表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

三、早瀬に控ゆ

       三、早瀬に控ゆ


 二十年前の五国同盟を前に、五十土城城主の政継が一番説得に手こずったと言われているのが、西海に浮かぶ堀島を領土とする金山だった。

 金山という名の通りに金やら銀やらが出るこの土地は、元々は罪人や海賊あがりの者たちが居座って国を造ってきた。そのため、海戦にめっぽう強く、領地を血で汚すこともない。金はあるから列島外の外国との交易も可能で、武器も物資も豊かであり、無理をして同盟を築く必要がないのである。またそこの黒羽共も特殊で、本島の者たちとは一線を画すほどの仕上がりであったと、戦場に出た者たちは語る。幼い頃から薬で頭と体を統制され、特に戦闘に特化していたという。

 だが、そんな金山で自慢の黒羽による事件が起きたのは、他の四国にとっては勿怪の幸いであった。

 これは、五国内でも一握りの人間しか知らない事件である。広めてしまえば、己の国でも同じことを起こそうと考える輩がいないとも限らないからだ。

 ――黒羽による反乱。

 これを鎮圧するために断腸の思いで金山は四国から助力を受け、それと引き換えに同盟の足枷をはめられたという顛末である。

 反乱の理由は、未だ不明。列島の中で最強と言われ、非人道的とはいえ良く統制されていた黒羽が、束になって守るべき主と国に反旗を翻す…あまりに常軌を逸した事態に、他国の干渉が疑われたが、それもまた解明されていない謎である。ただ、この事件をきっかけに、金山の城内では側衆の何人かが黒羽に簾げ変わったという話だ。

 金に輝く山が一夜にして黒雲に覆われ、荒れ放題の禿山と化したと揶揄され、この事件は黒山の変という名で密かに語られている。


 日の光の下だと更に目立つ金の髪のトゥヤを、一度視界に入れたら最後、誰もがしばらく呆然としてその姿に動きを止めていた。トゥヤは髪や瞳、肌の色を抜きにしても美しい顔立ちであるのに加え、そのすらりと伸びた四肢を惜しげもなく外気に晒しているのだから、好奇の目は避けられない。

 トゥヤが腰を落ち着けているのは街道の茶屋だが、そこの主人もやはり団子と茶を差し出しながら、物珍しそうに何度もちらちらとこちらを盗み見ていた。

 トゥヤは子供のように団子を口に銜えながら露出の多い足をぶらつかせ、茶を啜った。桂と同じく罪人のように髪が短いのが、また興味を引く。

 トゥヤはとぼとぼと歩いてくる雪織たちを見つけて、元気良く手を振った。

「イヂーイヂー!待ちクたびれて、団子五皿も食べちゃった!団子は美味しいよね~…って、どウしたの?顔、暗いわ」

 一行は雪織とトゥヤの女子二人だけを茶屋の椅子に座らせ、残る男二人は団子挟んで向かい合った。餌の匂いを嗅ぎつけてやって来た勘太郎が、道端に足を落ちつけてこちらを見ている。

 飛も雪織も勘太郎に気付く様子がないので、仕方なく桂が自分の団子を一つ投げてやると、勘太郎はそれを見事に空中で受け止めた。

 嘴を何度も開け閉めして団子を少しずつ食べる勘太郎を、トゥヤが物珍しそうに見つめた。「和津奈、ヴァローナ黒いのね。向こウの鴉は灰色だから不思議」

 愛想をふるように可愛らしく小首を傾げた勘太郎に微笑んだものの、トゥヤはすぐに空を仰ぐようにしてくるりと大きな目を回して聞いた。

「…何があったの?トビとユキ、おかしい」

「よくある話だ。以前の仲間が裏切って襲ってきた」

 団子を頬に詰めながら淡々と言ってものだから、雪織は目に涙を溜めたまま、思わず桂を睨み上げてしまった。一瞬目が合った桂は、喉に団子を詰まらせそうになって咳込む。

「ぐ…ぅ!げほっ」

「カツラ、茶」

 呆れ顔でとぅやが手渡したお茶を受け取り、桂は雪織から顔を逸らした。

「その仲間はどウしたの?」

「…けほッ…こ、殺しては、いない。傷は負ったが…」

「それじゃ、きっとまた来ルね」

 雪織は膝の上でぎゅうっと拳を握りしめた。その前で立つつくす飛はずっと地面を見ていたが、やがて顔を上げたので、雪織以外は彼に注目した。

「霧がまた来たら、俺が倒します」

 団子による危機から脱した桂が、不思議なほど穏やかな飛の顔を見つめた。

「…主を裏切ることになるぞ」

「いや」

 飛は首を横に振った。雪織は彼の顔を見るのが怖くて、自分の拳から視線を外さなかった。そのくせ耳に全ての意識が集中しているようで、飛の声がよく聞こえる。

「若様を裏切ることになんかならない。若様が本心から雪ちゃんを害そうと考えるはずがないからな」

「だが、主本人の口から聞いた命令だと霧は言っていた」

「もしそうなら、若様は正常な状態ではないってことです。俺が直接会って、問いただします」

「成程な」

 桂は満足そうに笑ってから「詭弁だが面白い」と繋げた。

「主を止めることが、主の為になるか」

「はい」

 飛は下を向いたままの雪織の頭に視線を落とした。

「雪ちゃんごめんね、不安にさせて。でも、きっと大丈夫。俺が何とかする」

 雪織は膝の上へ置いた拳へ、牡丹雪のように大きな粒の涙を落とした。頭に手を置かれたので、尚更それが止まらなくなってしまう。

 雪織は自分が情けなかった。仲の良かった霧が突然敵対してしまい、泣きたいのは飛の方だろうに、自分を気遣って感情を表に出したりしない。泣くしかなくて、しかもそれを止める術も思いつかない雪織とは大違いだ。

「でもいいの?トビは仕事を首になルんじゃない?」

「雪ちゃんを守ることが俺の仕事。それで首になるのはおかしいさ」

 飛のその言葉に、雪織は息を呑んだ。頭が妙に冴えてきて、涙も止まる。団子を食べ終えて日向ぼっこを楽しむ勘太郎が視界に入り、何だか可笑しくなった。

 雪織は涙を拭って、顔を上げた。ある決意が雪織の中に芽生えていた。

「ありがとう飛くん」

 そう言って笑うことが出来た。すると飛も穏やかに微笑んで頷いてくれる。横からじっと見つめるトゥヤの視線が痛く、雪織はそちらを向いた。

「トゥヤさん?どうしたんですか?」

「……別に」

 トゥヤは大きなその目をまたくりんと上に向けて、立ち上がった。

「目的は城まで雪を送ルことって言ってたけど、城に着いたら着いたで危ないんじゃないの?」

「確かに。でも城の中に入ってしまえば、大っぴらに襲ってくることはないと思う。事情を知らない側衆たちの目があるからね。勿論油断は出来ないけど。トゥヤ、あんたは付き合うの、城まででいい。中に入ってからは俺が…っ?痛…」

 飛の脛を、突然トゥヤが蹴った。

「何すんだ!」

「カツラもトビも、黒羽って腹立ツ奴ばっかり。一人で何でも出来ルって顔して」

 トゥヤは背中に掛けてあった布団たたきを抜いて、びしりと飛にその先を向けた。昨日の桂の様を思い出して、飛は少々のけ反る。

「いい?アタシたちはユキと仕事の約束をしたの。だから、アンタとは今は仲間なの」

「飛、トゥヤはもっと頼ってくれて良いと言っている」

「カツラ黙れ!」

 トゥヤの白い頬が紅潮した。振り上げられた布団たたきを、桂は難なく避けた。黒羽の筆頭であった男の動きについて行けるはずもないのだが、トゥヤは諦め悪く得物を振り回す。

