第138話 悪魔の翼
「“グローツラング”」
衝撃と共に、異臭が鼻についた。
後ろを見なくても分かる。だけど、一瞬だけ後ろの状況を確認しておく必要はあるだろう。誰が、どう対処するべきかを決める為にも。
「あれは……伝承の魔獣か……!」
隣で地面に手をついて起き上がろうとしているクラウディオは、今すぐにでも飛び出しそうな勢いで言った。
それもそのはずだ。グローツラングが現れたのは、先ほどまで俺たちが談話していたヴィクターさんの屋敷だった。
建物を破壊するように、黒く……赤や青や緑や黄色、多種多様な光を張り付けたかのような不気味すぎる巨体が動き回る。間違いなくこの世界のモノじゃない。
野郎、場合によってはグローツラングを使ってヴィクターさんに不意打ちを食らわせるつもりだったな。
どこまでも計画的な男だ。
襲うべき対象のいない場所に放り出された異界生物は、獲物を求めて手近な建物に向けて這い進む。
その先にあるのは女子供が避難している平べったく長い屋敷で、だからこそクラウディオは直ぐにそちらへ駆け出そうとした。その手を掴んで、引きとどめる。
「何だ!?」
「待て、説明する」時間が無い。ニルドリルから目を離すのも良くない。人生で最も思考を素早く回転させる必要がある場面は、きっと今この時だろう。
「俺はあれを退けたことがある」止めを刺した訳じゃないから、あの時のグローツラングと同個体なのか別個体なのかは分かんねェけど。「その時は緋翼が効果的だった。あいつは口から溶解液を垂れ流してくるが、それはチャンスなんだ。口の中に緋翼をありったけの流し込むのが有効なハズだ……黒翼でも問題ない、と思う」
もう俺はグローツラングの方を見ていない。ひたすらにニルドリルを注視している。奴は大火傷を負った顔を抑えて動かない。だが、奴がこのまま何の動きも見せない訳が無い。
必要な情報を渡し、クラウディオの手を離した。
「感謝する」
そう言葉を残し、クラウディオの気配は離れていく。ニルドリルに挑みかかることを躊躇していた吸血鬼の中にも、女子供を守る為なら動ける者が混じっていたのか、グローツラングへ立ち向かう怒号が聴こえる。
……分かる、分かるぜ。その巨大蛇より、こいつの相手をする方がずっと怖いもんな。
だから、俺が代わりにやるよ。
くそ……肉体的に負傷は何一つ残っていないにも関わらず、足が震える。恐怖か? 確かにそれもあるだろう。
でも恐らくこれは…………エネルギー不足だ。血と肉を再生し、暴力を生み出す源が不足してきている。
無茶しすぎたか。ヴァギリの攻撃だって、俺の緋翼を取り出して使っているんだろうし……。
『炎を何もない場所に出現させることはできぬ。君の緋翼を燃焼させることで高い攻撃力を実現させていたが、消耗を少なくするためには……』
ヴァギリの解説が入る。それ、俺を通してニルドリルに読まれるんじゃないの? あんま大事なこと言うなよ。っつーか、今言うべきことかそれ。
『…………周囲の燭台に灯る炎を借りた方がいいかもしれんな』
ニルドリルの背後で、建物に掛けてあったランプが爆発した。
なるほど……炎を操る技術か。
「それなら俺も練習してたぜ」
それに加えて…………遠隔操作もな。
左手で掬い上げるように、手近な燭台の炎を触れずに取り上げた。ニルドリルを指し示し、「焼き尽くせ」向かわせる。勿論、その動きが読まれていることは想定内だ。だけど、ヴァギリの攻撃は読めないんだろ?
狙うべくは波状攻撃だ。ニルドリルは顔から手を離し、両手で握った妖刀を跳ね上げて俺の炎を斬った。
だが、斬っただけだった。炎は消えず、目を見張ったニルドリルの顔と、両耳を焼いた。そんなのは大した怪我のうちにも入らないだろうけど。
それでも俺にとっては大きな一歩だった。
俺の炎を防ぎきれず怯んだところに、背後よりヴァギリの操る炎が飛来する。
ニルドリルを覆うように広がった炎は、窒息を狙うかのように頭部を包み込もうとする。
これは決まったか。そう思った時にはニルドリルの首から血が噴き出していて、それが炎を消化してしまったようだった。怪我をしたわけじゃないな。自らの血液をコストにした苦肉の策か。
魔法・魔術の類なんだろうけど、どう見てもそう何度も使えるもんじゃない。これを繰り返せば勝てそうだ……!
