26.逃走
月明かりに照らされた、ほっそりとしたシルエットの顔の部分にかすかに見える瞳……
私の記憶の中にある、もっとも愛し、そして愛してくれた少年の瞳……
「セラ、久し振り、だね」
ガラス越しに小さく聞こえてきたボーイソプラノは、紛れも無くかつて私が愛した人のものだった。
「タケル様、なのですか……本当に、タケル様なのですか……」
私はベッドから起き上がり、まるで夢遊病者の様にふらふらとした足取りで窓に近付く。
「そうだよ、セラ。窓を開けてくれないか?」
タケル様……ああ、タケル様……
私の視界が一瞬で水没してしまった。
ああ、私、泣いてるのね……嬉しいから?それとも、哀しいから?
自分自身の感情がまったく理解できないまま、私はタケル様の言葉に応えて
操り人形の様に窓のカギに手を掛けた時。
「セラ、そこまでだ。正気に戻れ」
静かな、しかし硬質な強さを含んだ鋼の如き声が部屋に響いた。
「!べ、ベア」
世界最強の男の重く響く声を聞いた瞬間に、私の意識が正常に戻る。
「動かないで下さい。あなたが本当のタケル様だと確信出来ないのでね」
窓の外、タケル様の背後から聞こえた声に驚きながら瞳を凝らすと
タケル様のシルエットに重なるようにして、しなやかな影が重なっていた。
「ウルフ!いつの間に……」
タケル様の肩に優しく、だが逃げる事を許さない様に手を掛けて微笑むウルフ。
「悪いが、お姫様が休んでいる。ちょっと別室に来てもらえませんかね?」
私の前に厚い筋肉の鎧の様な体を割り込ませながら、丁寧に、だが有無を言わさぬ調子でベアがタケル様に言う。
「……いくら僕でも、この二人から逃げるのはムリだね」
穏やかな微笑を絶やさぬまま、小さく溜息を付いたタケル様が両手をあげて降参、のポーズを取った。
「ウルフ!」
突然、ベアがウルフに向かって叫び、ウルフが物も言わずにタケル様の後ろから飛び退く!
一瞬、何が起きたのか解らない私の目にタケル様を抱えて飛び退くスレンダーなシルエットが映った。
と、そのシルエットを追って、一瞬遅れつつウルフのしなやかなシルエットが続く。
「セラ、お前はここでアイシャ様をお護りしろ!」
そして、棒立ちになっている私の横を風の様にすり抜けたベアの巨体がもどかしく窓を開けてテラスに躍り出て、
そのまま迷う事無くテラスからも飛び降りる。
だが、次の瞬間、特徴有るエンジン音を響かせて何かが走り去ってくのが解った。
「くそ、逃がしたか……」
「すまん、俺のミスだ」
「いや、あれは仕方ないぜ。気にするな」
数分後、後を追い掛けて諦めたらしい二人が静かに会話しながら戻って来る。
「セラ、セキュリティに連絡は入れたのか?」
突然、ベアから聞かれた私はハッと我に返って
「あ……ご、ごめんなさい!まだ……何も……」
かあっと熱くなる頬を自覚しながら、自分の情けなさを恥じた。
「いや、連絡して騒ぎにしなくて良かったぜ。
昨夜の事も有るし、なによりも、あれは……彼は、本当にタケルさんだったのか?」
私を気遣う様に、だけど私からの答えを期待する様に聞いてくるベアに、
「……ええ、間違いないわ。あれは……あの方は間違いなく、神崎タケル様だったわ」
とはっきりと応える。
そう、私が間違えるワケ無い……あのひとは、かつて私が愛し、そして私を愛してくれたタケル様意外の何者でも無いわ!
「そうか」
ベアが静かに、短く答え、ウルフは壁にもたれて黙ったままだ。
だけど、タケル様が……生きていたのなら、なぜ、今現れるの……?
私の疑問に答えなど出るわけも無く、それ以上誰も喋ること無く、夜は静かに更けて行った……