 突然始まった追いかけっこに、地面でまどろんでいた勘太郎が驚いて飛び上がった。

「……何で布団たたきなんか…」

 呟いたのは、お茶のおかわりを持ってきた店主だ。

「あの形が気に行っているらしい」 

桂が真面目に答えると、店主は心底不思議そうに首を傾げた。

「異国の人は、妙な物を気に入りなさるんだね…」

「同感だ」

 街道を行き交う人々も目立つ二人組の立ち回りに驚き、避けて通って行く。その様子を眺めながら「目立つな」と飛が一言。

「それが難点だ」

「せめて着物を着てもらいますか」

「いや、以前それで癇癪をおこされた。こちらの着物は動きにくいと」

「う~ん…」

 トゥヤに追われながらも楽々と飛とやり取りをする桂を見ていて、雪織も自分なりに悩む。風変わりな格好とはいえ中身は列島人の桂はともかく、何もかもこの国では異端に映るトゥヤの姿は、確かに何とかしないと今後の行く末に関わってくるかもしれない。

「…じゃあ、着物を動きやすくすればいいんですね」

「雪ちゃん?」

 雪織はトゥヤに自分の着替えの小袖を羽織らせてあげることを提案した。

実際に雪織が若紫色の小袖を見せるとトゥヤの方もまんざらではないようで、着替えることを了承した。茶屋の一室を借りて中に入り、さぁ着替えを手伝おうかというところで、トゥヤは悪戯っ子のような目を輝かせてこちらの顔を覗きこんだ。

「ユキ、アタシ良い事思いついたの」

 勝気な口調と強い視線に逆らう術はなく、雪織は言われるがままにトゥヤに従う他なかった。決して手に持つ布団たたきが怖かったせいではない。

 茶屋から出てきた二人を見て絶句したのは飛だ。桂は「成程」と納得している。

 トゥヤは借り物であるはずの若紫色の小袖を膝丈ですっぱりと切った状態のものを羽織った上から、雪織が今まで身につけていた珊瑚色の帯を締めている。下はやはり短い丈の着物のままで太腿が見えており、まるでこれから神輿でも担ぎに行こうかという風だ。しかし、更に問題なのは雪織だった。

「と、トゥヤさんが、いっそもっと目立てばいいって…」

 雪織は今までトゥヤが身に着けていた服をそっくりそのまま身に纏っていた。布地の少ない軽装に慣れない雪織は顔を真っ赤にして、無意味に手足をもじもじと動かした。

「トゥヤ、あんた…」

 文句を言いかけた飛の胸元を、布団たたきがぴたりと狙う。

「アンタ、アタシの見立てに文句でもあルの?」

 そう言って顎をしゃくって見せるトゥヤに、飛は眉間を軽く揉んだ。

「ちんどん屋にしか見えない…」

 呻く飛に、桂が「それか旅芸人だな」と救いにもならないことを言った。

「雪ちゃん……別人みたいだね」

「それが目的でやったの」

 トゥヤは背中に布団叩きを戻した。

「あの、トゥヤさん」

「さん、は余計。この国の敬称ってヤツは、好きじゃないの」

「…トゥヤ?この格好寒いんだけど…やっぱり」

「慣れなさい」

 にっこりと迫力のある笑顔を受けて、雪織は項垂れた。

 満足そうなトゥヤは、更に「二手に分かれる?」と難題を挙げてきた。

「あぁそれなら、雪織は俺と行った方が目くらましにはなるな」

「桂さん?」飛の顔が引き攣った。「…危険です」

「そうか?むしろお前が付いている方が、霧にしてみれば見分けがつくだろう」

「追手は霧だけじゃありません」

「では尚更だ。奴らが探しているのは村娘を連れた旅人であって、異国の装いをした旅人ではない」

 飛が黙ると、桂はその肩を軽く叩いた。

「何も、完全に離れるわけではない。後からついてくれば良いだろう」

 否定の材料を探す飛と、雪織の目が合った。飛の目には分かりやすく心配の文字が揺れている。雪織は出来るだけ明るく見えるように笑って見せた。霧のことがあった後に変わらず優しく接してくれる飛に対してどんな顔をして良いか分からないというのもあるが、それよりも今は、こんな脚を剥き出しにした格好で飛と二人歩くのは気恥ずかしい。

「私もその方がいいと思う」

 すると飛は明らかに不満そうな顔をしたものの「雪ちゃんが、いいなら…」と、尖らせた口で言う。その声は拗ねているようにも聞こえた。

 しかし、突然トゥヤがせっかくの整った顔立ちを苛立ちに崩し、「違ウわよ!」と怒鳴った。

「アタシとユキが、一緒に行くの!」

 女二人の方が尚更目眩しには良いというのである。それだとまた別の危険もあるという説得は、トゥヤの布団たたきの前にあえなく撃沈した。雪織の無言のすがるような目も、もしかしたら一役買ったかもしれない。

 しかし、やはりというか、予想以上に雪織とトゥヤの二人で歩くと、すれ違う人は皆振り返った。好奇の目に晒されることに慣れていない雪織は、ずっと顔を俯けてしまっている。

 飛と桂は少し離れた所からその様子を見守った。あちらはあちらで桂の可笑しな格好のために人目を引くため、街道の脇にある林の中からついて行く。

 体に力が入りっぱなしの雪織に、トゥヤは「恥ずかしがってルと余計に目立ツ」と背中を軽く叩いた。

 自信にあふれたその青い瞳を見て、雪織は綺麗だと思った。透き通るような空の色だ。

「トゥヤはどうして目が青いの?」

 思わずポロリと出てしまった質問に、トゥヤはにやりと笑った。

「ユキはどウして目が黒いの?」

「…生まれつき」

「アタシも」

「大陸の人は皆トゥヤみたいな髪や目をしているの?」

「他の国は知らないけど、アタシたちの国では黒い髪や黒い目の方が珍しいよ」

「そうなんだ。あの…ダニエルっていう動物がいるの?」

 桂の持っていたあの可愛い縫い包みを思い出して聞いてみると、トゥヤは盛大に顔を顰めた。

「アンタもあの縫い包み見せられたの?」

「はい…あれ、私は熊だと思うんですけど、でも…」

「そゥそゥ。何度言っても納得しないのよね。まぁあの縫い包み自体ウチの国で作られた物じゃないみたいだから、本当のところは分からないけど」

 呆れた様子のトゥヤに、雪織は少しだけがっかりした。もしあれが熊でなく、あの縫い包みそのものの姿の生き物であったなら…あんなに可愛い生き物がいる国なら、行ってみたいと思ったのだ。この国にいられなくなるようなら、そんな道もあって良いかもしれない。

「そういえば、トゥヤたちは下条に行く途中だったんでしょう?付き合ってもらっていいの?」ふと疑問を口にする。

「下条、スごいカラクリ人形があルの。それを見たくて向かってたんだけど、旅費が心配だったのよねぇ…カツラは迷子になルし、余計な火薬を使ウし。つまり、お金が要ルのよ」

