前編
ある冬の夜。
新西日本鉄道・芦途駅の改札口付近に、一人の女性が佇んでいた。
膝まである紺色の長いコートに身を包み、淡い桃色のマフラーと手袋を着用している。戦場へ赴く戦士のごとき重装備だ。しかし、そんな暖かそうな上半身とは逆に、足下は寒そうである。というのも、黒ストッキングにパンプスという軽装なのである。
仕事帰りのサラリーマンやOL。部活帰りの中高生。
人々が早足に行き交う中、彼女は一人、ずっとその場に立っていた。肩まで伸びた雪のように白い髪を揺らしながら。
「瑞穂!」
そこへ、一人の男性が現れる。
やや白髪混じりの頭で、一見年寄りにも見える容姿だ。だが肌には艶があり、そこから、さほど高齢でないのだと推測できる。ひげはきちんと剃られ、ほとんど見当たらない。さっぱりとした顔面である。
「宰次さん!」
白髪の女性——瑞穂は、退屈そうな顔を上げる。だが、宰次と呼ぶ男性の姿を瞳で捉えるや否や、その面に花を咲かせた。
「待たせてしまいましたかな?」
「いいえ。まったく」
「それなら良かった。ふふ。では行きますかな」
宰次は瑞穂に視線を向けて微笑む。それに気づいた瑞穂は、すぐに柔らかく微笑み返す。
こうして歩き出した二人を包む空気は、穏やかそのものだった。
◆
「やはりここなのね」
宰次と瑞穂が向かったのは、駅前のドーナツ専門店。
新日本で最も有名と言っても過言ではないドーナツ店で、太陽のようなオレンジ色の店構えが印象的である。
「問題がありますかな?」
「いいえ。ドーナツ、私も好きよ」
「そうでしょうな、ふふ。ドーナツは最高ですからな」
瑞穂にドーナツの良さを認めてもらい、宰次はご満悦だ。彼は満足げに頬を緩め、弾むような足取りで店内へ入っていく。続いて瑞穂も、自動ドアを通過した。
入店した二人に、アルバイトの女子高校生が明るく、「いらっしゃいませ」と声をかける。二人は軽く会釈して、店の奥へ足を進めた。
夜間にもかかわらず、店内にはまだ数人の客がいた。会社帰りの男性がメインだ。そんな中で男女の二人組というのは、やや目立つ。
「この席で良い?」
瑞穂は言いながら、一番端の椅子に鞄を置く。
店の隅の二人席。そこが、宰次と瑞穂の定位置なのだ。
「そこの席が好きですな」
「好き。落ち着くの」
椅子にもたれかかるようにして立つ瑞穂。それを目にし苦笑する宰次。二人は、第三者が見ても分かるほど、幸せな空気を漂わせている。
「では僕は注文を。瑞穂はそこに座っていて構いませんよ」
すると瑞穂は、宰次の言葉に素直に従い、椅子に座る。
「分かった。ここで待っているわ」
「注文はいつも通りで?」
「えぇ。ミニ中華そばとドーナツ一つ」
哀愁漂うお一人様の男たちの視線が、瑞穂ら二人に集中していた。
しかし当の本人たちはまったく気づいていない。瑞穂は宰次の姿を眺めているし、宰次はドーナツ選びに必死だからである。
少しすると、お盆を持った宰次が瑞穂の元へ帰ってきた。お盆には、ミニ中華そばのお椀と箸、そしてカラフルなドーナツ五つが乗っている。
ドーナツを手に入れすっかりご機嫌な宰次は、鼻歌を歌いながら、テーブルにお盆を置く。好物を目の前にして、彼は少々浮かれているようだ。
待っていた瑞穂は嬉しそうに、「中華そば美味しそう!」と笑う。彼女の狙いは、あくまで「中華そば」なのである。
「まったく、瑞穂は。女性なのに食い意地が張っていますな」
宰次は呆れたように溜め息をつく。
それから、セルフサービスのコーナーへ、お手拭きと飲み水を取りに向かう。いつも通っているだけあり、慣れた様子だ。
セルフサービスコーナーで作業する宰次の背中に向けて、瑞穂は冗談混じりの声色で言い放つ。
「宰次さん、酷いっ」
夜のドーナツ屋内とは思えぬ、実に微笑ましい光景である。
宰次がセルフサービスコーナーから帰ってくるのを待つ間に、瑞穂は鞄から携帯電話を取り出した。折り畳み式の白い携帯電話には、薄い桃色をしたクマのストラップがぶら下がっていて女性らしい。
瑞穂は届いていたメールを開く。
【今日もお疲れ様。週末、すき焼き行かない? エリナ】
メールの差出人は京極エリナ。
瑞穂の中学時代からの親友で、現在の同僚だ。
エリナは大のすき焼き好きである。
【お誘いありがとう。先週も行ったけど、今週もすき焼きでいいのかな? でも、もちろん参加! 瑞穂】
瑞穂は素早く返信を書いて送信する。そして携帯電話を閉じ、鞄へとしまう。その頃には宰次が席へ帰ってきていた。
「どなたへのメールですかな?」
「エリナに。すき焼きのお誘いが来ていたから、返信を送ったの」
穢れのない穏やかな微笑みを浮かべながら答える瑞穂。
彼女の向かいに座りながら、宰次は言う。
「京極エリナ、ですかな?」
「そうそう」
「なるほど。それで、参加するのですかな?」
「えぇ、もちろん!」
すると宰次は少し不満げな顔をした。
それに気づいた瑞穂は、速やかに提案する。よくこういうことがあるのか、たいして焦っている感じではない。
「もしよかったら宰次さんもどう? 大勢の方がきっともっと楽しいわ」
だが宰次はあっさり断る。
「お構いなく。僕は大勢で騒ぐのは嫌いでしてね。しかも、あの京極とかいう女が苦手なので」
即座に断られた瑞穂は、苦笑しながらお手拭きで手を拭き、中華そばのための箸を割る。そして声をあげる。
「あっ!」
箸を割ったところ、見事なまでに失敗してしまったのだ。
二本の箸が太い方と細い方に分かれてしまっている。割り箸を使った経験があれば分かるだろうが、これでは使い物にならない。いや、使おうと思えば使えるが、不便極まりない状態である。
「まったく。瑞穂はいつも失敗ですな」
「苦手なの……」
「もう八回連続で失敗していますな」
比較的大きな声で言われ、瑞穂は頬を赤くする。
「宰次さん! そんなこと覚えてなくていい!」
「仕方ありませんな。セルフのところからもう一本取ってきてはいかがです?」
「そんな言い方!」
「持ってくれば、僕が割って差し上げるつもりですよ」
いたずらな笑みを浮かべる宰次。
すると、瑞穂はすっと立ち上がった。
「そういうこと。宰次さん、貴方って、意外と優しいのね」
肩を引き上げ笑う瑞穂。
「ありがとう。お箸、取ってくるわ」
最上級の笑みを宰次へ向け、瑞穂はセルフサービスコーナーへと向かう。
暖かな店内には似合わない真っ白な髪が、柔らかくふわりと揺れるのを、宰次は横目で見ていた。ほんの少し、恥ずかしそうな顔をしながら。