第五話
最後の朝は少しだけ気怠げだった。
柔らかな日の光を浴びながら、二人揃って朝風呂を楽しみ、その後で朝食をとった。宿の人にお礼を言ってチェックアウトをした。その間、僕らはずっと身体のどこか一部が触れ合うようにしていた。どちらかが何かを言った訳でもなく、気付けばどちらからともなく、そうやって過ごしていたように思う。
普段と変わらない、夏の朝。
いつも通りの何気ない日。
でも僕達二人にとっては、かけがえのない特別な日なのだ。
前日にレンタルした浴衣を返した僕達は、来た道とは違う道を通って帰る事にした。以前、この街を訪れた時と同じように。
高速に乗らずに、海沿いの道をのんびりと走る。助手席に座るミサは、鼻歌を歌いながら海を眺めていた。でもその手は僕の服の裾を掴んで離さない。
しばらくそうやって走っていると見えて来る灯台。
以前と同様にそこに立ち寄り、一緒に灯台に上る事にした。入場料を支払い、狭い階段を抜ければ、一気に景色が広がった。海風がミサの髪を舞い上がらせ、かぶっていた麦わら帽子が宙を舞った。
「あっ」
気付いた時には既に遅かった。遠くの空に飛んで行ってしまったそれを、僕達はあっさりと見失ってしまったのだ。なぜかそれが僕達のこれからと重なって思えて、酷く悲しく感じてしまった事をよく覚えている。
でもその先の記憶が随分と曖昧だ。
絶対に忘れないようにと、しっかりと焼き付けたはずの記憶はいつの間にか薄れて消えかけてしまっている。それは五年という歳月のせいなのか、それとももっと別の何かのせいなのか。残念ながらわからない。ただただ忘れてしまったという虚しさだけが、僕の中に残っている。他の思い出もいつの日か消えてしまうのかもしれないと思うと、どうしようもない程の寂しさに襲われるのだ。
だからせめてと、僕は思う。残った思い出が消えないように、少しでも長く僕の中に留めておけるように、何度でも何度でもこうやって振り返り、大切に触れるのだ。
だから。
だからどうかお願いします。
ミサとの思い出を消さないでください。
誰にともなく祈った僕は、再び思い出の中へと埋没していく。
忘れている事も多いけれど、覚えている事もちゃんとあるのだ。
明確に覚えているのは、夜になってからの事。
僕達は別れを惜しむように、わざと遠回りをして時間を稼いでいた。
そして最後に訪れたのは、二人で何度も訪れた、ミサの家にほど近い所にある小さな公園。僕達は隅っこにあるベンチに、腰を下ろした。指を絡めるように手を繋ぎながら、身体を密着させる。それでも足りないとばかりに、様々な甘くて切ない言葉と共に、キスを交わした。
何度も、何度も、何度も、何度も……。
その時交わした言葉の多くは、もう僕の中にほとんど残っていないけれど、残っているモノもちゃんとある。
あの時、ミサは泣いていたっけ。
「お願いがあるの」
僕の方を見上げたミサに向けて、僕は首を振る。
「この前の約束はできないよ」
「違うの。本当はそっちが良いけど、それは諦めたから。だから別のお願いを聞いて」
「どんなお願い?」
「任期が終わって日本に帰る時には、連絡して欲しいの。それだけで良いから。お願い……」
身体をこちらに向けて、両手で僕の手を握り締めるミサの目からは、大粒の涙が止めどなく流れていた。
「それは……」
言葉に詰まった僕に抱き付いて泣きじゃくるミサ。
「お願い! お願いだから! 五年間会ってくれなくても良い。連絡だってなくて良い。だから、帰ってくる時だけは私に教えて。」
僕はミサを抱き締め、宥めるようにそっと背中を撫でた。
「どうして?」
「だって…… 私はジュン君が好きだから。だから待ってるから! ジュン君が約束してくれなくても、私は絶対に待ってるから!」
僕の腕の中で、泣き叫ぶようにミサが宣言した。その時の状況に流されて、僕は帰国前に連絡する事を約束してしまったのだった。
それは僕の弱さが招いた事だった。
別れると言っておきながら、中途半端に最後のデートをした事も、絶対に待っているというミサの宣言を拒否できなかったりした事も、デート中に中途半端に優しく接してしまった僕の行動も、全部が全部、僕の意思が弱かった事が原因なのだ。
それが却ってミサを苦しめる事になると分かっていながら。
弱くて情けなくて、優柔不断だった僕が、全て悪いのだ。
ミサの家の前。車を停めた後で、その日何度したか分からないキスを、再び交わした。少しだけしょっぱい味がしたその時のキス。
それが僕達にとっての最後のキスだった。
「今までありがとう。さよなら……」
僕の言葉にミサが悲しそうな顔をした。なぜならそれはミサが嫌いな言葉だから。
『さよならとかバイバイとかは、寂しいから嫌』
付き合った当初に言われてから、僕は必ず『またね』か『おやすみ』という言葉を使っていたのだ。
だけど……。
これが最後になるのなら、中途半端な優しさは見せるべきではないのだ。つい先程の反省を胸に秘め、僕は締め付けられる想いで、ミサを真っ直ぐに見つめていた。
「――うん、ありがとう。さよなら」
目元の涙を何度も拭いながら、ミサが笑った。車から下りて手を振るミサに、僕も同じように手を振り返す。
「さよなら」
もう一度言葉に出して、ミサが答えるよりも早く車を発進させたのだった。
バックミラーに写るミサは、いつまでも、いつまでも、見えなくなるまで手を振り続けていた。