 渋い顔になったトゥヤは無害そうな雪織の顔を横目で見て「今度はこっちの質問」と人差し指を雪織に向けた。

「ユキはどウして命を狙われていルの?」

 トゥヤの質問は、まさに雪織の疑問でもあった。

「…それが、分からないの」

「じゃあ、誰に狙われていルの?」

「……兄様。でも!それがまだ本当かどうかは分からないんだよ?」

「ブラート」トゥヤが呟いた。

「え?」

「城に兄がいルの?」

「うん。父様と兄様に会いに行くの」

「何の為に?」

「…お母さんが亡くなったことを知らせに。あと、もし本当に私を、その…殺したいなら、その理由を聞きに」

「確かに本人に聞クのが一番早いわよね。分かりやスい」トゥヤはうんうんと頷く。「敵の懐に入り込ムのが一番の近道だってこともあルわ。ところで――」

 次にトゥヤは、雪織が今一番話題にしたくないことを口にした。

「ユキ、トビの主は誰なの?」

 雪織は一瞬息を呑んだ。トゥヤの澄んだ青い瞳は色んなものを見透かしているようだ。もしかしたら、青い瞳には本当にそんな不思議な力があるのかもしれない。

「飛くんは、兄様の従者なの…」

「ジュウシャ…部下ね。そゥ。だからユキを守ルことで主に背クことになルかもしれないのね」

 第三者の目線で言われると、実はかなり追い詰められた状況であるように思えた。雪織は返事が出来ずに俯く。

「なに?落ち込んだ?トビは兄よりユキを選んだんだから、いいじゃない」

「……良くないよ」

 雪織は空を見上げた。兄の記憶は、どれも優しいものだ。妹を殺せ、などという命令を出すような人ではない。しかしあの憔悴しきった霧を見れば、彼が嘘をついているとも思えなかった。

 またあの頃のように四人で楽しく過ごすことはもうないのだろうか。そう思うと、どうにもやり切れない。そして自分と共に行くことを選んだ飛の心情…それに喜びを感じてしまう自分の身勝手さを思うと、むしろこの身を素直に差し出した方が良いのではないかという気になってくる。

 雪織の葛藤を余所に、トゥヤは物珍しげに視線を右に左にと忙しなく動かしていた。

「異人さんが、物見遊山かい?すごい格好だなぁ」

 旅の格好をした武家風の二人連れが、からかうように声をかけ、トゥヤはそれを無視した。

「…えっ?」

 焦ったのは雪織である。まさか話しかけてきている人に応じないという選択肢があるとは…今まで薬の売り買いなどでしか町や村に出たことのない自分には、考えられない態度である。

「おい、無礼だぞ」

 肩を掴もうと伸びてきた腕を難なく避けたトゥヤに、男二人はみるみる機嫌を悪くした。

「あの、すみません!この子、この国の言葉がまだ分からなくて!」

「では、俺たちが教えてやる」

 行く道を塞がれ、トゥヤは半眼で、雪織は半泣きで男たちを見上げた。

「あの、私が責任を持って言葉を教えますので…」

「そうか。では、我らはこの国の文化について教えてやろう」

「ついでに、作法もな」

 物を教えると言う割りに男たちの態度は親切心に欠けることはもちろん、口調は剣呑かつ下卑ていた。刀を二本下げてはいるものの、とても武家の教育を受けたとは思えない。

 トゥヤが背中の布団たたきに手を伸ばしたその時、男たちの頭に小石が当たった。

「誰だ!」

 男たちがいきり立つものの、周囲に人影はない。訝しく思い視線を戻すが、雪織たちはもう走り出していた。男たちが追いかけて来る気配を察し、雪織は着物よりずっと走りやすい今の軽装に初めて感謝したが、それも一時のことだった。

「…もウ来ないみたい」

 トゥヤに言われて振り返ると、道に倒れる二人組の姿があった。

「え…頭に当たったの、石だったよね…?」

 聞くと、トゥヤは二人の後ろに転がるものを指差した。

「石が投げられたのは二回。初めは小石で、次はあの大きいの」

 遠目だが、石は雪織の頭くらいはありそうな大きさだ。

「あ、あんなのどこから投げたの!桂さんか飛くん、だよね?」

「飛じゃない?」

 更にトゥヤが指先を動かすと、その先には草むらから桂に羽交い絞めにされている飛の姿があった。今にもとどめを刺しに行かんばかりの形相である。

「あれじゃ、二手に分かれた意味がないじゃない」

 呆れた様子のトゥヤの横で、何故だか雪織は無性に頬を覆い隠したいような気分になった。

 おそらく飛としてはこの一件で合流を果たしたかったに違いないが、声がかからないところをみると、桂に説得でもされたのだろう。雪織は次第に堂々としているトゥヤに引きずられ、小半時も経つ頃にはようやく背筋を伸ばして歩けるようになった。

 街道の景色は、進むうちに景色が少しずつ変わってきている。茶屋に居た頃には路肩に生い茂っていた草の丈が、今はずっと低くなり、代わりに松の木がまばらに生えていた。

 緩やかな曲がり角に来た時、向こうから来る一人の行商人風の男が、こちらを見て目を見開いていた。もう何度も見た反応である。

「異国の人とは珍しい。旅芸人かい?それとも商売かい」

「両方よ」トゥヤは若干尊大な態度で答えた。

「そちらのお嬢さんはこの国の人みたいだが…」

「この子は通訳なの」

 行商人は首を傾げた。

「だが、あんたは和津奈の言葉が御上手じゃないか」

「知らない言葉もあルわ」何故かトゥヤの声が苛立っている。「じゃあね、おじさん」

 つん!と顔を背けてすれ違うと、トゥヤは「人買いかしら」と舌打ち混じりに言った。

「えぇ?」

 ほんの少し質問を受けただけで、どうしてそういう結論が出るのか。その突飛さに、雪織は目を丸くした。

 ――トゥヤは異国人だからそんな風に捉えるのか。だがそうではないことは、すぐに知れた。

「お嬢さんたち」

 行商人が後ろから声をかけたので振り返ると、いつの間にか彼の周りに明らかに堅気ではない雰囲気の男たちが取り巻いていた。雪織にでも分かる。まずい雰囲気だ。

「ユキ、逃げなさい」

 トゥヤは声をかけながら、何かを空へ向けて投げた。すると、丁度男たちの頭上あたりで落下してきたものが破裂し、気がつけば男たちの頭に漁師が使う網のようなものが被せられていた。男たちが網から出ようともがいているところに、トゥヤが更に火薬玉を放つ。

 雪織は、桂が大姫山の川縁で使った火薬を思い出した。目の前でおこるであろう恐ろしい事態を予測し、息を呑む。しかし雪織の予想に反し、爆発はおこらない。代わりに赤い色の煙が彼らを覆った。

「煙玉よ。唐辛子入り」

 トゥヤの説明に、男たちの咳込む声や鼻を啜る音が重なった。

「雪ちゃん無事?」

 いつの間にか現れた飛が厳しい顔で聞いた。

「…うん」

「只のゴロツキじゃ…ないみたいだね」

「分からない。商人みたいな格好をしてたけど」

「あれも黒羽だろう。見ろ」

 飛の隣に来ていた桂が、男たちを指差す。その先で男の一人が網を苦無で引き千切っていた。

「…そうですね」

 雪織は飛の唇が噛み締められるのを見た。

「今のうちに逃げよう」

 飛は雪織を促して走り始めた。その横でトゥヤがおまけとばかりにもう一つ煙玉を投げた。布団たたきで卵を割るような硬い音と共に赤い煙が量を増し、男たちが短い悲鳴を上げたのを背中で聞いた。

 街道から離れ、畑の奥に広がる雑木林に身を隠すと、一行はしばし今後について話し合った。満場一致で街道の宿屋に泊るのは危険と判断し、道から外れた林の中での野宿は避けられそうにない。

「雪ちゃん、寒くない?」

 飛が、自分の合羽を貸してくれたので、雪織は遠慮なくそれに包まった。着物であれば出るはずのない首元の骨の辺りや太腿の露出が、日暮れと共に寒く感じてきていたのである。

