30.悲涙
「お願い、ベア……」
俺の顔を見上げ、祈るような仕草で再び口を開いたセラの声に我に返った俺は、
「……ああ、いいぜ」
と短く答え、着ていた上着を脱ぐ。
「……ありがと……」
そして、ベッドの中央から端へと体を退かしたセラの隣に、
自分のでかい体を押し込む様にしてもぐり込んだ。
「ベアの体って、熱いのね」
すると、俺の腕に、自分のそれを絡めるようにして寄り添ってきたセラが
静かに笑いながら囁いたので
「ああ、心も体も暑苦しい男なんでな」
と、跳ね上がる鼓動を悟られない様に気を付けながらおどけたみせた。
「……な…で……」
しばらくの間、セラが身じろぎもせずにいたので眠り掛けたかと思ったが、
明らかに寝言ではない呟きが形の良い唇から漏れ出たのを聞き
「ん?どうした?」
と小声で誰何してみると
「……なんで、今、こんな事になってるのかな……
アイシャ様が襲われてしまっているだけなら、
こんなにだらしない所見せなくても済むのに……」
俺が初めて聞く涙声で、セラが独り言の様に呟いた。
「タケルさん、の事か……?」
俺は、なんと言って言いか解らずに絶句しかかったが、
セラ自身がこんな事を言い出したという事は俺に何かを
話したいのではないかと考え、ストレートに聞いてみた。
「……ええ。私は、アイシャ様の為になら命だって要らないと思ってるわ。
でも、タケル様が、こんな形で絡んできてしまうと、
どうしても心が乱れてしまう……なぜ、なぜなの……
もしタケル様が生きておられたなら、なぜ今まで私達の……
いえ、私の前に姿を現してくれなかったの……」
俺の腕にぎゅっとしがみ付き、ほとんど声を立てずに咽び泣きだすセラ。
俺はもう何も言わずに、セラの華奢で柔らかい肉体を両手で抱きしめ直し、
背中を優しく撫ぜてやった。
しばらくそうしていると、セラが静かな寝息を立て始め、俺もすこし胸を撫で下ろす。
だが、俺の心には熱い怒りの想いが溢れ出して来ている。
俺の大切な同僚であり、アイシャ様を命を賭して護ると誓った相棒を
こんなに悩ませ、そして哀しませるヤツは何者であっても許してなどおけない。
神崎家の知られざる長男、タケル……
死んだはずの男が何の積りで姿を現しているのか知らないが、このままじゃおかんぜ。
俺は、セラの無邪気とも言える泣き寝入り顔の涙を人差し指で拭い、
固く心に誓いつつ自分自身の休息の為にも瞼を固く閉じた。
「む……」
腕に付けたままの時計を見ると、眠る前に確認してからきっかり三時間経っている。
俺の肩を枕に静かに眠っているセラは、かなり深く眠り込んでいる様だ。
部屋の内部、ドアの外、窓の外すべてに違和感や気配は感じない。
俺は起き上がろうかと思ったが、俺の胸に手を廻して抱きついてるセラも起こしてしまいそうなので
とりあえずはそのまま薄暗い部屋の天井を見詰めながら思考回路を働かせ始める。
と、何者かが静かにこの部屋に近づいてくる気配を感じ、ドアの外に向かって意識を凝らした。
コンコン
ごく静かに、控えめなノックが響いたので、できる限りセラを起こさない様に
体をベッドから抜き出して素早くドアへと近づきスコープを覗き込む。
と、そこには俺達の敬愛する赤き瞳の女神が優しげな微笑を湛えて立っていた。
「アイシャ様、ご気分はいかがですか?」
俺は開錠と同時にドアを開け、部屋から滑りでつつアイシャ様に笑顔を向ける。
「ありがとう、ベア、もう大丈夫です。セラはまだ眠っているの?」
俺の腰に抱き付きながら愛らしい声を響かせる女神の軽い体を抱き上げ、
「ええ、ぐっすり眠っていますよ。目が覚めれば、きっといつものセラに戻っているでしょう」
と、頬にキスをしてもらいながら応えた。
「お疲れ様です、ベア」
「ああ、ハルさん。アイシャ様のお世話をしてくれてたのか」
俺の前には、神坂家の淡い色合いのスーツを着けたメイドリーダーが妖艶に微笑んでいる。
「はい、ドルフィンは防御会議の打ち合わせが有りまして、
その間は私がアイシャ様をお世話させて頂いております」
俺の言葉に、穏やかな声で応えるハルさんの顔を見ていると、
このたおやかな女性が神坂家に入った経緯などは嘘の様に思える。
彼女は、ごく普通の環境で育ってきた日本人女性だったのだが、
学生時代にイタリアへ旅行した際にマフィアに誘拐・監禁されてしまい、
女性として想像を絶する陵辱と拷問を受け、殺され掛かった所を
偶然発見した神坂家当主・主水さんに助け出され、神坂家へと入ったと聞いている。
「ねえ、ベア。セラの所に行っても良い……?」
と、俺がハルさんを見つめていたら、耳元でアイシャ様が遠慮がちに聞いて来た。
「そうですね、セラは今ぐっすりと眠っているので、出来れば起こしたくないのです。
ですので、申し訳有りませんがもうちょっとだけ我慢して頂けませんか?」
俺は、瞳だけではなく白目まで赤く充血させて白兎の様な目になっている
アイシャ様の真っ白で柔らかな頬に軽くキスを返しながら、優しく答えた。