戦慄の夜
第5章と第6章の間のお話です。
◆本代・L・アーヴリル◆
――絶対的な力を手に入れてしまえばもう、止まることはできなかった。
今にして思えば、この力を手に、それでも自制できる彼こそが、真の強さを持った“人間”だったんだろう。
彼女がその部屋に足を踏み入れると、部屋の主――そしてこの屋敷そのものの主でもある男――が、手元の資料から目を上げた。
いつもそうだ。男は入口に向いている机で作業している。実際に現場に向かうのは“子供達”の仕事だった。
「当主さまぁ、アーヴリル、ただいま帰還いたしましたぁよん」
彼女は歪んだ笑顔で言った。歪んだ笑顔と言うのは、それをそうと見抜けるものにとってだけだが。彼女を知らない人物は、それを自らへの好意と解釈してしまうだろう。
部屋の壁際には、びっしりと本棚が敷き詰められている。だが、その中身には歯抜けが多い。むしろ、そこら中に無造作に投げ捨てられ、積もった本の方が多いのではと思わせるほど。
主は、彼女にとってよく分からない機械をいじっていた。それが“パーソナルコンピュータ”という道具だということは知っている。下々のものが手に入れることができるものでも、使いこなせるものではないということもだ。
「そうか。見極めは付いたか?」
主は、既にこの会話の重要度が然程でもないと判断したのか、手元の資料を見つつ、パーソナルコンピュータから伸びた先にある、鍵盤を叩き始めた。
「ぁいまァ、ばっちりと。当主さまの想像どーり、ヴァリアー御一行様達だったばい。んで、やっぱり人外が混ざってましてん」
彼女の報告内容が気に食わなかったのか、本代創始は顔をしかめた。
「種族は」
彼女は煽る様な満面の笑みで答える。
「吸血鬼でーす」
ふーっ。本代創始はパーソナルコンピュータを操作する手を止め、目を揉んだ。苛々しているらしい。
苛々されると面倒だ。またしても後回しにされては困る。彼女は考える。いや、もしそうであっても。
「当主さま、約束を覚えていらっしゃいますけぇ? おはなし……、」
「ヴァリアーめ、また勝手な真似を…………一体何を考えている! 不用意にこの首都にまで、危険種を連れてくるとは。もしそんなことが滞在中の帝国軍人にでも知れてみろ! 私の立場まで脅かされるだろうが……!」
熱に浮かされたように独り言を続ける本代創始には、彼女の言葉が聴こえていない様子。
「……………………」
本代創始は立ち上がると、彼女から見て部屋の左奥にある本棚へと向かった。その本棚だけ、妙に本が綺麗に揃えられている。それは使用頻度が低いという理由ではないようだった。何故なら、それにしては埃を被っていないからだ。
「これだ。サンスタード帝国との取り決めでは……」
帝国からの指令や、取り決め等が纏めてある資料だろう、と彼女は考える。しかし、それこそどうでもいい。彼女には彼女の事情がある。
他の誰かがそれを些事だと思おうが、彼女にとっては重要だ。
「当主さま、お話を」
「…………ああ、アーヴリル」
まるで、「いたのか」と言われているようだと彼女は思った。
「バティストはどうした?」
「……………………バティなら、件の吸血鬼との戦闘による負傷で伏せってますわ」
「なんだと? おい、まさか。その吸血鬼とやらは、未だ野放しというわけではあるまいな」
更なる怒気を孕んだ声色に、彼女は慌てて手を振って制した。
「いえいえー、勿論ウチが始末つけときましたよぉ! 当主さま自慢の“子供達”が二人がかりで、人外一匹仕留めそこなう訳が無かぁ……!」
いや、最早慌てる必要も無いのかもしれない。いっそのこと本代創始が激昂し、彼女に手をあげでもすれば。
「そうか、ならいい。いや、だが。……バティストの評価を下げる必要があるな。どうやら少々、やつを買いかぶり過ぎていたようだ」
本代創始は机の前へと戻り、引き出しを開けた。そこにある分厚い本を開いて、ペンを手に取る。
「やぁ、誰にでも失敗のひとつやふ――」「お前が口出ししていい事柄ではない」
こういう言葉だけは耳に入るようだ。彼女は目を閉じて、感情を殺すよう努力する。
本代創始は彼女の言葉に聴く耳を持たぬまま、何か記号のようなものを走らせた。