「ありがとう、飛くん」

「いや…その、ごめんな。今日は俺、全然役に立たなかった」

「えぇ?」

 雪織はしょんぼりと小さくなっている飛に目を丸くした。旅の心得も身を守る術も知らない雪織の方が余程役立たず…というより、むしろ全ての元凶である。

「飛くんこそ、後悔してるんじゃない?」

「後悔?」

「だって、早くにお城へ戻っていれば、霧くんとあんな風に…」最後までは言えず、口ごもってしまう。

 飛はしばらく腕を組んで黙ってしまい、雪織は自分で言っておきながら切なくなってきた。本当はずっと一緒にいて欲しいけれど、飛に嫌われるくらいならばここで見捨てられても文句は言うまい。そう覚悟したのだが、やがて飛は雪織を真っ直ぐに見返した。

「もし俺が城に帰っていたとして、雪ちゃんをどうにかしろなんて命令を受けたら…」

 腕組みを解いて、雪織の頭を引き寄せた。

「風流れになってでも、命令はきかない。きっと助けに駆けつけるよ」

 自分の縫った小袖に包まれ、その下にある鎖帷子の硬さが分かるくらいに強く抱きしめられる。草の匂い――飛の匂いに、何故だか目元が熱くなってきて、今にも涙が零れ落ちそうだ。

「え、えっと…」

 飛の着物を濡らしてはいけないと離れようとするが、飛の腕には思った以上の力がこもっていた。

「と、飛くん?」

 急に恥ずかしくなって滅茶苦茶にもがくと、ようやくそれに気がついた飛が慌てて「ごめん!」と解放してくれた。自分でも意識して行ったことではないらしく、珍しくも頬に朱が差している。

「お、俺はさぁ…その、とにかく、絶対に雪ちゃんを守るって決めてるんだ。咲枝さんとも約束してるしな」

 突然現れた母の名に、雪織は自身の鼓動が跳ね上がったのを感じた。

 いつも明るく、その声一つで周りの人間の気分を上向きにさせてくれる。そんな母は、飛とももちろん仲が良く、雪織のことを任せると普段からお願いしていても不思議ではない。そして、優しい飛がそれを二つ返事で了承する姿も、実際に自分が見た場面であるかの如く想像出来る。それなのに、どうしてこんなにも寂しい気分になるのだろう。

 無意識に合羽を掴んで体を縮めると、飛が「寒い?大丈夫?」と顔を覗き込んでくる。

「――うん、大丈夫」

 飛に向かってなんとか微笑むと、雪織は桂の作る簡単な夕食の手伝いをすべく立ち上がった。背中に心配そうな飛の視線が掛かることに気づき、歩調を早めた。

家を出たのはたった二日前なのに、雪織はあれからもう何か月も経っているような気がしていた。どこで追手がうろついているか分からない中焚火を起こすことも出来ないので、塩を足すなどして手を加ええた保存食を分け合った後に、一行は早々に休んで日の出前には出発することにした。

木の根元に雪織はトゥヤと二人で寄り添って腰を下ろし、体の温りを分け合った。飛と桂は例によって、交替の見張り役である。

雪織はトゥヤが寝入るのを辛抱強く待ってから、布団代わりに使っていた桂の大風呂敷から脚を出した。トゥヤを起こさぬよう、その頭の重みがゆっくりと自分の肩から後ろの松の木に移動するように動いた。しかし、音をたてないように気をつけながら立ち上がった時、トゥヤはぱちりと目を開けた。

「どこ行クの?」

「あの…御手洗いに」

「アタシも行ク」

「……えぇ?」

 思わず大きめの声が出てしまったので、慌てて口を塞ぐ。だが会話は最初から聞かれていたようで「用心してね」と声がかかった。松の木の上に見張りの飛がいるのだ。

「は、はい…」

 雪織は肩を落としながらトゥヤと共に暗闇の中、茂みを進んだ。

「あの、トゥヤ」

「なに?」

「もうここでいいから」

「何が」

「何って…ずっとついて来るの?」

「ウん」

 戸惑う雪織に、トゥヤはグッと顔を近づけた。

「…一人で城に行ク気でしょウ?」

 息を呑んだ雪織に、トゥヤは喉の奥でククと笑った。

「飛を巻きこみたクないんでしょウ?」

 雪織は自分より少しだけ背の高い少女の、闇の中に浮かぶ白い頬を見つめた。

「…どうして分かったの?」

「女の勘。アタシはこれが何より役に立ツと思ってル」

「…見逃して?」

 駄目で元々。雪織は目を伏せながら頼んでみた。しかし、トゥヤは即座に「駄目」と答える。そして項垂れる彼女の首に腕を巻き付け、耳元で囁いた。

「アタシも連れてってもらウから」

 内緒で行動するには御誂え向きの新月である。しかし視界は殆どきかず、手元に裸火の一つも持たねば方向も簡単に見失ってしまう。そんな中、子の星を目印に進むという無謀を行うことにした二人は、見張り役の飛が不信に思って探しに来る前に出来るだけ遠くへ行く必要があった。

 離れないようにお互いの手をとり、無言で草をかき分けた。向かうは、トゥヤのサマリョートが隠してあるという山中だ。やや道を引き返すことになるが、いざサマリョートに乗ってしまえば、半日もかからずに城へ着くだろうとのことだった。

 時折木の根や窪みに足をとられながら四半時ほど歩くと、トゥヤは灯りをつけて進むことを提案した。大きく肌の見えた服のままこれ以上転ぶのは嫌だったので、雪織は火打石を取り出した。小皿に(はしばみ)の油を垂らし、灯芯を置く。火を点けると、手元くらいは見える明るさが有難い。幸いにして風もないので、覆いもせずに持ち歩くことが出来る。

「ここまで暗いと危ないわ。どこか休める場所を…」

 トゥヤの言葉の途中で、雪織は頭を横に振った。

「もう少し、進もう。飛くんたちなら、すぐに追いついちゃうよ」

「…そウね。暗いウちに進んだ方が良いかもね」

 そうは言ったものの足元が見えないのは相変わらずで、進みはたかが知れており、火を持った分だけ慎重にもなる。体にまとわりつく重苦しい闇を祓いたく、雪織は口を開いた。

「どうして付いてくるの?」

「アタシにも兄がいるから」

 返事はすぐに返ってきた。

「サバーカ!フイブラート」

 何か呪文のような言葉の後に、短く舌打ちをしたトゥヤである。雪織が困惑していると、「こっちの言葉でなんて言うのか分からないの」と続けた。

「とにかク嫌な兄でね。無理やり結婚決められたから、逃げ出して来たの」

「結婚?嫌な相手だったの?」

「ずっと年上のオジサンよ?アタシだってまだ結婚スル年じゃないし」

「え?」

 雪織は、暗闇の中では見えないトゥヤの美しい顔立ちを思い浮かべた。幼い表情を残してはいるものの、その上背と長い手足、そして何より自信に満ち溢れた仕草から、二十歳そこそこだと思っていたので、それは十分に適齢期であると思われた。

「トゥヤは幾つなの?」

「和津奈へ来た日に、十五になったわ」

「えぇ!年下!」

「…年上?」

 真っ暗闇で、互いに見えないはずの顔を凝視した。

「ユキ、幼いわ。十二歳クらいかと」

「じゅ、十六です…」

「そウね、この国の人たちは、小さクて幼ク見えルんだった」

「そうなの?」

「カツラに初めて会った時も、同い年クらいの子だと思ったわ。アタシたちの国ではね、女でもカツラやトビより背の高い人もいルの」

「へえぇ…」

 高い背丈に金の髪を頂く沢山の人々が行き交う国は、いったいどんな風なのだろう。雪織が海向こうに思いを馳せていると、トゥヤの手が少し汗ばんできているのに気がついた。

「トゥヤ?」

「兄は、アタシを売ったの」

「え…、は?」

 この国で子供を売るというのは、貧困から抜け出すための口減らしや、単純に儲けて日々の糧にするために行うことだった。中には、わざと売るために産むような人道に背いた者もいるという。売られる先は主に遊郭で、一度売られたら余程の幸運が舞い込まない限り、死ぬまで働かされると、母から聞いたことがあった。

 しかし、トゥヤは先ほど結婚を決められた。と言った。結婚相手に買われそうになった、ということなのだろうか?

