仮面虫
『登校』
それはいつもの通学路だった。
リンスケはいつものように、遅刻ギリギリで駆けていた。
つぶれたランドセルの脇で、リコーダーが揺れていた。
右には昨夜の雨で濡れた車道。
左には初夏の緑を繁らす公園。
まばゆい日射しの降り注ぐ、その中に…
(!?)
リンスケは思わず足を止め、つんのめって転びそうになった。
公園の木々の間から、不気味な顔が覗いていたのだ。
(お面……?)
人の顔に似てはいるが、人間の素顔でないのは明らかだった。
やけに濃いオレンジ色の皮膚。
黒一色で塗りつぶされた、無表情な目、口。
胴体があるべき場所には…何もない。
(なァんだ、お面が木の枝に引っかかってるだけかよ。っと、いけね! 学校、学校!)
そしてリンスケはまた走り出した。
この時は、それだけだった。
『教室』
「ういっす~!」
ガラガラと扉を開けると、いつも騒がしいリンスケのクラスは、いつも以上にざわついていた。
「ん~?」
ただの騒がしさとは違う、異様な雰囲気。
その原因は、すぐにわかった。
雑談をしながらチラチラと視線を送る女子の群れ。
臆面もなく凝視する男子。
クラス中の視線が、山口ゆかりに集まっていた。
山口ゆかりは普段からクラスで浮いた存在…
いや、沈んだ存在だ。
ボサボサの髪。
昨日も一昨日も同じ服。
顔を隠しても誰かはわかる。
山口は、顔を隠していた。
リンスケが登校途中に見た、あのオレンジ色の面で。
おどけるでもなく、脅かすでもなく。
ただおとなしく。
何もない机の上に両手を置いて、身動き一つすることもなく、じっと真正面を向いていた。
「おい、山口! おまえ、ガッコーでンなモン、着けてんじゃねーよ!」
リンスケの一言を待ちかねたように、教室のそこかしこから「そーだ、そーだ」と声が上がる。
「キメーんだよ山口はよォ!」
「ブスだからって、顔、隠してんじゃねーよ!」
「ギャハハハハッ!」
リンスケは顔をしかめた。
(こいつら、いつもこうだよな)
どのクラスメイトも自分から山口に声をかけることはなく、そのくせリンスケが何かを言えば、皆で一斉にさえずりだす。
(気に入らねぇ…)
しかし何がどう気に入らないのかは、リンスケは自分でもわかっていない。
「ブスがキメーんだよ顔隠すなよ山口ィ!!」
誰よりも長く、誰よりも大きな声でわめいて、リンスケは山口の面を剥がそうと手を伸ばし…
触れた瞬間、その異様な感触に、弾かれたように手を引っ込めた。
(何だ…?)
面にはプラスチックのような光沢があるが、手触りは別の物だった。
木でもないし、紙でもない。
何かわからないがゾッとして……
……本能的に、嫌悪を感じた。
「……チ……キ……ジ……」
山口が何かつぶやいている。
(?)
面のせいで声がくぐもって聞き取れない。
……いや。
言葉ではない。
呪詛のような虚ろな響きではあるが……
「チチチチチ、ジチキチキ、チジチチ……」呪文にしても、意味がなさすぎた。
「うおっ! くせっ! 鈴木の手、くっせェ~っ!!」
斉藤の声に、リンスケが驚いて自分の手を嗅いでみる。
面に触れた指先から、青臭さと生臭さが混じったような、何とも言えない臭気が漂っていた。
「こら! お前ら何を騒いでる!」
いきなり教室の戸がガラリと開いて、担任の前田が入ってきた。
前田は山口の姿を見てギョッとして、面を外すよう説得したが、しかし山口が聞いているともいないとも取れない様子で何の反応もせずにいると、前田はすぐに諦めて、リンスケ達の方を叱った。
「お前らがいじめてばかりいるからだぞ! 特に鈴木! 他のやつらを煽るんじゃないぞ!」
「オレじゃねーよっ!」
本気で心外だった。
いつだって山口に最初にちょっかいを出すのはリンスケだし、一番多く傷つけているのもリンスケだが、しかしリンスケは他の子供がそうすることを求めてはいない。
他の子供がリンスケを真似て山口を一言罵れば、リンスケは負けじと二言罵る。
他の子供がリンスケを真似て山口を一回ぶてば、リンスケは負けじと二回ぶつ。
他の子供はそれを面白がってやっているが、リンスケは少しも楽しくなかった。
