第87話 染色する弾丸
――視界がぐわんぐわんと揺れている。
違う。
揺れているのは、世界そのものだ。
「い、いやぁあああああああああああああああああああ――――!!」
わたしの乗る馬車、それ自体が持ち上げられているんだ。
なんで。どうしてこんなことに。
父さまも母さまも戻って来ない。さっきのあれが、今生の別れだったっていうの?
うそ。
わたし、何も悪いことなんてしていないのに。
母さまが言ってたじゃない。悪いことをした人間は、いつか報いをうけるものだって。だからいい子にしてるのよって。
――だから、わたし、今日まで。
窓の外に、とても大きな、毛むくじゃらの怪物が見えた。
痛い。床が、大地と空が何度も入れ替わって、わたしの体は箱の中であっちこっち跳ねまわる。「あうっ……」いっそ死んでしまいたい……なんて、そんなことは少しも考えなかった。
生きたい。生きていたい。
こんなところで死にたくない。
それは、離れた位置で動かなくなった愛馬を見ても、ついに壊れた馬車から投げ出され、わたしに向けて怪物が腕を振り下ろすときになっても、変わることはなかった。それでも、目はかたくつぶった。
やっぱり、とっても怖かったから。
「おばあちゃん……!!」
その瞬間、口から飛び出たのがもう会えない人だったのには、いったいどういう意味があったんだろう?
自分の世界からいなくなってしまったひと。でも、もうすぐ会えるね。今からわたし、そっちにいくから。そういうことかな。
「はああああっ!!」
そうだとしたら、これはいったいどういうこと?
――わたし、まだ生きてる……。
恐る恐る目をあけてみると、目の前には真っ白い髪をした人が、わたしを庇うように立っていて……。
「おばあ、ちゃん……」
呟きながら、わたしは安心したように、意識が重くなるのを感じた。
真っ暗になる直前に、知らない声が聴こえた。
とても、優しい響きの声だった。
「僕は君のおばあちゃんじゃないよ。ついでに言うと女性でもないよ。だけど……」
そう言って、レイスはトロールの攻撃を防いだ白い盾を、小回りの利く大きさまで縮小させた。
「絶対に、守り切ってみせるよ」
◆レンドウ◆
その名前を聴いた瞬間、いや、正しくは認知した瞬間、俺は全身の血が沸騰したって称される感覚ってこれか、と思った。
そして、それに付随するように自らが走り出していることに気付くのは、それより大分後の事だった。あれ、不思議だな。そう考える自分こそが俺……のはずだ。
―― コ イ ツ ヲ コ ロ セ 。
……だってのに、自分の脳みそには冷静でない部分があって、どうにもそれが勝手に動くことを止められそうもなかった。
この衝動を、怒りを、抑え込んでしまったらいけない。きっと、俺は“また”狂ってしまう。
理性をなくして他人の命を奪った、あの日のように。
――自分の内に潜んだ魔物を、飼いならさないといけない。
まずは、ゆっくりと。こいつの望む条件を折り込みながら、余計な被害を周りに出さないように。
俺の中の魔物を大人しくさせるにはつまりどうやってもお前は死ね。殺す殺すエイシッドてめェは誰が許そうと殺す情状酌量の余地なんて無ェ殺す腐った亡骸を槍に死にやがれ串刺しにされて晒せそんなものじゃ死に晒せ生ぬるい今すぐに!!
「エイシッドォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
ほら、すぐこれだ。頭の中で声の大きい方の俺が、怨嗟の叫びを上げている。それが五月蠅過ぎて、冷静な方の俺までイライラさせられる。意識が引っ張られる。
それでも目的は同じだ。
俺はエイシッドの企みを阻止しなければならない。こいつはヴァリアー襲撃の際、裏で糸を引いていたとされる人物だ。魔王軍の過激派と手を組み、奴らの襲撃を手引きした。しかも、それも他人を利用してのことだ。それだけじゃない。こいつはヴァリアーの中でスパイを育成していた。余罪なんて、どうせ腐るほど出てくる。
何人の人間を苦しめてきた。
何人がお前のせいで涙を流した。殺せ殺す殺す殺す……おまえ五月蠅いな、本当に。ああ、いいぜ、お望み通りやってやる。どうせ、こいつの野望を止めるっていうのは“俺たち”の共通認識なんだ……。
力強く踏み込むと、地面が陥没する感触があった。端的に言えば、割れていた。やわな素材だ。エイシッドに肉薄した俺は、瞬く間に大きく映るようになった奴の顔面に手を伸ばした。
――ヒキズリタオセ。
――わかった、そうしよう。
だが、俺の手が掴んだのは……いや、違う。俺の手が掴まれていた。確かに掴まれている感触はあった。
しかし、その手の主は見えぬまま。
荒い息遣い、シュルシュル、という異音だけを俺の耳に残し、それは離れる。……否。離れていくのは、俺の方だ。投げ飛ばされたのだ。
「がは……ッ」
壁に叩き付けられて、声の大きい方が熱に浮かされたように反撃しろ、殺せ殺せと喚き声をあげるが、ことはそんなに単純な話じゃない。
「残念だねぇ、レンドウ君。僕はそんなに強くないんだけどねぇ、あいにく周りには頼れる仲間がついていて、さ」
こいつ、何を飼ってやがる……?
この男がペラペラ開示してくるうざってェ言葉を信じるなら、本体は弱いけど取り巻きが厄介、そういうタイプのボスかよ? そういう奴は、取り巻きを無視して本体を叩くのがベスト。……いや、それは本体を倒して終わりの場合だ。これは現実なんだ。こいつを殺す間に、俺が怪我を負わせられる訳には行かない。死ぬわけにはいかない。刺し違えるなんて、死んでも御免だ。いや、死んでもって。死んじゃダメなんだって。
――ちっ。見えない敵なんて、冗談だけにしてほしい。
地面に足がついてすぐに、腕を振り払った。が、そんなことに何の意味があろうか。それにあたるほどの距離に、悠長に見えない敵がいつまでもいるかってんだ。もし、俺がそんな能力を手に入れたなら。
「ぐ……ッ!」
風を切る音が聴こえて、とっさに左に跳躍する。俺が今まで背中を預けていた壁が爆発した。抉れていた。なんだ、パンチか? それでここまでの威力を出せるのか。
まさか、道具を使ってはいないよな。棍棒とか。自分が持っているもの、身に着けているものまで透明にできるんだろうか? いや、できないとすれば、いまこの透明な敵は全裸ってことかよ。……だからどうした。
それとも、認識阻害の一種か。エイシッドには今も普通に見えない敵が見えていて、俺だけがそいつの魔法によってそいつを認識できずにいる……? なら、エイシッドの視線を追うことで……「うぐッ!!」背中を打ち付けた衝撃は、トロールの拳もかくやという程だった。そして無様にうつ伏せに倒れ込んだ俺の……どこを掴まれている。引っ張り上げられる。
ずたずたに引き裂かれ、肌の大部分が露わになっている服。それの残った部分――くそ、的に利用されるくらいなら全部脱ぎ捨てておくんだった――首元を掴まれていた。両手でかきむしる様に自ら服を破いて、その拘束から脱出する。上半身裸だよチクショウ。つんのめるように前方に数歩かけて、立ち止まろうと……した時には、眼前にエイシッドが迫っていた。
「隙あり」
「……ッ!!」
避けられない。顎を狙ったその蹴り上げに、口を閉じているのが精いっぱいだった。
「ま、そもそも君は隙ばっかりだけど」
喉元に緋翼は発生させられないんだ。全身のどこでも守れたらいいんだが……。
脳みそが振動する。それに弾き飛ばされた俺を、後ろにいる見えない敵が放っておくはずも無い。ああ、こんなの……リンチでしかない。
むしろ、狂った方が楽かも。そうしたら、俺の中の怪物が、情け容赦なく全力で、辺り一面を焼野原にしてくれるんじゃないか?