「あの、トゥヤ?売られたって…」

 詳しく聞こうとするも、雪織の声はトゥヤには届いていないようだった。「絶対に許さない。フイブラート、サバーカ…」そう低く呟くと、こちらの手を握る力が少しだけ強くなった。

 それからはまた無言で、どれくらい歩いただろう。飛たちが追いかけて来る気配もなく、次第に疲労で二人は足を引きずりはじめ、瞼も重くなってきた。

「…休みましょウ」

 適当な木の根元に座り込み、見張りも立てずに目を閉じた。そのくらい緊張で神経も疲弊していたのだ。

「アタシは逃げて来たけど、アンタは違ウのね…」

 トゥヤが小さく呟いたので何か返そうと思ったが、すぐに寝息が聞こえてきたので、雪織もやがて意識を手放した。

 空が白み始めた頃、ようやく朝靄の冷気で目を覚ました雪織は、鬱蒼とした木々の中を見回した。何も体にかけず眠ったものだから、体はすっかり冷え切っている。

「トゥヤ、トゥヤ、大丈夫?」

 このまま眠り続けたら、もしかして目が覚めないんじゃないかしら。そんな恐怖に駆られて横を見ると、金の髪の娘の姿がないではないか。

「と…トゥヤ!トゥヤ!」

 慌てて立ち上がり叫ぶと、遠くで「ユキ!」と呼ぶ声がする。胆まで冷えていた雪織は、必死でそちらに向けて急いだ。

「どこ!トゥヤ!」

「イジーイジー!」

 朝靄の中からトゥヤの陽気な声と共に現れたのは、荒れ果てた神社の境内だった。

「ちょっとこの中で休まない?寒いし」

 それにお腹空いたわ、などと暢気に笑う娘に、雪織は腰が抜けそうなくらい安堵した。

「どウしたの?」

 その場に座り込む雪織に訝しげな顔でトゥヤが駆け寄ると、同時にその後ろからガタリと物音がした。

 再び冷えた胆を震わせて立ち上がり、雪織はトゥヤと身を寄せ合った。音は、境内の中からしたようである。

「…誰かいるんですか!」

「いるよぉ」

 嗄れた声に、二人共飛び上がる。

 どうやら立て付けの悪いらしい境内の扉をガタゴトと派手に動かしながらようやく開けて出てきたのは、腰の曲がった一人の老人だった。

「おや、随分可愛らしい声がすると思ったが、まさか本当にこんな若い娘さんたちだったとはね」

 老人は杖をつき、少々危なっかしい足取りで階段を降りてきた。

「しかも、随分と涼しげな格好だ。体を冷やしてはいけないだろう」

 目尻の皺をはじめとして全体に優しげな顔だが、口調には明らかな注意の響きがあった。

「す、すみません」

 反射的に謝りながら、雪織は朝靄に囲まれた老人がまるで仙人かなにかのように見えた。というのも、白い伸び放題の髭はあまり整えられておらず、着ているものもみすぼらしかったからである。

「あの…ご隠居様は、どうしてこちらに?」

 自分たちのことは棚上げで聞いてみたが、老人はすんなりと答えた。

「昨日の朝方にね、山へ向けて飛ぶ大きな鳥がいたと、村の連中が大騒ぎでねぇ。何か魔物や妖怪の類じゃないかと言い出す連中までいてね。新月だったからねぇ。とうとう山狩りの話まで出たのさ。儂は家で大人しゅうしてろと女房に言われたが、どうにも面白そうに思えてねぇ。こうして、他の連中に隠れてこっそりその鳥の妖怪を探していたというわけだ。まぁ、途中で疲れて一眠りはしたがね」

 太い眉の下の目が、いたすら小僧のように輝いている。

「ところで娘さんたち。あんたらがもしや、その妖怪なのかい?」

「い、いえ!違います!」

 怪しい風体なのは百も承知だが、妖怪と決めつけ村の者を呼ばれたら堪らない。それにその大きな鳥とやらは、おそらくトゥヤのサマリョートのことだろう。

「ねぇ、その鳥がこの山に落ちたのは確か?」

 トゥヤが聞くと、老人は瞼の皮が少々垂れた細い目を見開いた。

「こりゃ驚いた。異人さん、あんた言葉が分かりなさるんで」

「まぁね。それより、答えて」

 老人相手に尊大な態度のトゥヤに、もう驚きを通り越して呆れてしまう雪織だったが、老人の方は気を悪くした様子もなく、むしろ楽しげに笑ってみせた。

「お嬢さんもあの鳥が気になるのかね?」

「当たり前。あれはアタシのものだもの」

 堂々と言い放つトゥヤに、老人は顎髭を撫でながら思案気な表情になった。

「そうか。だが、困ったな。もしかしたら、もう村の連中に捕まっておるかもしれんぞ」

「なんでスって?」

「見つけたら一旦この神社に集まろうと話していたのに、未だ誰も来ん。おかしな話だろう?今頃村へ持ち帰って、祝杯でもあげているのじゃないのかね」

「…村へ案内してもらえル?」

 トゥヤの目が座っているのに気付き、まさか老人にまで布団たたきを使いはしないかと気が気ではない雪織である。

「アタシの傑作、可愛いサマリョートに手を出したら…そいツら全員の口に唐辛子の粉を詰め込んでやル!」

 足取り荒く歩き出したトゥヤに慌てて付いて行こうとした時、風もないのに何だか肌がざわざわとしているのを感じ、雪織は気味の悪さを覚えて周囲の木々を見回した。

 朝日が朝靄を追い散らす中、その白い動きがどこか不自然である。

「…ねぇ、トゥヤ、ちょっと待って」

「なにやってルの!ユキ、早ク!アタシのサマリョートが…」

 トゥヤが勢いよく振り返ると、遠くで聞きなれた声がした。――自分の名を呼ぶ声。一日と離れていないのに、懐かしく感じる飛の声だ。

「――ほら!早ク行かないと、トビにも追いツかれル!」

「う、うん!」

 声を振り切るようにしてトゥヤに続こうとしたが、その視界の端で、突然奇妙なことがおこった。

「飛とは、あの飛のことよなぁ?」

「え…?」

 目の前にいた白い髭の老人の腰が、急にしゃんとした。その声は若々しく張りのあるものとなり、伸び上がった背は雪織やトゥヤの背丈も軽々と超えた。

「あ、あ…」

 口をぱくぱくとさせて凝視するしかない娘たちの前で、どうやったのか顔まで変わったその男は、己の顔を覆っていた白い髭をべりべりと引き剥がした。髪は白いままだが、現れた顔はどう見ても老人のそれではない。

