主人のいない朝
1.
ユウの朝は早い。早かった。
別に早く起きなければならない理由があるわけではない。彼女の身分に、睡眠時間についての規則は無い。
単純に、寝付けなかっただけだ。寝ている理由がない。
では、起きる理由は?
ユウは日に日に深まるクマの刻まれた疲れた顔で天井をぼんやりと眺めていた。
その唇が、小さく震える。
「私の生きる意味は……――」
復讐。その言葉をユウは飲み込んだ。口にするだけの気力がないからかもしれないが。
ベッドから出ると、横目で時計だけ確認し、物の殆ど置かれていない殺風景な部屋には触れることなく、部屋のドアを開ける。
廊下には誰もいなかった。とても静かだ。
早朝5時という時間以外にも理由があった。
ユウの主人、ホド夫妻が遠出をしているためだ。ついでに第二子の娘も。
――幸運なことだ。何も意味のない一日を、意味のある一日にできるかもしれない。いや、するんだ。
そう考えたユウが向かったのは、図書室。階段を下りた向かいには玄関が見える。そちらではなく、玄関から入ってまっすぐ歩いた突き当たりを右に、少し歩くと図書室はある。一世帯にわざわざ豪勢な図書室があるのは、この家にユウがいることが不思議ではない財力だということを証明していた。
ありていに言えば、ホド家は裕福だった。
図書室のドアはスライド式だった。ドアを開けると、勿論誰もいるはずなかったが、広い空間に並べられた本棚、入りきらずに横に山と積まれた本たちがあった。
ユウは迷いない足取りで奥の本棚の一つへ向かうと、下から三列目の、一番右の本を手に取った。分厚い本だ。『パラトネチカの歴史』とタイトルにある。
他にも数冊を手に部屋の真ん中にあるテーブルへと並べていくが、そのどの本も保管場所が同一ではない。ユウは定期的に暇を、そして隙を見つけては本を読みにこの部屋を訪れるが、几帳面な性格らしいホド夫妻にならって、しっかりと元の場所に本を戻しているようだ。
それか、自分がどの本を読んでいるかということを知られたくないのか。
テーブルに備えてある椅子に腰を下ろし、ユウは黙々と本を読み始めた。その眼は生きる意味を求めて、普段よりは活き活きとしていると言えた。
2.
『パラトネチカの歴史』
著:簾藤奎爾
ユウとしては、必要な知識が手に入るなら理屈なんてどうでもいい、というスタンスだったのだが(そもそも自分の現状が何よりもフィクション的すぎた)、さすがに呆れてしまう。
「著者の名前が日本人くさいんですけど……」
名前の読み方は正しくはわからないが、知ろうと思えば後ろのページに書いてはあるだろう。だが、そんなことより湧き上がる当然の疑問たち。
なんで日本語(?)の本があるんだ。なんでパラトネチカとかいうこの国の説明を日本人(?)がしているんだ。
謎は尽きないが、しかし問題はその内容だろう、と、気を取り直して本を読む。年代記としてはかなり読みやすい部類だった。単純な年号と大まかな出来事、事件は勿論、出来事の詳細も個別ページで解説してある。
ユウが興味を持ったのは、まず自分がいる環境だった。
ホド家。その名は割と簡単に見つかった。
貴族家としての興り、初代ホド伯爵が爵位したのは、およそ300年前。戦争で功を立てたことが起因らしい。
魔王ゴールドール(魔王ってなんだよ、魔王って)とパラトネチカのテナ王子の決戦の際、一緒に旅をして共に戦ったホド少年は、生まれは一介の漁師だったらしい。
記録によると、王子が魔王と相打ちに倒れた後、遺言を持ち帰ったのはホド少年なのだとか。
余りにもどうでもよすぎて、ユウは目頭を押さえた。別にホド家の始まりがどんなに素晴らしいものだったかは興味がない。それなのに魔王とかいう設定が飛び出してきて、真正面のストレートを受けようとしていたら突然それがカーブして全然見当違いの方向に飛んで行ったような気分だ。そしてついでに隣に立っていた人物に後頭部を殴られたみたいな。ほんとに関係ない。
それよりもユウが知りたかったのは、ホド家が代々少女を、それも別の惑星から連れてきた少女を監禁する趣味を持つ、特殊性癖の集団かどうかということだった。
3.
――結論からいうと、そんなことはなかった。
というより別にそれらしいことは何も書いていなかった、という意味だが。
さて、これ以上何をどう調べたらいいのか。『誘拐』をテーマにした文献でも探せばいいのか、はたまた法律について勉強するべきなのか。
ユウが瞑目していると、隠す様子もなく足音が聴こえてくる。静かな家だったが、誰一人居ないわけではなかった。
現状唯一の居住者が目覚めたのだろう、足音はこちらへと向かってくる。
――足音を忍ばせようとは思わないんだな。
ユウは机に広げられた本をパタンと閉じて、ドアを睨む。
どうするべきか。無視するべきなのか、それとも朝の挨拶をするべきなのか?