『先生』
授業自体はいつも通りに進んでいった。
山口ゆかりは授業中も面を着けたままだったが、前田先生は放置していた。
リンスケが同じことをすれば、面は即・没収となるだろうが、山口となると持て余す。
先生連中は山口を、花壇の花に話しかけるような、寂しくも優しい少女だと思っている。
しかしリンスケは、山口が美しい花ではなく、醜い毛虫に見入っていたのを知っている。
虫好きの女なんて、女子からは異物扱いだし、男子は大半は虫好きだが、女の子とは仲良くしない。
休み時間が明けて、ドッジボールを終えたリンスケ達が、ぞろぞろと教室に戻ってくる。
先に戻った生徒達は、すでに席に着いている。
教室を見渡し、リンスケは唖然とした。
山口の他に、宮地と岡田と笹倉も、おそろいの面を着けていた。
「お前ら…何でそんな……」
チャイムが響き、リンスケも慌てて席に着く。
前田が教室に入ってきた。
先生も面を着けていた。
「せんせー……」
「………………」
何もしゃべらない。
ただ、予定されていた通りに、算数のプリントが配られた。
給食の時間にも、昨日までのような喧騒は訪れなかった。
「あいつら何で、お面、取らねーんだよ」
「知らねーよ」
「メシ、食わねーのかな?」
「だったらプリン、もらっちゃおっか?」面のない子供らがヒソヒソとささやき合う。
面を着けた五人は、目の前に置かれた給食に、手をつけることもなく座っている。
食パンを口に入れようとして、リンスケは自分の指に、山口の面に触れた際についた臭いが残っているのに気がついた。
(何なんだよ、この臭い)
どこか別の場所で嗅いだことが、あるような、ないような…
「あっ! ずりィ!」
「いーじゃねーか! 他のやつのもらえよ!」
久しぶりに大きな声を聞いて、リンスケがハッとしてそちらを見ると、斉藤と高木が、山口の机を挟んで、プリンを奪い合っていた。
ガターーーン!!
揉み合ううちに高木の肘が山口の面に入り、山口が椅子から転げ落ちた。「おい、高木!」
「ンだよ、おれは悪くねーよ!」
山口は何も言わぬまま、ゆっくりと起き上がって、椅子に座り直す。
山口の面は、高木の肘の形にへこみ…
そこから…
青臭く、生臭い、強烈な臭いが噴き出してきた。
「うげっ!? くせっ!!」
「何だよコレ!? まじクセー!!」
教室中が大騒ぎになり、隣のクラスの先生が駆けつけ…
前田先生と、面の生徒四人は教室から連れ出されて、五時間目は自習になった。
前田達の様子を携帯で撮影した生徒がいたために、クラス中の携帯が没収になり、もともと携帯を持っていないリンスケ達がここぞとばかりにザマァミロと大はしゃぎして、そっちはそっちで叱られた。
下校途中、リンスケは公園の木を見たが、今朝の面はなくなっていた。
『家』
「ただいま」
言いはしたが、リンスケは、返事はないとわかっていた。
リンスケの家には母親が居ない。
もう長いこと会っていない。
夏なので、父の部屋のドアは、風通しのために開けっ放しになっている。
父は一日中、家に居る。
パソコンで仕事をしているらしいが、リンスケには良くわからない。
ただ、いつも忙しそうで、不機嫌で、家に居るのに会話はなかった。
「おい、輪介。近頃、妙な仮面が流行ってるらしいな」
「え…?」
父・鈴木亮介は、おはよう以外の言葉を自分からリンスケにかけることは滅多にないが、何か話そうと思えば、おかえりの一つも言わずに話し始める。
「ほれ」
亮介は、爪の伸びただらしない指で、パソコンの画面を指し示した。
渋谷のスクランブル交差点。
行ったことはないが、テレビで良く観る景色。
道行く人の半数が、あの面を着けていた。
「うちのクラスにも着けてるやつ居たよ。前田せんせーも着けてた」
「ふむ……」
亮介はパソコンに向き直り、リンスケには背を向けたきり、もう話すこともなさそうだった。
リンスケは、少しほっとした気持ちで自分の部屋にランドセルを放り込み、リビングでゲームを始めた。
(なぁんだ、あのお面は、ただのハヤリだったんじゃねーか)
(山口もマエダもどうしようもねェな)
