第122話 3本の腕
◆ベニー◆
壁の穴からこっそりと覗き込むようにして、あたしはそれを見た。
左腕が折れ、治療も虚しく再び怪我人へと返り咲いたレンドウ。だけれど、彼自身はまだ折れていなかった。
レンドウの背から噴き出した黒いもやのようなもの――緋翼というのだったか――が翼のように、矢のようにクレイジー女を襲った。
「あははっ!! んだそれぇ!? オマエ人間じゃねぇのかぁ!?」
それを回避し、見極めるために女が後退すると、レンドウはその隙に右手で短剣を抜き放った。
金属が滑る音は響かなかった。何らかの骨でできているのか。象牙色の刀身は40センチ程度で、ダガーというには大振りかもしれない。
持ち手の前面に逆さまに生えた牙のようなものが生えていて、それが使用者の手を護る役割をしているようにも見える。
向きが決まっているということは、片刃なのだろか。
そもそもレンドウがこの手の武器を使っているところを一度も見たことが無いのだが、ぶっつけ本番で上手くいくものなのか。
しかし、その心配は杞憂だったようだ。
矢のように放たれたレンドウ、その救い上げるような斬撃が女の胴を薙ぎ……いや、防がれた? 女は左手を斬撃の軌道上に晒した。てっきりそのまま腕が吹き飛ぶところを想像したが、まるで手ごたえが無い。
まるでレンドウの振るった刃が、ゴムでも浅く切り裂いたかのようだ。黒い飛沫のようなものが弾け、しかし女に苦痛の色は無い。
「……あァ?」
レンドウも不思議に思ったのだろうが、攻撃の手は緩めない。身体ごと女に体当たりを仕掛け、その勢いのまま右腕を振り下ろした。
女が右腕を軽く振ると、それはぐにゃりと蠢き、次の瞬間には腕から藍色のブレードが生えていた。まるで魔人だ。これこそが彼女の武器……ザツギシュなのか。
両者による、剣戟の応酬が始まった。
音は殆ど響かない。故に、ともすれば優雅に踊っているようにすら見える。
入れ替わり立ち代わる両者の位置に、死が突き立てられ、刻まれ、また躱す。
終わりの時もきっと静かだろう。目を離せば一瞬だと思うと、心臓は早鐘を打ちだした。
絶対勝ってもらわないと困る。あたし多分何にもできずに殺されるもん。
奇妙なことに、女はよく跳躍する。高所からの攻撃が弱いとは言わないが、一般的に跳躍することは悪手だとされる。空中で足がかりになるものが無ければ、ふいの攻撃を回避できないからだ。
なのに、女は飛び、そして空中で動きを制御する。まるで宙を蹴っているかのようだ。
いや、実際蹴っているのか。女の脚。まさかあれもまた……?
女の腕が変貌した刃は、レンドウが使うものよりずっと長い。とは言っても、右腕の拳が握っているのではなく、右腕の半ばから剣が生えている状態なので、両者のリーチに差はなさそうだ。
左腕が動かないのがネックではあるが、レンドウは時折背中から翼のようにも触手のようにも見える緋翼を伸ばし、女をけん制している。2本の緋翼に一本の剣。まるで腕が3本あるかのような立ち回りだ。
だが、決定打が与えられない。レンドウの攻撃がようやく女に命中しようという時、必ずそれは女の腕、もしくは足なのだ。
刃を弾くでもなく素通りさせるその四肢は、見るからに人間の性質のものではない。
――――改造してるな。
「死にな、怪物ゥゥ!!」
そこまで考えた時、女の左腕もが蠢いた。何が来る。悪寒が走った。そこに在ったのは、銃身だ。火薬を吐き出すための残虐な顎だ。
引き金こそ存在していないが、だからと言ってそれが何も吐き出すことができないとは考えられなかった。レンドウの身体など容易く食い荒らす、人類が生んだオーパーツだ。
人類と魔人。彼我の実力差を補って余りある、悪魔の武器。
「――――ッ!!」
先ほどここに落ちてくる前に拳銃で撃たれたレンドウも、その恐ろしさは実感済みなのだろう。
緋翼を盾のように使っても無駄だ。穴だらけにされる。それが分かっていたからこそ、レンドウの緋翼は銃身めがけて殺到したのだろう。
空気を切り裂き、漆黒の腕が女の左腕を……銃身を掴んだ。そして今にも破裂するところだった砲門に入り込み、詰まらせようとしたのか。
それでも発射は防げなかった。
耳を裂く轟音。獣の咆哮より酷い。奥歯をかみしめて耐える。
すんでのところで銃身の向きを変えることに成功したらしい。緋翼を貫きつつ天井を穿った砲身は、しかし歪んでいた。あれならもう、使い物にならないんじゃない?
いける。あたしがそう確信すると同時に、いやもっと前から彼は動いていた。唖然とする女の左腕を付け根から抑えるように壁へと蹴り込み、「がはっ……」象牙の短剣を振りおろし、女のブレードも押さえつけた。
いい体勢だ。あとは意識を落とせれば。あたしが出ていって、止めを担当するべきか?
――それも必要なかった。
二条の緋翼が立ち上り、一本はもがこうとした女の脚を絡め取り、もう一本は女の首に巻きついた。
「……が……ぐっ…………」
「諦めろ。これで……終いだ」
十数秒ほど粘った後、ようやく女は沈黙した。
倒れ込む女を抱きとめながら、それでもレンドウに油断は無いようで、慎重に女の四肢を緋翼で拘束し直していく。
そこまで横ばいで見届けてから、あたしも燐光の通路へと這い出した。
「お疲れサマ。その子がアザゼルの探してた女の子かな」
「あァ、さすがに間違いないんじゃねェの。あとはここから出るだけだ」
「それにしても、怖いもんね」
レンドウが地面に寝かせた女の子を眺めながら呟いた。
「ん、何が?」
「人間の有り様が、よ。こんな風に全身を改造して……この子、生身の部分は残ってるのか怪しいもんよ」
こうしてみると、結構きれいな顔をしている。私よりも若いだろうに、人間っていうのは、どうしてこう。
「それは俺も思った」
レンドウはここにはいない何かを思い浮かべるように、これから目指す上への道を見た。
「でも、生き残る術がそれしかなかったんだろ。ヒトに対抗する武力がないと人間が安心できないんだってんなら、仕方ねェよ」
「なに達観したようなこと言ってんの?こんな改造人間みたいなのが溢れかえるようになったら、魔人なんて一瞬で駆逐されちゃうよ」
「もうされてんだろ」
レンドウの諦観したような口調に、かちんときた。
「なに、あんたもしかして人間の方が魔人より上だって思ってんの? 諦めてんの?」
言うと、レンドウはお返しとばかりにあたしに対して懐疑的な視線を送ってきた。
「お前こそなんだよ。あわよくば人間のことを滅ぼしてやろうとか考えてんのか?」
……いや、別にそこまでは。
「考えてないけど」
「じゃあ、いいじゃん。俺ァそこまで人間を悲観してねェよ。力を手に入れたくらいで……人間がヒトをいたずらに滅ぼすとは思わねェ」
……あのさ、さっきからさ。
ヒト、ヒトってうっさいんだよ。あんたはレイスに毒され過ぎだ。
それにレンドウの言う“人間”は、相当に範囲が狭い。殆どがヴァリアーの連中だ。
そんなものは例外中の例外だ。
この吸血鬼……じゃない、アニマのお坊ちゃん、相当ぬるま湯に浸かってきている。そう直感した。
あたしが軌道修正してやる必要があるかもしれない。
そして、あわよくば…………。