「どうも可笑しなことになっとるみたいよなぁ。飛よ!」

 最後の呼び声は、飛がもうそこまで来ていることを示していた。思わず雪織が林の中へ顔を向けると同時に、その視線と同じ速さで男の手から何かが飛び去った。

 ギイィン!と金属がぶつかる音がして、男が投げたものを飛が己の得物で弾いたのだと分かり、そこで初めてこの男が敵であるのだと頭が理解した。

 だが、逃げようとしても遅すぎる。雪織の気づいた違和感は人の形となって目の前に現れ、二人の娘を拘束した。男たちは旅立ったその日に川原で襲ってきた者たちと同じく、鉄黒色の装束を身につけていた。

「ちょ…離しなさいッ!」

 暴れるトゥヤを押さえていた男がその首筋に手刀を加え、トゥヤの意識を奪った。

「トゥヤ!」

 叫ぶものの、自分もすぐに口へ布を詰められ、易易と手を縛られてしまう。そしてその肩を乱暴に引いたのは、あの老人に化けていた男だった。

「異国の武器に、風流れの桂とはな…何とも面白き運の姫よ。しかし一番の掘り出しものは、飛よ、お前かな」

 男が真っ直ぐ見つめる先に、息を切らした飛と、その背後に桂が降り立った。あちこち服が千切れたり血が付いていたりで、雪織は息を呑んだ。

「……若長、あんたか」

 低い飛の声は、明確な怒りを孕んでいた。

「理由を聞かせろ。目的もな」

「…聞けば答えると?」

「答えねぇなら、全員殺すまでだ」

 雪織は肌がびりびりと火傷をした後のように響くような錯覚に陥った。――恐ろしい。相手は飛なのに、そう体が判断しているのである。

 しかし隣に立つ男は、世間話でもする気安さで応じた。

「おぅおぅ、育ての親に向かって吠えるのぉ。――まぁ、もう俺は若長ではないがな」

「そろって破門でもされたか」

 男は喉をごろりと鳴らした。

「いぃやぁ?俺が長なのよ」

「――長を、殺したか」

 男は満足気にうふんと鼻で笑う。

「馬鹿と石頭は、いっぺん死なんと治らん。まぁ、今はそんなことはどうでも良い。飛、こちらへつけ。今なら間に合うぞ。俺が隆成様に執り成してやろう」

「お前なぞが、俺の(あるじ)の名を口にするな」

「おや、主とな。忠義が残っておるならば、話が早い。この姫を差し出す手柄、お前にくれてやっても良いぞ」

 一歩踏み出した男に、飛は苦無を構えて見せた。

「…差し出したら、姫はどうなる」

「もちろん亡きものに――…」

 飛の奥歯がぎりりと鳴ったところで、男は雪織の頭に腕を乗せてきた。

「と、初めはそういう予定だったのだがな、ここへ来て少々事情が変わったらしい。どうやら我らが主様は、姫を守る一派と手を組んだようでなぁ。生きて連れて行かねばならん」

 行き先は城ではないがな、と言いながら、男はもう一方の腕を飛に向けて差し出した。

「…その後はどうなる?」

「さぁなぁ?主様が姫をどう使うかは知らんよ」

「お前らの主とやらは、誰だ。隆成様ではないだろう」

「仲間になれば教えてやろう」

 もし飛が男の手をとったとしても、決して責めはしまい。そう思った雪織だったが、飛は苦無を引きはしなかった。

「…姫を使う(``)などとほざく輩が、気安く姫に触るな」

 男は雪織の頭の軽く撫で、「ふぅん」と年の割には拗ねたような声を出した。

「つまらんな、飛。お前は年々腑抜けになる」

 男は手を挙げると、何やら指をごにょごにょと動かした。それはどうやら何かの合図のようで、鉄黒色の装束の者たちが一斉に動いた。同時に、雪織の体が宙に浮く。

 ――飛くん、飛くん!

 布で遮られ、声は届かぬ。トゥヤと共に男たちの手で俵担ぎにされた雪織は、飛と桂に襲いかかる鉄黒色の不吉な塊を跳ね除ける力のない自分を呪う他なかった。


       ◆◆◆


 口に詰められた布はいつの間にか涙で湿り、舌でその味が分かるほどだった。どこをどう連れ去られたか、気づけば暗い納屋のようなところに押し込められていた。唯一の救いは、トゥヤがそれ以上の危害を加えられることなく一緒に居ることくらいか。

 雪織を運んで来た男は「お迎えが来るまで待ちなさい」と言って去った。その「お迎え」が誰なのかとか、そもそも自分をどうするつもりなのかとか、そんな疑問は頭の隅に追いやられ、今はただ飛と桂の無事を祈ることしか出来ずにいた。

「…ボーリナ」

 呟きが暗闇で響き、雪織は混乱の中トゥヤの回復を知った。

「…ユキ?ここは…あ、思い出シた。アイツに騙されたのね」

 舌打ち混じりでそう言うと、トゥヤはごろりと仰向けになってこちらを見た。窓のない小屋の中、板の隙間から入る僅かな光りで、ある程度目は利くようで、「アンタ、口がきけないのね」と言った。ついでに「酷い顔」と付け足す。

二人とも黙って途方にくれていると、トゥヤが突然笑い出した。

「んふふふふふ」

「んう?」

「ユキ、ちょっと待ってなさい」そう言うと、何やらごそごそと動き始めた。「アタシの武器、取られてないみたい」

後ろ手にトゥヤが弄るのは、背中に掛けてあった布団たたきである。しかしそれが何の役に立つのか判明する前に、近づく足音で動きを止める必要があった。

乱暴に扉が空き、鉄黒色の装束の者が、無言で雪織だけを再び担ぎあげた。

「ちょっと!ユキをどこへ連れて行クの!アタシもここから…」

 トゥヤの抗議は途中で扉が閉められることによって中断された。

「主がお呼びです」男がぼそりと要件だけを伝えた。

 泣きすぎて目も頭も痛む雪織は、猿轡(さるぐつわ)と手の縄を解かれても尚、動く気力がなかった。

 連れてこられたのは、地方のちょっとした庄屋邸くらいの広さの屋敷であり、裏口から庭を通ったところにある一番端の部屋だった。庭の反対側には急な斜面があり、もしここから逃亡しようとしてもすぐに見咎められ、捕まってしまうだろう。

 果たして自分が逃げたいのかどうかも分からず、雪織はただ呆然と部屋の隅で膝を抱えた。

 しばらくして大股で近寄ってくる足音を聞いた。

「入りますよ」

 雪織の気分とは正反対に明るい声が障子越しに響き、軽装の男がするりと部屋へ入り込んだ。やや釣り上がった目尻が、狐に似ているとぼんやり思った。

「雪織どのですな。手荒な真似をして申し訳ない。しかし、貴女が城へ着いてからだとまともにお話をする機会はありませんからなぁ」

 男は隅に居る雪織をそのままに、自分は部屋の真ん中へどすんと腰を下ろして胡座をかいた。

「其れがしは柏の時期城主、寛通(ひろみち)と申す。柏は城主が亡くなったばかりでな。少々情勢が不安定だ。それで、時期城主の俺自ら交易の融通をお願いしにこちらへ来ているというわけだ」

 その隣国の若君が、一体雪織に何の用だというのか。言葉にするのも億劫なほど雪織は頭が疲れていたので、何も言わずに宙を見続けた。幸い寛通の方も、それを全く気にする様子はない。

