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二、蛾眉に惑う

      二、()()に惑う


 五十土城へ一足先に向かうべく道なき道へと消えて行った霧を見送った後、残された三人は飛が地面に広げた地図を凝視していた。

「今俺たちがいるのはここ。大姫山の麓に近い所です。ここから真っ直ぐ西に向かえば麓の村に着きますが、正規の道は避けた方がいいでしょう」

 いつの間にか飛は桂に丁寧な言葉で話すようになっていた。桂は本島南端の大国、火野の元城主の筆頭であっただけでなく、雪織には分からない部分での有名人であり、飛も敬意を払うに足る人物と認めたようだった。

「そうだな。それでは北か南に迂回するか」

「はい。どちらに行っても山道には違いありませんが、北の小姫山の方が周囲に集落が多く、人目にはつきやすいかと」

「南の俵山を行くか、それとも裏をかいて北へ行くか。雪織はどう思う?」

 突然意見を求められ、雪織は心臓と共に肩を飛び上がらせた。

「え!私ですか?」

 大姫山の周辺から殆ど出たことのない雪織に意見を求めて、一体何になるというのか。飛も言葉にはしないが同じ思いであるらしく、桂に訝しげな視線をやった。

 しかし桂は涼しい顔で「女の勘というのは侮れんぞ」と言い放つ。

「えっと…他の人に迷惑がかかるといけないので、集落の少ない俵山の方がいい、かな…?」

 自信なさ気に言った後、飛の顔色を窺う。その視線に気づいた飛は、少しだけ気まずそうに首の後ろを掻いた。

「…まぁ、俵山は俺の故郷が近いので、こちらの方が地理に明るくはあります」

「では南に迂回するとしよう」

 桂の決定で三人は来た道を一度戻り、大姫山の南隣にある俵山へ繋がる峠を越えることになった。

「飛くんの故郷は、俵山の近くなの?」

 歩きながら尋ねると、飛は一瞬だけ困ったように目を泳がせた。

「うん。黒羽の子供たちが育つ里が各地にいくつかあってね。その一つが俺の故郷で、俵山にある」

 飛は前を見ながら答えた。黒羽という単語が出て以来、飛の態度がどこか余所余所しい。雪織にしては飛のことを詳しく知れたことが単純に嬉しいのだけれど、今はどんな質問をしても気安さは得られないような気がした。

 しばらく無言で山道を歩いていると、ふいに勘太郎が飛の肩の上に降りて来た。

「勘ちゃん」

 勘太郎は雪織を無視して、しれっと飛と同じ方向を向く。いつもなら飛が「どこに行ってたんだお前」とか「餌でも食ってたのか」とか何か声をかける場面だが、今回は何も言わなかった。勘太郎も何かを感じているのか不思議と大人しくそれを受け入れ、まるで飛と同調しているかのようだ。それが雪織を更に寂しくさせた。

「鴉か。珍しい相方だな」

桂がしげしげと勘太郎を見つめた。

「飛くんが巣立ちに失敗したのを拾って育てたんです。勘太郎っていうんですよ」

「普通は犬か鷹だがな」

「え?」

「黒羽の相方といえば、犬か鷹だ。頭が良く、強い。偵察にも使えるし、目標に攻撃する際にも使える」

「……はぁ」

 確かに犬には牙があるし、鷹には鋭い爪がある。どちらも狩りに使うという話は雪織も聞いたことがあったから、そういうものなのかもしれない。

「でも、勘ちゃんも頭は良いですよ」

「そうだな。鴉は賢い。犬は連れて歩くのに当たり前過ぎて、隠密の場合不信を誘う恐れがある。鷹も山以外に現れると不自然だ。新しい黒羽の相方として役に立つかもしれん。奴らはどこにでもいるしな」

 雪織はおざなりな笑顔を浮かべた。桂はどうも視点と言動が殺伐としている。悪い人間ではないのだろうが、会話をしていると所々で返事に困ってしまう。

「ときに雪織」

「あ、はい!」

「そんなに緊張せずともよい」

「え…あ」

 そして飛と同じくらい、勘が鋭い。もしかしたら、黒羽として生きてきた人たちは皆そうなのかもしれない。だが桂が次に繋げた言葉は、雪織が気を張り詰めている原因の最たるものではなかった。

「すぐにあの黒羽たちがまた襲ってくる可能性は低い」

 まさか緊張していたのは桂の纏う雰囲気のせいだとは言えず、雪織は曖昧に「そうなんですか」と返した。

「あぁ。怪我人を連れているからな。体勢を立て直すのに時間がかかる。俺の持っている火薬も、奴らの誤算だったはずだ。残った奴らで再度襲撃を企てるにも、計画を練るのに多少時を要する」

「怪我人…」

 雪織は川原でのあの火薬の爆発を思い出した。あの爆発をまともに受けたとしたら…雪織は嫌な想像をして俯いた。

「どうした?」

「い、いえ…」

 自分が心配しても仕方のないことだったが、命に関わるような大怪我をした者がいたかもしれないと思うと、胸が痛む。

雪織は何気なく、胸の前にある振り分け荷物の結び目を握った。荷物の中には幾つかの薬が入っている。飛にも使った傷と打身に効く塗り薬、捻挫に効く貼り薬、痛み止めや熱を下げる飲み薬などだ。誰かの役に立てばと思って作ってきた薬だったが、今はこれらを使う機会など来なければ良いと思った。

日が暮れる前に寝床の確保をしなければならなかったので、三人はその前に食事を摂ることにした。保存食は干し芋と煎り豆くらいしかなかったので、後々のことを考えそれらには口をつけずに、再び川辺を探して魚を獲ることにした。

飛が見つけ出した川は、位置的に先程の川の下流にあたると思われた。昼間に降りた地点よりも幅があり流れが緩やかで、その分魚も多いようだった。

膝まで水に使った飛が川の中で派手に暴れると、跳ねた魚を桂が例の短い刃物を飛ばして次々に仕留めた。刃物の柄の先端は輪状になっており、そこには紐が通してある。紐を手繰り寄せれば刃物の突き刺さった魚が手に入るという寸法だ。

雪織は川原に適当な薪を組みつつ、二人の漁の様子を感心しながら見ていた。

「火はついた?」

 手についた水滴を払いながら、飛が戻ってきた。雪織は慌てて手元を見る。ぼぉっとしていて、まだ火起こしの作業までいっていなかったのだ。

「ご、ごめん。まだ」

「貸して」

 飛は濡れた手を着物で拭うと、雪織の手から火打ち石をとった。その際に飛の指がとびきり冷えているのに気付き、申し訳なくなる。

 飛がカシカシと石を合わせると、しばらくして薪の下から小さな火花の音があがり、飛は石を巾着袋にしまった。巾着の中には藁や大鋸屑といった燃えやすい物が一緒に入っていることを、雪織はもう知っている。飛は野宿の可能性もきちんと考えてきたのだ。雪織は何の役にも立てないことを恥じた。

「…ごめんね」

「え?何が」

 飛は目をくるりと回し、穏やかにこちらを見つめている。それが本心からの表情なのか、こちらを気遣って作ったものなのか、雪織には判断がつかない。

「うん、と…色々」

 飛が何か言おうと口を開け、だが結局何も言わないでいるうちに桂が戻ってきた。

「大漁だ。お前の鴉にも分けてやるといい」

「そうですね」

 飛がぴゅぅいと指笛を吹くと、近くの木にとまっていた勘太郎が飛の脇に舞い降りた。勘太郎はまだ刃物が刺さったままの魚を嘴で突き「いやしい奴め」と桂に叱られ、少しだけ首を羽の間に埋めた。

 魚は木の枝で串刺しにして、そのまま火に焙るべく地面に突き刺した。煙が立ち上るのを防ぐため、全体に燃えにくい葉で覆いをする。魚には桂が塩をふったので、仕上がりは美味しくなるだろう。

 魚が焼けるのを待ちながら、雪織は桂が布で汚れを拭きとる刃物を眺めた。

「その刃物…」

「これか?これは()(ない)という。大きさも色々あって便利だぞ。何にでも使える」

 桂の手にする苦無は、先端は尖っているが根元は太く、切るというよりは突き刺すという動きに向いているようだった。手の平程の長さの刃は、尖った先端に向けてやや平べったい四角形が窄まっていっている。その形は、雪織の眠っていた記憶を揺らした。

「その刃物、うちにもあります」

「そうなの?」

 飛が懐に片方の手を突っ込んだまま、だらしのない姿勢から聞いた。片眉が器用に上がっている。

「…俺、見たことないけど」

「魚や鳥を獲るのにいいからって、お母さんが使ってたよ。桂さんが持っているものよりも、ずっと小さかったけど。飛くんが来てからは、魚は飛くんが獲ってきてくれてたから…」

 飛を見ると、笑顔だ。笑顔なのだが、何故か少しだけ怖い。

「…そっかぁ~」

「飛くん?」

「苦無を重宝するとは、なかなか道理の分かる母上だ。しかし得物を民家に置き忘れるなど、不調法な黒羽も居たものだな」

 桂の言葉に、飛が苦々しい顔になる。

「……俺のことですか」

「誰のこととは言っていない。語るに落ちたな」

 飛は拗ねたように鼻を鳴らしてから、表面が良い具合に焦げた魚を手に取りガツガツと頬張った。

「火は通ってます。食べ頃だ」

半ば投げやりな飛の毒見を手始めに、三人は腹を満たした。

食べ残しや火を起こした跡は分からないように丁寧に処理し、三人は再び山の中に戻った。

「今はどのあたりだ」

「丁度峠に入るところです…って、桂さん、その方向音痴でよく筆頭が務まりましたね」

 先程の仕返しとばかりに飛が嫌味たっぷりに言ったので、雪織は聞いていて気が気ではない。しかし桂はそれを知ってか知らずか、こたえた様子もなく「地図さえ読めれば後は部下が何とかした」と胸を張った。

「…その部下に同情しますよ」

 溜息混じりに言って、飛は山道の分かれ道を指差した。

「ここを右に行けば集落があります。その先を半日程行けば城下街に繋がる街道に出ます」

 桂は茜色に染まった空を見上げた。

「ではこの辺で寝床を作った方が良さそうだな」

「はい。俺は少し辺りを見回って来ますので、適当な所で休んでいて下さい」

「承知」

 飛は上空を旋回していた勘太郎を従えて、来た道を戻り始めた。それを目で追う雪織に桂が「行くぞ」と声をかける。

 桂は山道の横の斜面を登り始めた。

「平らな場所を探すぞ。そこが今夜の寝床になる」

「はい」

 返事をしながらも、土と草の上で一夜を明かすことに一抹の不安を感じる。昼間に薬草取りの休憩をするのとはわけが違うのだ。暗闇で獣や襲撃者に怯えながら、山の急激な冷え込みにも耐えなくてはならないのだから。

