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短編ミステリー

「電話」が発明された朝

作者: 菱川あいず

 グラハム・ベルは、ボストンのエクスター・プレース五番にある実験室にいた。


 ベルは一つ目の音叉を鳴らす。もっとも小さく、もっとも高音を奏でる音叉だ。


 テーブル上に平行に並べられた音信リードの内、一番細いリードが共振する。


 続いて、ベルは二つ目の音叉を叩く。


 今度は先ほど共振したリードと隣り合っていた別のリードが反応し、音叉と同じ音階で振動した。


 最後に、ベルは一番大きな音叉を持ち上げ、金属の棒で打った。


 音信リードには何も反応がない。


 音叉の奏でる低音域のロングトーンだけが実験室に虚しく響いている。


 ベルは電磁石の向きを微調整し、再び低音域の音叉を叩く。


 今度は三本の音信リードが一斉に共振する。


 ベルは舌打ちをすると、椅子に雪崩れ込んだ。



 計算は間違っていないはずだった。論理的にはこの共振の原理によって、周波数の違う音を受信機が拾い分けることができるはずだった。


 しかし、実験は成功しない。


 部分的には上手くいっても、他の部分で上手くいかない。一度正しい結果が出ても、同じ実験を繰り返すとまた別の結果が出る。


 ベルはこの共振の原理を用いて、遠方にいる相手と会話をするシステム、すなわち「電話」を、一刻も早く発明する必要があった。



 発明の世界は早い者勝ちである。


 発明による権利、名声の全てが与えられるのは一番最初にそれを発明した者だけだ。


 二番目以降にそれを発明した者には何も与えられない。注いだ情熱も努力も時間も全てが無駄となる。むしろ歴史的には嘲笑の対象にもなりかねない。


 ベルには、エジソン、グレイといった非凡な才能を持ったライバルがいた。彼らも「電話」を発明するべく、日夜実験を繰り返している。彼らに遅れをとってはならない。



 既に社会的に一定の成功を収めているエジソンやグレイとは違い、ベルにはお金がない。


 実験の傍ら、聴覚障害者の教師として働くことによって、自ら生計を立て、助手のワトソンへの、彼の貢献からすれば決して分相応とは言えない額の給料を、何とかして工面している。