「雪織殿においでいただいたのは、他でもない。俺の弟との婚姻をお願いしたいのだ。政継殿の許可は得ておるぞ」

「…………え」

 聞こえた言葉を理解するまで大分かかったが、雪織は初めて頭を持ち上げる反応を見せた。

「城で暮らす他の妹君たちでも良いのだが、雪織殿の元こそが、弟が婿入りするのに一番相応しい」

「…は、え?」

 会話の内容を噛み砕くのに精一杯な雪織に、寛通は尚も畳み掛けた。

「弟の(さね)(とも)は俺に瓜二つでな。気性は少々あちらの方が荒くて破天荒だが…」

「ちょ、ちょっと待って下さい!一体何のお話ですか?」

 思わず膝立ちになった雪織に、寛通はにやりと笑って見せた。

「…雪織殿も十分に破天荒であられるようだ」

 服装について言われているのだと気がつき、雪織は慌ててまた膝を抱え丸くなった。

「政継殿の承諾があれば、ご本人の意見など聞かなくても良い。国主(くにぬし)の血に連なるというのは、本来そういうことです。しかし、今回は少し事情が違っていますからね。ご本人をきちんとこの目で確かめたかったのですよ」

 ますます事情が分からず、雪織はただこの狐のように油断ならない男を見返すしかなかったが、勢いに呑まれまいと背筋を伸ばした。

「…あの!貴方が襲わせた私の連れは、どうなったのですか!私と一緒に来た女の子も…これからどうするつもりですか!」

 寛通は雪織の剣幕を子犬が吠えているくらいにしか感じていないらしく、軽く肩を竦めて苦笑した。

「別に俺が襲わせたわけではないけれどね。報告では雪織殿を守っていた従者たちは討たれたそうだ。異国の女子(おなご)は…そうだな。髪が短いのは難だが見目が良いし、俺の妾にでもするか」

 まるで今日の夕食は何にするかとでも言わんばかりの口調だった。そしてそれ以上に、寛通の「従者たちは討たれた」という言葉が雪織の胸に突き刺さり、雪織は呼吸を著しく乱していた。

「…と、飛くん…」

「あぁ、確か(しぎ)の里の者だったな。連れの者共々、奴の配下が始末し崖から叩き落としたと言っていた。諦めることだな」

「……」

 震える手で己を抱きしめると、見開いた目から涙が溢れた。

 すると、寛通はこれみよがしな溜め息を大きくついてみせた。

「…つまらんなぁ。これではただの村娘ではないか。本当におぬし、黒羽姫なのか?」

「…?」

 涙で濡れた目を瞬かせると、寛通はぱっと意地悪な笑顔になり、身を乗り出してきた。

「なんだ!おぬし、もしや自分でも知らんのか!」

 低い声を裏返して笑うと、寛通は上機嫌で雪織ににじり寄り、顔を背けようとするその顎を押さえた。

「まぁ、知らぬのならそれでも良い。お飾りとして、弟が良く使ってやろう」

「い、一体なんです…」

「おぬしが婚姻を断れば、あの異国の娘がどうなるかは、分かっているな?」

 寛通は、実に楽しげにそう囁いた。得物を嬲る猫でも、ここまで執拗ではあるまい。そう思わせるような、ねっとりとした口調であった。

 雪織が恐怖と混乱で動きを止めてしまったのを満足そうに眺めた後、寛通は無言で部屋を出て行った。

 ――飛くん、桂さん。きっと、生きている。大丈夫。でも、あんなに傷だらけだった…。

 雪織は、最後に見た二人の姿を思い出す。遠目でも着物のあちこちに血が付いているのが分かる上に、十数人もの覆面の黒羽たちに襲いかかられたのだ。あんなに強い二人のことだ。きっと今は身を潜めているだけであると思いたかったが、おそらく無事ではあるまい。

 二人が、自分のせいで命を落としてしまったかもしれない。その事実に体が押しつぶされそうだ。抱きしめた自分の腕に爪を立てつつ、唇を強く噛み締める。涙はいくらでも作れるとばかりに鼻の奥が鈍く痛んだが、そんな甘えなど許されない事態になりつつあると、どうにか正気を保った。

 ――これ以上、自分のための犠牲を出してはならない。短い間ではあるが、仲良くなったトゥヤを、しかも意に沿わぬ婚姻から逃げ出してきたという年下のあの娘を、あのような男の好きにさせるわけにはいかないだろう。

 こうなってしまっては、自分の身などもうどうでも良い。母のお守りや父や兄のことも、全て後回しだ。これが母咲枝であっても、きっと同じ判断をしたはずである。

とにかく、トゥヤを逃がさなくては。泣くのはその後でも存分に出来る。

 雪織は傷のできてしまった下唇を舐め、室内に無造作に置かれた膳を行儀悪く喉の奥へとかき込んだ。食欲など全くなく、むしろ吐きそうな気分ではあったが、腹が減っては何とやら、である。

 膳を下げに来た者に「もし」と声をかけ、無駄とは思いつつもトゥヤの居場所を聞いた。流石に屋敷内を堂々と歩く者は鉄黒色の装束姿ではなく武家の格好をしていたが、それでもほとんど足音のしない様子に、雪織はこの者どもも黒羽であると把握した。

「何も話すことはありません。姫は今しばらくこの部屋にご滞在下さい」

 給仕係は目も合わせずそう言った。見張り係も同様である。この上は、手水を装うか、主に会いたいとでも言うか、はたまたトゥヤに合わせろと暴れるか――…必死で考える雪織の背に、場違いな正午の陽気が障子の向こうから薄く差した。

 部屋の外では、一人の黒羽が見張り役の交替を告げた。すると、障子の前に座る受け耳の男が立ち上がり、訝しげな顔を見せた。

「どうした」

 聞かれ、受け耳の男は言った。

「いや、どうも…姫の輪の流れが強く変わったように思えてな」

 対して、交替役の男は鼻を鳴らしてそれを一蹴した。

「そうだとして、何の鍛錬もしてきていない村娘も同然の女子に、何が出来る。せいぜい縮こまって怯えているのが関の山だろうよ」

 雪織は男たちの声を聞きながら、膝の間に顔を埋めていた。全身の皮膚で部屋の外の音の振動が全て聞こえるような、そんな状態を思い浮かべながら、瞑想をしていた。――山の中を一人で歩く時や、狩りをする時などの危険が伴うことを行う前には、何より集中力が大切なのだと、母はよく言っていた。心を空にし体を周囲に溶け込ませることで、頭の中が冴え渡るのだという。

 これまで雪織は、母に守られ、飛に守られてきた。旅に出てからは、霧に桂にトゥヤにと、助けてくれる人が増えた。そしてこうして追い込まれるまで、兄もまた自分を守ってくれるのが当然であるとどこかで思っていたのではないだろうか。その結果が、今のこの状況ではないのか。「飛に迷惑をかけたくない」などと思っても、結局はこの有様だ。

 ――なんて情けない。

 自分の身は自分で守らねばならない。そう、幼い頃に教えられはしなかったか。女だからと守られるのを待っているのは、己の価値を下げるも同然であると。

 ――まずは、トゥヤを助けよう。そして、無事で身を潜めているはずの飛と桂に傷の手当をしなくてはなるまい。そう硬く心に決め、雪織は腰紐に括りつけていた薬入れを握り締めつつ、肚から大きく息を吐き出した。

 夕暮れ時が近づくにつれ、屋敷はそれまでよりも少しだけ人が行き交う気配が増してくるようになった。無論、雪織のいるこの角の部屋に出入りする者はほとんどおらず、見張り役が時折障子越しに覗くか声をかけるかするくらいのものだった。

 夕餉を持って来た者は昼と同じく、雪織と目も合わせない。給仕係が去った後、雪織は茶碗と箸を手に取り、まだ湯気のたつそれを有り難く頂いた。

 夜中に動くのは、危険すぎる。闇の中で動くのは黒羽たちにとって捕まえて下さいと言っているようなものだ。動くならば今。夕刻か、朝方が良いだろう。お天道様が十分に満ちていないと、景色が全て似たような色に映るからである。

