第175話 緋翼に命を
◆レンドウ◆
ナイドを影山邸に預けた俺たちは、イェス大陸側で代わりとなる足を用意する必要があった。
幸いにも、本代家当主であるバティストが快く馬を貸し出してくれたため、すぐにロストアンゼルスを立つことが出来た。
こうなると、持つべきものは本代家の身内だな。……いや、中々繋がりを作るのは難しいだろうけど。
しかし、よく訓練された馬とはいえ、所詮は初対面の動物だ。
「しーっ。静かにしててくれよ……」
夜更けのキャンプにて、仲間たちを起こさないように起き出そうとした俺が、こうして神経をすり減らすことになるのは必然だった。
俺に反応したのか、身体を横倒しにしていた馬の一匹がブルルンと嘶いたものの、音量が小さかったので事なきを得た。
「……どうした?」
種族柄、夜になると逆に目が冴えやすいのだろう。木に背中を預けたクラウディオが顔を上げて、静かに問いかけてきた。
「トイレじゃねぇの」
こちらは、この時刻の不寝番を担当しているダクトだ。焚火に向けて新たな薪を放り込んでいる。
「そうそう、ただのトイレだよ」
二人に断りを入れてから街道沿いを外れ、森の中へと足を踏み入れる。
無統治王国アラロマフ・ドールの北にあたる森。どこまでがドール領であり、どこからがどこの国にも所属していない≪紛争地帯≫と呼ばれる場所なのかは判断に困るが……この街道自体は見覚えが無くもない。
一年近く前、クレアを探して彷徨っていた際に通った場所だ。
確実に、アニマの里は近づいている。
正確な位置が判明していない里ではあるが、ある程度近づいておけば問題ない。
もし俺やクラウディオが里にいるアニマの“創造する力”を感知できれば、そのまま位置を特定して殴り込むことも可能だろうが……何も、俺達だけで突っ込む必要は無いんだ。
あとは2日間ほど、この近辺でアイルバトスさんの到着を待てばいい。アイルバトスさんなら間違いなくアニマの里を探し出せるはずだし、そもそも彼が居なくては勝利もあり得ないのだから。
そんなこんなで、別にこの森の地形に詳しい訳でもない俺は、本来用を足すだけなら奥地に入り込むのは避けた方がいいのだが……。
「……ワリィ、皆」
無視できない気配を感じ取ってしまったんだ。クラウディオは気付けなかったようだけど。
まるで俺を誘うように仄かに香ったそれは、俺が良く知る……知り過ぎている気配だったから。
地面に落ちたこの枝を踏んでしまい、パキッと音が鳴る。昨日の降雪により薄く降り積もった雪を踏みしめるたびに、アニマの耳なら余裕で聴き取ることが可能な音が生じる。
森の中からは、他の生き物が立てる音は何一つ無かった。まるで何か強大なものを警戒して、皆一様に逃げ去ってしまったかのようだ。
やがて、木々の隙間から月明かりが漏れ出した。その先は、どうやら丘に……いや、崖になっているらしい。
そこには既に先人の足跡があった。やはり、俺の感覚は間違っていなかった。選択までは……間違っていないと信じたい。
その気配の人物が俺の想像通りであれば、決してフーゴのように不意打ちを嫌う人物ではない。
だが、俺の想像通りであれば……俺に対してだけは、不意打ちをしないはずだと思ったんだ。
先人の足跡にわざと足を重ねるように歩みを進める。どうやら、その人物の歩幅は、俺よりも広いらしい。足の大きさは、同じくらいのようだが。
その崖には、木が一本も生えていない。恐らく、この場所にも生えていた木々を、随分昔に切り倒して整地したんだろう。
ここからでは崖の真下は見えないが、崖の向こうには再び広大な森林地帯が広がっている。そりゃそうか、あの奥の森のどこかに……里があるんだもんな。
それは木々を伐採した後、後から運んできたものなのか……それとも、元からそこにあったのか。わざわざ運んでくる手間を考えれば、後者か。
俺の背丈よりも高い大岩が、崖から見て少し左に鎮座している。
地面に残った足跡を見れば、件の人物がその向こうにいるだろうことは想像に難くない。
もう一度周囲を見渡して、第三者の足跡や気配が無いことを入念に確認すると、俺は口を開く。