あれには“子供達”の情報が纏められているに違いない。いや、評価だけをまとめたものかもしれない。本代創始の、独断と偏見による。
……バティストの欄に、減点を意味する何がしかの記号が書き加えられたことは疑いの余地が無かった。
息子の戦いぶりも、その怪我の具合も、何一つ推し測ることなく。知ろうともせず、ただの記号として接し、またそれに記号を重ねた。
醜いな、と彼女は考える。
「当主さま、お時間を頂ける約束を覚えてらっしゃい、ます、よね」
「約束。……約束? ……ああ、そうだな」
――何を、白々しい。体裁を整えることだけに毎日を浪費している、引き籠り王の奴隷が。最近は帝国の機嫌取りにも妙に気合が入っているようじゃないか。まさか、頭を垂れる相手を代えるつもりか。醜い野心に取りつかれ、“子供達”のことなど目に入っていない癖に。
「手短に済ませるように。私は忙しい。下らん要件であれば、日を改めてもらうぞ」
「……………………」
これから起こることへと思いを馳せ、彼女は口を開く。いい予想と悪い予想が絡み合い、段々と自分がどちらを望んでいるのか分からなくなってきている。
彼女は、もしかすると、本代創始に屑であって欲しいと望んでいるのかもしれない。
「ウチの、母のことで。……このLの由来となった、母の」
ただ一人の例外なく、“子供達”にはアルファベットが一文字、名前に入る。
「ああ、お前の母親……」
本代創始の視線が上に向いたことで、彼女はこの後の展開を殆ど察した。
「……お名前、憶えてらっしゃいますよね」
――お前が、一度は愛した女の名を忘れぬようにと、“子供達”に名を刻んだのだからな。
左手の甲に刻まれた「L」の文字が疼いているかのようだ。
いっそ限界まで怒りを溜め込みたい。彼女は気取られない程度に奥歯を強く噛んだ。
そして彼女は、遅ればせながら自らの口調が変化していることに気付いた。素が出始めたのだ。耐えろ。今は、かろうじて。
「ああ、あれは美しい髪の女だった。お前と同じ、夜の帳のような……」
黙れ、適当なことを言うな。いや、続けろ……。彼女は相反する感情に揺れつつ、立ち位置を変えていく。ゆっくりと、記憶を辿ることに夢中になっている本代創始に近寄る。
母の髪は栗色だった。確かに母の両親は黒髪だったし、だからこそ自分の髪色もこうなったのだろうが。
「出会ったのは、確かミッドレーヴェルだった」
――優しかった母。穏やかさの中に気丈さも持ち合わせていた。ただ、男を見る目だけは持ち合わせていなかった。いや、この男の詐欺師のような口調が、そして立場と経歴……権力が、母を惑わせたのかもしれない。
「王命による飛竜狩りの折に立ち寄った酒場で、私は彼女を見初めたのだったな。それで、彼女、あれの名前は……確か――?」
――やはり、覚えていないんだな。
「当主さま」
――お前さえいなければ。
感情が先走ったのか、彼女の右手は持ち上がっていた。いつものように、そこには扇子が握られていた。本代創始はそれを制止の合図と思ったのか口を噤み、彼女を不思議そうに眺めた。
「彼女の両親は、快く彼女を送り出してくれ……アーヴリル、どうし――、」
「その薄汚い口を閉じていろ」
――そして、扇子の下に握られていたナイフが本代創始へと投じられた。
「一生な」
こうして彼女は、復讐を行動に移した。
――後に後悔できる点があるとすれば、それは恐らく、行動に移す前に、言葉にしてしまったということだろう。
「――落第だ、アーヴリル」
声に、感情は無かった。
「それでは私を殺せんぞ」
どこまでも、冷めた声色。
どこにそんな筋力が眠っていたのかと目を見張る速度で、本代創始は眼前に迫るナイフを叩き落として見せた。それも、素手で。椅子に腰かけた。反射的に動くのも難しい体勢から。齢四十を回っても戦闘に耐えきれる体など、人間に保てるものなのか。
――だが、そうでなければ面白くない。達成感が無い。それでいい。
自らへ迫りくる机の衝撃を受けながら、彼女は心から笑った。
精神が解放され、わたくしが露わになる。
長い間抑圧されていただけあって、最高に気分がいい。望むままに怒りを顔に浮かべ、憎い相手へ刃を向けられるという……この……解放感!!