そんな雪織の心配を他所に、桂は身軽な動きでどんどん上に行ってしまう。雪織はその後を必死で追い、近くの木に掴まりながら懸命に登った。

斜面は長く続いた晴天のおかげか乾燥していて、足に体重をかけえる度にぼろぼろと表面が崩れ落ちる。雪織のいた曾地の集落の周辺は水源が近く湿り気がある土地のため、雪織はあまりこういう足場には慣れていない。こんな時、飛なら後ろから支えるかあるいは上から手を伸ばしてくれるだろう。だが今、その彼はここにいない。見回りに行った後ろ姿を思い出して、小さな溜息が洩れた。

思えば今まで飛に甘え過ぎていたのかもしれない。雪織は自分を奮い立たせるように掴まっていた木を強く握り、エイヤと体を上へ押し上げた。しかし何故か体は上へ行かず、握りしめた木ごと下へと下がっていく。

「え?」

 間抜けな声と共に、木の根がその周囲の土を巻きこんで崩れ落ちた。

「う、うそ」

 状況が把握できてからも尚混乱で木から離せずにいるその腕を、上から桂ががしりと掴んだ。

「何をしている」

 桂は片方の手で大きな木の枝を掴み、自分と雪織二人の体重を支えていた。

「う…すみません」

「掴まる前によく確かめろ。この地盤で掴まるには、あの木は細すぎる」

「すみません」

 もう一度謝って、足に力を入れた。桂はそんな雪織を引き上げる。尋常ではない腕力に、雪織は改めて黒羽とはすごいものかもしれないと思った。

 ようやく「登る」ではなく「歩く」ことが出来るくらいの傾斜に人が三人座れそうなくらいの広さの土地を発見した頃には日はすっかり沈んでおり、お天道様の名残は木の間から見える狭い空の西の方に申し訳程度の朱が漂うくらいのものだった。

「飛くん、場所分かるでしょうか」

「移動の痕跡は消してきていない。分からなければ黒羽失格だな」

 言いながら桂は地面に大きな布を広げた。丁度二人が座れるくらいの大きさだ。雪織は少し考えた末に、背負っていた荷を解いた。意図を察した桂が「いいのか」と聞いたので肯定した。

 荷物から出した小袖の着替えを、桂の布の脇に広げる。これなら三人並んで座ってもまだ余裕があるだろう。

 桂と並んで木を背に座ると、体の疲れがどっと湧いてきたのを感じた。ずっと気を張っていたせいもあり、ここが外であることなど全く気にならないくらいに瞼が重くなる。

 船を漕ぎ始めた雪織に気付き、桂が「寝てもいいぞ」と声をかけた。しかし雪織は首を横に振った。

「…まだ、飛くんが来てないですから」

「そうか」

 気を紛らわそうと、雪織は桂に話しかけた。

「桂さんは、どうして黒羽をお辞めになったんですか」

「それはな…これに出会ったからだ」

 桂は自分の荷物の中から、人の頭くらいの大きさの縫い包みを取り出した。

 雪織はその柔らかな塊を受け取った。夕闇ではっきりとは見えないが、動物を模った形であることは分かる。ただその姿勢は、丁度赤ん坊が脚を伸ばして座る姿とよく似ていた。色はおそらく茶か黒で、表面は犬の腹の毛のようにふわふわとしている。小さな丸い目に、丸い耳。その顔は笑っているようにも見えた。

「可愛いですね」

「そうだろう」

 桂は嬉しげな声を上げた。

「プリカトナから交易品として売られてきたものだ」

「プリカトナ」

 昼間もその名を聞いた気がする。確か、海向こうの大陸にある国の名前だ。

「そのお着物も、プリカトナのものなんですよね」

「そうだ。俺はその動物の縫い包みを見た時、感動した」

 その感動についてはよく分からなかったので、桂の言葉の続きを待つ。

「何の動物を模したのかは知らんが、このような和やかな顔をした動物の縫い包みが流行るような国だ。さぞかし平和なのだろうと思ってな。戦などしているのが馬鹿馬鹿しくなった」

 雪織は縫い包みをしげしげと見つめた。

「…これ、熊じゃないですか?」

「熊なものか!」

 思わぬ強い口調に、雪織は反射的に「すみません」と謝ってしまった。

「熊は危険な生き物だ。餓えれば人も喰らう。それをこのように可愛く仕上げる馬鹿がどこにいる」

「そ、そうですね…」

「その縫い包みの名前はダニエルというらしい」

「ダニ…得る」

「ダニエルだ。もしかしたら動物の名前自体がダニエルというのかもしれんが、まだそこは謎だ。もしそれが動物の名なのであれば、ダニを食べる生き物なのかもしれんな」

 ダニを食べるなら、可愛くないような気がする。なんて、そんなことは思っても言えなかった。

 雪織がダニエルを返すと、桂はそれを大切そうに荷物へとしまった。

「黒羽には黒羽の誇りがある。だが、俺はその優れた知識や規律といったものが戦や権力争いといった下らんものに使われるのにうんざりしてな。だから筆頭を降りた。俺はダニエルの故郷へ行き、ダニエルたちと暮らすのが夢なのだ」

 桂はうっとりとそう言った。その内容には分かる部分と分からない部分両方あったが、とりあえず桂には桂なりの決意があるようだと、雪織はぼんやりと納得した。

 桂はそれから水を得た魚のように生き生きとダニエルの良さやプリカトナの文化について語りだし、雪織は気を紛らわすことに失敗したと気が付いた。彼の話を聞いているうちにどんどん頭を睡魔が浸食していき、やがて意識は途切れてしまった。

 桂は雪織の返事がないことに気が付き、その寝顔を見てから何やら複雑な表情で空を見上げた。

「…女に対する認識を改めねばならんな」

 しばらくして追いついた飛が暗闇の中で二つの頭を覗きこむと、座ったまま桂の二の腕あたりに頭を預けて眠る雪織の静かな寝息が聞こえた。

「遅かったな」

「一応、昼間に奴らが襲ってきた地点まで戻って見て来ました」

「気配は」

「ありません」

「油断は出来んが、とりあえず一眠りは出来そうだな」

「簡単な罠も周囲に張ってきたので、おそらく」

「寝ずの番を交代で行うか」

「…そうですね」

 飛は雪織の隣にゆっくりと腰を降ろし、その頭を慎重に自分の方へ寄せた。

「俺の番が先ということか」

「俺は、見回りしてきたんで」

 桂を目上の者と認識した上でのものとは思えないような飄々とした態度だったが、当の桂は全く気にせずに「承知した」と応えた。

 桂は二人とは反対方向に体を向け、胡坐をかいた。その動きを気配で確認した飛は、雪織を起こさないように静かな深呼吸をした。


       ◆◆◆


 霧は夜の闇の中を休みなく走り続け、途中で目にした村の馬主を叩き起こして馬を買い、夜通し駆けた。その甲斐あって、冷えた空気を白んだ空が包みこむ頃には見慣れた五十土城を視界に入れることが出来た。

 城下街の一角に生えた松の木に馬を繋ぎ、水の入った桶をあてがった。労いの意味をこめてその首を軽く撫ぜると、自分は水さえ飲まずに城へ直行する。門番とのやり取りを省くために、黒羽と城主しか知らない街外れの古井戸を通って城内に入った。しかし黒羽専用の裏口に来た時は、さずがに同僚に見咎められた。

「何者だ!…霧?」臨戦態勢に入っていた男の手が、刀から離れる。

「…隆成様のお耳に、至急入れたいことがある!」

「どうした?そんなに息を切らして」

「火急だ!通るぞ!」

「いや、待て!」

 通り過ぎようとした霧の肩を、同僚が掴む。

「何だ?」

 苛立った霧の視線を受けて男は少し怯んだが、気を取り直して掴んだ肩を強く引いた。

「落ちつけ!隆成様は今謹慎中だ」

「……なんだと?」

 自分が城を開けていたたった一日の間に、一体何が起こったというのか。

「焚の組が隆成様の命で討伐されたのだ」

「なに?」

 焚とは、城内に幾つかある黒羽の組のうちの一つを束ねる筆頭の名だ。五十土城は城主の命を受けて重臣の何名かに一組ずつの黒羽を護衛としてつけている。焚の組が担当していた重臣は、側衆の磨跳平芳だ。

「磨跳様が何か不穏な動きでもされたというのか?」

「例の、政継様の御落胤(ごらくいん)について話が漏れたらしい」

 霧は息を呑んだ。黒く霞がかったものが、腹の底からじわじわと押し上がってくる。

「磨跳様は庶子の娘を城に入れるべきではないと、隆成様に進言なさったらしい。だが隆成様はそれを拒否され、思いあまった磨跳様が娘の元へ黒羽を送り、それに対して隆成様が直々に焚の組を処分されたのだ」

「馬鹿な…っ」

 霧の記憶では磨跳も隆成も、そのような強硬手段に出る人物ではない。

「俺も詳しくは知らんのだ。それより霧、お前が戻ったら(さかき)様のところへ行くようにと言伝を受けている。最優先だ」

「…(かしら)の?」

「あぁ。今回の件についてじゃないのか?」

 一晩の強行軍のためによるものではない、冷たくて嫌な汗が手の平に湧き、霧はそれを握りつぶした。

 霧が頭と呼ぶ榊は、隆成の下につく黒羽たちの現筆頭だ。その榊が個人的に霧に話があるとは穏やかではない。隆成が謹慎中であるという事実を含めて考えても、城の体制にまで危害を及ぼす類のことが水面下で起こっている可能性があった。

 霧は黒羽とも思えぬ乱雑な足取りで城内の廊下を歩いた。日当たりの悪い所に位置する小部屋の障子の前に立った時、中から「入れ」と低くくぐもった声がかかった。

「失礼します」

 礼をして入ると、胡坐をかいた状態から片膝を立てた三白眼の男がこちらを見ていた。男は飛や霧と同じような前髪を垂らした状態での髷を結っていたが、白髪混じりのその髪は極端に傷んでいた。

