第170話 姉の名前
――ロウラ。
それは、俺の姉である人物の名前のはずだ。
せいぜい200人そこらしか存在しないアニマという種族において、名前が被るなどということはあり得ない。
それは間違いなく、俺の姉だけの名前だ。
降り積もった雪を、毟るように手をギュッと握りしめる。手に力を込めることで、薄れかけていた意識を取り戻す。
薄れかけていた、というより、失っていた……のか?
いや、そういう訳でも無さそうだ。
うつ伏せに倒れた状態で顔を上げると、黒いシルエットが歩み去ろうとしているのが見える。
あいつの中では、既に俺は倒した扱いになっているのか。
あいつが……俺の姉の、ロウラなのか?
一応、それは俺の動揺を誘う為に名乗った、偽りの名であることも……考えられない話じゃない。
「ま…………てよ…………」
随分と頼りない発声になってしまったが、奴の耳なら聴こえたはずだ。
「お前、剣氷坑道で会った時、言ってたじゃねェか。別に記憶を失う前の俺と、親交があったワケじゃねェって……」
10メートル以上も離れた黒いシルエットが足を止め、こちらを振り返ったようだ。
「……それは事実でしょう。確かに、私とあなたは同じ親に育てられた時期もあるけれど。殆どを里の外での生活に当てていた私とあなたは、姉弟と言えるものかは怪しいと思うわ」
俺が倒れたまま動かないことを確認したかっただけなのか。
ロウラは身体の向きを戻すと、俺から離れゆく歩みを再開する。俺の仲間たちの方へ……向かおうとしているんだ。
「あなたは選択肢を間違えた。……同族のよしみで、その場に伏しているというなら見逃すわ。でも、立ち上がるなら容赦はしない」
「そんなのが、脅しになると思ってるなら…………お笑いだぜ」
俺が、俺の命が危険に晒されることを恐れるとでも? そう考えていたのだとすれば、確かにお前は……俺の姉というには、俺のことを知らなさすぎる。
そんなことよりも、俺の姉によって仲間たちが殺されることの方が、よっぽど最悪の未来なんだよ。
いつ何時攻撃されてもおかしくない。そう意識しつつ両手をついて、上半身を持ち上げる。
右足を持ち上げ、片膝立ちになった時、ロウラは再び振り返った。すぐさま右に飛ぶと、俺がいた場所へ緋翼の塊が突き刺さった。
緋翼を身体から分離させても、俺に吸収されない自信があるのか……?
それを確かめる為に、雪を抉るように突き立った緋翼の塊へと手を触れる。すると、それを即座に取り込むことはできなかった。
だが、ゆっくりと。非常にゆっくりとしたペースだが、その表面から塊の密度が薄れていき、まるでほんのりと立ち上る湯気のように。空中に溶けだしていくそれを、横から掠め取ることはできるみたいだ。
とはいっても、それが自然に全て消えて無くなるまでには何十分も掛かりそうな有様だ。現状、ロウラの緋翼を取り込めるとは言い難い。
当然、あいつが固めた緋翼による攻撃でも、俺が死ぬほどのダメージを受けてしまうことは必定だ。
緋翼という力においての優位性はほぼない。身体能力的にも、戦いの経験的にも、圧倒的に向こうが上だ。
……と、そう思っていたんだろう?
――だから、お前は俺のことを何にも知らねェってんだよな。
ロウラが俺の眼前に迫りながら、右の袖口から2本の鎖を伸ばしてきた。一本はうねうねと蠢いて牽制、もう一本で俺の頭部を打とうとしたらしい。
その頭部を狙った鎖に乗り、ロウラに向けて滑るように移動した……のは、一瞬だけだ。だが、その常人ならざる動きに驚かずにいられる人物は、この世界にも多くないだろう。
――なんたって、俺自身驚いてるからな!
黒仮面の下で、驚愕に目を見開いているであろうロウラ。その顔面に右の膝を入れる。
顔が潰れちまったらワリィな! だがまぁ、倒した後で治してやるよ……!
――存分に活きてるな、ダクトによる特訓の成果は……!