喉が焼けたのか、堪え切れずに咳を繰り返すニルドリル。
――にしてもあいつ……なんで急に炎が斬れなくなったんだ?
『違う。あれは……それが奴の防護の穴なのだろう。分かったぞレンドウ。……魔法以外の攻撃だ。できるだけ魔法力のない攻撃を選ぶべきだったのだ』
魔法以外の攻撃? それ……いまいち炎がどこに属するのか解り辛いな。
ヴァギリは嘆息するような雰囲気を醸し出した。おいこら。
『……こうなる前に教えておくべきだった。今の君にマナの概念を解いても理解できないだろう。だが、君の緋翼を燃焼させて生み出す炎より、自然的な炎の方が効果的ということだ……今はそれだけ理解していればいい』
よく解かんねェけど、分かった。それに従うさ。
幸い周囲に“弾”はまだまだある。これを「クククク…………クハハハハハハハハハ」…………突然、ニルドリルが笑い出した。
それは哄笑と言うべき類のもので、それを聴いた者にニルドリルの不屈の意思を知らしめるには充分なものだった。
まだ何かあるのか。油断するな、レンドウ。
「ハハ…………いやはや感服したよ、アニマの王子」
地面に向けた妃逆離が緑色に薄く発光している。初めて見る色じゃないか? 何かを溜めているのか。
このままただじっと待ち、奴に時間を与えることが最善だとは思えない。だが、俺だけでは厳しいことも事実。
「マジムを殺し、グローツラングの対処法までをも熟知している。私を以てしても読めない攻撃手段まで持ち合わせているときた」
周囲には誰かいないのか。シュピーネルはどうしたんだ。いつでも遠距離攻撃ができる状態にあるのか? それとも、グローツラングの方に応援に行っちまったのか。
つーかコイツ今認めてたか? 自分が相手の心を読む能力を持っていることを。……違う、気にするな。ジェットはどこに行った。……死んだのか? 腹が立つくらいにしぶとそうなのに、あの野郎。そういえばアシュリーは。
……ダメだ、心が逃げ腰になっている。攻める理由を探し始めている。足を止める理由を探し始めている。今もこの身体にはベニーが治癒の力を発揮させてくれているって言うのに、贅沢なヤツ。
「君はまるで、私に対する“銀の弾丸”だな」
「銀の……何だって?」
「知る必要は無いさ」
ついつい反応してしまった。してしまったが、油断も無かった。
「さらばだ」
ニルドリルの妖刀が動いた瞬間、俺は――右に動くべきか左に動くべきか、ギリギリまで考え――右へ跳んだ。こんだけ溜めりゃあ、読めてもあんまり関係無いだろ。
お前の反応速度は決して俺を上回っている訳じゃない。お前が照準を確定させてからでも、俺なら反応できる。
が、奴の狙いはそうではなかった。俺は……攻撃されてすらいなかった。
「な、に…………ッ!?」
浮いている。ニルドリルの身体が浮いている。高度を上げていく。ふわふわ、といった風ではない。すっと、音も無く一定の速度で上昇していく。あと数秒もすれば跳躍しても届かなくなってしまう。マズい。
炎を使おう。そう思い立った時にはもう、背後より炎の柱が屹立していた。
ヴァギリがやっているんだ。
それは螺旋を描きながら宙へ浮かぶニルドリルを追従し……掻き消えた、だと!?
『人質が厄介だな……』
悔し気に絞り出されたその声を聴き、はっとする。お前が自分で解除したのか。
フェリス・アウルム。恐怖に彩られた瞳のお姫様が、攻撃からニルドリルを守るように浮かんでいる。
マズいだろう、くそ、こんなのどうしようもない。
ようやく気付いた。天井に空いた穴を目指しているんだ。どうしてニルドリルがここで勝負を仕掛けてきたのか分かった気がした。
奴はこの吸血鬼の里の立地を研究した上でこの戦いを挑んできている。ここまで計算づくだったんだ。己が負けそうになった場合の逃げ道すら確保しておく程に!
逃げられちまう。このままじゃ……。
ガツッ、と。
力強く地面を踏みしめる音がしたのは、その時だった。まるで、積極的に自分の身体を壊そうとしているかのような。
痛ましい音だった。
「お前は……」
そこにいたのは……確か……氷竜の子、だったか?