声がくぐもっているのは、その口元を覆面で隠しているからだ。覆面の下に二十年前の戦で受けた傷があることは周知の事実だった。

「早かったな、霧」

くつろいだ姿勢であっても常に覇気を纏うこの男こそが、次期城主隆成の筆頭、榊だ。

 手で招かれたので、霧は少し近くに寄って背筋を正した。朝焼けなど入らないこの室内では、まだしっかりと夜の闇が息づいている。部屋の端に灯る蝋燭の明かりが、霧の動きで少しだけ揺れた。

「雪織様をお迎えにあがり、こちらへ向かう途中に問題が起きまして。至急隆成様のお耳に入れねばならぬと思い、こうして俺だけ先に戻って参りました」

「飛はどうした」

「雪織様の護衛を続けております」

「雪織様はご無事なのだな」

「はい。裏口で聞いたのですが、磨跳様が雪織様を害そうとしたと…」

「うん」

 喉を鳴らすようにして相槌を打つのは、この男の癖だ。

「霧よ。どうやら政継様はな、雪織様を次期城主にと考えておるようなのだ」

「……は」

 言われたことが瞬時に理解出来ず、思わず間の抜けた声が漏れた。そのくらい考えが及ばないことだったのだ。

 榊は覆面で隠れた口元に手を当てる。

「勿論、隆成様と雪織様は婚姻など結べない。言っていることが分かるか?」

「は…あ、いえ…」

 口ごもってしまった霧を見て、榊の目が細まった。

「…昨年の治水工事の失敗から、隆成様と政継様の関係はあまり良くない。そこに来て、隣国柏の情勢も落ち着かぬ」

 どうにも話が飛び石状で、霧は付いていけない。榊が何を言いたいのか見極めようと、顎を引いた。

「柏もそうだが、下条にもどうやらキナ臭い動きがある。梅雨の頃に、童にも剣術で劣るなどと噂されるくらいに争いごとと縁遠い隆成様が、今後どこまで上手い対応が出来るのかと、政継様がこぼしていたという話もある」

 まぁそんな話をした者は皆処罰したが、と、苦々しく言い放つ。

「政継様は病に侵され、最近は気弱になられておる。どうせお飾りになるのであれば、後継ぎには、自分が最も好いた女の子供が良いと申されたのだと」

 霧の頭に浮かんだのは、生き生きとした生前の咲枝の顔だ。

「ですが、雪織様は女子で…」

「そうだな。そもそも、病の上での妄言と思える。だが、それにしては体調が悪いというこの時期にわざわざ隣国の若君を招くなど、挙動が怪しい」

「柏の若君ですか?」

 霧が城を立つ前に訪れたという隣国の時期城主の姿は、実際には目にしていなかった。

「あの国には男児が多い。よもや若君のうち誰ぞ雪織様との婚姻を考えておられるのではという者もいる。まぁ、それがないにしても、過去には女子の城主も居ったことだしな。基本は嫡男と決まっておるが」

「そうです。まして隆成様は長く次期城主様としてお勤めも果たして来られたものを…」

「知っておるか?霧。北凍(きたとう)(じま)凍陸国の城主は女子よ。それも、嫡子ですらないわ。重臣と婚姻を結ぶことで成り上がったという話だが…さて、我が国はどうか。わざわざ隣国の若君でなくとも重臣を雪織様と婚姻させ、摂政にするというのもありそうな話だが」

「まさか…」

「…政継様がどこまで本気かは知らん。だが、隆成様はそれを信じていられる。真に素直な方だからな。お父上と妹君を敵に回すことにお心を痛めていられたが、今は覚悟を決められているようだ。まぁ…政など何一つ知らずに育った女子に家督を譲るなどと言われたら、隆成様でなくとも怒りに震えるわ」 

 榊の言葉は暗に隆成が政継を恨み、雪織にその怒りを向けていると言っているようにも解釈出来る。しかし霧の胸の内には、それを強く否定する思いが込み上げた。

「ですが城に雪織様を呼ばれたのは、隆成様でございましょう!母君を亡くされ、独りになる妹君を不憫に思われたからではないのですか!」

「違うな。城に来たところを亡き者にしようとしたのよ」

 霧は全身から血の気が引くのを感じた。嘘だと叫びたかったが、声が出ない。いつもの調子であるはずの榊の視線や声が、酷く邪悪に感じられてならない。

 頭の中をばらばらと様々な情報が行き交い、霧はそれを必死で組み立てた。

「…雪織様の暗殺を企てたのは磨跳様と聞いております。隆成様はその磨跳様の所業を許せなかったからこそ、焚の組を処罰されたのではないのですか?」

「それも、違う」榊は立てた膝に手を置いて、身を乗り出した。

「磨跳様は隆成様の真意に気付かれ、諭したのだ。だから邪魔が出来ぬよう、磨跳様の手足を捥いだ。それをしたのは他でもない我らよ。身内同士の諍いなんぞ、実に後味の悪い。焚は俺の同期ぞ」

 榊は覆面の下で舌打ちをした。

「それでは…」

 霧の声は掠れていて、弱々しかった。

「それでは、雪織様を襲ったあの黒羽共は…」

 榊は全ての表情をどこかに置き忘れたかのように消し去って、霧を見た。

「城の者を使えばどこから情報が漏れるか分からん。あれはおそらく我らに黙って隆成様が命じて動かした、里の者よ」


       ◆◆◆


 朝日が顔に当たる眩しさで目を覚ますと、草の匂いが鼻をついた。初夏とはいえ早朝の寒さは全身を冷やす。雪織は無意識に掛け布団を引き寄せたが、手にしたのは布団などではなく薄い着物だ。しっかりと目を開けて見ると、それは見覚えのある袖がほつれた飛の着物と、紅鳶色と山吹色の二色に染められた合羽だった。

 状況を思いだして飛び起きると、雪織が仕立てた草色の小袖を身に纏う飛が振り返った。

「おはよう雪ちゃん」

 逆光で顔がよく見えないが、声の調子では機嫌は悪くないようだ。

「ご飯作ったからどうぞ」

 言われて見ると、飛の手元には石や小枝でがっちり覆った焚火がパチパチ音をたてていた。

「それ…釜戸の代わりだよね。昨日も川辺でやってた」

「そうだよ。盛大に焚火をしちゃうと煙で居場所が分かっちゃうからね。こうやって煙が横から分散して漏れるようにしてるんだ」

 言いながら飛は即席の釜戸の上から「あちあち」と黒ずんだ塊を持ち上げて、お手玉のように両手の平の上を行ったり来たりさせて冷ました。

「はい」

手渡されたのは笹の葉の包みだ。開けると茸と豆が入っている。

「ご飯もあるよ」

 飛が掲げて見せたのは竹筒だ。水筒かと思ったが、飛が苦無で半分に割るとふわりと立ち昇る湯気の中から白く光る米粒が現れたので、雪織の腹は正直にもぐぅぐぅと音をたてた。

 飛に笑われ、雪織は赤くなって俯いた。

「冷めないうちにど~ぞ」

「あ、ありがとう…あの、飛くん」

「なに?」

「着物、ありがとう」

「どういたしまして。俺も昨日雪ちゃんの着物の世話になったからね」

 雪織の体の下に敷かれているのは、旅に出る際に持ってきた着替えだ。雪織はにこりと笑う飛にほっとして、渡された朝食の香ばしい湯気を存分に吸い込んだ。

「桂さんは?」

「見回りに行ったよ。もうすぐ帰ってくるんじゃないかな」

「もう帰った」

 突然後ろからかけられた声に、思わず笹包みを落としそうになる。

「か、桂さん、おかえりなさい。お疲れ様でした」

 ぺこりと頭を下げると、沈黙が返ってくる。不思議に思って顔を上げると、何やら妙な顔をした桂がこちらを凝視していた。

「…桂さん?」

 桂は一度目を閉じて、開けた時にはもう元の顔に戻っていた。

「いや、何でもない。飯にしよう」

 三人は「こうなると味噌汁が欲しい」だの「この分だと三日で塩がつきる」などと気安い話をしながら朝食を終えると、釜戸の始末をして腰を上げた。「山道には出ない方がいいだろう」との桂の提案によって、今日は山の中を通って直接麓の集落に向かうことになった。

 雪織は少々脹脛や腿や足の裏が痛んだが、泣き言は言わずに従った。「山道より山の中を行った方が、距離は近いから」と、飛が励ましたおかげでもある。

 三人が行く道なき道は、なだらかなこともあれば昨日のように急な斜面のこともあった。多いのは勿論後者で、雪織は時々息が上がってしまい飛と桂の世話になる必要があった。「女にしては健脚な方だろう。俺たちの速さについて来られるのだからな」そんな桂の評価は、お世辞でも嬉しかった。

 飛が道を切り開き、雪織と桂がその後に続く。足跡を上手く消すのは最後尾の桂の役目だ。時々両手で木の枝をかき分ける飛の右手の包帯が痛々しい。

「後で包帯を代えようね」

「ありがと。後でお願いするね」飛は肩越しに振り返って笑った。

 追手が来る気配はなく、概ね旅は順調だった。いつの間にか昼は遠に過ぎており、雪織は宣言通りに休憩で飛の右手の包帯を代えるついでに薬も塗った。

「痛い?」

「そんなに。雪ちゃんの薬は効くからね」

 雪織は照れて「お母さんのおかげだよ」と言った。すると、飛の笑顔が少しだけ陰った。笑顔なのに笑顔ではない。時々飛はこういった表情を見せるが、その回数が旅に出てから段違いに多い気がする。

 雪織はそこで決定的なものに気付いてしまい、鼓動が速くなった。これが桂の言っていた女の勘というヤツだろうか。

 飛はなぜ病気の母の看病を二年も手伝ってくれたのか。自分の面倒をここまで見てくれるのか。そして母の話題を出したことで見せた、この笑顔ではない笑顔。

「飛くん…」

「ん?」

 飛は新しい包帯に包まれた右手を満足そうに撫でている。

「もしかして飛くん、お母さんのこと…」

「おい」

 またしても背後から桂の声がかかり、雪織は飛び上がらんばかりに驚いた。

「は、はい!」

「すぐそこに村が見えたぞ」

 飛の手当ての間周囲の偵察に行っていた桂の言葉に、二人はすぐ荷物を担ぎ直した。

 今度は桂を先頭に斜面を横へ進んで行くと、視界に青空が広がった。薄雲がのっぺりと伸びた空に鳶が円を描いて飛んでいる。その下に幾つかの民家と田畑が並んでいた。

 雪織たちが立つ所は崖と言ってもいいような斜面の上で、村までかなりの高低差がある。怪我を覚悟で落下でもしない限り、この斜面を下りるのは無理そうだった。しかし黒羽の二人は顔を見合わせて頷いた。嫌な予感がして、雪織は先手を打った。