そんな簡単なことじゃない悩みがいくつもユウの頭の中をぐるぐると回る。複雑だ。どうしよう。
そう考えている間にもドアは開く。
「――ここにいたんだ。ユウ、おはよう」
現れたのは、まぶしすぎない程度の白をベースに、青のチェックが入ったパジャマを着た人物。頭には濡れた髪の上にキャラクターモノの絵柄のタオル。身長は高いのだが、全体的に可愛い出で立ちの男。
通称、兄だ。ホド家の長男である。
「……………………………………………………」
無視ではない。かなりの沈黙の後、ユウは軽く頷くことにした。
兄はユウを見て、机の上にあった年代記を見て言う。
「本、読んでたんだ」
「……悪い?」
返してから、ユウはハッとした顔になる。つい、乱暴な調子で返してしまった。
恐る恐る兄を見ると、
「気にしなくていいよ、同世代だと思って話して。というか、君が礼儀を尽くすべきだと思った相手以外には敬語なんて使わなくていいんだよ」
兄は苦笑しながら言った。
随分と接しやすいというか、できた人間のように見える人物だった。
――まぁ、確かにどうせこいつらの機嫌を損ねたって、いきつく先は死しかないんだし、どうでもいいのか。
「そうさせてもらうわ」
ユウの自暴自棄が吉と出たか、少しずつ兄とまとも会話ができるようになってきた、誘拐されて一ヶ月目の朝だった。
4.
「時間はなくもない、だけど無限って訳でもない」
テーブルの向かいに腰を下ろした兄は、ユウがテーブルに広げていた本たちを見て言った。
「とりあえずユウはこの世界のことを、もっとよく知るべきだと思う」
――世界、ね……。
まだ兄を全面的に信用してなどいないが、とりあえず好奇心が上回ったユウは、気になっていたことを訪ねてみることにした。
「この世界ってなんなの? あんたらは何? 私を“飼っている”って何? これは犯罪じゃないの?」
質問は多かった。ユウは前のめりになってまくし立てていた。その剣幕に若干気圧されながらも、気を取り直そうと兄は一度咳払いする。ついでにユウは『こいつに近づきたくない』とばかりに、自分から近づいたにも関わらず距離と取った。
「コホン。まず、世界っていうと……うん、この星のことだね」
――やっぱり、ここは地球じゃないんだ。
ある程度予測できていたことではあった。なにせ、そればかり考えざるをえない生活だったから。
自分の推論の裏付けにしかならないことだが、一字一句聞き漏らすまいとユウは兄を睨む。今までのどんな授業でもここまで集中したことはないはずだ。
「先に言わせて欲しいんだけど……答える側としては申し訳ないんだけど、あ、ユウの次の質問とも若干重複するね、僕たちの正体。正体っていうか、まぁ人間なんだけど、ユウからしてみれば宇宙人ってことになるのかな? えと、僕たち宇宙人は……人種や職種によって知識や見聞に差があるというか、言ってしまえばしがない大学生でしかない僕には説明できないことも多いんだ。ごめん、まだ始まってもいないのにすごい話下手だね、僕」
ユウは頷いた。首肯の理由は最後の一文に対してだった。
――確かに話下手だ。
……と。
5.
「身の振り方を……決める?」
「うん」
兄は『上手く伝えるぞ! 噛むなよ俺!』と念じながら口を開く。
「ユウがここにいるのは、近年の文明の進歩と、上流階級の人間のペットブームのせいなんだ」
静寂が図書室を包む。しかし、全くの無音ではない。
チュンチュン。鳥の鳴き声がする。スズメもいるのか、この世界には。それとも、よく似た別の生物か。
――大体わかった。
チリ、と僅かに身を焦がす怒りの片鱗を感じたが、同時に「まだだめだ」とも思った。怒りに身を任せるのは、今じゃない。
「昔から、技術の進歩があるごとにペットにできる動物は増えていってたんだ」
兄は苦虫を噛み潰したような顔で続ける。どんなに不快でも、ユウのために。話し続けるのが僕の役目だ、と。
「最初は犬、猫、文鳥、と始まって、大型の哺乳類とか、魚類とか。まぁこれはあくまで地球の生物の名前を挙げただけで、その他にも沢山いるよ。そんな他の惑星からこの星に連れてこられた生物が野生化して、外来種っていうか、外星種みたいになったりしたこともあって」
どこかで聴いたような話だとユウは思った。同時に、殺処分されるバスやギルが、犬が猫が脳裏に浮かんだ。実際に目にしたことはないのだが。
「私たちは動物じゃない……」
ユウは堪えきれず反論したが、それは兄に対する反論にはなっていなかった。何故なら兄はユウの意見に賛成だったからだ。そして、宇宙人に対する反論としては力不足だった。
