第16話 吸血鬼と人間の密約
年齢が10を回った時から、ずっとあいつらと一緒だった。
クレア。無事だろうか。長に任せておけばもう大丈夫だと思うが。あのジジイの同族愛だけは信頼している。きっと平気だろう。
ゲイルはどうだろう。あいつのことだ、俺が心配するまでもなく、今日も元気に沢山の本を読みふけって視力を劣化させているに違いない。
俺のことを覚えてくれている奴がいるなら、俺は頑張れる。
――俺には、幼いころの記憶が無い。
原因は頭部への物理的な衝撃のせいだと聞いている。
流浪の民だった吸血鬼たちだが、ある大規模な戦闘の後、戦いに疲弊し、ついに限界を迎えたという。
そして長の決断の元、皆で隠れ住む道を選んだらしい。それは、俺を含む若者が何人も、浅からぬ怪我を負った事態を憂慮してのことらしい。
吸血鬼たちが見つけた安住の地、現≪吸血鬼の里≫は、無統治王国アラロマフ・ドール周辺の紛争地帯にある。凶悪な飛竜が生息している≪飛竜の丘≫寄りの場所に居を構えることによって、敵対する人間たちを寄せ付けないという目論見があった。……そこまでは知っていた。
長はそれだけでは安心しなかった。
昔は人間共から、いや、人間以外からも殺戮の化身として恐れられたキリングマシーンとやらも、今や究極の事なかれ主義だ。
端的に言えば、人間組織と、ヴァリアーと密約を交わしていたらしい。
俺が聞き出した内容はこうだ。
――吸血鬼の、無統治王国アラロマフ・ドール内での人間の捕食を禁止する。
――人間は、吸血鬼の里へ十分な量の血液を毎月提供する。
――どちらかが約束事を反故にした場合、“相応の罰”を与える権利を互いに有する。
単純明快な決め事だ。少ないな、とも思った。だがそれは、両者が本当に一番欲しいものを、一つだけ提示した結果なのだと思えば納得できなくもない。
しかし、俺がここ最近ずっと鬱になっている原因は、元はと言えばこの条約にある訳で。
……嫌な予感はしていたんだ。今思えば最近ずっとクレアの様子はおかしかった。
隠し事をしている雰囲気があったし、何よりずっと不機嫌だった。
確かに、大人たちが“捕ってきてくれる”食料は年々少なくなってきていた。その上、人間以外の魔物や動物の血は、死ぬほど不味い。俺たちの身体が欲しているのは人間だった。
だからって、まだ里を飛び出すのは早かったんだ。色々、大人に任せた方がいい年齢だったんだ。少し大人びすぎているところが、きっと仇になった。食料を求めて、一人で人間の国に狩りに出るなんて。
密約を知らなかった俺たちは、人間を自分で殺したこともないガキの分際で、里に迷惑をかけてしまった。自らの力を過信して、誰一人殺せずに捕まった。
――その報いだとすれば、まだマシな方だろうか。
* * *
「この度は、ご迷惑をかけ申した。真に申し訳ない……」
齢70を越えた老人が、床に這うように頭を下げるところを、俺は見たくなかった。ひどく居心地が悪かった。ジジイは、持ち過ぎていたはずのプライドを全部捨てたかのようだった。こんなジジイの姿を望んだワケじゃない。いや、望んだこともあった。でもそれは俺の空想の姿で、いつか稽古で俺がジジイを負かした時に見るはずだった光景なんだ。
俺たちのせいで、吸血鬼の長が……人間に平伏する羽目になるなんて……!!