「む、無理ですよ?何の道具もないのに」

「雪織が無理なのは分かっている」

 それはそれで、足手まといとはっきり言われているようなものなので切ない。

「…道具があれば出来ます」

 しかし雪織の虚勢も、次の飛の言葉で一蹴された。

「駄目。雪ちゃんはおんぶ」背中を向けて、後ろ手でちょいちょいと手招きをする。

「で、でも」

「お前は手を痛めているだろう。俺が背負う」

 飛が「誰のせいだよ」とぶつぶつ言う隣で、桂は膝を折った。

「乗れ」

 もたもたしていると怒られそうだったので、雪織は桂の背に乗ってその肩に手を乗せた。

「首に手を回しておけ。あと、口は開くな」

 桂は立ち上がり、昨晩尻の下に敷いていた布を縦長の紐状に捻じると、背負い紐の代わりにした。まるで自分が赤ん坊になったようで、雪織は居た堪れない。

「行くぞ」

 そう言った時にはすでに、桂の体は前傾姿勢にあった。

 ザザザと足を滑らせながら斜面を下り、時に左右にぴょんぴょんと跳ぶことで、体の重みによってついてしまった勢いを削ぐ。背の上に居るだけの雪織は、気が気ではない。目を開けているとあまりの視界の変動に気持ちが悪くなるので、目を瞑って桂の首にしがみついた。

 激しく揺さぶられる動きがなくなったので目を開けると、桂の後ろ頭と隣に立つ飛の横顔が目に入った。

「…雪ちゃん、降りるの手伝うよ」

「…え?うん」

 頭の中がふわふわとしている状態で返事をすると、飛は雪織の背中を支えた。桂が紐を解くと同時に一旦体が飛に持ち上げられ、それからやっと自分の足で地面に着地した。

「…はあぁ~」

 大きく息を吐き出すと、飛に笑われた。

 ようやく出来た余裕で周囲を見回すと、三人が降り立ったのは、どこかの民家の裏のようだった。肥溜めと、傍に小さな畑がある。

「ここから北に行けば街道に当たるはずだよ。今の内にここで何か食べ物を調達しよう」

「そいつぁ必要ないよ」

 飛に返事を返したのは、桂でも雪織でもない。民家の影から突然現れた少年だ。足は泥にまみれ、着ているものは小袖一枚。農作業中の村の子供といった風体だが、桂と飛は雪織を後ろへ押しやりながら前に出て苦無を構えた。

「え、え?」

 視界が閉ざされてしまった雪織の耳に、やたらと抑揚のある少年の言葉だけが聞こえた。

「やだな、飛兄ィ。おれのこと覚えてないのかい?」

(こま)か」

 飛は苦無を降ろした。すると少年の顔にばさりと勘太郎が覆いかぶさる。

「うっぷ…!何だ?鴉…」

「あぁ、悪い。それ俺の相方だ」飛が口笛で勘太郎を肩の上に呼び戻す。

「へぇ?変なの。不細工」

 少年は突然襲われたせいか、口を尖らせて言った。勘太郎は少年の悪口を正確に理解したようで、飛の肩の上で羽を広げて威嚇した。

「な、何だよ!」

 鴉相手に身構える狛に、飛が溜息を落とした。

「桂さん。こいつは俺の里の者だ」

「そうか」桂も苦無を上着の内側にしまう。

「狛、紛らわしい真似すんな。気配消されたら攻撃しそうになるだろうが」

 飛にそう言われると、狛と呼ばれた少年は「へへ」と笑った。

狛は可愛らしい少年だった。顔立ちだけでなく、色素の薄いふわふわとした癖っ毛が蒲公英(たんぽぽ)の綿毛のように見えて微笑ましい。髪質からか年齢的なものなのか髷はなく、申し訳程度に襟足で適当に後ろ髪を束ねていた。

「お前、なんだってこんな所にいるんだ?」

「飛兄ィは二年も城にいなかったから知らないだろっけど、おれも今年っから城上がりなんだぜ?」狛は胸を張った。

「雪ちゃん、このお調子者は狛。俺の弟分みたいなものかな」

 飛が背中をどけてくれたので、雪織はその間から顔を出しつつ「雪織です」と小さく頭を下げた。すると狛はきょとんとして、次に破顔した。

「へへ、姫様に頭下げられちゃったよ!飛兄ィ、こっちの人は?」

 狛が首を傾げながら見上げると、桂は自分の名前だけを短く答えた。

「風流れだよ」飛が補足する。

「ふぅん」

「それより狛。城仕えになったなら、用があってここに来たんだろ?」

「あ、そうそう!そうだった。おれはね、伝令役に加えてもらえたの。姫様が変な奴らに襲われたって霧さんが城に駆けこんだからさ、おれは至急護衛さんたちと一緒に駆け付けたってわけ」

「早いな」

「まぁね。馬とばしたから」

「なんで居場所が分かったんだ?」

「そりゃ霧さんの予想だよ。どの道を通るかは分からなかったけど、途中の村には寄るはずだってね。小姫山の麓の村にも、今頃はずれクジ引いた皆さんが管巻いてるぜ、きっと」

「成程ね…それで、他の連中はどこに居るんだ?」

「親切な農家の庭先で休んでるよ。早く合流しよう」

 狛ははしゃいだ様子で村の中心を指差した。しかし飛は片手を懐に入れ、困ったように肩を少しだけ落とした。

「そうだな。けど、その前に水の補給させてくれ」

「そんなのおれがやるって」

 飛は溜息をついた。

「お前な…気付けよ。こんな泥だらけの格好じゃ、雪ちゃんが恥ずかしがるだろうが。一応姫様だぞ。川で汚れ落とす時間くらい寄越せ」

 その言葉に、狛は軽く目を見開く。雪織は汚れなど気にしていなかったのだが、何か言う前に飛の背中に視界を阻まれた。飛は後ろに手を回し、桂と雪織に見えるよう人差し指をくるくると回している。

「…驚いたな。飛兄ィ、ちゃんと『お姫様の護衛』やってんだ」

「どおゆぅ意味だ」

「別に?」

「お前はさっさと姫様の到着を知らせて来いよ」

「はいよ!じゃあ後で!」

「あぁ」

 懐に入れてない方の手をひらひらと振って飛は桂と雪織を促し、踵を返した。

「…田んぼ用の水路がある。上流に行けば川があるだろう」

 桂が低く言い、それに飛は無言で頷いた。

 雪織はなんだか分からないまま飛に軽く背中を押され、川まで誘導された。その途中で桂が「どういう状況だ」と小声で聞いた。

「まずいかもしれないです。考えたくはないが、桂さんの言う通り城の連中が関わってる可能性がある」

「では道は三つだ。一、このまま逃げる。二、騙されたふりをして途中で逃げる。三、騙されたふりをして城まで行く。ただし、向こうから攻撃されたら二と三は選択肢から消えるな」

「そうですね。どこまでが計略なのか知りたいのなら、あえて懐に入るのもありですが」

 話の内容が全く分からず、雪織は混乱した。

「あの、何を話してるの?どうして逃げるの?」

 すると飛が真剣な表情で「狛が敵を連れている可能性がある」と言った。

「敵?」

 敵とは誰なのだろう。昨日川原で襲ってきた黒羽たちのことだろうか。

「霧からの報告を受けたと言いながら、狛は桂さんのことを知らなかった。それは霧の報告を聞く前から行動していたからか、それとも霧が何らかの事情で説明しなかったか、そのどちらかだ。霧が桂さんのことをあえて話さなかったとすれば、その理由は、話すことで不利になる可能性があるってこと。つまり、城の中に敵がいるって考えるのが自然だ」

「更に言えば、あの子供が村人の格好をしているのは、おそらく村での潜伏期間を考えてのことだ。となれば、霧の報告をあの子供は聞いていない説の方が有力だな。聞いていないのに、雪織が襲撃を受け霧が報告に来ることを知っているのは、敵だけだ」

「敵って、だれ…?」

 説明に頭がついていかずにぼぉっとしながら聞くと、飛は悔しそうに「それは分からない」と言った。

「とにかく、状況は切迫している。三択のうち、どれを選ぶ。四つ目もないわけではないが」

「何ですか」

 飛に聞かれ、桂は横目で飛を見た。

「四、全員倒す」

「…できるんですか」

「火薬を使えばな」桂はしれっと言った。

 雪織は昨日の川原での火薬の威力を思いだして、思わず「駄目です」と口を挟んだ。

 あの爆風は地面に大穴をあけ、飛び散った石にぶつかった者たちの中にはただの打撲では済まない者もいただろう。また、焦げたのは川原の石や山の木々だけではないことも、聞こえる呻き声が示していたではないか。

「何故だ」

 ――あそこまでする必要はないではないか。

 そう言いたかったが、桂の厳しい視線の前にそんな意見を出したら、甘いと叱りつけられそうな気がした。

「…関係のない村の人が迷惑します」結局、嘘ではないが本音とは少しずれた意見を出す。

「そうだね」

 こちらの本心を察しているのかいないのか、飛がまた笑っていない笑顔を浮かべたので、雪織は少しだけ泣きそうな気分になった。

「では逃げるか?」

「今なら可能だと思います。ただ追って来た時の対処を考えると、倒せるうちに倒した方がいいとは思いますが」

「やはり、火薬を」

 雪織は二人の会話を俯きながら聞いていた。すると、頬に丈の長い草の先が触れた。

「…あ」

 見覚えのある葉だ。まだ実をつけてはいないが、家の裏山に生えていたものと同じで間違いない。

「あ、あの」

 雪織は駄目で元々と、二人に声をかけた。その横で飛び上がった勘太郎が雪織の手にした草を嘴で遊ぶように突いた。


       ◆◆◆


 輪郭造りの五十土城は、丁寧に四角く切られた石垣の本丸から二の丸、三の丸と続き、最後に堀で囲まれた、ごく一般的な城である。堀は近くの川からひいた水で満たされ、天守の瓦と共に朝日がかかると美しく煌めく様が、城の者たちはもちろん、民にとっても自慢であった。

 城主である政継も次期当主の隆成も本丸で寝起きをしているのだが、ここ三月ばかりは顔も合わさぬ日々が続いている。さらに隆成の方は昨日より謹慎中であるというのが、城中の者が案じつつも様々な憶測を囁き合う出来事であった。