(ガッコーであんなモン着けてるなんてよー)
その日の夕方のニュースで、キャスターがあの仮面を着けていた。
いつもの席で、いつものポーズ。
立派なスーツに、あの仮面。
そして一言もしゃべらない。
画面が真っ暗になり『しばらくお待ちください』の文字が出て、別のアナウンサーがたどたどしく原稿を読み始めた。
『流行』
次の日もリンスケは、遅刻ギリギリで登校した。
教室に入ると、リンスケを含めて五人しか、仮面を着けてない者は居なかった。
「鈴木ぃ~っ!」
斉藤が泣きそうな顔でリンスケに駆け寄り、小倉、野口、田村がそれに続く。
「見ろよ、高木まで…いくら話しかけても、何ッにも答えねーんだよォ…!」
「二組も四組もこんなだったぜ!」
「職員室も覗いたけど、お面着けてねーの、小林先生だけだぞ!」
「おれの姉ちゃんのクラス、全滅だよっ。てゆっか姉ちゃんもお面してたよっ。家を出る時はしてなかったのにッ」
「…なあ、みんなしてるし、おれらもあのお面、着けた方がいいのかなぁ?」
斉藤の言葉に、一同がしんとなる。
「落ち着けよ、おめーら! オレは小林ンとこ行ってくっから、おめーらは他のクラスに行って、お面着けてねーやつ集めてこい!」
そしてリンスケは職員室へと走り出した。
“廊下を走るな”の張り紙の前で、ちょうど教師とすれ違ったが、仮面を着けた教師は、リンスケを目で追うことすらしなかった。
リンスケでも、職員室に入る際には緊張する。
むしろリンスケだからこそ、礼儀正しくあいさつをして堂々と入るようなことはできない。
引き戸を少しだけ開けて、隙間から中を覗き込む。
小林はひどく太っているので、顔を隠していても、彼だとわかる。
小林も仮面を着けていた。
リンスケは扉を閉めもせずに自分の教室に駆け戻った。
他の教室に行った生徒達は、授業が始まる前には全員戻ってきたが、仮面を着けずに帰ってきたのは斉藤一人だけだった。
それぞれの席に着き、何事もないかのように授業が進む。
…本当に、授業も何もなかった。
前田先生は何も言わぬまま、黒板に意味のない線を描き、時々生徒を振り返りはするが、やはり何も言わない。
生徒達も、教科書をめくってはいるが、出した教科書も開いたページもバラバラで、やはり誰も一言も発しない。
形だけで、中身がない。
リンスケは、先生や黒板を見続けるのに耐え兼ねて、目を閉じて机に突っ伏した。
ちょうど居眠りをするようなポーズだ。
(ほら、叱れよ、前田!)
(生徒が授業中に寝てるんだぞ!)
(ナンか言うことあンだろーがよ!)
耳を澄ましても聞こえるのは、チョークの音と、教科書のページがこすれる音。
そして…
仮面の下から漏れ聞こえる、歯ぎしりに似た音と、舌打ちのようで違う音。
(何だ、この音…?)
胸の奥がザワザワする。
(こいつら…もしかして、この音で会話してるのか?)
まさかと思いつつ、そんな想像が拭えない。
(オレにはさっぱりわかんねーけど、お面を着けたらわかるようになんのか?)
チャイムが鳴って、リンスケが顔を上げると、いつの間にか斉藤も、皆と同じ仮面を着けていた。
『焦燥』
(お面なんか着けてる方がおかしいハズなのに! 着けてねーオレの方が変みたいに思える!)
この状況に、一人きりではとても耐えられなかった。
「おい、斉藤! おまえ、そのお面、どこで買ったんだよ!?」
「…………」
「誰かにもらったのか!?」
「…………」
「何で無視すンだよ!? 何とか言えよ!?」
「…………」
「クソッ!! おい山口! これ最初に持ってきたの、おまえだろ!? どうなってんだよ!?」
「…………」
「山口!!」
「…………」
二時間目の授業の開始を告げるチャイムが響く中、教室を飛び出したリンスケを、呼び止める者は居なかった。
コンビニの棚には仮面はなかった。
スーパーの棚にも、どこにも。
ただ、仮面を着けた店員と、仮面を着けた客が居るだけだった。
二階建てのスーパーを隅々まで歩き回ったが、売り切れの知らせもなければ再入荷予定の知らせもない。
そもそも仮面を求めて来る場所が、こんな普通のスーパーで良いのかさえもわからない。
(!!)
