第二話
さよならデート。
ミサがそう言った、僕らの最後のデート。太陽の強い光が降り注ぐ八月の初旬、つば広の麦わら帽子を被ったミサを、家まで迎えに行く所から始まった。
最後と言いながら、やっている事はいつもと同じ。
なぜなら。
「いつも通りでお願い」
そう言ったミサのお願いを聞き入れたから。
だから僕は、いつも通りの朝九時に、車でミサの家へと向かった。そして既に外で待っていたミサと挨拶を交わし、助手席へと促した。
付き合いだした当初は、随分と時間が早い事を感じていたのだが『少しでも長く一緒に居たい』というミサの言葉を聞いてからは、朝の眠気すら心地良く感じるようになったものだ。
当然、車中の会話もいつも通り。これが最後のデートだなんてちっとも感じさせないミサの態度には正直驚かされた。でもそれが、から元気だと分かってしまうから、僕の胸は強く締め付けられたのだった。
「ねぇ、初めて会った日の事、覚えてる?」
それまでの何気ない会話が嘘だったかのように、突然切り出された話題。車窓から見える景色を眺めるミサは、一体どんな表情をしていたのだろうか。
「もちろん覚えているよ。あの時、雨が降らなかったらって思うとゾッとする」
「うん、私も同じ。まるで映画の主人公にでもなった気分だった」
天気予報では一日快晴だと言っていたその日、気紛れな天気は予報を裏切り、ゲリラ豪雨を引き起こした。突然の雨から逃げるように駆け込んだ図書館の屋根の下。勢いよく駆けこんだせいで、そこにいた人の存在に気付くのが遅れた。寸前で気付いてどうにか避けたのはいいけれど、体勢を崩した僕は盛大に転んでしまったのだ。
「あの…… 大丈夫ですか?」
恐る恐るといった具合に、声をかけてくれたのが、当時大学生になったばかりのミサだった。ミサは、転んで擦り剥いた僕の足をハンカチで拭い、持っていた絆創膏を張ってくれたのだ。
たったそれだけ。
映画という程、ロマンチックな要素は存在していないのかもしれない。
でも僕らにとって、あの瞬間は運命めいたモノを感じずにはいられなかったのだ。
手当をして貰った後は、入り口脇に置かれたベンチに座って、勢いよく叩きつける雨を二人で眺めていた。図書館の中に入るでもなく、雨の中に飛び出して行くでもなく、ただ黙って二人並んで座っていた。
その時の僕らの間の距離は、人一人分くらい空いていたと思う。だけど、そこにいたのは僕ら二人だけで、入り口のドアと雨のカーテンによって遮られたそこは、外界から切り離された二人だけの空間だった。二人きりの世界では、小さな距離なんてあってない様なモノだったのかもしれない。
時間にすれば二十分程度だったけれど、随分と心地の良い時間だった。雨上がりに空にかかった虹を見ながら、僕は勇気を出して連絡先を聞いたのだ。
「手当して貰ったお礼をしたいから」
そんな良い訳を口にしながらも、あの時すでにミサに惹かれていたのだと思う。そしてその時になって、僕らは初めて自己紹介をした。
「伊崎純一郎です」
そう言って僕が名乗れば、ミサの方もスマホ片手に名前を教えてくれた。
「夏木美沙子です」
照れたように笑ったあの時の表情を、今でもはっきりと覚えている。
当時の話をしている内に、最初の目的地である図書館へと辿り着いた。出会った頃から変わらず置かれている、入り口脇のベンチに並んで座る。あの時とは違って、強い日差しが照り付けていたし、僕らの間にほとんど距離はなかった。
でも……。
肩が触れ合う程、すぐ近くにいるはずなのに、僕はミサの存在を随分と遠くに感じていたのだ。人一人分離れていたはずの、出会ったあの日よりも。
「純一郎君」
僕の感じていた寂しさを吹き飛ばすように、明るい声でミサに呼ばれた。
「急にどうしたの?」
「なんとなく。始めはそうやって呼んでたなって思って」
「そう言えばそうだったね。美沙子さん」
ミサの心遣いに感謝しつつ、僕は寂しい気持ちを振り払うように、わざとふざけてミサの肩へと体重を傾けた。
「もう! 何するのよ!」
怒ったように押し返してきたミサの表情はとても楽し気だった。
ミサと二人、おしくらまんじゅうを楽しみながら、見つめた先。そこでは、地面に落ちた溶けたアイスに、アリが群がっていた。僕らにとっての最後の夏。最後のデート。それは、こうしてゆっくりと始まった。
あの時の僕は、この瞬間がいつの日か思い出になった時に、大切な何かが溶けてなくなってしまわないようにと、心の中で願っていた。溶けたアイスを眺めながら。