 隆成個人の部屋は、二階入母屋の奥にある。その室内には(ぬり)(ごめ)があり、五十土城城主政継から申し渡された隆成の謹慎場所でもあった。

 この塗り籠は本来書物を保管する蔵として使用しているのだが、幼い頃に悪さをした隆成を罰として閉じ込めておく場所でもあった。ここに自らの意志ではなく籠るのは十歳の頃に父の刀を持ち出して以来のことだったが、今回の謹慎はそんな生易しいことが理由ではなかった。

 政継が隆成の謹慎を解くまでは、側近の黒羽たちであっても謁見を禁じられている。しかし霧は処罰を覚悟で隆成に会う決意をしていた。それは、筆頭である榊から聞いた情報を誤りであると思いたかったからに他ならない。

 霧は躊躇なく監視役の黒羽たちの食事に睡眠薬を混ぜ、彼らが眠るのを待って物置きに押し込めると、隆成の自室の天井裏へ滑り込んだ。

「隆成様…」

 女の声が聞こえ、霧は息を殺して下を覗いた。

「お食事を召し上がらないのですか?」

 鮮やかな紅色の着物の女は、隆成の正妻である初音だ。美しい黒髪と濡れた瞳に艶がある。目鼻立ちはごく普通であるが、形の良い唇にひかれた紅は白い肌によく映え、薄暗い中でもその品のある口の動きは目を引いた。

初音は塗篭に向かって両手の平を当て、中にいる隆成へ懸命に声をかけている。塗篭からは呟くような声が返事をしたが、何を言ったのかは聞こえない。

「…何かの間違いでございます。兄も、そのようなことは望んでおりません」

 ――兄と言った。

初音は隣国柏から嫁いできた姫であり、時期柏城主、寛通の妹である。ということは、柏城主に関わりのある話ということなのだろうか。

 また塗篭の中から声がして、初音は苦し気な顔で頭をふった。

「いいえ、隆成様。隆成様は、この五十土の唯一無二でございます。もちろん、私にとってもそうです。どうか、どうかこの初音の願いを聞いて下さいませんか?」

 壁に縋り付く様子も虚しく、最早返事はない。初音は下唇を噛み締めながら、その場をゆっくりと後にした。

 衣擦れの音が去ったのを確認してから、霧は畳の上に降り立つ。そして慎重に鍵の掛かっておらぬ塗り籠の扉を開け、中に座る男を目にした時には、思わず駆け寄ってしまった。

「隆成様…!」

「……霧か?」

 隆成は外から入る僅かな光に目を細めた。その頬はこけ、目はどろんと沈んでいる。いつも清潔にしている髪は乱れ、無精髭まで生えていた。たった一日の謹慎でここまでやつれるとは、余程の心労が体を蝕んでいるのだろうと思われた。

 霧は膝をつき、正面から隆成を見据えた。

「なぜこのようなことになったのですか?頭は政継様が雪織様を後継者に望み、それを阻止すべく隆成様が雪織様のお命を狙っていると…政継様の希望は元より、あれだけ雪織様を心配していられた隆成様がそのようなお考えであるとは、俺には信じられません!真実を…隆成様の本当の気持ちをお聞かせ下さい!」

 最後はほぼ懇願となった霧の言葉を聞いた隆成は、小さく息を吐くように力なく笑った。その瞳には苦悩が見て取れる。

「霧、私は真実雪織を心配していたし、父上を尊敬もしている」

 霧は力強く頷いた。やはり頭といえど、榊が何か判断違いをしているのだろう。しかしその後の言葉は、霧の目の前を一気に暗くした。

「だが、父上は咲枝殿が病の床につき、御自身も病に倒れられることで変わってしまったのだ。――雪織を城に呼び寄せることに、父上はもともと反対していた。まだ早い、と。その言葉の裏には、私を失脚させてから呼び寄せるという意味があったのだ」

「ま、まさか…」

 隆成の杞憂であると、まだ霧は疑っていた。

「はじめは私もその反対を気にかけなかった。父上には父上なりに、城の中を混乱させたくないのだろうと。だが先日、磨跳殿が私に雪織の暗殺を止めるようにと言ってきたのだ。身に覚えのないことを責め立てられ、不信に思って探らせると、磨跳殿は父上の謀略に乗っているのだと…」

「それで…焚の組を?」

「殲滅せよとの命令は出していない。だが焚の組はこちらの戦力を削ろうと襲いかかって来たという。結果的に生き残るものがおらぬ形となってしまった」

 隆成は目を伏せて自嘲した。黒羽の仕業は主の責任であると把握しているのだ。その誠実さが、尚更自身を苦しめている。

「父上が私を疎んでいられるのは間違いない。雪織を次期城主にという噂が出てから、一度として直接私に会おうとはなさらないのだ。それに…父上が雪織を推す理由もある」

「理由、ですか?」

 確かに現状では隆成が仮に失脚したとして、他の姉妹や男子の親戚がいる中で雪織が推挙されるだけの真っ当な根拠が見当たらない。霧は我知らず身を乗り出した。

「父上と咲枝殿が長年口を噤んで来たある事実がある。それを榊が調べ上げたのだ。そして私は父上の真意を悟った。父上は、戦の準備をされているのだ。五国同盟を将来的に破棄し、戦乱の世を取り戻したいのだ」

「まさか!」

 政継は二十年前に泥沼の戦場と化していた五国間を駆け回って同盟を築いたとされる、英雄のうちの一人だ。自分の功績を何故今更無にする必要があるのか。

「間諜からの報告と、初音の兄上からの情報がある。下条が近く、柏と組み、五十土に攻め込む可能性があると」

「…は?」

 一体何を言っているのか。もしそれが本当だとして、柏の城主がそれを馬鹿正直に伝えてくれるはずもない。霧は思わず隆成の足先から頭まで凝視した。無礼にも、気が狂れた可能性を考えたのである。

「隆成様、その、失礼ですが、初音様の兄上様とは…」

「あぁ、時期城主の寛通殿だ。三日前から滞在していられる。とても気さくな方だよ。あの方は、お父上から聞いたそうだ。私の父上と、咲枝殿との出会いを…」

 城主同士で妾腹の話をするほど仲が良かったとは初耳だった。しかし論点はそこではない。霧が更に詳しく聞き出そうとにじり寄ると、隆成はゆっくりと項垂れた。塗篭の中の闇に、いっそう馴染んでしまう様だ。

「父上が咲枝殿と出会ったのは、戦場だ。そして雪織は……」

 雪織の名の先に小さく絞り出された言葉は、霧の呼吸を一瞬止めた。

「そ、それでは雪織様を次期当主にとおっしゃるのは、雪織様を国の旗印にされるためだと…?」

 霧の質問に隆成は答えずに、塗り籠の扉の向こうに視線をやった。

「寛通殿は、父上から雪織との婚姻を勧められたそうだ。今回の滞在も、父上が秘密裏に運んだことだとか。私とて、雪織が可愛くないわけではない。しかし、そのような形で国に利用されるくらいであれば…」

「つ、追放ではいけないのですか…」

 薄々答えを知っていながらも、霧は言葉にせずにはいられなかった。はたして、隆成の口元は自重に歪んだ。

「私が考えなかったと思うか?今や、この城だけでなく、柏の城の中にも雪織の存在は知られているのだ。状況次第では、どちらの黒羽からも狙われる。場合によっては、下条からも…ここ最近の、五国内の黒羽の里の動きを考えればな…」

 隆成の頬はいつの間にか涙の筋が出来ていた。

「一生命を狙われるか、傀儡(かいらい)であることを求められるのだぞ?戦がおこれば、尚のことだ。そんなことが、あの子に耐えられると?」

霧は何も言えずに、ただ隆成の茫然としたような表情を見つめることしか出来なかった。


       ◆◆◆


 腰の丈まで雑草が生い茂る中で、狛はそれらが足に触るむず痒さに耐えきれず、互いの足を擦り合せている。雪織たち三人はのんびりとした調子で戻ってきて、民家の軒下で待つその子供に飛が手を上げて見せた。

「…遅いよ」

 狛の文句に、飛は全く悪びれた様子もなく笑った。

「悪い、悪い」

「それ、なに?」

 飛の手には茸と野草が抱えられていた。

「俺たち昼飯まだでさ。水汲みついでに食糧採って来たんだよ」

「もう夕飯時だけどな。言ってくれりゃあ、分けたげたのに」

「雪ちゃんが、そこまでしてもらうわけにはいかないってさ」

「え?あ、うん。悪いもん」突然ふられて、雪織はおどおどしてしまう。

「ふぅん?律儀だなぁ」

「雪ちゃんは村娘として素直で控えめに育ったからな。お前みたいに厚かましくないんだよ」

「ひでぇな、飛兄ィ」

 飛と狛は足で軽く蹴り合った。こうして見るとまるで兄弟のように仲が良く見えるのに、どちらもお互いを騙そうとしているなんて、雪織には信じられなかった。

 村に入ると、広い庭を持つ民家の前に五人の男たちが並んでいた。みんな狛と同じく、普通の農民に見える。あちこち継ぎのあたった小袖一枚の男たちの中には、ろくな草履も履けていない者もあり、食えてはいるがそこそこに貧しい村人といった風体だ。

「遅いぞ、狛」

「悪いね」

「いや、俺たちが手間取らせたんだ」

 飛は申し訳なさそうに首の後ろを掻くと、男たちに頭を下げた。

「城までよろしく頼みます」

「お前が飛だな。任せておけ」

 先頭にいた男が雪織と桂に視線を移したので、飛は心得た様子で説明した。

「こちらが雪織様。隣は風流れの桂さん。この人やたら強いから、護衛としてついて来てもらったんです。霧もいなくなったことだし」

「あぁ、大変だったようだな。雪織様、桂殿、道中よろしくお願い致します」

「あ、あの、こちらこそ!お願いします!」

 ぴょこんと頭を下げる雪織に、男は相好を崩した。人が良さそうに見えるその顔に、雪織は胸が痛んだ。

「三人ともご飯まだなんだって!」狛はまるで手柄を報告するように言う。

「では、我々の食糧を…」

 言いかけた男の言葉を、桂が手で制した。

「いや。自給自足が、我らが姫の信条。そちらの兵糧を減らすことはない」

 その厳めしい様子に男が困惑して飛を見ると、飛は苦笑いを見せていた。

「こういう人達なんだ。雪ちゃんは謙虚の塊だし、桂さんは…何だろう……こういう人」

「こういうとは何だ」

「…こういうは、こういうです。ところで、庭先に釜戸作っていいかな」

「釜戸ならここの家の主が貸してくれるぞ」

 これに反応したのは雪織だった。

「でも、あの…それだとお夕食の時間がかぶってしまうので、皆さんにご迷惑がかかります。どうか庭先だけ借りさせて下さい」

 ぺこりと頭を下げた雪織をちらりと横目で見た飛は「ほら謙虚」とおどけて見せた。しかし雪織は申し訳なさそうに身を小さくしながら「あ、でもお鍋とお味噌があれば…」と続け、男たちの笑いを誘った。

