アミズのカフェ迷宮《下》
ある晴れた日のこと。
店長が起きると、お店が地下10階にあった。
新規開店のコーフィー店にお客さまが来店するか以前の問題だった。地下のお店には太陽の日差しすら差し込まないのだから。
「あの時は、もうお客さんなんて来ないと思ったもんだよ」
「新規開店なのに本当に災難ですよね」
生けるダンジョンの出現。
その神出鬼没な人喰いの現象は、店長も知っていた。
ただ知っているのと心構えがあるかは別の話である。まさか自分が新規開店したコーフィー店がダンジョンに丸飲みされるなど、普通は夢にも思わないだろう。
天変地異の只中で愕然とする店長だったが、一方で地上の近隣住民はダンジョン出現の報に沸き立っていた。
というのも、人喰いダンジョンには、人を呼び寄せるための餌があるからだ。地下に眠る財宝は冒険者を引き寄せ、街の発展へと寄与するのだ。
新しいダンジョンは喜びとともに迎え入れられ、その発見の報は直ぐに街なかに広まった。確かに始まりこそ多くの者が興奮の渦に飲まれていた。
しかし、ほどなくして街も冒険者も落胆の色を浮かべた。新たに出現したダンジョンの階層は浅い上に、金目のものも殆どなかった。オマケに倒した魔物が落とすアイテムも、食用にもならない《豆》製品などばかりときた。
「こりゃ、ぬか喜びだったかもな」
呆れ顔の先遣隊は、それでも最下層には何かある筈だと、一縷の望みを持って足を進め、そして奇妙なコーフィー店へと辿り着いたのだった。
それは互いに驚いたことだろう。
ホビット店長は枕にしていたカウンター席から跳ね起きて、慌てておもてなしを始めたが、お客さまが求めるものは財宝であり、コーフィーなどという得体のしれない茶色い水ではなかった。
「お疲れでしょう。《レバットビーン》を挽いた飲み物で一息ついてください」
「《レバットビーン》……あの食用にもならない豆だと」
その茶色い水の原料が、失意を買う一因ともなった《豆》だとわかると、先遣隊は激昂し、コーフィーを泥水と評して店を後にした。
先遣隊の調査が終わると、あの街の興奮はどこへやら。
ふっと蝋燭の火を吹き消したようにダンジョンの話題は鳴りを潜め、この迷宮へと足を踏み入れる者は激減した。
せいぜい来るのはダンジョン探索の初心者ぐらいであり、その彼らでさえも最下層まで降りることはなかった。
あのダンジョンの最下層には、辺鄙な店しかない。
その噂を信じるままに、冒険者は引き返す。
せっかくのお店は地中に追いやられ、評判は最悪。日の差さない地下空間にもウンザリした店長が、店じまいも考え始めたころのことだ。
風変わりな女冒険者――アミズ=テレインが店の扉を叩いたのは。
「おおー、噂通りだ。ダンジョンにお店がある」
冒険に飽々していたアミズが気分転換に訪れた名も無きダンジョン、その最下層には風の噂通りのお店があった。だが、前評判通りではないと彼女は感じた。今まで見たことがないカフェの不思議空間に、アミズは目を爛々と輝かせた。
「ねえねえ、小さな店長さん。このお店は何を売っているのかな」
「小さいは余計だよ。この店にあるのは、上の連中が泥水と呼ぶ飲み物だけさ」
「じゃあ、それください!」
「――ッ!」
ダンジョン産の色鮮やかな宝石がカウンター席に山積みとなり、ジャラジャラ崩れ落ちた。数百、いや数千万イェンの価値は下らない。あまりの支払いぶりに、店長の蒼い瞳が丸くなった。
「……泥水に払うには、高すぎる代金じゃないかな」
「泥水かどうかは、飲んだ私が決めることだよ」
ニッコリと白い歯を見せる奇妙な客。
店長は怪訝な顔をしたが、アミズは特に妙なことをした自覚がなかった。他人の噂などあてにならない。そのことを彼女は先日も体験したばかりだった。
アミズが店を訪れる数日前の話だ。
フリャー迷宮の地下150階層に生息する魔物、ギルスケアドラゴン。その竜の照り返す白銀色の鱗を剥ぎ取りにいったアミズは、巷の噂を信じて危うく殺されるところだったのだ。
「まったく、緑玉の瞳が弱点だなんて嘘ばっかり。本当は魔法を発動するとわずかに変色する鱗があったのですよ。そこが弱点だなんて酷いと思いません」
カウンター席にダラっと頬をのせるアミズの言葉を、店長は乾いた笑い声で流した。ギルスケアドラゴンなど建国期の絵本に出てくるバケモノだ。
昔、母親に読み聞かせて貰った内容を思い返せば、絵本に登場する英雄は竜の鱗を避けて緑玉の瞳を狙っていたのだが。
……まさかね、と。店長は少女の戯言だと流した。
お客さまが少々おかしい娘であることには目をつむり、店長はパンと頬を叩いて気合を入れた。
今大事なのは、彼女が自分のコーフィーを飲んでくれることだ。飲めばわかって貰えるのだ。受け入れて貰えるのだ。このコーフィーという飲み物を。
――果たして本当にそうなのだろうか?