「…………来てやったぜ。俺を呼んだんだろ?」
大岩の向こうから、何かが飛び立った。それは大きな鳥のようなシルエットをしているが……月の光を受けても尚、漆黒だ。
緋翼で造られた鳥……? そんなことがあり得るのかはよく分からないが。
「なァ…………親父」
ここまで言わせるのかよ、と言いつつ呼びかけると、大岩からようやく目的の人物が姿を現した。
長めの黒髪。前髪を左右に分けて、耳に掛けるように後ろに流してから結っている。左の頬に走った刀傷は、間違いなく親父である証だ。
歴戦のアニマの一人。……その名も、カイ。
「……………………馬鹿息子が」
長い沈黙の後、あまり感情の起伏を窺わせない声色で投げかけられたのは、そんな言葉だった。
「――はァッ? 開口一番、バカとはなんだよ」
そういえば、いつもこんな感じだったか。年単位で親と会話することが無かったのはこれが始めてではないが、今回は特に長かったと言える。
ヴァリアーで暮らすようになる直前に会えた訳でも無かったからな。
親父は淡々と話し、感情的になるのはいつも俺の方だけだった。
成長を見せる為にも、今日くらいは努めて冷静にあるべきだろうか。少なくとも、心がけるくらいは。
「私はお前を呼んでなどいない。お前に存在を悟らせるつもりは無かった。レンドウ、お前は勝手に私の気配を察知し、ここに来たんだよ」
だが、それも即座に崩壊しかかる。
「んなッ…………えェ…………?」
なんだって。全部俺の勘違い?
呼ばれた訳じゃなくて、俺の探知能力が高すぎて親父の気配を察知してしまっただけだと?
精神面を置いたまま、能力だけが成長してしまったってのか……。いや、さすがに冗談だ。ちゃんと精神面も成長してるさ。
――さっき、親父より前に飛び立った黒い鳥、あれが本当に緋翼によって造られたものだとするなら……。
親父の能力、だよな。緋翼を生命体のように扱い、他者に攻撃させることができるのだろうか?
そうだとしても、俺の方が緋翼の力に秀でていれば、脅威には成らないのだろうが。勿論、油断する訳にはいかない。ルノードから強力な加護を受け取っている可能性もある。
いや、この男に限っては……ルノード派かジジイ派かで言えば間違いなくジジイ派なハズだ。となると、ルノードに追加の力を与えられているとは考えにくい。
なら、あのタイミングで黒い鳥が放たれた理由として考えられるのは……。
――仲間への報せ……か?
そうだ、きっとそうに違いない。
敵に補足された、と。もしかすると、補足された相手はレンドウだ、ということまでも。周囲にいる味方に伝達しようとしたと考えるのが妥当だ。
なら、このままここで問答を続けるのは危険か。すぐに踵を返し、仲間たちとの合流を図るべきか。
「レンドウ、お前、その頭は……どうしたんだ」
だが、親父はそんなそぶりは見せぬまま、俺に対して問いかけを放ってきた。
久しぶりに息子に会えて、感極まって話したがっている……って、そんなタマじゃねェだろ。
ダクト風に考えよう。敵が対話を望んでいるのは、対話を続ければ敵が有利になるからだ。
とりあえず、俺が状況に気づいたことに気づかれない方がいいだろう。
「どうしたって……人間に命令されてさ。黒は縁起が悪いってことで、赤に染めさせられたんだよ。それを癖で続けてるっていうか」
考えることを増やさないためにも、隠し立てせずに素直に答える。答えつつ、こっそりと左手を後ろに向ける。
「それにしては、頭頂部が……いや、他にも染め残している部分があるようだが」
「え、あ、あァ。これには深い事情があってな。カッコイイだろ?」
緋翼を操作すれば、気付かれはするだろう。だが、直接攻撃となる行動を起こす気配さえ見せなければ、相手は対話を続けることを選ぶ……だろうと考えた。だって、会話したがってるのは向こうだし。
そんなことが可能なのは、今知ったばかり。俺にも同じことができるのかは分からない。だけど、出来るはずだと信じる。
親父にできることなら、俺にも出来たっていいだろ。
「…………お前の価値観を否定しようとは思わんよ」
「……………………」
ダサいぞって言われてるのか、これ?
