔を背ける。
俺は悲しむために、動けなくなる理由付けがしたくて現状を把握しようとしている訳じゃない。
怒りでいい。何かを燃やして、動かなくてはならない。
手近な赤毛の少女に向けて歩きつつ、左を見る。それはどこかで見覚えがある気がする男だった。
全身灰色の男が仰向けになって、大きなマントに包むように、何かを守りながら眠っているように見えた。
内何人が生きているのか。何人が死んでしまったのか。せめて、怪物に襲われたようには見受けられない、原型を保っている者達に一縷の望みを掛けたかった。
「アンナ……? それともイオナか……?」
少女を抱き起こして、その腕を取る。……脈を計る。
それが微弱ながらしっかりと波打っていることを確認すると、思わず安堵のため息が零れる。
「よかった。本当に、……よかった」
生きていた。
身体を揺すられたことに起因するのか、灰色の瞳がゆっくりと、力なく持ち上げられた。この瞳の色は……アンナだ。
「レ……ン……………………」
弱々しいその様子に、未だ安心できる状態ではないと感じる。
「いい、喋るな。安静にしてろ」
そう言ってアンナを床に寝かせる。小さく頷くように顎を震わせたことを確認すると、何か彼女を暖められる物は無いかと、周囲に視線を巡らせる。
解ってはいた。何が必要なのか、気づいてはいた。あとは、それ手にするための行為を、俺自身がを割り切れるかどうかだけだった。
震える足で灰色の服の男に近づき、恐る恐る、その顔に、肌に触れる。
――その冷たさたるや。
生命を感じないその身体から手を離し、彼が抱くマントを拝借する。その時、灰色男の両腕が発光し、その場に二つの腕輪が落ちた。俺が衝撃を与えたせいだろうか。だが、そんなものを気にしている場合ではない。マントを広げると、その中から細長くしなやかな体を持つ、しかし今はもう力なく、チャームポイントであっただろう長い尻尾も垂れさがるだけの哺乳類が姿を現す。灰色男のペットだろうか。心中で「すまん」と謝ってから、それを灰色男の胸の上に乗せ、俺は足早にアンナの元へ駆け戻る。
それでアンナの全身を包んでから、俺にできることが思いつかなくなると、今度はカーリーの元へと走った。途中、いくつものモンスターと確認するまでもない人たちを涙ながらに跨いで、壁に寄り掛かるように意識を失っているカーリーの前に跪く。勿論、死者を跨ぎたくて跨いでるんじゃない。
幸い、と言っていいのかどうか、カーリーに近づくと浅い呼吸音が聴こえる。俺の接近にも気づかなかったのか、目を閉じたまま不規則な呼吸を繰り返していたカーリーの意識を確認する。
具体的には、首に手を当てながら呼びかける。
「カーリー……」
瞼は開かなかったが、彼女の身体はピクリと反応を見せた。
さすが魔人だ、亜人だ。彼女は強い。きっと助かる。
こんなことを考えるのもアレだが、彼女の千切られた耳はどこへいったのだろう、とどうでもいいことが脳裏に浮かんでしまった。今はそんなことは、本当にどうでもいいだろ。首をブンブンと左右に振ると、俺は彼女の耳があった場所に何か巻きつけられるものが無いか思案する。
俺のシャツでいいか。素早く防刃コートを脱いで、グレーのシャツを引き裂く。腕の部分は長いから、ここを上手く使えば――――。
自分の不器用さが嫌になりそうだが、カーリーは新時代のファッションを身にまとったかのような出で立ちとなり、一応治療できたと信じたい。そうでなければ、なんのために半裸になったのか分からなくなってくる。
コートを素肌の上に再び着こみ、千切られたシャツの余った部分をポケットにぞんざいに突っ込む。すると、ポケットの中で手が何かに触れる。先になんか入れてたっけ。……それは後でいいな。
――で、ここからどうしたらいい。
最初から分かっていたことではあるが、俺は人間を治療することには不向きだ。どちらかといえば争いの芽、つまり人間が怪我をする事態を、現況を叩くことの方が向いている。
この惨状を引き起こした敵どもを、皆殺しにすることこそが……。
――そこまで考えて、突然の頭痛に、思わずしゃがみ込む。
「くッ…………ァアッ………………………………ァァァアアアアアァアアアッ!!」
ビリビリする。頭が、……自分が自分ではないような。何故かは解らないのだが、蹲ったまま眼球を限界まで上向けて、天井を睨みつけてしまう。上に何があるというのか。五感とは違うところで、不快感を覚えた。
――その時、
「ったく、憑依体は上だって?」
声が聴こえた。それは、聞き覚えのある声。
――あの包帯野郎の声だ。
「うん。ジェノからの連絡だから、確信があってのはず」
そして、聞き覚えのない女の声。
「チッ。なら、潜る必要は一切なかったじゃねーか」
「仕方ないでしょ。だってまさか、そんな大切な存在を浅い階層に置いておくなんて思わないもん」
