第139話 盗人の巨腕
ここは足場が悪い。留まるのは悪手だ。
ニルドリルの黒翼が奴の全身の傷を癒し消失してから、あの恐ろしいまでのプレッシャーは鳴りを潜めた。動くなら今だ。
身体は……動く。狭い道から出て、山の中腹にある……踊り場のような空間に足を踏み入れる。
右手には奈落にも思える急斜面……いや、断崖と言った方が相応しいか。その遥か下方、谷合にはエーテル流が川を作っている。
地中を流れているそれが顔を出している、というより、まさにその位置から湧き出しているように見える。あの山と山の合間に、何かがあるのか。
とにかく、ここから落ちることだけは避けなければ。左手の山肌に沿って移動したいところだが……。
倒れ伏したフェリス・アウルムの左腕の切断面――大量の血液を垂れ流していたその部分に――じわり、と黒翼が浮かび上がる。
それは腕を生やすほどの勢いはなかったものの、出血が止まっていることを確認し、一先ず安堵する。
いや、安堵している暇なんてないんだが。
『レンドウ、絶対に緋翼は使うな。確実に“吸われる”』
吸われるって……吸収されて、むしろ相手の力にされちまうアレだな。
いつもは俺が相手の能力を吸う側だったけど、今回は違う。
言ってみれば、レイスを相手にしているようなものだ。俺の緋翼よりも、ニルドリルの黒翼の方が格上なんだ。
……改めて概要を聴くと反則だよな。ダメージを与えるどころか回復されるなんて。
――わかった。でも、傷に反応して自働で発動する緋翼はどうすりゃいいんだ。
『我を掴め。その全てを預かろう』
分かったと口にする代わりに、ヴァギリの柄を握りしめる。
たちまち身体から気力を吸い取られたような心地になって、自分がひどく弱い生物に思えた。
慌てて己を奮い立たせる。
頑張り時だぞレンドウ。ここを最後の戦いにするんだ。何が何でもこの男を倒し、決着をつけなきゃならないんだ。
「……………………………………………………」
しかし、対する悪魔は不動のまま、空を見上げていた。
「……なんだよお前、さっき俺を試してみようとか言ってなかったか?」
なんですぐに攻撃して来ないんだ。
戦場においてあまりに異質すぎるその有り方に、思わず問いを発してしまうほどだった。
「ハハ」
ニルドリルは小さく笑んで、
「いや、この力は素晴らしいな。こんなものがあれば、いかなる事態にも心を乱さずにいられそうじゃないか」ゆっくりとこちらに目を向けた。
「もっと早く、この力と出会っていれば……」
俺なんかに何もできるはずがないと思ってるから、余裕で棒立ちしたり、好きにくっちゃべったりできるってことかよ?
「……これほどの力を生まれながら持ち合わせながら……何も成せない者たちに、哀れみすら覚えるよ」
「言ってろ」
ナージアは竜の巨躯を四足歩行で運用することに決めたらしく、左手の壁沿いに少しずつ移動していく。そうだな、できるなら挟み込む形で戦いたい。
問題は、その動きも作戦も、全て向こうに筒抜けだろうという点だが。
ナージアの動きに対し一切拘泥する様子を見せないのは、先ほどの言の通り“いかなる事態”にも動じない絶対の自信があるからだろうか。
「その魔法剣に頼り、私を攻撃することももうできない訳だ。クク……」
チッ。自分の強さまで、俺を使って測りやがって。
「お前、何が目的でこんなことしてんだよ」
すぐに攻撃してこないんだったら、この際だ。訊きたいことを全部訊いてやる。
「ジェット達を騙してヴァリアーを襲わせて」
……直接の原因はジェットだが、イオナの命を奪ったのも、カーリーの左耳が失われたのも、ミンクスとヒガサがヴァリアーを去ることを余儀なくされたのも。
「エイシッドや配下の魔物を使ってエスビィポートを破壊して」
そのせいでランス、平等院、ジェノは重傷を負った。何故か動けているけど、ダクトも。
「それは全部が魔王ルヴェリスを失脚させるためか?」
魔王を玉座から引き摺り下ろして、それからどうするんだ。
一体どんなくだらないことの為に、俺の知人を傷つけてくれたんだ?