いっそ舌を噛み切って死んでしまいたいと思うのは、それもまたガキだからなんだろう。俺は自分が引き起こした事態を直視することを恐れている、底なしのクソガキだ。
変わりたい。変わらなきゃいけない。
「いえ、そちらのレンドウ君と……シンクレアさんを捕らえた後、早々に使者を送る手はずだったのですが、諸々ありまして。それが遅れたのはこちらのミスですので」
どうせ腹の底で吸血鬼を見下しているんだろうに……しゃあしゃあと(と俺が個人的に思っている)そう答える副局長アドラスにも腹が立った。ヴァリアー基地一階の来客の間。
俺は壁際に立たされて、唇を噛みながら下を向いていた。横にはレイスが控えている。
「そうだとしても、重ね重ね……申し訳ございませんでした」
今にして思えば、ジジイのこのいやに殊勝な態度は、この後に訪れるであろう“相応の罰”を恐れてのことだったのだ。
俺はそれにも気づけなかった。
だから、その条件が提示されたとき、俺は耐えきれず叫んでしまっていた。
「ふっざけんな!!」
――クレアの身柄をこちらで預かる、だと!?
アドラスは凍土を思わせる眼差しを俺に送っただけで、無言だった。俺はそれに意地でも気圧されるまいと睨み返す。ジジイは呆れたように、諦めたように言った。「黙っていろ、レンドウ」
「チッ、ジジイがそんなんで――」喰ってかかろうとするが、
「子供が口を挟んでいい内容ではない」そう言い放った長の声が、怒りを通り越した深い悲しみに濡れていることに気付いた俺は、何も言えなくなってしまった。
「誤解してほしくないのですが」アドラスが後ろを見やる。そこには車イスに乗せられた、未だ意識の戻らないクレアがいる。車イスに巻き込むと悪いからと、勝手に肩口で切りそろえられてしまった髪が悲しい。その車イスを支える灰色の看護師が、俺をやきもきさせる。あいつは要注意人物だ。身内を任せたい相手じゃない。
「幸いにも、双方に死者が出ていません。そのため、という訳でもないのですが、我々は仇を討とうという心づもりで彼女を頂こうという考えではありません」
それを聞いて一瞬安心しかけた自分が恨めしい。
「……それはッ!つまり、そいつを実験台にするって意味だろーがァ!」
暴れようとする俺の肩にレイスが手を置いて、「レンドウくん、駄目だ、落ち着いて」と言った。この時だけはレイスは俺を君付けで呼んでいた。よく考えてみると、なんでレイスは俺のことをすぐ呼び捨てにするようになったんだろう。馴れ馴れしいぞ、クソ白髪野郎が。
「安全は保障します。既にヴァリアーには魔人の研究サンプルが数名います。彼らには普通の生活が約束されています」そう言ってアドラスは俺――じゃないな、俺の後ろにいるレイスを見たんだ。
後ろで頷く気配。「それは僕が保証します」とレイス。
「僕と同じヒトを迫害させたりしません」
熱い志を語るのは自由だが、お前が魔人を「ヒト」と呼んだ時、副局長アドラス様とやらは目を瞑ったぞ。それがどうしても気になる。
レイス、お前のお気楽思考は本当にヴァリアーの総意か?
「……信用できっかよ」
駄目だ。クレアが人間の組織で好きなようにされてしまうなんて、やっぱり絶対に駄目だ。
レイスの手を払って、俺は、
「俺じゃ駄目か?」
そう進言していた。
何を言っているのか、自分でも分からなかった。口が勝手に動いていると感じた。自らが発した言葉に驚き、場の空気が凍りついたことを感じたが、不思議と焦りは生まれなかった。よくよく考えても、間違ったことを自分が言ったとは思わなかったからだ。それに……俺は男だ。二言なんて、カッコ悪いだろ。
「クレアがルールを破ったのは確かだ。でもそれは人間にすぐに止められたワケだし」
饒舌だった。もう既に、自分が何をしようとしているのかは分かっていた。
この喋りすぎる口に、……全てを任せてみようと思った。
「ぶっちゃけさァ、一番憎悪買ってんのは俺だろ? 牢獄を破壊したのも俺だし、捕らえられていた魔物どもを解放して食い散らかしたのも俺だ。クレアは終始フラフラしてて使い物にならなかったし、第一この俺を野放しにしたらヤベェっつーこたァ十分に解らせてやったつもりだぜ? 今にも死んじまいそうな女子一人抑えとくより、諸悪の根源であるこの俺様を抑えるチャンスをモノにした方が賢明なんじゃねェのかなァーなんて――」諸悪の根源って表現はミスったかもしれねェ。
根源はクレアだけど、一番お前らに被害を与えたのは俺だよって話してたのに。その場のノリで喋ると、やはり言葉選びを間違えちまうな。
「――思ったりしちゃったり……」冷や汗が頬を伝う。水滴が地面に垂れた瞬間に戦闘が開幕する展開がありすぎて、今回もアドラスが急に“抜刀術”を披露したらどうしよう、なんて考えた。
アドラスの瞳はもはや絶対零度だ。後ろでレイスのため息が聞こえた。それに対し殺すぞ、と念じることでなんとか平静を保てた。あ、ジジイこそ「殺すぞ」って顔して俺を睨んでいる。すさまじい目力だ。目力コンテスト出たら?お二方さァ。あるのか知らんけどそんなコンテスト。「殺すぞレンドウ」あっ。言った。小さく言った。言うのかよジジイ。言うなよジジイ。今日はナースは何もしゃべらないらしい。我関せずか。まさか、寝てるのか?
