12.計画修正
「セラ、話してくれ。彼は、誰なんだ」
午後十一時、アイシャ様が安らかな寝息を立てているのを確認し、部屋からセラを連れ出す。
俺はリビングのソファに座り、火の入っていない暖炉の前でセラに問い掛けた。
「あの人は…」セラが苦しそうに呻き、再び閉じられる。
俺は、セラの形の良い唇が再び開くのを根気良く待つ事にした。
あの少年が去った後、帰ろうと車に戻ると運転手が
マスターからの電話が有った事を伝えてきたので、俺が自動車電話で折り返してみた。
すると、マスターは奥様、レイラ様、利臣氏、教子様、亜美様と共に
中標津の屋敷に移動中なので、今夜は美瑛か富良野辺りで宿泊してほしいと言われた。
そして、札幌の屋敷にまたも侵入者が入り込み、
昨晩捕えておいた侵入者を一部逃がされた事も伝えられた。
ただ、あのリンダと言う女だけは男とは別室に監禁しておいたので逃げられなかったと。
現在、調査はしているがもしかするとまだ侵入者が屋敷内に残っている可能性も有るので
とりあえず神崎家の主要人物は最近出来たばかりで
警備設備が最新の中標津の屋敷に移る事となったらしい。
そして俺たちは美瑛のペンションを借り切って宿泊することになり、
翌朝早々に中標津へ移動する事になった。
アイシャ様とセラがペンションのオーナー夫妻手作りのフランス料理を味わっている間、
俺はペンション周辺を警戒し、いくつかのトラップとアラームを仕掛けておいた。
ペンションに戻り、運転手と共に食事を摂りながら幾つかの指示を与える。
また、オーナー夫妻に幾つかのお願いをして、通常の借り切宿泊料の数倍の代金を支払った。
「ベア!どこに居るの!?」
アイシャ様が廊下で俺の事を呼んでいる。
「ここに居ますよ、アイシャ様」
俺は答えながら事務室から廊下へのドアを開けた。
「バウバウ!」
アイシャ様の隣に寄り添っている巨大なセントバーナードが吠える。
「ダメよ、ヨーゼフ。ベアに吠えちゃ!」
アイシャ様が自分の肩ほどの位置に有る大きな頭部の顎を撫ぜる。
「やあ、すっかり騎士気取りだね、ヨーゼフ」
オーナーが笑いながら愛犬の頭を撫ぜる。
セントバーナードは嬉しそうに尻尾を振り、主人に応えた。
この巨大なセントバーナードはペンションの家族の一員だ。
最初にペンションに入った時、特に俺に警戒して激しく吠えた。
「おかしいな、ヨーゼフがこんなに人に吠えるなんて…。
どうもすみません」
恐縮する主人にアイシャ様が微笑んだ。
「その子は、きっと熊さんが来たと思ったのよ!