――過分な期待はすまい。自分は逃げられなくとも良いのだ。トゥヤに二人に渡す薬を託し、もう自分には関わらないで欲しいと言って逃せばそれで済む。問題は、どうやってトゥヤが閉じ込められていた小屋を突き止め、そこまで行くかである。

 雪織は部屋の中にある掛け軸や花瓶やらを少しずつ動かし、空になった膳も静かに畳の上へ乱雑に置いた。己がどう行動したか、痕跡を分かりにくくするためである。そして身を縮め、石のように固くなり息を顰めた。

 やがて、たっぷり一刻は過ぎてから夕餉を下げにきた給仕が、部屋の外に膳が出ていないのを訝しく思い中を覗いたことで、事態は露見することとなった。

「おい!姫がいないぞ!」

「なんだと?」

 見間違いであろうとばかりに鼻を鳴らしながら部屋に入った見張り役はしかし、中の惨状を見て顔色を失くした。

 少し浮き上がった畳の上には幾つかの赤い汚れが付着し、他にも掛け軸などの装飾品や空の膳が散乱している。天井にも赤い滲み、壁には同じく赤色の指の痕があった。

「あれは…血か?」

「まさか火野の桂どもが戻ってきたのか?」

「まさか!あの重症で崖から転落した者が無事であるはずもない!」

「では一体…」

「とにかく人手を増やせ!姫を探すのだ!」

 男たちが騒いでいる後ろで、何かが土の上を転がる音がした。

「近くにいるのか!」

「では俺が追う!お前は鴫の頭に連絡を!」

 部屋が空になった隙に、雪織は床の間の段の間から抜け出し、庭を抜けて離れの廁へ一先ず隠れた。早く逃げようと思う者がまだ屋敷に留まろうとしているとは思うまい。

 部屋のあちこちに思わせぶりに撒いた赤い滲みは、薬に含まれる紫蘇の葉の色だった。明るいところでよく見れば赤紫色であることが分かるし、匂いも独特だからすぐに血ではないと分かりそうなものだが、味噌汁を同時にこぼしておくことで、どうやら誤魔化せたらしい。ちなみに土を転がるような物音は、ただ茶碗を部屋の裏の斜面に向けて投げただけのことである。

 屋敷の中から足音や怒鳴り声が響いてくる中、雪織は慎重に離れの裏手に回り込み、中に人がいないことを確認してから押入れの中に隠れ、そのまま日暮れを待つつもりだった。

 しかし、遠くで聞き覚えのある大音量が耳の奥を張った。

 パァン!という、花火のような音――トゥヤの火薬である。あるいは、桂の。

 雪織は焦った。自分への合図か、それとも敵の関心を引くためのものかは分からないが、とにかく音を出したものが危険に曝されるのは間違いないだろう。押入れなどに篭って暢気に機会を待っている場合ではない。

 外へ転がるように出て、空を見上げた。火花はもう残ってはいなかったが、橙の残照の中、明らかに雲の流れとは違う白い靄がまるで蜂蜜のようにゆっくりと下へ流れ落ちて行くのが目に入った。

 とにかく、行ってみるしかない。

 雪織は全力で走った。平地には幸い追手がおらず、火薬を使った者のところへ集まっていると思われた。急がねばなるまい。

 だが、雪織は追いつく前に、火薬の第二段が使用された。それも、空へ向かってではなく、屋敷へ向けて、である。

 高価そうな黒光りの瓦屋根に容赦なく打ち込まれたその一線は、一拍間を置いて、轟音と共に砕けた瓦を焼けて火だるまになった柱の欠片を四方八方へ吹き飛ばす。それを見て、雪織はあの川原の襲撃の際に桂が使った火薬と同じものであると確信した。損壊した建物の被害は甚大であり、火の手も上がり始める。

 あの使い手がトゥヤか桂かは知らないが、おそらくこの混乱に乗じて自分を助けに来ようとしているのではないか。だがこの屋敷の黒羽たちは、雪織がもうすでに屋敷の外へ逃げたと思っている。ならば、この攻撃を逃げるための時間稼ぎと受け取るのではあるまいか。

 雪織の悩みどころであった。大人しく迎えを待つか、それとも…

「火を消せ!」

「落ち着け!主様はもうお出になられている!それより姫を追え!」

 存外近くであがった声に、雪織は縮み上がった。このままでは待つにしても、易々と捕まってしまう恐れがある。

 声が去るのを確認し、雪織は爆発で飛んできた木屑の燃え滓を足で踏みつけ、体のあちこちへ、先ほどの薬と共に塗りこんだ。トゥヤには申し訳ないが、衣服を破いたり焦がしたりして穴をあけ、ぼろぼろにする。

 ――大丈夫だ、大丈夫。母も言っていたではないか。狩りでも、冷静になった方が利を得るのだと。

そう、今自分は狩られる側にいる。でも、逃げおおせる術がないわけではない。山の中でだって、そういった駆け引きは常に行われているということを、雪織は知っていたはずだ。いつも見ていたはずだ。滅茶苦茶に飛んで敵の目を眩ませる蝶や、擬死によって捕食を回避するヤスデや穴熊…

雪織はふらふらとした足取りで真っ直ぐ火薬の放たれた方向へ歩いた。もう隠れることをしなくなったその姿は、容易に黒羽たちに見つかってしまう。

「いたぞ!」

 駆け寄って来た三人の黒羽のうち、一人がこちらの腕を掴む前に、雪織はありったけの力を込めて、逆にその黒羽の腕にしがみついた。

「助けて!」

「――…え」

 呆けた顔を確認している間もなく、雪織は屋敷の方を指差しつつ、一方で強く反対方向へ男の腕を引いた。

「早く!早くしないと、あの人たちが来てしまいます!屋敷も皆焼かれてしまう!」

「一体何を…」

「大陸の武器です!さっきも見たでしょう!早くしないと、またあの火薬が…」

 丁度良く指が指し示す方で屋根が派手な音を立てて崩れ、埃と焦げた木の臭いが辺りに広がった。

「何があったというんです!」

「貴女は逃げられたのでは?」

 雪織は思ったことが顔に出る自覚があった。そのため、顔を俯けた。

「逃げたのではありません。連れて行かれそうになったのです!」

「い、いったい誰に…」

「アタシ!」

 聞き覚えのある声に雪織が破顔する前に、目の前は赤い煙で包まれた。例の唐辛子入りの煙玉かと思って口元を思わず押さえたが、目に染みることもない。しかし視界が利かないのは同様で、雪織は男たちと同じく辺りをきょろきょろと見回すしかなかった。

 だがすぐに近くで男たちの呻き声と、やはり聞き覚えのある鈍い音が響いた。

 雪織の瞼の裏に、体を折り曲げて苦しむ桂の姿が思い出された。――トゥヤの布団たたきが獲物を捉えた音である。

「トゥヤ!」

「行かせるか!」

 握りつぶされるのではないかと思うくらいに強く手首を掴まれたが、雪織は思い切りその腕に噛み付いた。怯んだところでとにかく腕やら脚やら頭やらを振り回して暴れ、煙の向こうへ抜けようともがく。

「ユキ!」

 トゥヤの布団たたきが風を切ったので、雪織はエイヤ!と最後に男の足の指を力いっぱい踏みつけた。

 煙の向こうから白くすらりとした腕が伸びてきて、自分を引き寄せる。雪織は無言でその動きに添って駆け、それからは互いに一言も口をきかぬまま、手を取り合って薄暗くなった森の奥へ飛び込んだ。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