跳びあがって机の上に乗り、更に跳躍。長時間空中に身を投げ出し続けるのはただの馬鹿だ。跳躍は小さく、すぐに床に転がり、対敵へと肉迫する。机は扉に衝突して大音量で悲鳴を上げた。このままでは、屋敷中の人間がここに向かってきてしまうだろう。
そうすれば、当然反逆者のわたくしは処分されてしまう。
――早々に、終わらせる。
本代創始は、わたくしの凶刃を受け止めてから、一言も発していない。
何故自分へと刃を向けるのか、その理由など、露ほども興味が無いのだろう。男の内にあるは、自らへ攻撃を仕掛けた者を排除するという機構のみ。
流石は本代流の開発者といったところね。
閉じた扇子は撲殺用に使える。その為に鉄を仕込んであるのだから。それを奴の頭へとブチ込んだけれど、右手でがっしりと掴まれた。普通、骨折するはずよね。まあ、普通じゃないのはお互い様なのだけど……。
奴の左腕が閃いて、それに合わせようとしたわたくしの左手は空を切った。間に合わなかった。扇子は3つに割れて床に落ちた。手元に欠片だけ残しても仕方がないとそれを手放した瞬間には、落ちかけていた欠片が軌道を変えてわたくしの身体に突き刺さっていた。
蹴り飛ばしたのか。そういう体勢に見える。続けざまに腹部にも奴の右肘がめり込み、吹き飛ばされるように後退する。その間に本代創始は小さめの本棚、その上へと手を伸ばし、燭台を手に取った。かと思えば、その燭台からロウソクが乗っている台座を引き抜いた。
そこに残ったのは、光を吸う刀身。金色の柄に漆黒の刃、趣味がいいとは言えないわ。
素手でも油断ならない本代家当主さまだというのに、武器を手にされてしまっては。
私室に武器を仕込んでいることくらいは、予想してしかるべきだった。今思うとわたくしの方こそ考えが足りなかった。本代創始の屑極まる振る舞いは、この世の全てを見下せるほどの自信からくるものだと。
まだ距離が開いていると思ったのに、本代創始が腕を振り上げたかと思えば、わたくしの左手首から先が斬り飛ばされていましたわ。
――ああ、痛い。
しかし、声には出さない。ここが正念場だ。壁に背をついて、荒い息を吐いて見せる。実際、演技ではない。相当痛いし、苦しい。だからこその説得力だ。
本代創始は追撃してこなかった。ただ、こちらから目を離すことなく、ゆっくりと後退した。その理由は、すぐに分かった。
「当主様! いかがされましたか!」
「親父殿ッ……」
カスト。それに、シーズモンド。“子供達”の二人だ。
自分が相手をするまでも無い案件だと、そういうことなのだろう。左手を失った、わたくし程度。
「アーヴリルは私に刃を向けた。それはもういらん。お前たち、始末は任せたぞ」
言うと、本代創始は廊下へと消えて行った。わたくしへ、視線を向けることさえなく。
「招致致しました!」「把握ッ」
声をそろえて、無責任な父親の期待に応えようとする二人組にも、無性に腹が立った。何を把握したというのだ。自らの立ち位置を俯瞰できぬ愚か者ども。そこに愛など無い。道具として利用されているだけだというのに。