――この状態はマズい、そう思い、無理やり頭痛を忘れることに努め、その声がする方へ向き直る。
すると、地下4階より現れるは包帯野郎。その隣にいる女は、犬のような耳がフードを突き破って飛び出している。身体のラインが浮き出る、ぴったりとしたボディスーツを身にまとっていた。女の方が特に、口をぽかんと開けている。
「ジェット、あんなのいたっけ」
と、傍らの包帯男――ジェットと呼ばれた男――をつつきながら質問する。それに対してジェットは、
「いた気もするな。だがオレが一瞬でぶっ飛ばした、ザコだよ。お前に任せる」
そう言いつつ、地下2階への階段へ向けて、訓練場を悠々と横断し始める。
「オーケー」
焦るな。怒るな。機を待て。奴らが俺を大したことない障害だと高をくくっている現状に、甘んじろ。
奴が訓練場の中央を過ぎ、アンナから離れていくのを確認すると、俺はボディスーツの女に集中する。スレンダーな体つきのそいつは、どう考えてもスピードタイプだと思われた。
予想を裏切らないように、俺の眼前へ瞬時に移動してきたそいつは、俺の腹に向けてドロップキックをお見舞いせんとする。それを右にステップすることですんでのところで躱す。しかしそれに反撃を加える暇は無く、いや、反撃は考えたのだが、空中で女は両手でナイフを抜き放っており、近づくことを躊躇わせた。
寝そべるように着地した女はあろうことかそのナイフを投擲しながら起き上がる。それを大事に振り回すと思っていた俺は、それを無理に避けようとして体勢を崩した。避けようとしたせいで、続いて投擲された2本目が右足に突き刺さり、体制を崩さざるをえなくなったというか。
そこを好機と見て、新たなナイフを抜き放って飛びかかってきた女。だが、その表情が驚愕に見開かれる一瞬を、俺は見逃さない。
情報と言うのは、アドバンテージだ。
俺はお前の能力を知らないし、お前は俺の能力を知らない。それでも種族柄、俺の特殊能力がどれほど希少なのかは、なんとなく分かっている。
それにより、恐らくお前が一瞬であれ躊躇するであろうことがな。
隠す必要は無い。むしろ、思いっきりやってやれ。そう念じて、右足の傷口から緋翼を好きな様に、身体の望むままに放出させる。
「そ、れは――!?」
もしかしたら、相手はこの力を知っていたのかもしれない。知っていたからこそ、この力を持つ者の種族名にまで思い当たり、驚愕したのかもしれない。また、ただ単に黒いもやにビビったってだけの可能性もある。どちらだろうと関係ない。
俺は、既に肉を切らせて骨を断つ心の準備を済ませているのだから。
きっと、お前の攻撃が鈍ると思ったぜ。
俺の右拳が、そいつの腹を食い破らんと唸りを上げる。直撃したそれは女を高く打ち上げる。その時、もう俺の意識はそいつにはない。ついでに言えば、そいつにも意識は無い。
俺は、階段の向こうに消えたジェットを追うべく、走り出そうと……した、瞬間だった。
全身を悪寒が駆け巡った。再び感じたプレッシャーに上を見上げると、ジェットが崩壊した天井からこちらを覗いていた。言い知れぬ不安は、即座に現実のものとなる。
ジェットが右手に携えるは、槍。槍には、長いリーチを武器に堅実に突く以外にもまた、特化した使い方がある。
それは、投擲。
そいつの手から槍が離れた時、俺は死を予感した。
――気づくのが遅すぎた。
拾った命を、何度無駄にする気だ。次はきっと、こいつは俺を警戒して、二度と止めを忘れることは無いだろう。
両腕をいつかのレイスのように交差させて、こんなことしてもどうせ防げないだろうが……と諦めかけた俺に、雷が走る。
左側にある髪の毛の束が、消失するのを感じた。
その衝撃は俺の横を素通りして、後ろに突き立った。
「……ま、命中っちゃ命中、か」
その言葉の意味を即座に推し量れるほど、俺の精神は成熟できていなかった。即座に現実逃避に明け暮れようとする。
だが、ニタリと凶暴な笑みを浮かべるジェットの口元を、それ以上見ていることもできなかった。
弱い俺自身から、そして世界そのものから目を反らすように首をギギ、と傾けると、……だからこそ、背後に隠された真実が目に入る。入ってしまう。
どうして。なんで。
赤毛の少女が……、
――赤毛の少女が、両腕を広げた状態で、背後にいる人物を守っていた。
それに守られる人物もまた…………赤毛。
二人はとてもよく似ている。
――ただ一つ、瞳の色を除いては。
「かはっ……」
腹部を貫かれた青い瞳の少女が喀血し、膝をつく、地面に縫いとめられるまでには至らなかったらしい。それこそが、彼女が己の肉体を壁として姉を守り抜いたことを証明していた。
「イッ……………………」
横倒しになった少女に駆け寄りながら、叫ぶ。
「イオナアァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」