駄目だ、そんなこと……。
「くっ、エイシッド……」
意識を手放してはいけない。こいつに苦しめられた人々を思い出せ。怒りでも悲しみでもなんでもいい。ただ、この世にしがみ付くための活力を得ろ。
イオナ。アンナ。ミンクス。ヒガサ。……女子ばっかりかよ。えーっと、ガンザ、アストリド。
……ハッ、挙げきれないだろ。ヴァリアーの全ての人間が苦しめられたといってもいいじゃないか。勿論、俺の知っている人間だけだ、俺が挙げられるのは。
……そうでないと、意味がない。
知り合いの不幸だからこそ、感情が強く揺り動かされんだ。
――いいぜ、怪物。力を解放しろ。
俺だって死にたくないんだ。
お前の力を、俺ができるだけ絞るから。
俺の許しを得るまで待ってくれていたわけではないだろう。そもそも、ずっと押さえつけていたんだ。俺を憎んですらいたかもしれない。
――ガラニモナイコトヲイウナ。オマエモコロシタイハズダ、サア!!
「ッザァァアアァァアッ!!」
背中から、そして突き出した両腕から、闇雲に緋翼を放出した。それは威力なんて伴ってなくて、ただの目くらまし程度の役割しかできず、対敵が鼻で笑ってしまうような、そんな悪あがきに見える。
だが、これが俺の中に棲む魔物が。戦闘種族としての本能が解き放つ暴力の一端。
そして、俺がそれを制御しにかかった故に生まれた、殺傷能力を持たない、黒き嵐だ。
エイシッドが顔を覆っていることを確認するや、振り返る。
そこに、奴はいた。
「丸見えだぜ、クソセコ野郎」
染色する弾丸とでも名付けようか。全方位に放たれた漆黒の塗料、それを動かないものからのみ回収してやれば、この通り。生物の姿だけが黒く、浮き彫りになる。自分が出した緋翼の位置を把握できるという、この俺のマーキング能力も合わさる。
もう、逃がしてなるものか。
自分を俺が真正面から見据えてきたことに、果たしてそいつは……可視化された対敵は、驚く暇があっただろうか。いや、そんなものは与えない。
それ以前に、視界すら塞がれちまってるかもしれねェけどな。
シルエットを見た限り、そいつは人間のような骨格をしていて、かなりの猫背。すらっとした身体の末端には、巨大な尻尾が生えている。二足歩行する爬虫類みてェだな。自らの顔面を覆ったその手は、やはり緋翼を落とそうとしているのか。真正面から喰らっちまったんだな。
でも、まだ喰らい足りねェだろ……?
遠慮なんてする必要ねェから。ほら、こいつをオカワリさせてやる。
固めた拳を、思い切りそいつの腹にぶち込んでやった。救い上げるように放ったそれに対象が持ち上がると、その真下に侵入した俺は、落下してくるそいつにピアスを重ねる。
突き破って、抉りとる。
「ケルッ……!」
異様な鳴き声だ。そいつからこぼれ出る血とも体液とも言えないようなそれを浴びたくなくて、俺はそいつを壁に叩き付けた。見ようによっては、さっきのお返しだった。
頭の中で、魔物が鬨の声を上げた。だが、まだ獲物はいる、とも。……鬨の声って単一の叫び声に対して使ってもいいんかね。
未だに顔を覆っているエイシッド。緋翼をばらまいた限りでは、周囲に今のやつ以外の手駒はいないはずだ。なら、すぐに終わらせる。
「お前も今から、仲間の後を追わせてやる」
敵を一体沈めたことで、溜飲が下がったのか? 静かになった魔物のお陰で、頭は冷静な思考を取り戻してきた。
そのおかげなのか。エイシッドにピアスを突き出す瞬間も、俺は油断を殺せていた。
男が突然顔を上げ、そこに緋翼が全く張り付いていないこと。張り付いていたのは気味の悪い笑みだったこと。それに、それほど心を揺り動かされるに済んだ。この野郎。フェイクだ。
「な~ん、ちゃって」
ただ、普通にムカつくけどな。
跳ね上げられた細剣に、俺のピアスは弾かれた。
「ちっ……」
いっそ、こいつが突き出してきた細剣に左手でも差し出して、腕一本を犠牲にする覚悟でぶっ倒した方が早いんじゃねェのか。そう思ってしまった。
というのも。
「ほら、ほら、ほら」
右、左。また左。時折、俺の眼球目がけて繰り出される、捉えどころのない攻撃。しかも、速い。
こいつ、雑魚じゃねェ……!