「逃がしちゃダメだ。あいつは……おれたちの世界を壊す。いちゃいけない存在なんだ」
いやそれは分かってんだよ。
自らの胸部をかきむしりながら、天を睨みつける少年。おい、服裂けてるぞ。というか、力入れすぎだろ。胸から血が流れてるって!
「なあお前、もしかしてあそこに届く攻撃手段があるのか?」
「おれがやらないと。やらないといけないんだ。いますぐに。できるはずだ、おれは……」
少年は、熱病にでも侵されたようにブツブツと呟いている。
これは触れちゃダメなタイプのやつか。危ない人か?
と思っていると、突然少年の背中が裂けた。
「はぁッ!?」
驚いて仰け反るが、少年から血が噴き出した訳じゃない。ならジェットの腕がハサミになったり槍になったりするのと似たようなものか? バクバク言う心臓を抑えにかかる。
落ち着け俺。何をしようとしているのかは分からないが、どんだけイっちまってるとしても、突然自殺を始めるってことはないだろうし……「グ、グアアアアアァァァァァァアアアアアアアァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」いや滅茶苦茶痛そうなんだけど?
どうすればいいんだ。上を見上げれば、ニルドリルの姿はもうそこには無かった。天井の穴から脱出したんだろう。このままじゃ、どの方向へ逃げられたかすら分からなくなる。バキバキメキメキ。
他の道を探すべきか? いっそニルドリルを追うことを諦め、俺もグローツラングの方へ助力に行くべきか。ミシミシ、ズシャッ。
「グ、グォオオオオオオオアアアアアア……ァ…………」
ああもう、バキバキメキメキミシミシズシャズシャうっせェな、何なんだよコイツ。例え返事が無いとしても文句の五つくらいぶつけてやろうかともう一度そちらを見れば、少年は消えていた。
否。少年より遥かに体躯の大きい存在が代わりに有った。
直立している訳でも無いのに俺の身長を超えている。2メートル半ほどあるか。
…………いや、なんとなく答えは分かるぞ。むしろ確信していると言ってもいい。
少年がこの姿になったんだな?
『そうだ。レンドウ、彼はどうやら……奴を追う為、己の壁を乗り越えたらしい』
ニルドリルを追うって、どうやって……なんて訊くまでも無いか。彼の背中には、巨大な翼が生えている。それも、俺の霞みたいな翼とは違う、力強く生物的なフォルム。
顔は長く、肉を引き裂く牙が並び立っている。まさしく、爬虫類の怪物といった風貌だ。いや、事細かに観察してる場合じゃない。
端的に言うと、ドラゴンだった。先ほどまでヒトにしか見えなかった少年は、竜の似姿となった。それともこれが本来の姿……ないし、成長した姿なのか。
どちらにせよ、飛べるというなら乗せてもらうだけだ。
さっきから俺の言葉に一切耳を傾ける様子が無いことが気がかりだが……。
「ニルドリルを追う為に変……身、したんだよな。俺を連れて行ってくれるだろ?」
「……………………」
「背中、乗るからな」
彼は生えたばかりの翼を上下させながら、その時を待っているようだ。
そうか……その姿になるのは初めてなんだな? それか、思い通りに行ったり来たりできる変身ではないのか。
俺を置いていきなり飛び立ちそうで怖いな。気にしてても仕方がない。返事が無くてもしがみついてやる。振り落とさせなんかしないからな。
ヴァギリを鞘に納め、多少の申し訳なさを感じつつも彼の左後ろ脚を踏んでよじ登り、背中に跨る。竜の身体が大きすぎて、いまいち股がしっくりこないというか、痛いくらい開かなきゃいけないのが辛い。
幸い、背中に良い感じの間隔を置いて生えている棘があり、掴むものには困らなそうだった。俺の為に生えてるのかこれ。
自分の体重が増えたことでようやく俺を認識したのか、長い首を回して竜はこちらを見た。
「あーーーー……よろしく? 俺はレンドウって名前だから」
竜は状況を正しく把握したようで、素人目だけどその瞳には正気が戻ったように見える。
「おれは……ナージア」
お、おお。同じヒトとは思えないような外見になってしまっているけど、問題なく喋れるんだな。むしろ前の姿の時は声がしゃがれてたから、今の方がマトモまであるな。
「よろしくな、ナージア」
「レンドウさん!」
と、ナージアが両足に力を入れて飛び立とうとした時、後ろから俺を呼び止める声があった。
「アンリ?」
自らをエルフだと思い込む、里の秘密を知らない純粋な少年、アンリエル・クラルティが息を切らして立っていた。
いや、変に子ども扱いする必要はないだろう。んなこと言ったら俺も子供だし。それに、アンリの顔を見れば……恐らく彼はもう気づいているだろう。