ヴァリアーを抜け、本代家に戻ったダクト。そんな彼が兄の命令によって再び城下町に現れ、俺の監視役という名目で行動し始めて。
そこで俺がダクトから受け取ったのは、束縛でも不快感でもない。知識と経験だ。
あいつはこれから先の決戦の厳しさを見越し、ヴァリアーでは決して許されることが無かった“魔人への戦闘訓練”を俺に施したんだ。
当然、脱退したダクトの行いとはいえ、ヴァリアーの連中はそれをよく思わないだろう。
それでも、ダクトは俺の友として、俺を強くすることを選んだ。
アニマの能力と身体能力に、本代家の知識と技能。
今の俺を、ただの世間知らずのお坊ちゃんだと思ってるから、足元を救われるんだぜ……?
地面に打ち倒したロウラを飛び越える形になりつつも、すぐさま翼を展開して向き直る。油断は一切しない。仮面に向けて放った一撃で、ロウラが気絶するとは思わない。
思ったとしても、構えを解いたりするもんかよ。意識を失ったことを明確に確認するまで、戦いは終わりじゃない……!
後ろ向きに地面に叩きつけられる寸前でロウラの背中からも緋翼が翼のように噴出し、体勢を立て直したことは何ら意外じゃなかった。そうだよな。それくらい、何ともないんだろ、どうせ。
こちらを振り返った彼女の黒仮面が、少なくとも4つ以上の欠片に分かれ、ボロボロとその場に崩れ落ちた。激しい戦闘行為により、被っていたフードもめくれていた。
そうして現れたのは、魔術師然とした女性だった。
すっきりした顔立ち。俺を敵として見据えているにも関わらず優しそうに見えてしまうその下向きの目じりは、男性の庇護欲をそそりそうにも見える。いや、俺は別に?
髪を後ろで纏めていた髪留めも砕けたのか吹っ飛んだのか分からないが、サラサラとした長い黒髪が、顔に掛かり、また背後に広がった。
――戦いよりも、華でも生けている方が似合いそうだ、というのが第一印象だった。
彼女の素顔を見ても、それほどピンと来るものはない。
……それはそうか、記憶を失ってからの今の俺は、彼女に直接会ったことが無いのだ。恐らく。家族との会話で、時たま名前が出ていただけで。
幼馴染を除き、かつての自分を知る種族との交流すらも避けて、避けて、避け続けて。
自分の殻にこもり続けた俺は、面識の無い姉に会うことも避けていた。だから、こんな事態になっちまってるんだろう。
それを悲しんだり、惜しんだりする余裕すらも、今は無い。
――取り戻してやる。
「この戦いを終わらせて、アニマという種族が存続できる方法を見つけたその先で。お前を姉と呼んで暮らせる、普通の日常を取り戻してやる」
自分の身体に決意を染み込ませるように、そう口に出す。すると当然、それは同じように地獄耳を持つ相手にも聴こえるワケで。
「戦闘中に喋ると、舌を噛むわよ」
俺のこっぱずかしい台詞を聴いた感想は、そんな冷めたものでしかなかった。やはり、普通の姉弟ではないと思う。
こんな、弟に対して容赦なく打ち込める姉がいてたまるか――ッ!!
弾丸のように飛び込んできたロウラの右の鎖を左手でいなし、そのまま左手に纏わせた緋翼で、鎖を絡めとる。俺の左腕とロウラの右腕を連結させてやる。
いや、駄目だ。ロウラは自分の右腕と鎖を覆っていた緋翼を高質化してから切り離し、周囲に飛ばした。つまり、捨てたんだ。結果、俺の緋翼はそれに押し退けられる形になった。
結果的に相手の緋翼の総量を削ることにはなったが……腹に蹴りを入れられたのか。
口から胃液が飛び出す。自分でも汚ェと思うが、それを浴びても相手は怯まない。右足に何かが巻き付くような感覚を覚えた次の瞬間には、俺の背中と頭は固まった雪の上を滑りガリガリと削られていた。
いっていでいででデデ――そして、その痛みから解放されたということは……俺の身体が宙に持ち上げられたということに他ならない!
このままじゃ、遠心力を加えて地面に叩きつけられてしまう。地面はどっちの方向だ? いっそ、全身を緋翼で包み込んで護りを固めるか。いや、これは……ある意味、チャンスとも言えるのか。
右足をギュッと縮めれば、その先に巻き付いた鎖にも触れられる。左手でそれを掴み、思い切り引き寄せる!
――お前も空中に引きずり出してやる……!