やばい、俺めっちゃテンパってる。今更になって自覚する。
また俺は、取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないかと。
「ふむ……そうですね。確かにその提案は魅力的だ。しかし、事件を引き起こす行動力・危険性が確認された本人を見逃す理由に、あなた一人では少々……」
こいつ、絶対魅力的ともなんとも思ってないんだぜ。思ったことを言えよハゲ。フサフサだけどさ。ハゲ。
俺一人じゃ足りないだとォ?
――なら今だけジジイもセットでついてくるぜ!
本当にそう言おうと思ったわけではないが、良く考えたら吸血鬼の長の身柄であればこいつは喉から手が出るほど欲しがるだろうよ。
若くやり手のヴァリアー副局長が、老人の所有権を手に入れて狂喜乱舞する様を想像しかけてやめた。やめてくれ自分。今は笑う時じゃないからさ……。でもこの澄ました野郎が小学生みたいに跳ねるところは見てみたい気も……やめやめ!これ以上ガキを重ねるのは絶対に避けたい。
俺がぷるぷるしてきた腹筋との戦いに負けそうになった時、来客の間の扉が乱暴に開かれた。
おお、おお。ノック無しとは、よほどの地位の奴か?
――まさか、ヴァリアーの局長とか。
「ほー、人外がいっぱいだ」
そう思っていたから、能天気な雰囲気を纏った中肉中背の男が入ってきたと分かった時、俺は少し落胆した。
いかにもモブキャラ然とした茶髪のそいつは、髪の毛が若干長いことを除けば、学者然としている。メガネだし。
だが、ジジイがピクッ、と痙攣するように反応したのを俺は見逃さない。あれは、注意すべき相手に会った時の挙動だ。決してよぼよぼ老人の死にかけのサインではない。この学者(?)、能天気そうに見えて、できる奴なのか。
「≪歩く辞書≫、何の用です」
アドラスにとっては味方のはずなのだが、どうにも距離を置くような調子で彼は誰何した。
「そんな邪険に扱うなよ、イィ~情報持ってきたから、聴けって」
部屋にずかずか入るなり、馴れ馴れしくアドラスの肩に手を置いた。メガネーズ結成だ。
「このレンドウって奴、絶対手中に収めといた方がいいぜ」
「……何故です?」アドラスは不快感を隠そうともせずに言った。それは、気を使わずにいられる間柄だからなのか、それとも。
どうでもいいことを考えられなくなるようなことが、まさかこの冴えない≪歩く辞書≫とやらの口から飛び出してくるとは思いもしなかった。
「こいつ、吸血鬼の貴族の血統だ」
なン……。
――何でそれを。
再び場の空気が凍りつくのを感じた。頭の中で楽しいことが大好きな俺が「流れ変わったな」と言った。
――どうでもいいことまだ考えてんじゃねェかよ。
その一言のお蔭で、結果的に俺が人間組織に捕らわれることになった。
クレアの身代わりになることができたのだから、歩く辞書とやらに感謝してやらないでもない、か。