「お前は魔王になりたいのか? どうしてフェリス……マリアンネを狙う」ヴィクターさんの屋敷での会話を思い出し、「あいつが吸血鬼の立場を向上させようとしていることが気に食わないのか?」と付け加えた。
ニルドリルはクツクツと笑いながら口を開く。――笑ってばっかりだな、クソ。
「ははは……レンドウ、言わずとも分かる。君が何を確かめたいのか、私にはな」
妃逆離を左手に持ち替え、「手に取るように解るのだよ」右手をフェリス・アウルムに差し向ける。すると、姫の傷口を覆っていた黒翼が浮き上がり、ニルドリルの方へと漂い……吸収されたのか。
「私に善性を期待したいのだろう? 善性とまでは行かずとも……一本の、信念のようなものを」
いつでも取り上げられるのに、そのままにしていたのか。
「それは無駄というものだよ。私には“底なしの渇き”しかない」
右手を回すようにしながら語るそいつは、どこまでも偉そうだ。
「まずあの王を廃し、ベルナタを手中に収める」
――いや、違うな。傷が癒える程度の量だけは、彼女から奪わずにおいていたのか。
「その次は当然、人間界だ。マリアンネを殺したいのは……王位を継承する可能性があるから、それだけさ」
「……その割に、そこのアウルム姫とやらのことは妙に大切にしてるじゃねェか」
吸血鬼達への抑止力、俺たちから身を護る盾として扱っていたにしては、姫に外傷が全くなかった。
傷を癒すことを許しているのもそうだ。まるで、彼女を傷つけることを望んでいないかのような……。
「それは当然だ。その娘に死んでもらっては困るからな。それは新たな玉座に座す、私の傀儡だ」
傀……儡?
操り人形、みたいな意味か。
だけど、でも、彼女の表情を見ていた限りでは。
ニルドリルに絶対服従、みたいな様子ではなかったぞ。むしろ、顔を恐怖に引き攣らせていたじゃないか。
「まさかお前、相手を洗脳する魔法まで用意できるってか?」
現段階でもこいつの能力は狂っているとしか思えない量と性能なのに。
「無いさ。今はまだ、な。だが、いずれ必ず手に入る。分かるのだよ」
笑みをかき消し、真っすぐに俺の目を射抜くニルドリル。
「全ては、私の思い通りに上手くいくはずだと」
……本気、みたいだな。本気で狂っちまってるんだろう。
一体どういう育ち方をしたらそんな自信が持てるようになるのか、見当もつかない。
ナージアは大きく回り込むように、姫の位置も通り越し、ニルドリルの背後についた。その四肢は爆発の時を待っている。
背後にいる相手の心は読めない……よな?だが、俺の心が読めるなら同じことか。俺を通してナージアの動きはバレている。
だとすれば、俺はできるだけ彼を意識の外に置いた方がいいのかもしれない。
少なくとも、彼がニルドリルに飛び掛かるその瞬間だけは、奴に悟らせるわけには。
仮に、コイツが相手を洗脳する魔法を持ったヒトを手中に収めたとして。
「……“同化”とやらで他人の魔法を奪っても、それは数日で失われるって聞いたぞ。数日限り洗脳したところで、何もできねェだろ」
シュピーネルの言だ。彼女の知識もニルドリルが監修を務めた魔法理論を元に作られたものだと言っていたし、嘘の情報を刷り込まれている可能性はあるようだが。
「記憶と共に聡明さまでも失ったか。先ほど答えを見せてやったというのに、まだ理解していないとは」
「なんだと……?」
こいつ……この口ぶり……まさか。
昔の俺と。
――記憶を無くす前のレンドウと…………会ったことがあるのか。
笑みを――今度は嘲笑だ――浮かべたニルドリルが腕を振るうと、黒翼が舞った。警戒して足に力が入るが、それは俺に向けられたものではなかった。
アウルム姫へと向かった黒翼は、彼女の左腕の切断面に纏わりつき、完全に覆った。あらゆる光を逃さないその真の漆黒の向こう側で何が起きているのかは見えない。
推察することは……できる。黒翼の内部で何かが膨張したようで、黒翼が空気に溶けるように消えていくと、それは露わになった。
「この通り、この力があれば何度でも再生させられる。私は無敵だよ。この世の理を完全に超越している」
千切れた衣服の先から、傷一つない腕が生えている。たった今、修復されたんだ。
それは現実的に考えてあり得ない速度で、まさしく魔法というべき治療法だ。
ヴィクターさんの“先行治癒”とでも言うべき「傷ついた場所を即座に回復させ、なかったことにしていく」治癒とは一線を画する。事実、ヴィクターさんには古傷があったし。俺が先ほどからベニーにされている治癒も、似たようなものだよな。
だが、他者の失った手足を再び生やすなんて。その力があれば……カーリーの耳だって。……現にニルドリルは、黒翼で身を包むことで顔面の古傷すら治癒してのけているし。
それが“純血種”の力か? だが、フェリスには……マリアンネの方には、そこまでの力は無かったはずだ。あいつがどれだけ俺を嫌っていようが、もしくはカーリーとの相性が悪かろうが。
他人の部位欠損を見て、それが治せると分かれば治すもんだろう。あいつはそこまで血も涙もないやつじゃない。
なら、妹のフェリス・アウルムの力が特別に強いのか?