と思ったのだが、間に合わなかったか。俺の身体はも地面に衝突する寸前だった。俺に引っ張られながらロウラがもがいた結果か、俺とロウラはそれぞれが望まない形で弾き飛ばされる結果となり、がはッ。両者ともに、身体を木に叩きつけられる結果となった。
だが、俺の方が起き上がるのは早かった。違う。ロウラも起き上がろうとしていた。俺は今なお近くに転がっている鎖の終端を掴んだ。もう、二度と離してなるものか。
レンディアナを鞘に納めると、左手で握っていた鎖に右手も掛けて、勢いをつけて引っ張る。だから、ロウラは立てなかったんだ。
ある程度引いてから、そのまま大きく身体ごと回転する。今度は俺が、お前を叩きつける番だ!
「ざらァァアアアアアアアアッッ!!」
反時計回りに振り回した鎖。その終端に付いた重りとなったロウラは、直接木に衝突することは無かった。衝突していれば、それだけで終わっていたと思うんだがな。直視したくないほどの衝撃と痛みが与えられるだろうと予測していたのだが。
鎖が木に触れ、その表面を削りながら巻き付く。それが巻き付ききった先には、やはりロウラへの強烈な衝撃が待っているはずだった。木に巻き付くことで多少衰えたとはいえ、強力な一撃となるはずだった。
男子ならば例外なく、小さいころにベルトを武器に見立てて振り回したことがあるはずだ。そうやって振り回した際、思うように止まらなくて、自分の腰を打ってしまったりするもんだ。んでもって、滅茶苦茶痛いよな。……の、超超超痛い版をお見舞いできるはずだった。
だが、ロウラは鎖を捨て去ることで、それを回避することを選んだらしい。木の表面を、ロウラのローブの裾から出てきた大量の鎖の束が打ち付けるだけとなった。
ローブの袖から伸ばしていた2本の鎖は、どうやら肘か肩の辺りを起点に巻き付けた、1本の長い鎖だったらしい。
ロウラは俺に振り回された勢いのまま飛び出し、遠くの大木に両足の裏から水平になった身体の向きのまま着地した。すぐにそれを蹴って雪の上に降り立つ。どうやら、足を痛めることはなかったらしい。強靭な奴。
いや、木にぶつかる時に神がかったタイミングで足を曲げ、衝撃を殺したのか? いや、でも調整をミスれば、足を曲げ切った瞬間に折れるだけの気もするが……。
奪うことに成功したのは、ロウラの左腕から伸びていた鎖だ。右腕側の2本の鎖は――正しくは一本の鎖のようだが――未だ健在だ。
とりあえず握りっぱなしだった鎖を引き寄せるが、これはどうするべきなんだ。相手に再度回収されるのは嫌だし、俺が左手で振るうべきなのか……? しかし、戦場で慣れていない武器を扱うのも悪手だよな。
などと考えていた俺は、戦場に新たな気配を感じ、反射的に背後に飛び退っていた。左手を、後ろに回して、だ。
遥か上空から。まるで隕石のように俺に向けて飛び込んできたその影は、剣を持ち、俺の左腕を斬り落とそうとしたのか。
その気配は、俺もよく知るものだった。だからこそ、対応できたとも言える。
「――ゲイル……ッ!!」
両手で双剣を振り払い、俺の左腕を持っていこうとしたゲイルは、俺が回避されたことを確認するや否や、ロウラの近くまで数回飛んで後退した。
――そうだ、4日前に会ったばかりのゲイルだ。こいつには、あの後にアニマの里に戻れるほどの時間は無かった。
戻らなかったんだ。戻らずに、どこかで他のアニマたちを待っていた? こんな事態になることもあらかじめ想定し、落ち合う場所を決めていた?