視力を奪われれば、俺でもまずい。後からじっくりと、いくらでも料理されちまう。
尚且つ、必要以上に攻め込んでこないため、肉を切らせて骨を断つ戦法も使いづらい。
だがこいつ、一体何を考えている……? その調子じゃ、お前にだって勝ちはないだろうに。
……時間を、稼いでいるのか?
何のために。
……何匹の魔物がこの街に放たれてるのかは知らねェ。そいつらが、ここに来ることに賭けてるってのか。だとすれば、それは余りにもお粗末な策じゃないか。
戦ってみて解った。怪鳥は予想がつかないものの、トロールやヘルハウンドは、俺と仲間達ならば充分に対処できるレベルだ。
勿論、戦いとは縁がないだろうこの国の一般市民は逃げておくのが無難だけど、それでも戦える人間だって多少はいるはずだし、そういう奴らにとって、デカいのは……うん、まあ無理でも、小さい犬くらいはいけるんじゃないのかっていう。
要するに、鎮圧は時間の問題ってことだ。
そもそも、何を目的にこの街で襲撃を仕掛けてきたのかは分からないが、……相手の力量を見誤ったのか。
なら、それと共に……散々働いてきた悪事のツケを、払ってもらうぞ。
「おい、あんたら……!?」
「なんっ、なにしてんだあ!!」
複数名の足音、そして叫び声が聞こえた時、俺は勝利を確信した。
「戦える奴を呼んで来てくれ!!」
振り返ることはせず、そいつらに向かって呼びかける。
これでお前も終わりだ、エイシッド。
まあ、少しばかり心配なことが無くもないんだけどな。果たして、一般人はこいつが悪人だって見抜けるのかってこと。片や警備隊の制服を着た男、片や服すらまともに着ていない鬼の目をした男。あちゃー、俺にできるのかね、人様の信頼を勝ち取るなんてことが。
……なんて。
そんな風に未来の心配をしていること自体、俺は甘かった。
甘々だった。
甘すぎて、吐き気がする。ゲロ甘ってやつ。
最初に疑問に思ったのは、誰からも返事がないことだった。
「くひっ、うひ、ひっひっひっひっ」
そして次に、眼前の敵の、更に深まった薄気味悪い笑み。
「だぁーーーーはっはっはっはぁ!! 甘すぎだぜぇレンドウくぅーーーーん!!」
「な……に……っ!?」
心から、勝利を確信したような嗤い声。演技なのか。
いや、違う。
己に振り返るなと言い聞かせていたはずなのに、俺は。
背後より迫りくる、無気力な殺気……言い得て妙だが、それを受けて、跳び退りながら注視してしまっていた。
重苦しい衝突音。
振り下ろされていたのは、鉄パイプ。向こうに見える別の男は、木材を手にしている。
それをどう使おうとしているのかは、最初の男の時点で明白だった。
「操られ…………たってのか!?」
こんな、一瞬で、か!?
「だけど、レンドウ君の案はいいねぇ、名案だよ。じゃあ、精々沢山の人を呼んで来てくれたまえ!」
そして響いた、エイシッドの声。うめき声を上げて、中年の女性が走り去っていく。命令通り、人を呼びに……?
「そ、そんな無茶苦茶があるか!」
いや、そうだとしても。
だったら一刻も早く、術者を倒すだけだ!!
「エイシッドォ!!」
少量の手傷などもう気にしてられねェ。そう思い至り、跳びかかる俺。その叩き付けるような手刀、そしてピアスの刺突。
砕ける細剣。肩を貫いたピアス。
それでも、殺すまでには至らぬまま。
「時間切れだ、レンドウ君」
にやりと嗤うエイシッド。
「何を……」
「レンドウさん!」
その一声で、俺は理解した。
理解してしまった。
「うん、その子なら良さそうだ」
やめろ。
「僕の為に、戦ってくれるね……?」
「守ゥゥゥゥ!! こいつを見るなァァァァッ!!」
叫びながら、俺はそれから目を反らし続けることこそが……己の死を決定づけることであると。愚かな逃避でしかないと気が付いていた。
だから、防御の構えをとりながら、それに向き合わなければならなかった。
俺の視界を埋め尽くしたのは、信頼する仲間による凶刃だった……。