背後の地面に緋翼を吹き付け、思い描いた姿を取らせる。
飛べなくてもいい。喋れなくてもいい。
素早く移動でき、仲間たちの元へ到達し、敵意が無いことを分からせ。ここまで連れてくることが出来そうな、そんな生命体をイメージする。
結果的に、背後でどのような疑似生命体が形作られたのか、俺自身にも分からなかった。だが、刻み込んだ命令通りに、それは背後の森の中へと走っていったようだ。
親父はそちらへと一瞬視線を向けた、気がする。気づかれていると考えるべきだ。しかし、特にそれに触れることはしないようだ。
親父も仲間を呼び、俺もまた仲間に報せを送った。両者ともに、この後に戦いが待っていることを確信している。
なら、もう何かを気にする必要は無いのか。十分な距離を保ったまま、俺もまた、心残りを消す為に気になっていたことを質問してみることにする。
「――お袋の調子は、どうなんだ?」
「悪くは無いな。だが、良くもない。変わらずさ」
「聞いたところによると、人間を捕まえてるらしいけど」
「……フーゴに聞いたのか」
「あァ。まともな扱いをしてるんだろうな?」
「なら逆に訊くが。お前は俺が、捕まえた人間たちに非道な振る舞いをするとでも」
「――思っちゃいねェさ。あんたは人格者だ」
あんた意外のアニマには、人間の尊厳を尊重しないヤツもいるんだろ?
「こちらからも質問だが。お前は……人間に洗脳されたのか?」
「されてない。ないよ」
この期に及んで何を言ってるんだ。今、こうして俺と会話していて分からないのか?
俺は、何にもおかしくなっちゃいないって。
それがこの世界のほんの一部でしかないことも分かっているけど。人間界の暮らしも、魔王軍の暮らしも見てきたんだ。
見てきた全てのものから影響を受けて、俺は変わった。少しだけど、変われたんだ。
俺はそれを悪い変化だとは思ってない。なのに、ゲイルも親父も“それがアニマにとって不都合”であるだけで、誰かが俺を洗脳したと思いたがるのか。
どんだけ頭が固いんだよ。アニマ至上主義とでも言おうか。いや、だけど、親父は里を留守にすることも多い、外の世界をよく知るアニマのはずなのに。
それでもこうだというなら、ルノードに心酔し付き従う黒仮面のアニマたちは、到底説得で何とかなる相手では無さそうだ。少なくとも、目の前の肉親一人とも心を通わせられないのであれば……。
「チッ。また質問だけど、親父。この時代でルノードが目覚めた時、初めて会話したのは……あんたか?」
問うと、親父は全く予想外の質問だったのか、眉根を寄せた。
「……どういう意味だ?」
「……『――ある者は羽をもがれて鎖に繋がれ、ある者は見せしめに何本もの杭で貫かれ、またある者は不老不死の食材と銘打ってその身を売られていきました』――これを言ったのは、あんたかって訊いてんだ」
「…………!」
その驚いたような反応。図星なんだな。
ずっと考えていた。ニルドリルとの会話中に割り込んできた脳内イメージ。
目覚めたばかりのルノードに対し、アニマの現状を伝えていたあの声は……。
俺の前ではいつも毅然とし、静謐であった親父とは思えない、怯えたような声だった。
「あんたは……そんなにルノードの野郎が怖いのかよ」
俺がバカで無能だから、ルノードの恐ろしさに気づけていないだけか?
そんなワケねェだろ。ちゃーんと分かってるさ。あいつは、俺なんか鼻息一つでも殺せる存在なんだって。
だったら、ただひたすらに頭を垂れて、ヤツの怒りに触れないことだけを考えて、怯えて生きるのか?