――そうかもしれないが、そうではない気がする。
何か、何かがニルドリルにはあるんだ。手持ちの能力を、増幅させるような仕掛けが。
「……そこは良い勘をしているな」
ニルドリルが右手を振ると、奴の背後にいるナージアの足元に……黒翼の刃がいくつも刺さった。一つ一つは小さいが、始めて目にするほどの鋭利さだ。
氷ごと岩の地面を抉ったそれは、絶対に体内に侵入させたくない類のものだ。
牽制だ。俺はナージアの動きを意識しないようにしているから、読まれた訳では無いだろう。だが、俺を通して位置はバレている。
「この世界には、根源的な力を欲するものがいる」
「は?」
突然何を言い出すかと思えば。そんなもんどこにだって、
「違う、そういうことではない。学習だとか、研鑽だとか。そのようなもので手に入るほど手近に、真の力はない」
一般論じゃ、そういうのが美徳とされるはずなのに。それらを一蹴したニルドリル。
「力を求める者の中では、最早常識と化してきているのだよ。……まず、翼を持つ者からそれを奪い」
……これは分かるぞ。その“力を求める者”とやらにニルドリル自身も含まれているのだろうし、だとすれば、翼とは緋翼や黒翼のことだろう。
「同化により“他者を癒す”力を身に付け、それによって魔法を恒久的に得ることが」
瞬間、頭に激痛が走った。
「があ――――――――ッ!?」
痛い。痛い。痛みの中で、声が聴こえる。それが俺を貫いた。
『――ある者は羽をもがれて鎖に繋がれ、ある者は見せしめに何本もの杭で貫かれ、またある者は不老不死の食材と銘打ってその身を売られていきました』
誰だ。不思議と聞き覚えのある声だが、かすかに震えていた。俺の記憶では、その声の主はいつも毅然としていたはずで……。
…………だが、誰だったろう?
確信が持てないままに……だが、俺は不思議と理解していた。
ニルドリルの言葉が真実だと。頭のどこかに突き刺さったそれが、俺に教えてくれた。
奥歯を噛みしめて奴を睨むと、だが、怪訝な表情で返された。
お前、心が読めるんだろう……? なら、俺が今見たものをお前も見たはずだ。
「……………………」
ニルドリルが「わけのわからないもの」を見る目で俺を見つめるのは初めてだった。妙な悪寒を覚えたが、単純に空気が冷たいだけかもしれない。
静かな怒りが、恐怖から身体を解き放っていた。
「その力を求める者どもとやらが、どんな高尚な思考をお持ちだかは知らねェけどな」
ナージアの方は見ない。視線は下に、ニルドリルの足元がギリギリ入るくらいをキープする。
「吸血鬼やアニマの能力を同化で奪い、その上でヒトを斬って同化して」
倒れたフェリス・アウルムは、傷つけられ、癒され、死ぬことすら許されず、一生利用されようとしている。
「それを治して……そんなことを繰り返して、永遠に能力を持ち続けようって…………そういうハラなんだな」
吐き気がする。
「俺たちは……お前に喰われるための存在じゃねェ!!」
言葉と共に、俺は飛び出していた。
俺たちだけじゃない。この世界に生きる全てのヒトは、お前みたいな奴らの食い物にされるために生きてるんじゃない。
仲間の顔が次々と脳裏に浮かび、それを害する敵の姿を思い浮かべれば、思考が朱に染まる。
だが当然、激昂して勝てるような相手じゃないことも理解していた。思考はどこまでも冷静にだ……そんなの無理だ。それでも、努力はする。
震えて何もできないよりは、何倍もマシだ。
「そんなことは勿論理解しているさ」
ニルドリルは、俺のショートソードによる斬撃を左手一本の妖刀で受け止めると、会話を止めないまま右手を俺に向けてかざす。