気がつくと、周囲の人々の視線が、リンスケに集まっていた。
(…ここに居るの、オレ以外は全員、大人だ…)
パートの制服を着た女性。
近所の主婦らしき人。
仮面以外はすべて普通に見えるのに、仮面を着けた、異様な人々。
全員が、じっとリンスケを見つめている。
(こんな時間にコドモがこんなところに居るから)
普通に考えれば、そうなのだが…
(オレだけお面を着けてないから…)
そう思えてならなかった。
じわじわと、大人達が近寄ってくる。
無言のまま距離をつめてくる。
(囲まれてる!?)
後退りし、リンスケの背中が誰かにぶつかった。
「うわあああああ!!」
リンスケはその誰かを思い切り突き飛ばした。
固い音を響かせて、ソレがタイルの床に倒れる。
ソレは、水着姿のマネキンだった。
リンスケはマネキンの上を飛び越えて、そのまま店から飛び出した。
外に出て、しばらくすると冷静になった。
(何でオレ、ああまでして逃げ出したんだろ)
仮面を着けていないからだ。
しっくりいかないことすべて、仮面がないせいのように思える。
(くそ~っ、どこに行きゃ手に入るんだ……あっ!)
思い出した。
昨日の登校中に見た、公園の木にかかっていた仮面。
(もしかしたらアレが、木の根本にでも落ちてっかも!)
リンスケは公園へと走り出した。
『奪取』
木の下に、仮面は残っていなかった。
(これからどうしよう……)
家に帰るか、学校に戻るか。
(こんな時間に家に帰ったら、父さん、怒るかな……)
しかしあの教室にも、このままでは戻れない。
「あった! やっりィ~!」
不意に公園の反対側で声がして、見ると、リンスケと同じくらいの少年が、仮面を振り上げて小躍りしていた。
五組の皆川だ。
「おい! それ、オレんだぞ!」
何をもってそう言ったのか、子供らしいと言えば子供らしい発想で、リンスケが皆川に駆け寄る。
肩を掴んで振り向かせると、皆川は、すでに仮面を顔に着けていた。
先ほどの、はしゃいだ雰囲気は、皆川からは消えていた。
…チチチチュチャチチジュジ…
歯ぎしりのような舌打ちのような、例の音。
「よこせよ!!」
リンスケが皆川の顔から仮面を引き剥がし……
そして……
リンスケは、悲鳴を上げた。
皆川の右目は、完全に白目を剥いていた。
左目は、ない。
皆川の、左目があるはずの場所には、ぽっかりと穴があいていた。
皆川の体が、天をあおぐように倒れる。
リンスケは手に持った仮面を見た。
仮面の裏についた小さな口が、皆川の眼球をむさぼり喰っていた。
リンスケは仮面を投げ捨てた。
それは仮面なんかではなかった。
人の顔ほどの大きさ。
人の顔のような模様。
しかし、それは…
甲虫の背中だった。
『襲撃』
仮面にしか見えない甲羅を持つその巨大な虫は、皆川の左目を喰い終わると、ノソノソと皆川の体をよじ登り、右の眼球も喰らい始めた。
すると…
皆川が、ゆっくりと動き出した。
痛がって暴れるわけではなく。
顔にぴったりと張り付いた虫を、追い払うような素振りもなく。
ただゆっくりと立ち上がり、何をするでもなく、たたずむ。
「皆川…」
表情が見えなくても、彼がもう生きていないことはリンスケにもわかった。
チチチジジジ…
舌打ちと歯ぎしりが混ざったようなあの音が、虫の甲羅の下から響く。
あれはこの、名も知れぬ虫が、人の顔を喰らう音だったのだ。
思わず後退りをしたところで、リンスケの背中が何かにぶつかった。
「ひっ…!?」
先ほどのスーパーではマネキンだった。
今度は……木だ。
ほっとした直後に、枝から何かが落ちてきて、リンスケの頭に当たった。
慌てて払いのけると、それは…
拳ほどの大きさの、仮面虫の子供だった。
枝の上から、茂みの中から、幼体の仮面虫がわらわらと沸き出してリンスケを取り囲む。
右も。
左も。
前も。
後ろも。
「わあああああああ!!」
仮面虫を踏みつぶし、リンスケは無我夢中で逃げ出した。
公園を飛び出し、住宅街を走り抜け、息が切れて立ち止まる。
リンスケの靴に貼りついたネチョネチョとした粘液は、走っているうちにアスファルトにこすれて取れていった。