だって、この人はベアなんだもの!」
アイシャ様がヨーゼフに近づくと、巨大な犬はすぐにおとなしくなる。
「ヨーゼフ、私はアイシャって言うの。お友達になってくれるかしら?」
愛らしく首を傾げるアイシャ様。
「バウ!」
尻尾を振りながらアイシャ様の顔を舐めるヨーゼフ。
アイシャ様の愛らしさにヨーゼフもイチコロにやられた様だった。
しかし、俺に対しては依然警戒している様子だ。
俺は人殺しだからな…
それを察するなんて、かなりの名犬だぜ、ヨーゼフさんよ。
アイシャ様を護るかの様に俺を睨みつけるセントバーナードに、
「よろしく頼むぜ、相棒」
と苦笑しながら頼んだ。
「ねえベア!ここのお風呂はとても広いのよ!一緒に入りましょう」
「ええ、そうですね…って、アイシャ様、何を言ってるんですか!」
俺は普通に返事をしかけて慌てる。
「俺は後で入りますので、セラと入って下さい」
「え〜…ベアと一緒に入りたいの…」
しゅんとなり、上目遣いに俺を見る。
この顔には弱いんだよ俺は…
「ね、お願い…お屋敷だと一緒に入れないから…」
うっすらと涙さえ浮かべている。
まあ、まだ十三歳の子供だしな…
「判りました。じゃあ、一緒に入りましょうか」
「やったあ!セラも誘ってくるね!」
俺はぶっと噴出してしまった。
「アイシャ様!それはダメでしょう!」
俺の言葉に可愛く舌を出すアイシャ様。
「冗談よ!支度してくるね!」
やれやれ、困った天使だな…
しばらくすると、アイシャ様が着替えを持って帰って来た。
よくセラが承知したな。
彼女は食事の後に部屋に閉じ篭り、呆然としている様だ。
セラがアイシャ様の世話を忘れてしまうなんて、余程の事だな。
「ベア!入りましょ!」
輝く様な笑顔で俺に抱き付いてくるアイシャ様。
「バウバウバウ!!」
ヨーゼフが俺とアイシャ様の間に割って入る。
「もう、ヨーゼフ!ヤキモチ焼いちゃダメ!」
「クウ〜ン…」
アイシャ様に叱られてシュンとなるが、
アイシャ様にぎゅっと抱き付かれて嬉しそうに尻尾を振っている。
立ち直りが早い男だな、お前も。
「ごゆっくり」
オーナーの声に送られて俺とアイシャ様は浴室に向かった。
個人経営のペンションとしては意外なほど広い脱衣室と風呂場だ。
浴槽は二つ有り、その内一つは温泉となっている。
ここに温泉が引いてある訳ではないが、オーナーが汲みに行き、沸かしているそうだ。
「わあ!広いねベア!」
一足先に風呂場に入って一応ササッと安全を確認していた俺が振り向くと、
そこには真白の天使が全てを露わにして立っていた。
「…!」
思わず声にならない叫びを上げ、バッと目を逸らす。
しかし、網膜には彼女の美しい肉体が焼きついてしまっていた。
「ベア、体洗いましょ!」
「はい、そうですね」
俺の前に回り込んで来るアイシャ様から逃げるようにカランへ向かう。
手拭いに石鹸をつけて素早く体を洗い始めるとアイシャ様が俺の横で声を上げた。
「ねえ、ベア!背中洗ってあげる」
アイシャ様を見ると、真紅の瞳を俺に向けて最高の笑顔をしている。
「いえ、その前に俺がアイシャ様をお洗いしますよ」
俺は平常心を保つ為に自分から言い出した。
「良いから!私が最初にベアを洗うんだもん!」
アイシャ様が立ち上がり俺の後ろに回る。
そして石鹸を付けたタオルで一生懸命擦り始めてくれた。
しかし、ピタ、とアイシャ様の手が止まる。
「ねえ、べア…背中に凄いキズがたくさんあるよ…」
俺がかつて、主に戦場で付けて来たキズだ。
「ええ、もう直ってますから大丈夫ですよ」
そう答えた俺の背中に、ふわっと暖かくて柔らかい物が抱き付いて来た。
「可哀想なべア…痛かったでしょ…ぐすっ」
アイシャ様が俺の背中に抱き付き、べそを掻いている。
俺は、心の底が暖かなもので満たされるのを感じ、涙が溢れてきた。
俺はアイシャ様を抱き締め、一緒に体を洗い合った。
俺の心にはこの優しく美しい天使を命に代えても護ろう、
と言う決意が新たに強化された。
一緒に湯船に沈み、ゆっくりと話をしながら浸かる。
風呂から上がると、脱衣場にセラが待っていた。
「ごめんなさい、アイシャ様、ベア。もう大丈夫です」
無理に笑っている様なセラ。
そしてアイシャ様をお寝かせした後、俺とセラは二人で話をする為に
ロビーの暖炉の前のソファに座った。