何故なら、
「そう言えるのは地球人だけなんだ。僕たちは、角のない君たちがただの……ただのって言い方悪いね。哺乳類にしか見えないんだよ」
でも僕は違う。言葉にしなくとも、兄がそう言いたいことはなんとなく分かった。口に出せば陳腐な響きに聴こえるだろう。「僕は味方だよ」なんて。それを言ってしまいたいという欲求を、兄は頑張ってこらえていた。
ユウは兄の頭に乗ったタオルを見た。これをどかせば、兄の宇宙人である証拠が見えるだろう。
角。
人間には存在しないはずのもの、だ。
――いや、今は角のない私こそが……人間ではないのか。
「つまり、今は地球人をペットにするのが法律で認められているのね。いつから?」
「それが、最近なんだ。つい4年前から。でも地球人との付き合い方って難しくて。自意識というか、自分たちでちゃんと考えて生きていく生命だからさ。飼い方マニュアルなんてものはないし、いや、ないからこそ、財力のある一部の物好きな貴族や、金持ちたちの道楽みたいになっているんだ。地球人の飼育は……」
見世物、ということだ。
「パーティとかにね、連れて行ったりして。ウチの子は凄いでしょう、ちゃんとしつけられてるのよ、みたいな」
例え話を話しながら、兄の拳は白くなるほどきつく握りしめられていた。ユウもそのたとえ話に苛々したが、兄のこの行動は、もしや実際に見たどこかの婦人さんのモノマネだったのだろうか?
「ふーっ。信じられない。この生活に順応できる人がいるなんて」
ユウは天を仰いだ、話に疲れてしまった。仰いでも見えるのは天井だけだった。
「僕もこんな世界はおかしいと思うよ」
兄は心底嫌そうに言った。
「でも、僕としては生きることをあきらめないで、この世界に順応して生きていくことを決めた地球人って尊敬できると思う」
――それは私にもそうしてほしいっていうフリ?
ユウは視線を兄に戻し、じとーっと顔を眺める。兄はその視線をどう解釈したか、気まずそうに眼をそらした。
ここまでで、ユウには大きな疑問が生まれていた。
「……あのさ、その地球人をただの哺乳類として扱っている世界で、虐げている(?)世界で、なんであんたは地球人に同情的な考えを持つに至ったの?」
考えてみれば当たり前の疑問だった。周りが黒と教えたから黒を黒と覚えたのだ。白と教育されれば黒も白だったろう。なぜ、この世界で異端とも言える思考を、この兄だけが獲得したのか?
「それは……くっ……」
兄は、突然苦しそうに頭を押さえた。ユウは焦る。
――触れちゃいけない話題だった!?
「ごめん、触れない訳にもいかないだろうから、手短に話すね。……僕も昔は地球人を大切にしようとか思ってなかったよ。ただ、人生で出会った一人目の地球人がね。ユウ、君の前にこの家のペットだった人。その人に出会って、僕の考えは変わったんだ」
――気になる。めちゃくちゃ気になる。どうなったんだ、その先人は。
が、触れられたくない話題なんだからと言い聞かせ、なんとか自制して、何も言わずにいる。
「ちなみに、ノノリスが君につらく当たるのは、前のその人を忘れられないから。君じゃ代わりにならないって、母さんに怒鳴ってたりもしたよね」
そういうことだったのか。ユウは瞑目する。ノノリス。ホド家の第二子の娘のことだろう。あまり名前を意識していなかったから覚えていなかったが、このタイミングだしまず間違いないだろう。
話したくない会話を、手短にとはいえ言い切った達成感を感じつつ、速足で何より重要な話題へと回帰する兄。
「さて、ここで、身の振り方っていうところに戻るけど」
身の振り方。どういう意味か。ユウは考える。
――まるでこの境遇にいる私にまだ選べるものがあるみたいに聴こえるんだけど。
「君には3つの選択肢がある。オススメしないけど、ある程度の地球人が選んでしまう1つ目、自死」
ユウは頷いた。正直、本能に従って惰性で生きているくらいなら、家族とともに自分も早く逝くべきだ、そう思う時がある。
「2つ目、貴族家での生活に順応する。僕のオススメはこれ。なんとか君が幸せになれるように僕は協力するし、できれば有無を言わせずにそうさせたいんだ。させたいんだけど……」
無理やりそうしたら、僕の嫌いな大人たちと一緒だ。兄の心の声はそう言っている。
話を進めるためにも、ユウは本意ではないがとりあえず頷く。
「隠し事はできるだけしたくないから、オススメはしないけど……3つ目も言うね」
この3つ目が、どれだけユウに衝撃を与えることになるか。
予想しつつ、予想できず、兄は言う。
「……………………家出して、“野良”として生きること」