自分も乗せて連れて行って欲しい、そんなことを言われたら勿論断っただろうが、そうではない。彼が両手に乗せてこちらに差し出したのは、俺が手放してしまったショートソードだった。
「こ、これを……! 姫様をお願いします!」
左手を伸ばし、ショートソードの柄をしっかりと握って受け取る。
「ありがとうアンリ。任せとけ」
剣を鞘に納め、アンリに向けて深く頷いてから、天井を見据える。
「ナージア、頼む」
竜は気合いを入れる為か、大地を揺るがす程の咆哮を発すると、翼を何処までも大きく広げた。
その風圧にアンリが後ずさったほどだ。
そうか、初めての飛行なのか。だとすると俺という存在はさぞ重荷だろう。だけど、ナージアだけでニルドリルを倒せるか分からないし、俺が決着をつけなくちゃいけない気がしている。
銀の弾丸。ニルドリルは俺をそう言っていた。それが意味するところは分からないけど、分からなくても俺はやる。
衝撃に、一瞬股がナージアから離れてヒヤッとする。改めて棘を掴み、どれくらい高度が上がったのかを確認しようとして……やめておく。いたずらに不安を煽る必要はないだろう。上さえ見ておけば事足りる。
ナージアの飛行は時折バランスを崩して揺れ、それが練習が不可欠な行為であることを感じさせたが……速度は充分だ。そら……もう、天井の穴を抜ける!
そうして俺の前に広がった景色は、圧巻だった。
――――きれいだ…………。
太陽は高く、燦燦と輝いている。それに照らされた世界は、比べるものが見つからないほど美しい。
凍り付いた山々が日差しを受けて輝いている光景は、以前の俺だったらとてもじゃないが直視できなかっただろう。だけど、今なら見える。むしろ、太陽に感謝すらできそうだ。世界はこういう風にできていたんだな。
……今思えば、太陽って炎の塊なんだよな。ここ最近の自分を振り返ると、むしろ今まではなぜ太陽を苦手としていたのかが疑問に思えてくる。長年の生活習慣によるものだろうか。いやまあ、今でもいきなり強烈な光を浴びせかけられたらびっくりするだろうけど、それは誰でもそうだろう。少なくとも、心の準備をしておけば太陽の下に出るくらいは大丈夫だ。
これ、同じ景色の夕暮れバージョンなんかも見てみたいな。
現在地は長く連なる山脈の真ん中あたりで、丁度前方には山の切れ目があり、その先は昨日通り抜けた森林地帯が覆っている。その更に向こうには学徒の国エクリプスの街ミッドレーヴェルの外壁が。
『もう少し高度を上げて欲しい。探知は我に任せていい』
ヴァギリに言われずとも、ナージアの上昇は止まらない。
……いや、まさか聴こえてるのか? っていうか、あれ。腰……に、そうだよな、鞘に納めてあるよな。
「ヴァギリ、今お前に触ってないんだけど?」
どうして声が聴こえるんだよ。
『君は我を呼び出そうとする際にいつも握りしめるが、そもそも会話する為だけにその行為が必要だと言ったことがあっただろうか』
「お前いっぺん本気でシメる必要がありそうだな?」
もっと早く教えろよ。まぁ、俺が握っていないと本領を発揮できない場面が多かったからわざわざ言わなかったんだろうけど。
「まァいいや。ともかく、ナージアにも聴こえるように喋れるのか」
『直接触れているものにだけ届けることもできるが、この形態では龍の血脈に連なる者には聴こえるだろう』
「竜の……血脈」
俺が……俺もそうだって言うんだな。いや、全てのアニマがか。
思わず、自分の手を見る。
一体アニマって何なんだよ。俺はどういう存在なんだ。ナージアがヒトの姿をしていた時にあったような、全身を薄く覆っていた膜のようなものが俺には無い。爬虫類っぽさなんて、どこにもないはずだ。
「あのさ、もしかしてなんかの拍子に俺もドラゴンに変わったりすんの?」
ナージアは正気とは思えない形相だったとは言え、自らの意思で竜に変身してたように見えたけど。
『少なくとも、そのような状況はほぼ訪れないだろう。自らの意思に反して自己を保てなくなることもない。君が恐れるようなことは何もないさ』
姿かたちを変える、ただそれだけなら、ヒト……魔人にとってさほど珍しいことではない。訓練の結果、水中で長時間活動できるような身体構造に変化した……なんて話も聞くしな。
さすがに無尽蔵に近い飛行能力までを備えた翼が生えるなんて話は聞いたことがないけど……せいぜい滑空止まりだよな。
『これ以上は長くなる。繰り返す用で悪いが、詳しい話は短剣の持ち主に尋ねた方がよかろう』
アルフレートにってことだな。よかろうとかなんとか言ってるけど、それお前が勝手に喋ってあいつに怒られるのが嫌なだけなんじゃ。
――まだ高度を上げる必要があるのか? そもそも、ヴァギリはどうやってニルドリルの位置を探知しようとしているんだ?