 三人は大きめの鍋と味噌を民家の善意で拝借し、夕ご飯の支度をした。

「鍋に何を入れるんだ?」

 周囲で狛がやたらとちょろちょろ動き回っている。

「何だお前。食べたいのか?」

 飛が呆れた様子で聞くと、狛は歯を剥いて、悪戯っ子そのものの笑みを浮かべた。

「美味しかったら、恵んでくんない?」

「仕方のない奴。入れるのは茸と野草。さっき俺たちで採って来た」

「え?姫様も一緒に?」

 目を真ん丸くする狛に、雪織は「普段は山で薬を作ってるから」と付け足した。

「へえぇ~」

 狛は興味深そうに鍋の中を見た。

 雪織は先程から倒れそうなくらい動悸がしていた。心臓の病に効く薬を家に置いてきたことが悔やまれるほどだ。

 狛はどこまでも無邪気な様子だったが、こんな風に周りをうろつかれるとしっかり根づいてしまっている猜疑心が花でも咲かせそうな勢いで成長してしまう。

「いただきます」

 三人は手を合わせて味噌仕立ての茸汁を啜った。久しぶりの味噌の味とその暖かさで、思わず肩の力が抜ける。おかしな緊張も、少しは解れていくように思えた。

 雪織が満足気に大きな息をつくと、飛が噴き出した。

「美味しそうに食べるなぁ」

「だ、だって…」

「確かに。五臓六腑に沁み渡る」

「桂さん…オヤジくさいな」

「なんだと?」

「ま、まぁまぁ…」

 三人とも二杯目に口をつけたところで、握り飯を頬張った狛がまた覗きに来た。

「美味しい?」

「あぁ。お前もいい物食べてるな…そうだ。握り飯と鍋を交換しないか?そうすりゃ、全員飯と茸汁が食える」

「いい案だ!飛兄ィ!」

 狛は小躍りしながら人数分の椀を集めに走った。

 大人数で鍋を囲み、男たちは「姫が作ったものか」「恐れ多いな」などと言いながら喜んで茸汁を啜った。もはや雪織の心臓は限界に来ていた。その様子に大分前から気づいていたであろう飛が「雪ちゃん疲れてる?」と声をかけた。天の助けだった。

「…少しだけ」

「無理もないよな。昨日の朝から食事と寝る時以外は歩きっぱなしだったもんな。変な奴らにも襲われるし…」

「それならば、民家の一室を借りてあるので休まれて下さい」

 男の一人が鯱張って言った。

「でも…」

「雪ちゃん、今くらい甘えた方がいいよ。また明日から移動するんだから」

 飛の心底心配そうな説得を受けて、雪織は頷いた。

「…ごめんなさい。じゃあ、先に休ませていただきますね」

 少しふらふらとしながら、雪織は立ち上がって一同に礼をした。

 雪織がその場を去ると、男たちは饒舌になった。

「あんなに謙虚な姫君は見た事がない」

「さすが、政継様のお子だな」

「我々を下賤の者よ汚れよと言って蔑まれる姫なら幾らでもいるが」

「まさか黒羽に頭を下げられるとはなぁ…」

 思わぬ絶賛に飛と桂は一瞬だけ目を合わせたが、その後は「そうだろう」、「自慢の姫様だよ」などと適当に合わせた。

 夕食の後、一同は早朝に出発を決め、今日は交代の見張りの者を除いて早めに休むことにした。飛と桂は庭先を借り、他の者は納屋を使った。まともな部屋で寝ているのは雪織だけである。

 外がすっかり冷えて虫も鳴かなくなった頃、目の覚めた雪織は部屋から出た。すると障子を開けたすぐそこに飛が座っているのを見て思わず悲鳴を上げそうになり、必死でそれを呑み込んだ。

「あ、起きちゃった?」

「ずっとそこに居たの?」

「ずっとじゃないよ。そろそろ桂さんと交代の時間だった」

「…私も庭に行っていい?」

「それじゃ交代の意味ないんだけど…」

 飛は苦笑いを零したが拒否はしなかったので、雪織は彼について庭先に降りた。

 三日月の下で桂は腕を組みながら胡坐をかき、太い木の幹に寄りかかっていた。目は瞑っていたが、二人が近づくとすぐに目を開けた。僅かな月明かりだったが、暗闇に目が慣れている状態であれば至近距離での顔の判別くらいはついた。

「なんだ。雪織も来たのか」

「目が覚めちゃったんです」

「いい頃会いだな」

 その言葉の意味は聞かなくても分かっていたので、雪織は言葉に詰まった。何となしに髪の毛を指で弄っていると、庭の奥にある納屋の戸が乱暴に開けられた。中から次々と足取りの怪しい男たちが出てきて、その場に突然嘔吐した。腹を押さえて地面に蹲る者もいる。

 雪織はその様子を音と影で判断し、指先が冷たくなるのを感じていた。

「飛兄ィ…鍋になんか、入れた?」

 狛がとぎれとぎれに言った。飛はまるで霧か桂のように淡々と「鍋じゃなくてお玉に塗った」と白状した。

「でも安心しろよ。ただ腹の具合が悪くなるだけだ」

「毒に慣らされた黒羽に効くかどうか心配したが、多めに塗っておいて正解だったな。大人しく足止めされていろ」

 二人の黒羽に向かって、狛が腹を押さえながら何とか這って進んできた。

「なんで…」

「それはこっちが聞きたいな。お前本当に霧に会ってるのか?」

 飛の見下ろす冷たい視線を受けて、狛は口元に笑みを浮かべた。

「……なんだ。ばれてたのか」

「霧に会ってるのか」飛はもう一度聞く。

「会って、ないよ」

「どういうことだ?」

 飛の質問と同時に、狛はその場に吐瀉物を撒き散らしてしまった。代わりに後ろに居た男が答えた。

「我らは雪織様の味方だ…それに偽りはない!」

「じゃあなぜ欺く真似をするんだ?」

「それは…」

 男が口ごもると、狛が口の周りを腕で拭いながら立ち上がった。

「姫様が、次期城主になるんだ!」

「……なに?」

「次期城主は姫様だ!だから、城へは無事にお連れする、ん…だ…!」

 狛はまた嘔気に襲われたらしく、口を押さえて膝をつく。

「誰の命令だ?」

 狛は吐いた後、飛に向かってにやりと笑った。その表情が丁度月明かりに照らされて暗闇に浮かびあがり、雪織はぞっとした。

「勘のいい飛兄ィ…予想しな」言って、聞くのも耐えがたい呻き声を上げる。

 飛は舌打ちをした。その横から、もう限界とばかりに雪織は飛び出した。

――苦しみ悶える人々。その原因を作り出したのが自分だという事実に、胸が潰れそうだったのだ。いくら命を狙われているとはいえ、こちらから進んで害を与える必要など、本当にあったのだろうか。火薬で怪我をさせるよりはと思ったが、これでは大差ない。

「ごめんね!今薬を煮出すからね、待っててね…」

「雪ちゃん」

「雪織、煮出しなど自らにやらせればいい」

「そういうわけには、いきません!」

 珍しくびしりと言うと、それ以上二人は何も言わなかった。夕食の時に作った釜戸がまだ使えそうだったので、それに火をつけ始める。

「姫様、優しいな…あ~あ…」

 狛がごろんと地面に寝っ転がって呟いた。

「そんなだと…これからもっと、付け込まれるんじゃない?」

「させねェよ」

 飛がその頭を軽く蹴った。幸い雪織はその様子を火打ち石との格闘に忙しく、見ていない。

「おい、狛」

 飛は少年の胸ぐらを掴み上げた。

「誰の命令だ?昨日襲ってきた奴らも仲間か」

 狛は「ひひ」と力の抜けた声を漏らした。

「おれらの君主は唯一人、だろ?」

 黒羽が言う唯一人の君主とは、城主でしかあり得ない。飛は狛の喉元に苦無を突き付けた。

「……嘘を言うんじゃねぇ」

「嘘、じゃねぇっ…て。姫様を狙うのは隆成様で、姫様を守るのは…政継様」

「はぁ?馬鹿言ってんな…っ」

 飛が狛の首を絞めんばかりに胸ぐらを更にきつく掴んだ時、お玉が地面に転がる音がした。

「兄様が?」

 茫然とした声に飛は「しまった」と顔を顰めたが、もう遅かった。

 ――兄様が、私の命を狙っている?

暗闇の中、雪織の目の前にはあの初夏の日の隆成の優しい顔が浮かんで、消えた。雪、雪と穏やかに呼んでくれる少し低い声は、父を知らぬ雪織に、それに近い思慕を抱かせていた。

 雪織は腰の抜けそうな感覚と戦いながら、ただ立ち竦んだ。火のついた釜戸の近くに落ちたお玉から、焦げた臭いが広がる。

「雪織。鍋と薬を貸せ。後は俺がやろう」強制的に桂が雪織の場所を占領した。

「姫様ぁ…姫様には、次期城主の資格があんだよ?」

「黙れ狛」

 飛がパッと手を放すと、狛は「ぐえっ」と妙な声を上げながら地面に落ちた。

「雪ちゃん。下の者に伝わる情報なんて、あやふやなものが多いんだ」

「あやふやだったら、黒羽なんてやってられ…グッ」

 立ち上がった飛はさり気なく踵を狛の腹に入れて黙らせると、雪織の背に手を添えた。

「はっきりしたことは分からない。でも、雪ちゃんを狙う輩が城の中にいる可能性がある。雪ちゃん…」

 飛が言い淀んだので、雪織はその顔を見上げた。彼の背後には月が白く輝き、その表情を窺うことを許してくれない。

「雪ちゃん、本当に城へ行く?」

 真剣な声だ。本当に自分を心配してくれている。

 雪織は母の形見を父に届けたいを思った。そして旅に出てからは、母の本当の願いはなんだったのか知りたいと願った。だから多少の危険はあっても城に行くことを決意したのだ。