「私に何を期待している? あって当然の倫理観か? そんなもの、他者と助け合わなければ存在できない弱者の価値観だろう」
嫌な予感しかしない。
剣を引きながら右へ跳躍すると、俺のいた場所に黒翼が突き刺さった。さっき見せたやつか。だが、何で俺の回避を狙わなかった。そんな、避けやすい動作の攻撃を――まさか。
「私のような強者は、自分一人のためだけに、他者の攻撃など恐れずに生きる選択肢があるのだよ!」
俺をこっちに寄せたかったのか。まずい、ここは――崖側だ。
突き落とされる――そう、真っ先に蹴り飛ばされることを予感した。
だけど、そうはならなかった。ナージアだ。
3本の足で大地を力強く踏みしめ、右の前脚、その鋭い爪がニルドリルの背中を引き裂いた。ニルドリルは全身でこちらに吹き飛んでくる。
それを回避すれば、そのままこいつは崖下に落下し、エーテル流に飲まれて息絶えるだろうか?
いや、そんなはずはないと、この不敵な笑みを見れば。迎撃を……いや。
ニルドリルが右手を前に突き出すと、たちまちそれは黒翼に覆われ、巨大な腕を作り出す。
俺のベアクロウによく似たそれを突き出して――再び右に跳んで既の所で回避した――地面を破壊しすることで、自らの身体に掛かる運動エネルギーを帳消しにした。
「痛いな、だが」
こいつには最高級の黒翼がある。ニルドリルの背中から吹き出したそれが容易く傷を癒してのけたことは想像に難くない。「効かんな」そればかりか、思い切り後ろへ噴出させた黒き奔流は、ナージアの全身を襲う。
「――――ッ!?」
声なき悲鳴と共に、ナージアが仰け反って倒れる。俺がかつてアドラスに放ったような……それよりも遥かに出力が大きい。
染色する弾丸に似ている。相手の体表に能力をこびり付かせて、目つぶしを狙おうというのだろう。
一撃目にしてカウンターを決め、ナージアを黙らせた悪魔は。
そのまま地面を掘り返すように氷の礫をまき散らしつつ、剛腕で俺を貫いた。
巨大すぎるその攻撃を、避けようが無かった。防ごうとはした。だが、剣で受けられる範囲はたかが知れていて、それ以外の部分から、いや、剣ごと。
俺の全身はニルドリルの黒翼に飲み込まれた。
意識は途切れはしなかったが、脳みそが揺れたような感覚があった。
――そうだ、これはマリアンネが見せた能力。
包んだものを、黒翼や影を通して離れた場所に飛ばす力だ。
宙に投げ出された俺は、己の居場所を把握する前に、背中から壁に激突した。
「かッ――ふッ――」
前方には、顔面に張り付いた黒翼を引きはがそうと転がりながらもがくナージアがいる。ナージアよりも後ろってことは、相当遠くに飛ばされたんだな。
そして、現状を把握しようと自分の身体に目を落として、俺はようやくそれに気づいた。
自分の愚かさを後悔する暇も無かった。
――手の中にあったショートソードと共にもう一つ、奪われたものがあることに。
「やはり、私には靡かんか」
遥か遠く、崖際で悪魔は二刀を手にしていた。左手には妖刀妃逆離を。では、右手に鞘ごと持たれたそれは。
おい、お前、それを――――どうするつもりだ。
ふざけるな。
「失せるがいい、なまくら」
『レンドウ! こいつの持つ刀――――――――……』
脳内に響いた中性的な声が、突如として途切れた。
『…………』
まるで、俺との繋がりが完全に絶たれたと示すかのように。
「は――――っ?」
おい。
……………………………………………………ヴァギリ?
悪魔は、背後に短剣を投げ捨てた格好のまま、俺を嘲る様に呟いた。
「わずか一手で終局か、アニマの王子?」