はるか遠くに広がる海。その手前にあるのは港町エスビィポートだな。山間にひっそりと建つ影山家の別荘も見える。あの周辺に、他の建造物は無いんだな。
と言っても、絶対にない訳じゃないか。あの別荘が見えるのは俺が実際にそこに足を踏み入れたことがあるからで、他にも幻術で隠された建物が無いとは言い切れない。
そうだ、魔王城。俺たちが目指している場所は?
キョロキョロと周囲を見渡す。いや、そんな探す必要があるような小ささじゃないはずなんだ。なら、この背後にある広い平野にそれがあるのだろう。そう考えた方が自然だ。どれくらい近づけば見えるようになるのだろうか。
それよりも、その平野の奥だ。海の向こうに巨大な陸地が薄っすらと見える。
あれが――、
「暗黒大陸…………魔国領ベルナタ」
なんだ、何も変わらないじゃないか。緑が生い茂り、生命に溢れた大地に見える。なんだよ暗黒とか使いやがって。不毛の大地かと思っちゃってただろーが。
かつてレイスに描いてもらった世界地図を思い浮かべながら、暗黒大陸を右向きになぞっていく。途中で水平線に沈んだ陸地は、本当はイェス大陸と繋がっているのかどうか確認することはやはり出来なかった。
恐らく繋がっていない、というのが通説だが……(だからこそイェス大陸、暗黒大陸と分けて名付けられた訳だし)。
今まで俺が生活していたイェス大陸は全く見えない。シャパソ島からの暗黒大陸よりも遠いんだな。
……こんな異国の地で死ねないよな。いや、全然悪い場所じゃないんだけど。故郷だからって死んでいいってことでもないし。
――こんなところで、死んでられないよな。
俺はまだ、殆ど知らないんだ。種族のことも、世界のことも。
『……………………』
ヴァギリは果たして、探知中でなければ何かしらの反応を返しただろうか。
少しだけど、分かったこともある。あのまま里に残っていた場合の自分なんて、今じゃ想像もつかないくらい。
思わず、状況を忘れそうになるほど綺麗なんだ。世界にはこんな場所があるんだぜ。
『高度はこれでいい。よし……』
なあ、クレア。いつかお前に再会した時、この旅のことを話すよ。俺が人間と一緒に旅をした話。
きっとできるよな。全部うまくいく。これから魔王に謁見して、人間界とベルナタの確執を全て取っ払ったら……きっと俺たちが大手を振って往来を歩ける日が来るよ。
食事? そんなもん、どうにでもなるって俺が証明してるよ。確かに最初はキツかったけどさ。肉体的には多少は衰えるだろうけど、俺の口に合う料理を考えてくれる仲間もいるんだ。
ゲイル。お前は今どうしてるんだ? 里から出て、この世界を観てどう感じたよ。まさかお前が進んで人間とトラブルを起こす訳ないから、成人しても結局あんまり里から離れないまま生活してるんじゃねェかって思ってたけど、合ってってかな。
何をするにもお前に手本を示されてきた人生だったけど、ようやく対等になれた気がして嬉しいんだ。お前よりきつい陰険メガネがこっちにはいっぱい居てさ、困るぜ。お前と引き合わせた時、双方の反応を楽しみたいね、俺は。
『妄想はそこまでにして我を引き抜け、レンドウ』
――え――――――――今お前に向かって話してたつもりないんだけど。
…………は? …………もしかして脳内を全部覗けるのか? え、ちょっと、それ本気で気持ち悪くないか。
確かにちょっとクサいこと考えてたかもしれないけど、一瞬で頭が冷えたわ。ほんっとに……このクソ剣は!