……カストは槍が得意なはずだが、構えたのは短剣。屋敷の中では長物は振り回せないからだ。シーズモンドはいつも通り、棍棒をその手に握っていた。
いいだろう、手負いの獣が一番恐ろしいということを、分からせてやる。
「……あれぇ、二人とも、ウチがどうして裏切ったのか、訊いてくれないのん? 寂しぃわぁ」
「黙れ裏切り者」
再び狂人のふりをし、荒い息を吐きながら挑発すると、即座にカストが跳びかかってきていた。右手を上げようとするも、それは彼の左手にがっしりと掴まれ。
欠損した左手では防御もできぬまま、わたくしの首には短剣が突き立っていた。
左手はカストに何のダメージも与えることはできず、ただその肩口に力なく当たった。ように、見える。
「聴くに値する価値など無い。お前のような女の言葉など……、ぼぁ――ッ!?」
言い終えるや否や、カストの目が大きく見開かれた。喀血し、それがわたくしの衣服を汚した。わたくしの血と、カストの血が入り混じって、うええ、ばっちいですわ。
と、そこでわたくしに覆いかぶさるように倒れるはずだったカストの身体が後方へと吹っ飛んだ。
「――オウ、油断するなやッ」
シーズモンドがカストを引き寄せたらしい。仲間意識があるのは素晴らしいことだ。しかし、カストごとわたくしを攻撃した方が確実だと思うのだけれど。わたくしの手の内が見えないなら、尚更。
この女、一体何を隠している……? そう考えながらも、手を止めることは決してしないのだろう。本代は敵を前に悩まない。シーズモンドは左手と首から大量の血を流すわたくしを気味の悪いものを見る目で眺めながら、しかし容赦なく棍棒を振り下ろした。だが、悩まないということは同時に、考え無しということでもある。考え無しでも勝ててきたのは、本代が誇る身体能力のおかげだ。それが通用する相手しか存在しなかった故だ。
随分と視界が赤い。そして、攻撃が遅く見えるわ? これは、棍棒の攻撃が空気の抵抗を受けているせいかしら……きっとそれだけじゃないわね。
わたくしの中に注がれた新たなる力が、戦いの中で目覚めていくのだわ。
振り下ろされた棍棒に合わせたのは、左手の切断面だった。
そこから噴き出した黒い奔流が、棍棒を飲み込み、天井まで到達し、逃げ場所を探す蛇のようにのたうった。
「――――――――何ッかっ、がぼッ」
瞬時に首の出血も止まり、わたくしの視界は元の色を取り戻した。耐えきれずに溺れるような声を上げたシーズモンドへ、憐れむような視線を向けて。
「あー、シーズィーは見たことなかったねぇ。これが」
鉤爪のような形を作った漆黒の左手が、シーズモンドの喉首を掻き切った。
「吸血鬼の、血の力ですわよ?」
力を失って崩れ落ちる肉塊にそう教えてやり、わたくしは部屋を後にした。
――あは、あは。アハハハハハハハハハハ。
口元を隠すことなく、人目をはばかることなく、わたくしは笑いながら屋敷を駆けた。嗤うのではなく、笑って。
出会う人間を、“子供達”と使用人の区別なく襲った。相手が一人なら、さっそく試してみようとばかりに生き血を吸ってみた。無抵抗でも容赦しなかった。
今日が本代創始の作った王国の、最後の日なのだ。哀れな王の死に、従者は付き従うべきでしょう?