しかしそれに見事に水を差す事態である。雪織は瞼の裏で微笑む兄の顔が崩れ落ちるのを拒み、頭を横に強く振った。そして、我知らず助けを請うように飛を見た。

ーー誰も訪ねて来ることのない山の家。女二人、楽しく気安く暮らしてはいたものの、時に耐えようもなく寂しい時もある。そんな中、雉だの鳩だの狸だのと、道々遊ぶついでに土産を持ってふらりと姿を見せるこの陽気な兄分の姿が、何よりの慰めになってきた。そしてそれはもちろん、今この時も変わらない。飛だけが雪織の頼りだった。

 飛は一体、今何を思うのだろう。兄に見捨てられたかもしれない自分に、これ以上ついてきてくれるのだろうか。――いや。自分よりも兄を選んでくれるなんて、そんなことあるわけがない。飛の主は隆成なのだから。

「行くよ」

 声は自然に出ていた。

「確かめたいことが、増えたから」

 今はまだ、隆成が雪織の命を狙うなどという話が妄言である可能性もある。少なくとも飛はそう信じているようだったし、雪織だってそうだ。

「そうか…」

 飛の顔は闇に紛れて見えない。しかし表情が見えなくとも声だけの方が分かることもある。今の飛はきっとがっかりしているのだろう。本当は雪織に城に行かないと言って欲しかったのだ。もし城に行かないとしても今の状況では危険なことに変わりはないのだが、それでも飛は雪織を出来るだけ安全なところに置きたいのだ。隆成と雪織を天秤にかけるような真似を、したくないのだ。

でももし城へ行かないことにしてしまったら、きっと雪織は飛と離れることになってしまう。飛は城の人間だから。

 城に向かえば、もう少し飛と一緒にいられる。お守りを父に届けることより、母の遺志を確かめることより、もしかしたらそちらの方が雪織にとっては重要なのかもしれなかった。それに隆成の真意を確かめるという、もう一つの口実が増えたに過ぎない。

 ――なんということだ。親への思いより自分の欲が先にくるなど、なんて浅ましい、酷い話だ。だけどその欲が、大好きな兄に命を狙われているかもしれないなんて恐ろしい仮定から心を守ってくれているのも事実だった。

「私、城に行く」

 もう一度、強く言った。自分の肚を座らせるためだ。その気合いの入った様子に、飛は静かに頭を撫でてくれた。

「思ったより落ち込まなくて良かったよ…若様は、そんなことをする人じゃない」

 そういえば小さい頃に自分の我儘に振り回されてくれた兄は、今の飛に似ているかもしれない。小さい頃の飛はどっちかというと、狛のようなやんちゃ坊主だったような気がする。

 雪織が首を捻っていると、桂はその背中に「出来たぞ」と声をかけた。しっかりと煮出された薬草液は、独特の匂いを辺りに振り撒いている。

 雪織は回想を止めた。

「一杯で効くからね。あと、落ちついたら必ずお水を沢山飲むこと」

 言いながら雪織は自ら椀によそった薬草液を狛に飲ませた。

 雪織に抱き起こされた狛は、穏やかな顔で笑っていた。

「あのさ、姫様…」

「なぁに?」心配そうにその顔を覗きこむ。

「おれたちと、城に行ってよ」

「またお前…っ」

 飛が文句を言う前に、狛は早口で「おれたち、姫様を守りたいんだよっ」と泣き叫ぶように言った。

「狛?」

 飛が訝しげな顔になる。

「後継ぎは、隆成様じゃなくて、他の姫様なんかじゃもちろんなくて、雪姫様がいいんだ…」

 何故か啜り泣いた狛に、雪織と飛は困惑した。しかし飛は意見を翻すつもりはないらしく、努めて冷たく言った。

「もし本心からそう思うなら、金輪際嘘をつくな。騙し打ちをしようとする奴を味方とは思えない。それに…雪ちゃんを訳の分からない陰謀には利用させない」

「よく言った」

 桂がお玉を片手に拍手をして見せた。

「お前の志にぶれがないのは分かったが…」

「なんですか?」

「さっきからおかしな音が聞こえる」

 桂の一言で、一同は息を顰めて耳をそばだてた。

 ひゅ~~~ぽん!ひゅうぅ~~~ぽぽん!

 音がするのは大姫山の方だ。そちらに目を向けると、木々の間から黄色い光がきらきらと煌めいては消えて行く。後には月明かりの空に煙が残された。一同声を合わせて「花火?」と見覚えのある光の名前を口にした。

 突然あがったそれに驚いたのか、慌てた様子でどこかから勘太郎が飛んで来て、飛の肩にとまった。

「勘ちゃん…夜も飛べたのね」

「鴉は夜目が効くからね…って、そうじゃなくて。なんだあの花火」

「連れだ」

 言うが早いか桂は荷物から腕一本分くらいの大きさの筒を取り出し、その先を空に向けた。

 筒は金属で出来ているようだった。桂ががちゃりと操作をすると、導火線に点火もしていないのに、筒の先に一瞬で火が吹いた。

 ボッ!ひゅうぅう~~~~ぽぉん!

 筒から飛び出た玉が空高く上がり、山の向こうの花火と同じ黄色い小さな花を咲かせた。記憶にある花火よりはかなり小さな規模の音と光だったが、村中を起こすのには十分だった。民家の玄関から何だ何だと次々に見物客が顔を覗かせる中、平然と桂はその作業を断続的に三回繰り返した。

「ちょ…!桂さん!敵に居場所が知れるだろう!」

 我に返った飛が肩を揺さぶるが、桂は表情一つ変えずに「花火をわざわざ連絡に使うとは思うまい」と言い放った。

「しかしだな…」

「落ちつけ飛。連れはすぐに来る」

「すぐにって…結構距離がありますよ?」

 雪織がそう言って首を傾げた時、夜空にもわもわと薄く広がる煙の中からおかしな形の飛行物体がこちらへ向かって来るのが見えた。

「…凧?」

 飛の予想ははずれだった。飛行物体はこちらへ近づくと同時にその姿をしっかりと月の光に晒した。

 三角形の帆の下に、何やらごちゃっとした影がある。その中に人影が一つ。

 桂がこれまた太い棒状の筒に火を点ける。すると棒は激しく燃えて明るい黄金色の光を放ち、一同の顔を照らした。

 その光を目印にしたのだろう。飛行物体はゆっくりとこちらに降りて来る。

 その様子を呆気にとられながら見守るしかない中、一人平然としている桂が上空に向かって手を振った。

 飛行物体が民家の屋根ほどに近づき、ずざざざと地面を少し掘りながら着地した。小さな影がそこから飛び降り、素早く桂に近づいて、思いっきりその腹を何か細長い物で叩いた。

 ばん!と痛そうな音が鈍く響いて、桂は腹を押さえた。

「い、痛いぞ、トゥヤ」

「痛いよウにやったの!」

 胸を張ったその影が肩に担いだその得物は、誰しも一度は目にしたことがあるあれだった。

「…布団たたき?」茫然と雪織が呟く。

 飛行物体の中には複雑に組み合わさった金具があって、その骨組み全てを三つの車輪が土台となって支えていた。前に一つ、後ろに二つ。

 しかし驚きはその飛行物体だけではない。桂の連れだというその人は、月の光と桂の作りだした照明の中ではっきりとこの列島の人間ではない姿で映し出されていた。

 桂を叩いたのは、なんと若い女だった。金の髪に青い瞳。肌も白く、顔立ちは人形のようである。共桂と似たような不思議な着物を着ており、下は腰と尻周りしかない硬そうな布地を身につけていた。膝上から下を不思議な脚絆で覆っているが、腿が素肌を晒しているため、何の利点がある服装なのかよく分からない。

 とにかくどこもかしこもおかしな女は、一同をじっくり見渡してから桂に視線を戻した。

「…アンタ、また厄介事に首突っ込んでルの」

 よく見るとまだあどけない顔立ちの女は少し訛りがあるものの、流暢にこの和津奈で話される言葉を操っていた。

「否定はしない。だが目の前にいる困った人間を見捨てることは…」

「アタシが今!一番困ってル!」

 女はどん!と布団たたきを地面に突いた。

「また迷子になったことは謝ろう。しかし彼らは今命を狙われるという特異な状況にあり、しかもそれに複雑な権力争いが絡んでいる可能性がある」

女は布団たたきを握る手を緩め、一同を再度見回した。

「それで?命を狙われてルのは誰」

「この娘だ」

 桂が雪織をちらりと見たのに続いて、女もこちらに強い視線を向けた。勝気そうなその瞳に射抜かれ、雪織は肩をびくつかせた。

 つかつかとこちらに歩み寄る女の気迫に押され、一歩下がる。すると女と雪織の間に飛が滑り込んだ。

「何アンタ」

 女は生意気そうな動きで飛を見上げる。

「それはこっちの台詞だ。桂さんの連れであることは聞いてるけど、いきなり空から現れた不審者を雪ちゃんに近づけられない」

「…ユキちゃん」

 女は復唱した。雪織が思わず「はい」と返事をすると、女はにっこりと笑った。その笑顔が本当に愛らしかったので、状況を忘れて見惚れてしまう。

 しかし女の口から出た言葉は、とても可愛くなかった。

「アタシはトゥヤ。アンタ金はあルの?」

「は…」

「カツラはアタシの連れ。協力すルなら金がいル」

「トゥヤ、何度も言うようだがその守銭奴ぶりは直した方が良…」

「黙れ。アタシは今、この子と話してルの」

「お金は…」

 ないですと言おうとしたが、それに桂が言葉をかぶせてきた。

「彼女は五十土城城主の娘だ。姫君だ」

「姫…スニェグラチカ」

 トゥヤは不思議な呪文を口にした。だがさして大きな意味のある単語ではないらしく、桂は構わずに続けた。

「彼女は妾腹であるが故に庶民として育ち、現在は身内から城に呼び出されている。だがそれを快く思わない者が彼女の命を狙っているようなのだ。無事に彼女を城まで送り届けることで褒美が出る可能性がある。そうだな?飛」

