⑩奥山に
「お待たせしました」
「別に待ってない。」
ドアを開ければ、すぐ横の壁にもたれた奈良谷先輩が出入り口のほうへ歩き出す。藍色のマフラーを巻くわけではなく、左手で無造作に抱え、巻く様子はない。いくら全館暖房とはいえまだ廊下は寒い。俺はマフラーを巻いた。
「朝いけるか?」
「今からはちょっと。」
朝、夜ヶ丘から三駅、朝霧台駅の事だ。夜ヶ丘には学園と山と住宅地しかないから遊んだり買い物をしたいときは皆、朝霧台駅までいく。夜ヶ丘が夜と呼ばれるため、その対であるかの様に朝と呼ばれることが多い。ちなみにそのとばっちりを受けて、さらに朝霧台から3駅の小日向駅は昼日向という愛称か、もはやただの「昼」と呼ばれていたりする。
学園があるのが夜、遊んだりショッピングをするのが朝で昼は小さな駅だが古着屋さんや古本屋さん、古道具屋さんなどが多いゆえに夜の生徒の利用頻度は高い。
「あの、どこへ?」
正面階段の裏に回った奈良谷先輩はひとこと「まど」
とだけ答えた。少し埃っぽい正面階段の裏には鳥の彫られた古めかしい扉。これはつる、だろうか。詳しく見る前に扉は開き、俺は再び奈良谷先輩を追った。いくつもの本棚を抜ければそこには巨大な窓。8面ほどのそれの前にはステンドグラス風のセロハンの様なものが垂らしてあり、柔らかい光を投げかけていた。時を、季節を、思い出を、音を、凝らせて編み上げた様なそれは静まり返った白の社の静寂によく似合っていた。
死んだ様なではなく、眠っている様なではなく、生を持たないようなではなく、微睡んでいるような静寂を持つ白の社。その静寂の中を、奈良谷先輩はすたすたと突っ切る。その歩みは決して遅くはなく、早くもなく、切り裂いている様でありながら分け入っている様でもあり、何よりこの社に受け入られている様であった。
「1時間しかない。6つ質問、約10分。それでいいか?」
横並び4人席が窓の方を向いて横6列立て3列。1番前の教卓の様なところで振り向いた奈良谷先輩は色づいた空気を纏い、まるで社そのものを味方につけた様に見えた。
「構いません。」
「あー、待て。先に1つ、なぜ話したがってるとわかった?」
「俺も話したいと思いました。イバラとの会話を聞いて、あの状況を見たあとの奈良谷先輩が俺の人となりを確認しないままにはしないかと。」
ふん、と微かには面白そうな光を瞳に浮かべた奈良谷先輩は猫を思わせた。気ままで、自由で、お気に入りのものを取られるのが我慢ならない猫。
「1つ目の質問です。夜との関係は?」
「幼馴染の管理役同士。」
簡潔で的を射てはいるがそれはただの点であって簡潔であり過ぎる。
「イバラの管理のために夜の宝石をもらったんですか?」
「そうだ、これ2つ目の質問な。次」
6つで10分というから油断していたが、この人は俺に必要以上の情報開示をする気はないらしい。この簡潔な答えを逆手にとって欲しい答えを導き出さなければ、この問答はただの雑談以下となる。
「中柴先輩はどうしてイバラを傷つけるんですか?」
奈良谷先輩の淀みない簡潔な返事が帰ってこない。目を細めるでも眉根を寄せるでもなくこちらを伺っている。
「…中柴は俺を好きだが俺が幼馴染としてイバラをより大切にするから。」
やはりあの傷は中柴先輩のつけたもの。
「慶喜の天使について教えてください。」
これで4つ目
「歪なやつ。そろそろ壊れて消えると思う。次」
「中柴先輩を癒す方法は?」
「ない。あれは、俺とイバラに執着しているが俺はあいつに答える気はないし、イバラもあいつを捨てられない。」
結局、聞かなきゃいけないことがなにかよく分からないままに最後になった。聞くべきことは他にある、それでもこれだけは、聞いておきたい。
「奈良谷先輩、さっき言っていた尊敬している人とは、誰のことですか?」
猫が嗤う。牙を剥き、嘲笑し挑発し憐憫するように。
「ーーーーーーー、お前のーーーーだ」
ォォォォオオォオオォオ
白の社が、酷く苦しげに哭く。
「ありがとう、ございました」
そして俺と先輩は隅にあった飾りのないすりガラスの窓から外へ出た。
風が冷たい
ふと、そのことに気づいて腰を上げた。
さっきまで暖かかった陽だまりはもうどこにもなく、芯まで冷え切った体はビリビリと痺れ動きを阻害する。白の社の門はひんやりと無生物の冷たさを背筋に染み込ませ、自分までもが無生物の一部に喰い込まれたような錯覚を起こさせた。
すっかり暗い夜に覆われていた。
一人、灰色の寮を目指す。
くすんだ赤の建物群は、錆びついたメトロノームのように動くことなく何か不安になる寂しさのような沈黙をまとって粛々と立ち尽くす。
太陽の塔と呼ばれる灰色の寮だけが、明るすぎる赤を纏うのは悍ましくていただけない。
枯れた大地に1つぽつねんと芽吹く紅葉は、その木陰を求めるものや、その赤々とした葉を求めるものに求められ、欲せられる、奪われて、きっと心に硬い樹皮をまとうだろう。
しんとした、くすんだ赤の間に、俺以外の音はない。そっと、本当に小さく。
久しぶりにあの黒猫の名を口ずさんでみた。
それでも、錆びついたメトロノームはもう動かない。
夜に重々しく封じ込められた音たちは、まだ見えぬ朝を待ち望んで静かにその音を凝らせる。
夜の帳は、音を隠し、光を遮り、闇を見せ、少年少女を惑わし恐れ、怖れ、畏れさせる。
ぽつねんと歩む獣の呼び声は
赤の間に溶けるでもなく消えるでもなく
静かに染み渡っていった