わからない。だが、確かに言えることは、一度は先送りにしたはずの幼馴染との戦いが、こんなにも早く、再び巡ってきてしまっているということだ。
「――ロウラ、やはり君ではレンドウに対して本気は出せない。二人でやるべきだ」
隣に立つロウラに向けて、そう声を掛けたゲイル。
……おい、お前のその言い方だと、まるでさっきまでのロウラが俺に手心を加えていたみたいに聴こえるじゃねェか。
やめろよな。せっかく俺の努力が実って、そのまま気持ちよく勝てそうな雰囲気だったんだから。
「そう思うなら、好きにして」
だが、俺の子供じみた憤慨はこの際どうでもいい。問題は、ただでさえ余裕では無かった戦いだというのに、相手が二人になってしまったということ。
……普通に考えれば、絶望的な展開だ。
一応、相手が複数になったときの動きも考えてはある。
今回は、粘れば仲間の増援が得られる可能性もゼロじゃない。そういう場合は、焦って相手の数を減らそうとはせずに、戦いを長期化させるんだ。
同時に掛かってくる相手二人を、同士討ちを警戒して攻めにくくさせるような。そういうこざかしい立ち回りが必要になる。理論の上では分かっていても、俺にそれができるかは疑問だが。
「――謝罪はしないぞ、レンドウ」
「――ッ!?」
そのゲイルの言葉は、俺の背後から聴こえていた。
ロウラがこちらに飛び出した瞬間。俺は反射的に鎖を巻き付けた左腕で護りの体勢を取っていた。だが、ゲイルの左の曲剣……相手の防御をすり抜ける、半月状の刃が。刃の凹んだ部分を撒きつけられた鎖に阻まれつつも、先端で俺の胸を貫いた。
左腕を襲う衝撃と、胸の激痛に顔を歪めた時にはもう、眼前にゲイルの姿は無かった。半月状の曲剣だけを、俺の胸に残して。
それが自重によって自然と抜け落ち、地面に衝突するかしないかという頃、ゲイルは俺に対して言葉を放ちながら、俺を飛び越えた勢いのまま、逆さまの体勢から俺の背中を蹴り飛ばしたのだろう。
前のめりになった俺の身体に鎖が巻き付き、そのまま引っ張られる。為すすべなく転がり、仰向けになって周囲を見渡そうとしたところ、胸の中央を踏みつけられた。
「ガボッ」
俺を踏みつけているのはロウラだ。一本の鎖を全て使って、腕も足も完全に縛られている。一切の身動きができない。かろうじて首を動かせる程度だ。
――突発的なコンビのはずなのに、強すぎる。
一発のフェイントから不意打ちを決め、その後は息もつかせぬラッシュを掛け、俺を拘束してのけた。
どうすれば今のコンビネーションから逃れることができたというのか。全く想像もつかない。
ロウラが前傾姿勢を取り、俺の顔を覗き込む。そして、俺の首に向けて右腕を振りかぶって……マズい、意識を刈り取られる……ッ!!
――瞬間、ものすごい質量を感じた。空気に触れている部分の肌が、ビリビリと何かを感じ、産毛が震える。
俺を見下ろすロウラの、左斜め後ろの木の幹に、轟音を立てて漆黒の何かが突き立った。ゲイルすら、回避の必要は無いはずの場所であるにも関わらず、思わず仰け反るほどの衝撃だった。
漆黒の何か……それが黒翼であることに、俺はすぐに気づいた。緋翼と黒翼など、同系統の力が衝突した場合には音が立たないが、今回は違った。
大木を粉砕したその力が伴った恐ろしい音もまた、あのゲイルをして警戒させる一因だったのだろう。
そして、それを放った人物は……間違いなく、この絶望的な戦況を覆す力を持つ人物だった。
正体不明の漆黒の物体は、大量の黒翼を吸って肥大化していたらしい。一瞬収束した後、それは爆発し、周囲に黒翼をブチ撒ける。
それをまともに浴びることを警戒し、ロウラとゲイルは飛び退った。だが、遅かった。
俺も、ロウラも、ゲイルも大量の黒翼に飲み込まれる。そして、それを放った者のでたらめな魔法操作によるものだろう。それが過ぎ去った時、俺達の立ち位置はぐちゃぐちゃになっていた。
ゲイルが居た場所に俺は転がっていた。縛られていることに変わりはないが、距離を取れたのはありがたい。
「――俺は、アニマとの対抗戦で負けたことが無いのが自慢でな」
そして、ロウラとゲイルから俺を護るように立ちふさがった男がいる。
「覚悟はいいな、灼熱の申し子」
男は、吸っていた黒翼をブチ撒け終わり、元の姿を取り戻したそれを……刃の部分を半ばまで埋めた、偃月刀を大木より引き抜いた。
「鎮めの黒が戦士、クラウディオ・サルガード。参る」