先遣隊の言が正しくて、この飲み物は泥水なのではないか。
その頭を掠める不安を押し殺して、店長は《豆》を挽く作業に移った。その様子を興味津々といった様子で、アミズは身を乗り出し見詰めていた。
「あの《豆》を使うのですか」
「そうだよ、あの《豆》だよ」
その口ぶりにムッとし、店長は少し苛立たしげに言い返す。
確かにそれは食用の《豆》ではない。ドロップ品であるそれを興味本位で一度は口に入れた冒険書も多い。一口食べて、そして二口目はない品だ。
「あの《豆》すごく苦かったり、酸味がきいてたりするんですよねえ」
「そうだよ。その《豆》を使った飲み物だ。もし断るってんなら今のうちだよ」
冒険者らしい感想を漏らすアミズに最後通達を送る。
やはり冒険者は同じようなことしか言わないと、店長は辟易する。あの時の先遣隊もそうだ。これがあの《豆》を挽いた飲み物だと言った瞬間、激昂し始めた。この冒険者も同じかと肩を落とす店長だが、アミズは少し違った。
「でも、あの《豆》が急に美味しい飲み物になったら、それはとっても素敵なことですね」
冒険者という荒くれとは似つかわしい整った顔で、アミズは無邪気に笑っていた。不意の微笑みから顔を背け、店長は作業に没頭した。集中しろ、集中しろ、と彼は自分に言い聞かせた。
何も言わずにこちらを見つめる綺麗な朱色の瞳に耐えつつ、数工程を終えて完成。抽出した茶色い雫を金の刺繍が走る純白のカップに入れると、店長は恐る恐るコーフィーを差し出した。その蒼い瞳にはわずかな期待と不安を入り混じる。
「……どうぞ」
「いっただきまーす」
アミズには、およそ躊躇というものがなかった。
泥水という前評判を気にすることなく、茶色い雫を流し込みやがて固まった。ふるふると小刻みに震える彼女を見て、店長は不安を大きくする。やっぱりダメだったのかと。泥水という表現は嘘でなかったのかと。
ガックシと肩を落とす寸前、アミズの咆哮が天井を突いた。
「ウマああああああああああああああああ――ッ!」
初めて味あう芳醇の味わいにアミズの歓喜が爆発する。何だこの魔法の飲み物はと。彼女は久しく忘れていた喜びを思い出す。初めてダンジョンで宝箱を開けたときの、あの喜びにも似た未知の発見を。
「何ですかこの飲み物。ほんのり苦味があるけど、どこか軽やかな甘みもあって。喉越しはなめらかだし、よく嗅げば香りもすごい良い!」
アミズの反応は、店長の期待の遥か斜め上だった。
彼は直ぐにその賛辞を受け止められず、ただ美味しいと言ってくれたお客さまに本能的に砂糖の瓶を差し出していた。
「えっと、砂糖も入れてみますか」
「なおウマああああああああああああああ――ッ!」
輝きを増す瞳は、光線すら出しかねない勢いだ。
未知の飲み物との遭遇は、アミズの心を揺さぶりっぱなしで、彼女は虜になってしまったのだ。このコーフィーという飲み物の。この日から彼女は地下10階にあるカフェの常連客となった。
そして通い詰めて――現在に至る。
「こんな美味しい飲み物、誰が放っておくものですか。毎日飲みに来ちゃいますからね」
「そう言ってもらえると店長冥利、とでも言うのかな。嬉しいな」
コーフィーを知るや否や、アミズはこの素晴らしい味を世の中に広めるために、各地のダンジョンを練り歩いた。冒険者にこの味を宣伝して回るアミズに打算はなく、ただ無邪気な笑顔で走る広告塔に少しずつ惹かれる者が出てきた。
ブームとまではいかぬものの、コーフィーという飲み物は冒険者に浸透しつつある。でもまだまだです、とアミズは鼻息を荒くする。
「店長のコーフィーはもっと知られて然るべきです。私がもっと宣伝をかけますから、楽しみにしていて下さいね」
「食材調達までしてもらって、本当に立つ瀬がないなあ僕は」
「こんな美味しい飲み物と巡り合わせてくれた店長への恩返しですから、気にしないで下さい」
頼りがいがありすぎるアミズに、もはや店長は苦笑するほかない。
地下10階に店を構えるコーフィー店にお客さまが訪れてくれる。一時の閑古鳥が泣いていた時期を思えば、それだけでも店長には感謝し切れない。
「よーし、私まだまだ頑張っちゃいますよ!」
元気印のアミズは丸めた拳を突き上げる。その飲み物の名を天高く、この地下から雲より高く轟かせるために、彼女はまだまだ頑張る気だ。
かつて単なる低階層の野良ダンジョンでしかなかったここは、今はある名前で呼ばれつつある。
神竜殺しの女冒険者が足繁く通うダンジョン――アミズのカフェ迷宮と。
夢は大きく、目指すは全ダンジョンへのコーフィー店進出。アミズはこの魔法のコーフィーが広がる幸せな未来をニマニマと妄想する。
「あいも変わらず、君の目標は大きいなあ」
「あっ、でも――」
大事なことであると。コホンとわざとらしく咳払いしてから、アミズは店長へ忠告した。
「目移りしちゃダメですからね」
「大丈夫だよ。僕は不器用な店主だからね。たとえ商売が順分満帆に回っても、お金目的になったりしないさ」
うー、そうじゃないのに、とアミズは小さくこぼす。
女性客が増えても目移りして欲しくない。その意図がどうもこの小さな店長には上手く伝わらず、アミズも踏み込めなかった。この迷宮の攻略は、神竜殺しの女冒険者をもってしても困難を極めそうである。
染まる頬と同じ、桜色の未来を信じて、冒険者アミズの恋路は続く。