果たして今、大切な何かは残っているのだろうか。
しばらくじゃれ合った後で、僕らは図書館の中へと足を踏み入れた。出会ったあの日、連絡先を交換し合った後と同じように。
古くなった本特有の臭いを感じながら、僕らは二人でのんびりと歩いた。特に目的があった訳ではない。一緒にいる時間を少しでも引き延ばしたくて、並んでいる本を眺めながら、ゆっくりと。
過去を懐かしんでいると、気になる本を見つけた。手に取ったそれは世界地図が書かれた本。そんな僕の手元を覗き込むようにして、ミサが言った。
「そう言えば、あの時も一緒に地図を見たよね」
振り返り、頷いた。
「そうだね。あの時は楽しかった」
そう、楽しかった。地図だけじゃなくて、いろんな資料を持ち寄って僕達は旅をしたんだ。様々な国を指で辿って。飛行機に船に電車に車、無計画に乗り物を乗り継いで、たくさんの国に赴いた。歴史の深さを垣間見て、いくつもの世界遺産を満喫し、大自然に囲まれた雄大な景色に唖然とした。あの時の僕達は自由だった。
当時の事を思い出しながらゆっくりとページを開いた。
「こんなに遠いんだね」
僕の赴任先と日本とを指でなぞって、小さな声でミサが呟いた。
「そうだね」
僕はそれを否定する事が出来なかった。
「絶対に帰って来てね」
地図を持つ僕の、服の裾を掴んだミサの手が小さく震えていた。
「帰って来るさ。でも……」
「言わないで。分かってるから……」
僕らの関係はここで終わりだと、言いかけた言葉を飲み込んで、手に持っていた地図をゆっくりと閉じたのだった。
図書館を出るころには、時間は十一時を過ぎていた。
「少し早いけど、昼飯にしようか」
「うん」
元気よく頷いたミサの手を握って、図書館に停めた車はそのままに、僕らは歩いて近所の店へと向かった。出会った当時、二人で良く訪れた小さな喫茶店。これといって際立つ何かがある訳ではないけれど、何でもあって居心地の良いその店を僕らは好んで利用していた。
久しぶりに訪れたその店で、ミサはパスタを頼み、僕はオムライスを頼んだ。どちらも出会った当時に好んで食べていた物だった。二人で思い出を懐かしむように食べたそれ。僕は思い出の方が、ほんの少しだけ美味しかったように感じてしまった。
ここで別れる事無く付き合い続けていたら、このオムライスのように、あの時は良かったと振り返る日が来るのだろう。五年間もまともに会えずに過ごすのだから、それは当然のような気がした。だからこそ、僕らはしっかりと別れなければいけない。
中途半端に認めてしまった事はあるけれど、それは一方的な宣言で、ミサの気持ちが変わらなければという『もし』の話。
だからあってないようなモノなのだ。本心ではそんな事思ってもいないはずなのに、そうやって必死になって自分に良い訳を重ねていた。
「この味久しぶりだね。はい」
デザートの、苺のショートケーキをフォークに乗せてミサが差し出した。僕はそれを口で受け止めて、口内に広がった懐かしい甘さに頬が緩んだ。どうやらケーキの味は変わっていないようだった。
「ありがとう。こっちも食べる?」
お返しにと差し出したレアチーズケーキをミサが頬張り、無邪気に微笑んだ。いつもと変わらない楽しい時間。こうしていると、これでお別れだなんて思えない。これから先も付き合っていくのだと勘違いしてしまいそうだ。僕はミサにバレないように注意しながら、唇の内側に噛み付いた。自分の心に喝を入れる為に。
腫れた唇の肉に舌で触れれば、仄かに血の味がした。なんとなくだけど、そこに触れていれば、僕の決心が鈍らないような、そんな気がしたのだった。
テーブルの上、汗をかいたグラス。底の方に残っていた氷が音を立てた。僕は、氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーを飲み干して、小さくなった氷を一つ口に含んだ。ひんやりとした感触が口内を満たし、噛んで腫れた部分が少しだけ沁みた。
「変わらないね」
僕を見てミサが笑う。
「そうかな?」
「うん、変わらない」
何かを自分に言い聞かせるようなその言葉。そんなミサに、何か言ってあげたかったけれど、言うべき言葉が見つからなくて、僕はただ口内の氷を噛み砕いたのだった。砕ける氷の音だけが、僕らの間に響き渡っていた。
それは静寂よりも遥かに強く、寂しさを感じさせた。