 突然振られた飛はこのどたばたした状況の中、桂の意図を不本意ながら正確に見抜いた。

「…あぁ。城に着かないと金は出ないでしょうけどね」

 金色の髪の少女は反らしていた顎を引いて、目を細めた。

「……引き受けましょウ」

 雪織は普段あまり態度に変化のない桂が、安堵したようにほんの少し肩を落としたのを見た。

「待てよ…そんな得体の知れない奴らに、姫様を任すのかよ?」

 腹を押さえながら上体を起こした狛に、飛が一瞥をくれた。

「騙し打ちの心配をしながら行くよりはいい」

 狛は下唇を噛み締めた。

「トゥヤ、とりあえずここから離れよう。飛と雪織も、いいか?」

「あぁ、はい。あんな花火上げたら、とりあえず何かと見に来る客が居るかもしれないですからね」

 飛の言葉には皮肉があったが、桂はいつもの通り「その通りだ」と流した。

「この飛行体には、何人まで乗れるんだ?」

 飛が聞くと、少し傾がった飛行物体を直しながらトウヤが「残念、二人。最高三人」と答えた。

「サマリョートは目立つから隠しましょウ」

「さまりょーと?」

 首を傾げた雪織に、桂が「この飛行体のことだ」と言った。

 何となしに目を合わせた飛と雪織に気付いたトゥヤは、二人に向かって自信たっぷりな笑みを浮かべた。

「仕事はきちんとやルわ。主にカツラが。安心して」

 桂が火を点けた照明はいつの間にか消えていたが、月明かりを受けて輝くその金色の髪によって、彼女は十分に存在感があった。

 サマリョートなる飛行体を隠すべく、トゥヤは一足先に山の向こうへ飛び去った。集合場所を街道の茶屋と決め、その際トゥヤはしっかりと桂に「また迷子になったらこれを口の中に突っ込ムからね」と布団叩きを翳し、脅した。

 残された雪織たち三人は街道を目指すべく、夜明けを待たずに村を立つことにした。薬を飲むまで嘔吐と下痢を繰り返していた狛たちは、勿論放って置くことを飛と桂が提案したが、雪織の強い希望で親切な村人に後の介抱をお願いした。

 東の空が白んで来たとはいえ、まだ夜の内だ。山道を行くには足元に注意が必要で、先頭を行く飛は草履で地面を擦るような歩き方で最後尾の桂に声をかけた。

「海外の異国人には入国に制限をかける国が多いけど、どこで出会ったんですか?」

「…話せば長くなる」

「前に言ってた西の大陸のプリカトナっていう国の人ですか?」

 雪織のこの質問には小さく頷いた。

「あぁ。トゥヤはああ見えて発明と暴力が得意だ」

 暴力は得意という単語で表してもいいものか。しかし布団叩きを振り回す彼女の姿を目にしていたので、飛も雪織も深くは聞かなかった。

「トウヤはあのサマリョートを改良するため、観光も兼ねてこの列島にいる」

「改良?俺にはあのままで充分すごいと思いますけど」

「本人は納得していないらしい。プリカトナで見た和津奈列島のからくりを見て感動したらしくてな。からくりの技術を応用すると言っていた。俺は協力する代わりにトウヤが国に帰る時、一緒に連れて行ってもらう」

「桂さん大陸に渡るんですか?」

 雪織が驚くと、桂は口元を少し綻ばせた。

「言っただろう?ダニエルに会いに行くのだと」

「あ、そうでしたね。大陸かぁ…」

 一体どんな所なのだろう。桂の言う通りあの可愛いダニエルのような生き物がいっぱいいるのなら、とても楽しくて平和な所なのかもしれない。

 雪織が遠い目をしていると、飛が咳払いをした。肩の上で勘太郎が首を傾げる。

「…桂さん、あの人は信用できるんですね?」

「あぁ。少なくともどこかの国の回し者である可能性はない。それにトウヤには我々にはないような機動力、行動力、知力、暴力がある」

 どうしても暴力を入れないと気が済まないようだ。

「我々とは違う発想で現状を打開する可能性もある。そしてそれ以上に、大陸の武器は強力だ」

 ぴんときた飛は「例えば川原で使ったあの火薬ですか」と聞いた。

「そうだ。あの火薬もトウヤが持ち込んだものだ。あまり派手に使うと列島中の国が欲しがるだろうから、そうそう多用はできないが」

 桂は視線を下に落とした。と、すぐにその顔を上げる。飛もそれに合わせて苦無を抜いた。二人の緊張は雪織にも伝わり、身を硬くした。

 だが現れたその影を目にして、三人は体の力を抜いた。

「霧!」

 飛が嬉しそうな声を出す。

「なんだよ、もう引き返して来たのか?若様には会えたか?一体城は今どうなってんだ。俺の同郷の奴が見たことない組を連れてきて、危うく騙し打ちに会うところだったんだぜ?それにそいつら妙なことを…霧?」

 一気にしゃべってから、飛は動きを止めた。勘太郎が上空に舞い上がって、カァカァと騒がしく鳴く。

 霧の俯いたままの顔を見て、飛と雪織は息を呑んだ。桂だけが再度体を緊張させる。

「霧くんどうしたの?」

 霧の目の下には隈があり、いつもへの字の口元は震えていた。ぴしりと綺麗にまとめられていた髪も、今は少々解れている。顔色も悪く、憔悴という二文字が思い浮かぶ。

 何となく近づけないでいると、霧は少しだけ顔を上げた。その目からは苦悩が見てとれる。

「何があった」

 飛は、今度は厳しい表情で聞いた。すると霧は喉から絞り出すような声を低く発した。

「五十土城次期城主隆成様の命により、雪織様のお命を頂戴致します」

 瞬間、雪織は、喉に大きな異物が入り込んだような圧迫感と息苦しさを覚えた。手足は硬直してしまって動かない。そんな雪織を桂が自分の後ろに引っ張り込んで、飛の横で苦無を構えた。

「説明もなしか」

 桂がよく通る声を響かせると、霧の顔はすっと冷めたものに変わった。

「説明は今致しました」

「…桂さんは命令の理由を聞いてる。俺も聞きてぇよ、霧」

 飛の声が低い。はっきりと怒気が感じられるその口調に、霧は鋭い睨みを返した。

「黒羽は主の命令に従う。理由など…どうでもいい」

「どうでもいいわけあるか!」

 飛は怒鳴ると苦無を収め、素手で殴りかかった。しかし霧は難なくそれを受け止め、力一杯撥ね退ける。

 互いに後方に跳んだ二人は、睨み合いながら対峙した。

「さっき言った奴らのことだけどな…奴ら、雪ちゃんを次期城主として持ち上げるとかほざいてやがった。それが城主様の意志だとな。しかもそれに反対した若様が、雪ちゃんを狙っているとまでぬかしやがる。なぁ霧?若様がそんなこと本気で命令すると思ってんのか!お前乗せられてんじゃねぇのか!若様から直接聞いたのかよ!」

 最後はまるで叫ぶように、飛は語気荒く怒鳴った。

 霧は幽霊のように体を揺らし、やがてそれをぴたりと止めると刀を抜いた。

「や、やめて…」

 雪織の小さい声に、刀を握る手が一瞬だけぴくりと動いた。

「俺は…隆成様に会った」

 霧は雪織の方は見ずに、飛を睨んだまま独り言のように呟いた。

「隆成様は…絶望しておられる。政継様は、隆成様を見捨てられたのだ」

「若様が、そう言ったのか?」

 飛にしては珍しく、弱々しい声だった。しかし縋るようなその問いを、霧は無情に切り捨てた。

「そうだ。俺は隆成様の、次期城主様の黒羽だ。主を脅かす存在は、例え妹君といえど捨て置けん!」

「畜生道だな」

 桂の呟きに、霧は「黙れ!」と激昂した。

「風流れごときに何が分かる!主も黒羽の誇りも捨てたお前に…っ」

「同じけだものかも知れんが、少なくとも俺は飼われてはいない」

 桂は言うと同時に苦無を手から放った。真っ直ぐ霧へ向けられたそれに、飛の背がぴくりと動くのを雪織は見た。飛はしかしその場を動かず、霧の腕に苦無がかすったのをただ見ていた。

「この程度が避けられんほど冷静さを欠いているくせに、よくも黒羽だ主の命令だと言えたものだ」

「…風流れが!」

 霧が跳んだ。桂に向けて刀を振るが、桂は素早く腰に下げていた小刀を抜いてそれを受け流す。

「飛」

 霧の刀を難なく弾き返しながらの桂の声に、飛の顔がハッと上がる。

「戦う気がないなら、雪織を連れて逃げろ。こいつの相手は俺一人で充分だ」

 雪織は、飛の両手が白むほどきつく握りしめられているのを見た。しかしやがて飛は踵を返し、無言で雪織の腕を掴んで歩き始めた。

 雪織は何か言おうとして息を吸ったが、結局言葉が思い浮かばずに黙って飛に続く他なかった。

「なぜ組を率いてこなかった。死ぬ気か」

 背中に桂の淡々とした声が刺さり、思わず雪織は振り返った。

「霧くん!」

 霧の動きがほんの少し、硬くなった。そしてその隙に、桂が霧の肩に小刀を押し込む。少し間を置いて、藍色の小袖がじわりと色を濃くした。

「き、霧くん!」

 雪織は飛の手を振り払って霧に駆け寄った。桂が小刀を抜くと、小袖の滲みがどんどん広がっていく。

「迷いがあるから、そうなる」

 言い捨てた桂の足元に、霧は膝をついた。

 雪織が彼に近寄ろうとすると、その腕を桂が掴んだ。

「そいつは今お前を殺そうとしている者だ。近寄るな」

「でも…っ」

「飛、なぜ雪織を離した。お前は雪織を利用させないと言っていた。彼女を争いから解放するのがお前の意志ではないのか」

 虚ろな目で立ち尽くす飛と暗い目で荒い息を吐く霧を見比べて、桂は溜息をついた。

「…お前たちは同じだな。そんなに迷うようなら、黒羽など辞めてしまえ」

 桂は尚も霧に手を伸ばす雪織の体を、問答無用で担ぎ上げた。

「…あっ!」一瞬で地面が遠ざかる。

「俺は責任を持って雪織を城へ届ける。正式に仕事として請け負ったことだしな」

 揺るがない足取りで山道を進む桂の背の上で、雪織は全く動こうとしない飛と霧の名を呼んだ。しかし返事はなく、どんどん二人の姿は遠ざかって行く。

「飛くん!霧くん!」

 もう二度と二人に会えないような気がして雪織は全身でもがいたが、腰に回された桂の腕はびくともしない。

 やがて飛がゆっくりとこちらに足を向け、そのまま歩き出した。雪織は深い安堵を覚えると同時に、地面に膝をついて俯いたまま取り残された霧の姿に息が詰まった。

「う…な、なんでぇ…」

「理不尽なことは、どんなに泣いても過ぎ去ってはくれんぞ」

 そう淡々と言い捨てた桂を、雪織は心から憎たらしいと思った。


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