(そうだよ。あんなのただの虫じゃねーか。オレ、何ビビってんだよ。いくらデカくったって、踏んづけたらつぶれるじゃねーか。その程度のもんでしかねーんだよ)
角を曲がると、仮面虫に張りつかれた、大柄な大人の男が立っていた。
逃げ回るうちにリンスケは、商店街に入り込んでしまった。
「何……だよ…………」仮面虫を着けた大人達が、リンスケをぐるりと取り囲む。
「オレをどうするつもりなんだよっ!?」
答えなくてもこの大人達が、人間としての自分の意思ではなく、虫の意思で動かされているというのは感じられた。
「何で虫が…何で…何で…」
「声を出すな」
ささやきはリンスケのすぐ側で聞こえ、仮面を着けた大人の一人が、リンスケの顔に仮面虫を押し当てた。
「うぐっ!?」
臭い。
しかし、中はカラだ。
仮面虫の死骸をくりぬいて、本当のお面に加工したのだ。
「パパ?」
「シッ」
仮面姿の亮介が、リンスケの手を引いて歩き出す。
他の大人達は、こちらを気にしてはいるが、もう襲ってはこなかった。
『安堵?』
久しぶりに触れた亮介の大きな手を、リンスケはとても暖かく感じた。
そういえば、パパなんて呼んだのも久しぶりだ。
用事があるときは「ねえ」とだけ呼びかけたり、もぞもぞと「父さん」と言ってみたり。
よそで父親の話をする際は「おやじ」なんて言葉を使っていた。
でも。
(やっぱり、パパなんだ)
この呼び方は、母親が出ていって以来だった。
駐車場に停めてあった車に乗り込み、亮介はようやく仮面虫を外して、バックシートに投げ捨てた。
リンスケもそれにならう。
車が走り出す。
「パパ、この虫、なんなの?」
「カメムシの一種だってことしかわからん」
「でもこんなに大きいよ」
「それがどうした。お前に買ってやった恐竜の本に、恐竜が居た時代は虫だってデカかったって書いてあったろ。トンボが70センチとか。あの本、もう捨てちまったか?」
「まだ持ってるよ。パパ、良く覚えてたね」
「そりゃ、さんざん読んでやったからな。お前を膝に乗っけて」
「でっ、でもパパッ。……恐竜時代の虫は、恐竜と一緒に絶滅しちゃったんじゃないの?」
「どっかで人知れず生き残ってたんじゃねーのか? 南の方の無人島でひっそり暮らしてたのが、ヤシの実みてーに流れてきて、餌に恵まれて大繁殖とか。
まあ別に、今時の環境汚染とかのせいで巨大化したって話にしてもイイんだけどな。
それとアレだ、人の顔みてーな模様。アレもそんな特別なもんじゃねーぞ。
ジンメンカメムシ。
そのまんまな名前だがな。テレビのびっくり動物みてーな特集でお馴染みの、甲羅の模様が相撲取りの顔みてーに見えるカメムシだ。東南アジアに生息する、実在の虫だからな。まー、こいつの大きさはほんの数センチってことだが」
「そのジンメンカメムシも人間に取りついたりするの?」
「聞いたことねーな。まあでも、寄生虫なんかだと、宿主…取りついた相手を操る奴ってのはざらに居るぞ。
身近なところだとカマキリの腹ん中に住み着いているハリガネムシなんかがそうだな。
ハリガネムシは、小せぇ間はカマキリの腹ん中で育って、大人んなると池や川で暮らすんだが…
自分が水に入りたいからって、カマキリを操って、入水自殺させちまうんだ」
「じさつ……」
「まあ、大抵は溺れ死ぬ前に魚に喰われちまうがな。魚に取っちゃ、ごちそうだ」
「…仮面虫は、人間を操ってどうしたいの? ただ食べてるだけ?」
「仮面虫って、何だその呼び名? お前が付けたのか? まー、いいが…。
喰うだけなら、どっか人気のない場所に隠れて、他の奴に邪魔されないように喰えばいい。
見たところ奴らに取りつかれた人間は、顔を食い潰されながらも、普段通りに見えなくもない生活を送ってやがる。
それはつまり、そうすることが、奴らに取って都合がイイってことなんだろう。
取りつかれていないフツーの人間のフリをしてれば、フツーの人間の側に居られる。
人間なんつー、やたら数の多い生き物の群の中に紛れることで、外敵から身を守ろうとしてるんじゃねーのか?