ニルドリルと同じくらい……は言い過ぎかもしれないけど、気持ち悪いぞお前。
「きもっ」
今までにない発声で剣を引き抜いてしまった。最低の記念日になりそうだ。
すると、ヴァギリの先端から黒い緋翼が線のように伸びた。あァ、これで方向を指し示すってことか。
『こっちだ』
言われて、ナージアは線が伸びる方向へと下降を開始する。
『高い高度を望んだのは、ニルドリルに付着していた緋翼のマーキングを辿るためだ』
俺にきもいきもい言われたことは気にしていないのか、それには触れずにヴァギリは解説を始める。
『周囲に吸血鬼達が多すぎて、その気配が混ざりすぎていた故に、まずはそれらから離れたかったのだ』
なるほど、ニルドリル自身も吸血鬼達がいる場所よりずっと高い場所に留まっていることに賭けたんだな。そして、それに勝ったと。
『鉱山の中腹にいるようだ。露出している。落下の危険がある故、足場に注意しなければならないな。……そして』
ヴァギリが次の言葉を発するより前に、俺の全身を悪寒が突き抜けた。それはナージアも同じだったのか、ガクンと巨体が揺れた。
「な、んだ……この、気配は…………!?」
『一つの黒翼が消えかけ、また……新たな黒翼の反応が生まれた。我のマーキングも今、消えた』
「……この剣は、もう少し分かりやすい言葉を選ぶ練習が必要があると感じる」
よく言った、ナージア。
そう言いたかったが、着地が近い。舌を噛みそうなので黙っておく。ヴァギリを鞘に納め、全身でナージアにしがみついた。
おい、これ……もしかしッ…………!!
…………ハァ。くそったれ。
――凄まじい衝撃だった。言ってくれれば緋翼を展開したのに。
端的に言うと、ナージアは着地がへたくそだった。初めての飛行に上手も下手も無いのかもしれないが、氷に覆われた地面を深く抉りながらの着陸となった。というか、斜めに激突したんだな。山肌に体当たりした形だ。
眼下に広がる急斜面を転げ落ちるよりは山にぶつかった方がマシだろうし、どうしても着地に自信が持てないってんならいい判断だとは思うけど。
で、ここはどこなんだ。ニルドリルはどこなんだ。
答えはすぐに分かった。
――俺たちに向けて、強烈なプレッシャーが放たれたからだ。
その男は、血まみれだった。
『先ほどまでのニルドリルだと思わない方がいい。恐らく全てを捨て、全力で力を振るうだろう』
しかし真新しく身体を濡らすそれは、その男の血液ではない。
『……得たばかりの、新たなる力を』
その男の背後に倒れ伏す影がある。小刻みに痙攣を繰り返すその人物には……左腕がない。
いや、さきほどまでは有ったのだ。いまそれは…………奴の妖刀に刺し貫かれ、持ち上げられている。
「――――あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!」
自分の喉が叫び声を上げていたことに気づいたのは、しばらくしてからだった。
ニルドリルは。…………吸血鬼の隠れ姫、フェリス・アウルムの左腕を食ったんだ。
何のために?
……分かり切っている。さっきのヴァギリの言葉の意味を理解した。
――――フェリス・アウルムの左腕を使って禁忌の邪法を……“同化”をしたんだな!!
そうして奴にもたらされる能力は…………言うまでもないだろう。
「ク……クク……………………」
姫の鮮血を全身に浴びて嗤うニルドリルの背中、肩甲骨の周辺に黒い靄が掛かり、それは直ぐに一定の形を目指して渦巻き始める。
――とても深い黒だ。俺とは比べ物にならない。もしかすると、フェリス……マリアンネのものより漆黒に近い。
奴こそが真の悪魔だと言われれば、もはや疑う者はいないだろう。
夜の帳のような翼がニルドリルを抱くように折り重なり、包み込み、弾けた。
「――クハハハハハハハハハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハ!!」
高らかな嗤いと共に露わにした顔面には、大火傷の後も、古傷も存在しない。
10年ほど若返ったような印象を与える悪魔は、心底楽しそうに妖刀をこちらへ差し向けた。
「――――さあ、始めようか。最高純度の吸血鬼の力を前に、アニマがどこまで抗えるかを見てみよう」
お読みいただきありがとうございます。
vs背信の軍師、絶望の後半戦開幕です。