――そうして、当主さまは呆然とわたくしを見たのですわ。
大広間にて、彼の為だけに用意された食事を前に。
いいご身分だ、血を見た数分後には食事ができるなんて。異常な精神をしている。今のわたくしは、もしかしたらそれを凌駕しているかも知れないけれど。
「――――な、」「――――――――ッッ」
悲鳴を上げようとしたのか、口を開きかけた給仕たちへと、わたくしは食堂の入り口から触手を伸ばしたのですわ。背中から噴出しました。直感で、ここからなら大量にこの力が出せると分かった。
二人が崩れ落ちると、わたくしはクロスの引かれた厳かなテーブルの上に飛び乗って、それに染みを作りながら歩くのです。
対敵は唖然としてこちらを見つめていました。
ああ、いい気分ですわ。
最早、対敵は敵ですらなかったのです。
かつて、これほどまでに本代創始を驚愕させた存在があったでしょうか。在りざらんやと。いや、無いはずです。
「お前……アーヴリル、では……ないな?」
それが最後の言葉で、いいんですわね。
「ハズレです。残・念・です・わ」
身体に際限なく力が沸き立つのを感じる。沢山の人間に対し吸血を行ったからだろうか。これほどまでに魅力的な力を抑えてしまっているだなんて、あのレンドウという少年は全く、もったいないことこの上ない。
「わたくし、本当に迷っていましたのよ」
人間としての体裁を保っている右手には、玄関ホールから拾ってきた背の高い洋服掛けを握っていました。これなら、前衛的な最期を彼に献上できると思ったからです。
「あなたを、殺すかどうか」
熊の掌を模した左手を一閃、洋服掛けの頭がはじけ飛ぶ。残ったのは、中が空洞になっている細長い筒となる。
「あなたが、わたくしの母のことを覚えていれば。愛していれば」
それを、一切の躊躇なく本代創始へと突き出した。凡そ、人間が反応できる速度ではない。それでも、本代の人間なら……いや。
「こんなことには、ならなかったのに……ねッ!!」
彼は、まるで全てを諦めているかのようだった。自らへ突き出されたそれの先に死を視たのか。
筒は彼の胸の中央を深く射抜いた。呆気なさ過ぎて、わたくしは退屈した。だから、それを片手一本で振り回して、自分の怪力加減を楽しみました。
「あはっ、あはは、あはははははははっ――」
食堂中に血が飛び散った。危ない危ない、当主さまの身体がすっぽ抜けてしまうところでしたわ。刺し直そう。と、わたくしは壁に向けてそれを投げました。
グシャリ。小気味いい音が響いて、くぐもった声を埋める。けど、聴こえましたわ。まだ生きているなんて、さすが頭首さま。
「あはははははははははぁっ――――あぁそうそう、こういうのも現代アートっぽくていいかもしれませんわ」
言いながら、彼を壁に磔にしている筒、そのこちら側の終端も断ち切る。四角形の台座ははじけ飛んでいき、筒の内部からは頭首さまの血液が溢れだした。それは大した量では無かったけれど、すぐに気にならなくなった。筒の内部からだけでなく、表面を伝って、彼の血は際限なく流れてきた。
上向きに突き刺したのがよかった。わたくしはテーブルの上に転がっていたワイングラスを手に取ると、筒の終端にそれを合わせた。
「視覚的効果の他に、利用法があるなんて……それらしいでしょう?」
ワイングラスの中に当主さまの血が注がれていくのを当然と眺めていると、ふと、小さな音を耳に捉えて我に返る。
聴覚も鋭敏になっているらしい。集中すれば、それが本代創始の口元から漏れ出ているものだということが分かった。
「……………………」
ワイングラスに溜まった血のにおいを嗅ぎ、そして投げ捨てた。よく考えてみるとこの男の血を飲むのはだけは嫌だな、と思い直したからだ。
かつかつと音の発生源へと歩み寄る。
少しだけ、ほんの少しだけ、恐怖があった。
彼が何を言っているのか興味をそそられたから近づくのだ。が、その内容如何によっては、せっかくのいい気分が台無しになってしまうかもしれない。そういう不安。
そうして彼の足もとへ近づくと、どうやら、既に正気を失っている状態であろうことが分かった。
「……まない。私…………守れそうに、ない」
何を……この期に及んで、死に際すらも、わたくしのことは眼中にないのですわね。
「ウル、シュラ…………すま、ない。すま、ない…………ダ、クト……………………」
……ええ?