その証拠に…
奴ら、普段と違うもんに敏感に反応する。
異物を排除することで、群の暮らしを守ろうとしてるんだろうな」
「オレが襲われたのって、オレが異物だってことなの?」
「昼間にガキが学校を抜け出してウロチョロしてりゃー、異物だろうさ。
その点、俺なんか、ちゃんとした社会の一員として認めてもらえたぜ、虫共に。まー、存外、仮面虫ちゃんも、もっと小せぇ寄生虫に操られてるだけかもしれねーがな」
『期待?』
リンスケと亮介を乗せた車が、警察署の前を通り過ぎる。
警官達も、一人残らず、仮面虫に取りつかれていた。
「はっ! ざまァみろだ! これで奴らもオシマイだぜ!」
「パパ!? いくら警察が嫌いだからってそんな…」
「そうじゃねえよバカ! 虫共がオシマイなんだよ! あいつら、国家権力に手ェ出しやがった! これでお偉い連中にもようやく事態が伝わるだろう。後は自衛隊なり米軍なりが、強烈な殺虫剤をばらまいてくれるのを待つだけだぜッ!」
待つだけ。
「ところでパパ、オレ達、どこへ向かってるの?」
「くみ子のところだ」
「アメリカへ?」
「いや……日本に帰ってきてるんだ。向こうの旦那とも失敗してな」
「……………」
くみ子の実家は、リンスケと父が暮らす家から、さほど遠くない場所にある。
祖父母は留守のようだった。
玄関先に現れた母は、リンスケと最後に逢った日よりも、ずっと地味な服を着ていた。
リンスケと最後に別れた時は、とても派手な化粧をしていた。
今日は仮面虫を着けていた。
「くみ子……!!」
亮介がくみ子の仮面虫を顔から引き剥がした。
…亮介は昔から、賢いフリをしたがるくせに大切な場面では良く考えずに動いてしまう節があり、それはくみ子とうまくいかなかった理由の一つでもあった。
今だってそうだ。
くみ子の仮面の下が虫に喰い荒らされているであろうことも、それをリンスケの前でさらしてはいけないことも、少し考えればわかったはずなのに。
「くみ子オオオオオオオ!!」
亮介が、妻の両肩を掴んで揺さぶる。
夫の両腕を、くみ子の両手がガシリと掴んだ。
「!?」
くみ子がパカリと口を開けた。
頬は裂け、顎は外れた、冗談のような大口だった。
その口の中から、仮面虫の幼虫が次々に飛び出し、亮介に襲いかかっていった。
亮介が現れることは、くみ子に取っては非日常。
仮面虫はそう判断した。
「やめろ! 放せ! くみ子! 放せえエエエ!!」
くみ子の細い腕は、亮介の力で簡単にねじ曲がった。
しかし、くみ子は手を離さなかった。
虫に支配された脳は、例えば骨が折れたとしても、痛みを感じはしないのだ。
「ぐあああああああッ!!」
吐き出された幼虫達は、生きたままの亮介の、腕に、脚に、食らいつく。
「パパ!! パパ!!」
「逃げろ! 輪介! 逃げ……」
不意に父の声が途絶えた。
「………?」
幼虫達が逃げていく。
リンスケが、涙をぬぐい、見上げると……
亮介の顔には、成虫の仮面虫が鎮座していた。
「パパッ!! パパッ!! 嫌だッ!! ママッ!! ママーーーーーッ!!」
リンスケがどんなに泣いても、叫んでも、両親の耳にはもはや届きはしなかった。
『日常?』
今日もリンスケは学校へ通う。
ランドセルを背負い、虫の死骸の仮面を着けて。
こんな日々が、もう一ヶ月も続いている。
亮介は今日もパソコンに向かっている。
何かを見ているわけではない。
仮面虫に覆われた亮介の顔に、眼球が残っていないことを、知らないフリをしてリンスケは一日をやり過ごす。
下手に構わない。
それが父とリンスケの以前からの日常。
故にそれを続けることが、リンスケが自分を守る唯一の方法。
通学路の途中では、横転したバスが道を塞いでいる。
仮面虫は運転手に日常通りの仕事をさせようとしたが、虫の知能での運転では、どうしても事故が起きてしまうし、事故という非日常の処理は、仮面虫には理解できない。