そんな我慢を強いてくる存在は、シンに相応しくない。
シンってやつは、その種族を護り、幸せを約束してくれる存在じゃないのかよ。
それが居ないからこそ、アニマは自由な種族として生きて来れた。そのはずだと思っていたのに。
…………いや、この考え方は少しズルいか。いないと思われていたアニマのシンだが、実は存在し、眠りながらでも里を守護する結界を張り続けてきた。
その恩恵を受けて育っておきながら、必要が無くなればシン殺しに走る俺という存在こそ、確かにおかしいのかもしれない。
他のアニマはルノードに敵対することを酷く忌避するというのに。その行動に怒りを覚え、躊躇なく敵対する道を選べた俺は、狂っているのかもしれない。
「劫火様のことを恐れているというのは……確かにその通りだ。だが、それだけではない」
親父は下を向き、左手を口元に当てた。
「私自身が、人間を憎いと思った。人間が深く蔓延るこの世界を、変えねばならないと。そう思い続けていたからこそだ」
「俺の仲間の人間たちに会えば分かるぜ。あいつらはそんな奴らじゃないって」
「お前の仲間がそうであることは認めよう。だが、禁忌に手を染める人間がいることも……見て見ぬふりをしている訳ではないのだろう?」
「……あァ。人間の暗黒面だって、はっきりと見てきたよ」
ヴァリアーは過剰とも言える枷を魔人たちに与え、彼らが自分たちと同じレベルの力しか発揮できないように制限を掛けていた。
それは、人間たちが安心して生活を送るための手段であったが……他者を貶める行為に他ならない。
エイシッドという男は、人間であるにも関わらず、同じ人間の組織に損害を与えようとしていた。
ミッドレーヴェルの地下街には、深い闇が渦巻いていた。
アザゼル・インザースという青年が、人殺しの濡れ衣を着せられていた。濡れ衣を着せた側は、ザツギシュ開発の権威としてのさばっているのだという。
かつて人間を苦しめた金竜の末裔は、今は人間の味方として、他種族を迫害することを良しとしている。
元人間である災害竜テンペストは、この閉じた世界を生み出し、苦しみ続ける魔人の姿を楽しんでいる。
何者かも分からない“幻想”は、まるで全ての生命を不幸に陥れようとしているかのように、世界に不和を撒き散らし続けている。
そしてアロンデイテル政府は。民衆を落ち着かせるためだけにランスと平等院とジェノを処刑し、エスビィポート襲撃事件に対し、仮初の解決を選びやがった。
「だけど、それだけじゃない。――同じなんだ。アニマも、人間も。どんな魔人だってそうだ」
イオナを殺したジェットも、ラルフ・ノルドクヴィストを殺した俺自身も、この世界を構築する一部なんだ。
「誰しもが悪に傾く可能性があって、それでも踏みとどまってるんだ」
あんたが、そしてルノードが大切にしたがっていた俺の手ですら、今は血に染まっている。
「一線を越えちまった奴に関しては……周りが罰してやるしかないだろ」
そうして、俺はある人には恨まれ、またある人からは赦されて、ここに立っている。
「ルノードは、大量虐殺という到底許されない罪を犯しちまった。あんたがそれを罰する側につくことを恐れてるってんなら、俺達が代わりにやるよ」
右足で雪を踏みしめたまま、ジャリっと横にスライドさせる。身体を斜めにして、親父に向けて構えを取る。
もうすぐ、この対話が終わるタイミングが来ると。そう悟っていた。
「――だから、せめて邪魔しないで、黙って見てろよ、親父」
「…………言いたいことは、終わったようだな」
そうぽつりと零すと、親父は右手を左腰に、左手を右腰に。双剣の柄に手を掛けた。
ゲイルと同じだ。ゲイルが親父と同じなのか。右は重量のある曲剣、左はガードを殺す半月の曲剣。
「私も、久しぶりにお前と話せて嬉しかったよ。……息子に対して不意打ちで終わらせては、目覚めが悪いからな」
両の曲剣を抜き放った親父を前にして。
強烈なプレッシャーを感じつつも、俺は臆さなかった。
ゲイルと再会した時とは、もう違う。
もしかすると、ルノードという超級生物を間近に見たことによって、俺の感覚器官はぶっ壊れちまったのだろうか。
――これから、父親と命のやり取りをするというのに。
口元に笑みを浮かべたまま、俺は短剣を抜き放った。
お父さん登場です。