 ベルにはお金が必要だった。


 そのためにはベルが「電話」の一番最初の発明者とならねばならない。


 それに―


 ベルの最愛の婚約者メイベルと幸せな結婚生活を送るためにも、「電話」を誰よりも早く発明する必要があった。


 ベルの実験の費用を援助してくれているハバードは、メイベルの父親である。


 ベルが「電話」を発明することに失敗すれば、ハバードはベルに失望し、娘との婚約を解消するように迫るかもしれない。


 仮にそうならないとしても、裕福な家庭で育ったメイベルに満足な生活を送らせるためには、やはり「電話」の発明によって大金を手に入れる必要があった。



 実験室のドアをノックする音がする。


 ベルはノックのリズムで、ドアの向こう側にいる人が誰か察した。


 ベルは椅子から立ち上がると、ドアノブに手を掛ける。


 ベルの予想通り、そこにはコーヒーを載せたお盆を持ったメイベルが立っていた。



 「いつもありがとう」


 ベルはメイベルの目を真っ直ぐに見て、大げさに口を動かして感謝の言葉を述べた。


 「ううん。それよりあなた、もう休んだ方がいいんじゃない?」


 メイベルは三歳の頃に患った病により、耳が一切聞こえない。


 しかし、メイベルは類まれな努力によって読唇術を身に付けていたし、ベルが家庭教師として指導した成果として、健常者と変わらないくらいの美しい発音で喋ることもできた。



 「もう朝か……」


 窓の外はすっかり明るくなっていた。昨夜から一睡もしていないが、この実験室に通うようになってからは、徹夜することは決して珍しくなかった。


 ベルはメイベルからコーヒーを受け取ると、テーブルの上に置いた。


 「ねえ、あなた、実験の調子はどう?」


 「うーん、相変わらず共振の精度がイマイチだな。もしかしたら、根本的な考えに誤りがあるのかもしれない。電磁石を使うという発想自体が間違っているのかもしれない」


 「そう。あまり無理しないでね」


 メイベルはベルの肩を優しく撫でた。お返しにベルは彼女の頭に手を遣る。



 「メイベル、申し訳ないが、新聞を取ってきてくれないか?朝刊がもうポストに入ってるはずだ」


 メイベルは大きく頷くと、踵を返した。


 メイベルの背中を見ながら、ベルは多幸感に浸っていた。ベルにとっては夢にまで見たメイベルと一緒にいられる生活である。この幸せを決して壊したくはない。



 ベルは実験ノートを見返した。理論に穴があるようには見えない。


 つまりは、発想の転換が必要だということか。


 細かな数値を調整するだけではなく、装置そのものを大きく変えるしかないのか。



 ベルが実験ノートを前にして頭を抱えていると、新聞を持ったメイベルが部屋に戻って来た。


 ベルはメイベルから新聞を受け取ると、配達料としてメイベルの小さな唇に軽くキスをした。



 「何か面白い記事はありそう?」


 メイベルが新聞を大きく広げたベルの顔を覗き込む。


 「面白いのはフィラデルフィアでやる万国博覧会についての記事くらいかな。政治面は特に面白くない。まあ、国が平和だという良い兆候なのだが。あとは……」


 ベルはある記事に目を奪われた。


 「嘘だろ……」


 ベルはその場に崩れ落ちた。


 身体がぶつかった衝撃で、テーブルの上から音叉が落ち、けたたましいほどの大きな音を立てた。


 「あなた、どうしたの?」


 メイベルがベルの背中に腕を回し、ベルが後ろに倒れ込んでしまわないように支えた。


 「グレイにやられた」


 「え?」


 「グレイに先を越されてしまった」


 「え?そんな……」


 体育座りのような格好で顔を埋めたベルの後頭部に降った雨は、メイベルの涙だった。


 愛し合う二人にとって、唯一の希望が完全に打ち砕かれた瞬間だった。



 ベルはもう一度新聞の記事に目を遣る。


 僅か十行くらいの短い文章で、グレイの顔写真や彼が発明した「電話」の設計図すら載っていない。


 しかし、この小さな記事が、ベルの運命にとっては、どんな事件よりも大きな影響力を持っていた。


 「そうか。液体か……」


 記事によると、グレイは回路を液体によって閉じ、その液体の電気の通りやすさの違いによって、音声の違いを伝達するシステムを構築したそうだ。


 液体を使うという発想は、ベルが過去に発明した「スパーク・アレスター」という装置の基本原理にそっくりだ。あの装置は導線を水で浸すことによって成立している。

 

 なんてことはない。スパーク・アレスターの原理を音声伝達にも応用すればよいだけだったのだ。


 なぜ私はこんなこと簡単なことを思いつかなかったのか。


 電磁石を利用したシステムに固執し、決して奏功することのない実験を寝る間も惜しんで繰り返していた私はただの馬鹿だ。



 「くそおおおおお」


 ベルは大声で叫ぶと、立ち上がり、震える手で実験装置の電磁石を掴み、テーブルに叩きつけた。電磁石と導線で繋がれていた電信リードもろとも弾け飛んだ。


 「あなた、やめて」


 メイベルに背中を掴まれる感触があった。


 ベルはそれを振り払うと、今度は実験ノートを手にし、真っ二つに引きちぎった。



 また背中を掴まれる感触がある。


 「邪魔するな」


 そう叫んだベルが振り返った先にいたのは、可憐な婚約者ではなかった。


 頭髪と同じくらいたっぷりと髭を蓄えたその男は、ベルが今もっとも恨めしく思っている男だった。


 「グレイ……」


 「ベル、君は負けたんだよ。君は立派な発明家だ。しかし、私には一歩及ばなかったんだ。負けを認め、大人しく教師として逞しく働きなさい」


 立派な口髭の震わせ、グレイは声を立てて笑った。


 ベルは全体重をかけ、思い切りグレイに殴りかかった。


 しかし、拳は空を切る。


 「負け犬の抵抗か。みっともないぞ」


 いつの間にやらベルの背後に回り込んでいたグレイは、再び笑い声を上げた。


 笑い声は徐々に大きく、そして甲高くなり、非常ベルの音のようにベルの耳をつんざいた。


 「やめてくれええええええええええあああああああああああ」







 目を開けたベルの視界に飛び込んだのは、自らの字でビッシリと詰まった実験ノートだった。


 ページは黄色く変色していたものの、真っ二つに引き裂かれてはいない。


 「なんだ。夢か……」


 どうやら昨夜、実験室で座りながらノートを眺めていたところ、いつの間に眠りに落ちていたらしい。



 それにしてもとんでもない悪夢だった。


 まだ三月で冬の寒さは去り切っていないというのに、額は汗でビッショリだ。



 グレイに先を越されたのが現実でなくて良かった。


 あの男にそう簡単に「電話」を発明できるはずがない。


 私が何度も何度も実験を繰り返しても成功しなかったのに、そんな液体を使って回路を閉じる方法なんかで……



 ―ん?液体を使って回路を閉じる方法?


 今まで試したことのない方法だが、もしや―



 私は椅子から飛び上がると、隣の寝室のドアを強くノックした。


 「先生、どうしたんですか?」


 助手の寝ぼけた声が聞こえる。


 「ワトソン君、ちょっと用があるんだ、来てくれたまえ」



 以上が、「電話」が発明された朝の出来事である。











 3000字台の短い文章でどんでん返しをしようと思うと、夢オチしかないですよね。はい。



 さて、「電話」の発明者は、歴史上、グラハム・ベルであるとされています。


 しかし、「電話」の発明者が本当にベルであるかどうかには疑義があります。



 ベルが「電話」の特許を出願した二、三時間後、イライシャ・グレイという人物が、同じく「電話」の特許を出願しています。


 この二つの特許の内容には奇妙な一致点があります。


 それは、ともに液体を回路に取り入れている点。そして、両者の描いた「電話」のスケッチが似通っている点です。


 仮に盗作があったとした場合、ベルに数時間遅れて特許を申請したグレイがベルのアイデアを盗んだ、と考えるのが自然かもしれません(現にそのような主張も存在します)。


 しかし、ベルは今まで電磁石を使った装置に固執していたにも関わらず、特許申請のつい数日前に、突如として液体を用いた装置を思いついているのです。


 それに、ベルの特許は、グレイが間もなく特許を申請するということを知ったベルの代理人によって、意図的にグレイに先立つように提出されたとも言われています。


 このような経緯もあり、ベルがグレイのアイデアを盗んだのではないかということが疑われ、裁判にも発展しています。


 

 この歴史ミステリーの真相は未解明です。


 この小説では、ベルが「電話」に液体を用いることをどうやって思いついたのか、という疑問に対する答えを「夢のお告げ」としてみました。


 これが真相ということもあるかもしれませんよ。いや、多分ないですね。



 なお、小説本編及びこの後書きを作成するに当たり、セス・シェルマン作・吉田三知世訳「グラハム・ベル空白の12日間の謎」2010年・日経BP社を参考にしました。

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