バスを迂回したいけれど、そのために通学路から外れると、非日常として仮面虫に狙われるので、リンスケはバスの車体をよじ登り、乗り越えて、通学路に従う。
リンスケだってこんな暮らしをいつまでも続けていたくなんかない。
何度も町から逃げ出そうとした。
けれど昼であれ夜であれ、駅やバス停に子供が一人で居れば目立って、仮面虫の注目を浴びてしまう。
もしもリンスケが大人なら、虫に不審がられずに遠くへ逃げられたかもしれないが、子供だから逃げられない。
それに…行くあてもないのに子供一人で、どこへ逃げれば良いのだろう。
どこまで逃げれば安全だろう。
大人なら、船でも乗っ取って海外に逃げられたかもしれないけれど、子供のリンスケにはそんな真似はできない。
そうこうしているうちに、バスも電車も、事故が相次いで止まってしまった。
学校では、生徒も教師も、規則正しい動きをしている。
勉強しているわけではない。
規則正しく教科書を開き、規則正しくしまうだけ。
教室には、斉藤や高木や、リンスケと仲の良かった子供達の姿はない。
もともと規則正しくなかった彼らは、仮面虫に操られた状態であっても日常を乱すのが日常で、そのせいで仮面虫に集団で襲われて喰い尽くされてしまったのだ。
教室の自分の席で、時間がただ過ぎるのを待ちながら、リンスケは想いにふける。
もしかしたら学校の中に、自分と同じようにカラのお面を着けているだけの、生きている人間が居るかもしれない。
“もしもそんな仲間が居るなら、オレに声をかけてくれ”
仮面虫の目を盗んで、各クラスの黒板に書いて回ったが、今のところ返答はない。
山口ゆかりがそうならいいのに、と、リンスケはずっと願っている。
願望だけでなく根拠もちゃんとあるつもりでいる。
リンスケにいじめられていたゆかりなら、リンスケの書き込みを無視するのだって当然だからだ。
…クラスで最初の犠牲者であるゆかりの体が、誰より早く腐臭を放ち始めても。
手足の変色が激しくなっても。
仮面虫に喰われた跡が、虫の胴体では覆いきれないほどに広がっていても。
リンスケは諦められずにいる。
家に帰る。
食事には、今のところは困っていない。
交通がマヒしているので、新鮮な食材は入ってこず、インスタントやレトルトばかりではあるが、亮介が買ってくるものはもともとそんなのばかりなので、リンスケは気にならない。
スーパーでの買い物は、電源の切れたレジに裏返しのカードを通すだけで済む。
学校帰り、リンスケは勇気を出して、街中で殺虫剤を撒いてみた。
幼虫をその場から追い払うことはできたが、成虫には効果がなかった。
仮面虫は大きすぎるので、市販されている程度の薬では弱すぎるのだ。
大人の仮面虫に捕まる前に逃げ出して、物陰に隠れて膝を抱える。
すがれるのは、かつての亮介の言葉だけ。
「今に自衛隊か米軍が、強力な殺虫剤を撒いてくれる」
いつまで待てば良いのだろう。
仮面虫の被害は、支配は、どこまで広がっているのだろう。
テレビのチャンネルの半分は放送が止まり、残りの半分は何事もないかのように仮面虫に憑かれたタレント達を映している。
海の向こうにも仮面虫は居るのだろうか。
外国でも仮面虫が広がっているのだろうか。
いつになったらリンスケは助けてもらえるのだろうか。
とぼとぼと家路を行く。
殺虫剤を散布してくれるはずのヘリコプターは、まだ飛んでこないのかと、夕空にむなしく目をこらす。
仮面虫に効くような強力な殺虫剤を浴びてしまえば、リンスケもただでは済まないかもしれない。
この町に、仮面虫に憑かれていない人間が残っているかもしれないなんて、誰も考えないかもしれない。
それでもリンスケは待っている。
明日もリンスケは学校へ通う。
助けを求めて空を見上げる。
さっさと助けろよバカ!! グズ!!