「えーっと、当主さま。どうしてここで、あの落ちこぼれの名前が出てくるんです?」
「すま、な……………………」
「ねえねえ、当主さまぁ」
「……………………」
「――――――――おい」
「……………………………………………………」
そうして、本代創始は沈黙した。
「…………母上に詫びてから逝けよ、このクズ」
全てが終わると、急激に寂しくなった。
これで、この街にわたくしの居場所は無い。自分で捨てたのだから、当然だ。
いや、こんな化け物の居場所、世界のどこを探しても存在しない可能性が高い。
これからどうしようか。
懐から注射器を取り出し、それを眺める。
そこに入っているのは、あの黒ウサギちゃんから頂いた血液。
「混じり物の血だけでこんなにも力を得れるなんて。……ま、忌々しい本代の血のせいだろうけど」
恵まれた血筋故に、自分は吸血鬼の血に即座に適応してしまった。
「感謝なんて、する気にはなれないけど」
半分ほど残ったそれを、後生大事に抱え続けるのも億劫だ。
「全部使っちゃおう」
左腕にそれを突き刺し、注入する。痛みは無かった。突如として、左腕が蠢き、黒い炎に覆われ、それが去った頃には、どす黒く変色した左手がそこに生えていた。
「……感覚は、ある」
腕まで覆うタイプの手袋をすれば、誤魔化せるか。人間のフリは、不可能では無さそうだ。
全く、難儀なものだ。人間界を去る覚悟を決めたかと思えば、即座に擬態できる目途が立ってしまった。すると、すぐに欲が出てきてしまう。こんなに狂った自分でも、人間社会を完全に切り捨ててしまうことだけは、やはり躊躇してしまうということなのだろう。
それでも、とりあえずこの街は出よう。吸血鬼と成ったことで、どのような体質の変化が起きているのか分かったものじゃない。夜のうちに出発するべきだ。
そう思って振り返ると、丁度開け放たれた食堂の扉の向こうで、玄関の扉が開く音がした。
――ああ、そうだ。まだ、君がいた。
「アーヴリル。お前……これは…………」
――わたくしの兄弟。最も近しい、監視役。
息を切らせて駆け込んできた彼に、彼女は自重した笑みを浮かべた。
本当の自分を、取り繕う。
「ごめんなぁ、バティ。ウチが勝手してもうて……」
せめて彼の中では、最後まで狂人のままであろうと。彼女はそう思った。
「本代家は滅びてしもうた。これで名実ともにおまんが次期当主じゃなぁ」
喜ぶだろうか、悲しむだろうか。いや、きっと彼は怒るだろう。
だが、彼が口にした言葉はそれらのどれにも当てはまらなかった。
「お前、その翼……」
言われて、はっとする。見れば、背中から巨大な漆黒の羽が生えていて、彼女が人間でないことは誰の目にも明らかな状態だった。
――あハハ、だっさ。制御しきれてない……。
「ウチはもう行くから。関わらんといてぇな」
ウチらの手下どもと、せいぜいこれからの本代をよろしくな。そう続けようとして、やめた。今更善人を気取るなんて許されないだろう。
「アーヴリル、」
「――話しかけないで。殺す、わよ……」
怒気を滲ませた言葉を吐き捨て、彼の隣を通り過ぎた。それが、最後の会話になった。
バティストには、今のわたくしと彼の間にある力の差が分かっている。だから攻撃してこないのだろう。
それだけのことだろうに、それに何故わたくしは安堵しているのだろう。
本代家の敷地内でわたくしが零すのは、血液だけでじゅうぶんだ。
結局、わたくしが涙を流したのも、この日が最後になりました。
家門を滅ぼした化け物の分際で……まだ人間を気取るなんて、贅沢がすぎると思うから。
【番外編2】 了
お読みいただきありがとうございます。
第5章から第6章を書いていた際は「さすがにここでレンドウ君と全く関係ない人の話を続けてもなぁ……」と思って控えていましたが、本代家に何が起こったのかは、いつか説明する必要があるだろうとも思っていました。
ニルドリルによって「魔人の能力を取り込もうとしている人間もいる」という話が出た後なので、そろそろ出してもいいだろうという判断です。
本代・L・アーヴリルは、カーリーから奪った血液越しに、レンドウの力を手に入れていたのでした。とてつもなく強大な力を持つ存在にはなりましたが、決して魔人の状勢に明るい訳では無いので、アニマを力を振るいながらも「吸血鬼の力だと思い込んでいる」というのがささやかな拘りです。